第35話 もとの時代

 目を覚ますと、真っ白な天井とカーテンが視界に入った。

 アパートでもなければ、実家でもない。ここは一体どこなんだ?


 起き上がろうとしたところで、腕に管が繋がれていることに気付いた。

 これは点滴か? そうだとすれば、ここは病院と推測できる。


 状況を掴めずにいると、不意に白いカーテンが開いた。顔を上げると、目を見開いて口をパクパクさせているこずえ姉さんがいた。


 こずえ姉さんは、顔をこわばらせながら後退りする。その直後、興奮した声で叫んだ。


「お母さん! 圭一郎が起きた!」


 こずえ姉さんは、慌てて病室から飛び出した。


 病室を飛び出したこずえ姉さんは、俺のよく知っている姿だった。肌のハリを失った、若くない方のこずえ姉さんだ。ということは、俺はもとの時代に戻ってきたのか?


 病室を見渡して、今日の日付が確認できるものを探す。すると、先ほどこずえ姉さんが落としていったスマホを見つけた。


 点滴の管が外れないように注意しながら、スマホに手を伸ばす。サイドボタンを押して画面を起動させると、今日の日付が分かった。


 最初に意識を失った日から、約一ヶ月が経過している。どうやら一ヶ月もの間、俺は眠り続けていたらしい。


 もとの時代に戻ってきたつもりだったが、ややずれが生じてしまったようだ。だけど、五年も十年もずれていなかったのだから、上出来だろう。


 気になることはまだある。俺が過去にタイムスリップした影響で、この時代に何らかの変化を与えている可能性もある。


 朝陽はちゃんと存在しているのか?

 なにかの手違いで日和が生きているなんてことないか?


 不安と期待が入り混じり、心拍数が加速した。


 それからしばらく経った頃、病室の外が騒がしくなった。視線を向けると、勢いよくドア開いて、母さんとこずえ姉さんが飛び込んできた。


 二人は涙を浮かべながらベッドに歩み寄る。母さんはそのまま腰が抜けたように崩れ落ちた。


「良かった、目を覚まして! 神社で倒れて意識不明って聞いた時は、母さん生きた心地がしなかったのよ。圭一郎にまで何かあったら、どうしようかと思った……」


 圭一郎にまで、という言葉に妙な胸騒ぎがした。最悪の展開が脳裏をよぎる。


「朝陽は! 朝陽は無事なのか? それに日和は?」


 迫るように尋ねると、母さんは目に涙を溜めながら固まった。


「あんた、何言ってんの? まさか記憶障害が出たんじゃ……」


 その反応で全身に鳥肌が立った。心拍数が上がり、息が苦しくなる。気が狂う寸前まできたところで、母さんが真実を明かした。


「日和ちゃんは、事故で亡くなったでしょ?」


 その言葉を聞いて、一気に脱力した。起き上がった身体をベッドに沈ませた。


 そうか、やっぱり駄目だったか。


 何となく分かっていた。花火大会の日、俺と日和はキスをした。八年前と同じ展開になったのだから、未来が変わるはずはない。


 分かっていたことだけど、目の前に現実を突きつけられると、やっぱり辛い。


 日和がふわりと笑う姿は、まだ鮮明に覚えている。穏やかに語りかける声も、抱きしめたときの温もりも、唇の柔らかさも、全部覚えている。


 だけどもう、日和の存在を感じることはできない。


 放心する俺を気遣って、こずえ姉さんが遠慮がちに声をかけた。


「とにかく圭一郎が無事で本当によかった。意識が戻ったことを先生にも伝えてくるね」


 そう言ってこずえ姉さんは病室を後にした。


 こずえ姉さんが去った後、もう一つの懸念事項を思い出した。俺はもう一度ベッドから起き上がる。


「朝陽は? 朝陽は無事なのか?」


 ハンカチで涙を拭う母さんに問いかける。真実を知るのは少し怖い。だけど聞かないわけにはいかなかった。


 身構える俺とは裏腹に、母さんはさらりと答えた。


「朝陽ちゃんは無事だよ。あんたが庇ったからなのか、傷一つなかった。今は家でお父さんとお留守番しているよ」


 母さんの言葉を聞いて、俺は再び脱力した。


「よかった……」


 安堵の溜息が漏れた。


 朝陽が存在していて本当に良かった。


 この時代に朝陽が存在するということは、未来の朝陽もきっともとの時代に帰れたのだろう。無邪気に笑う朝陽が失われなくて良かったと心から安堵した。


「朝陽ちゃん、ここに連れてこようか?」


 母さんの言葉に、俺は迷わず頷いた。



 それから一時間足らずで、朝陽を抱きかかえた母さんが戻ってきた。母さん腕に抱かれた朝陽は、すやすやと寝息を立てていた。


 目の前にいるのは、ギャルの女子高生ではない。全身に脂肪を蓄えたもっちりとした赤ん坊だった。


 小さな身体が呼吸と共に上下するのを見て、目頭が熱くなった。


「朝陽ちゃん、パパが目を覚ましたよ」


 母さんは朝陽に語り掛けながら、ゆっくりと朝陽を差し出した。両手で朝陽を抱きかかえると、ずっしりとした重みを感じた。


 ほんのりとミルクの甘い香りが鼻腔をくすぐる。狭苦しいアパートに充満していた赤ん坊の香りを思い出した。


 俺は宝物を扱うように、そっと朝陽を抱き寄せた。

 朝陽は確かにここにいる。その事実だけで俺は救われた気分になった。


 朝陽との再会を喜ぶ俺を見て、母さんが目を細めながら微笑んでいた。

 それから手帳サイズの冊子を、俺のベッドの端に置いた。


「これ、大事なものだからきちんと管理していなさい」


 冊子の表紙には『母子手帳』と記されている。日和が妊婦検診の時に鞄に入れていたのは知っていたが、まじまじと見たのは初めてだった。


「これ、なんだよ?」

「やっぱり知らなかったんだね。これは母子手帳っていって、赤ちゃんとお母さんの健康状態を記録するものよ。日和ちゃんはマメだったから、妊娠中の様子を細かく書いていたようね。落ち着いたら、読んでみるといいわ」

「ああ、分かった」


 俺は母子手帳を手に取る。表紙には日和の筆跡で、家族三人の名前が書かれていた。


「私、先生にご挨拶してくるから、少しの間だけ朝陽ちゃんを見ていてね」


 そう告げると、母さんは病室から出て行った。


 しんと静まり返った病室。目の前には、すやすやと眠る朝陽と母さんから渡された母子手帳があった。


 俺は朝陽を起こさないように、そっとベッドに寝かせる。

 それからパラパラと母子手帳のページをめくった。

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