第33話 別れ

 花火大会が終わり、夏の夜空に静寂が戻った。風が吹くと、微かに火薬の香りを感じた。


 俺と日和は人混みに流されながら帰路につく。その間、ほとんど会話を交わさなかった。


 頭がふわふわして、何も考えられない。キスの余韻に浸っているようだった。


 住宅街に入ると人の気配はなくなり、街灯の灯りが二人の影だけを映し出していた。穏やかな静寂の中を歩いていると、あっという間に日和の家まで辿り着いた。


「じゃあね、圭ちゃん」


 はにかみながら小さく手を振る日和。その姿を見て、胸が締め付けられた。


 ここで離れたら、もう二度と会えなくなる。


 名残惜しさから、もう一度日和を抱き寄せた。日和も俺の背中に手を回して、ギュッと抱きしめ返してくれた。


 離れたくなかった。日和の温もりにずっと浸っていたかった。

 だけど俺の事情なんて全く知らない日和は、すぐに背中に回していた腕を解いた。


 それからいつもと同じように、無邪気に微笑んだ。


「また明日ね」


 明日も当たり前のように日和に会えるこの時代の俺が、心の底から羨ましく思った。


 だけどいつまでもメソメソしているわけにはいかない。タイムリミットはもう近付いているのだから。


「ああ、また明日」


 俺は小さく手を振り返した。学校帰りに別れるときと同じように、何でもないふりをして別れの言葉を告げた。


 日和はもう一度手を振りながら、家の中に入っていった。日和の姿が見えなくなってからも、俺はしばらくその場から動けなかった。


 二階にある日和の部屋の灯りがついた時、俺はようやく我に返った。心の中で日和に別れを告げてから、朝陽との約束の場所へ向かった。


 俺は八年前と同じように、日和にキスをした。付き合おうという明確な言葉は交わさなかったけど、この出来事をきっかけに二人は交際を始める。


 八年前と同じ展開になったということは、この先も俺と日和は共に過ごすことになる。それならば朝陽の存在も復活しているはずだ。


 足は自然と動き出す。夜の住宅街を全速力で駆け抜けた。

 目的地は伊崎神社。そこに行けば、また会えるかもしれない。


 息が上がり、脇腹に痛みが走る。自分の体力のなさを呪いたくなった。だけど足は止まらなかった。


 朱色の鳥居を潜り抜けると、人影が見えた。セーラー服を身にまとった少女が、夜空を見上げながら欅の幹に寄り掛かっている。


「朝陽!」


 歓喜のあまり大声が飛び出す。朝陽は目を見開きながら、こちらを凝視していた。


「パパ……」


 信じられないと言いたげな表情で呟く朝陽。朝陽の存在を確かめたくて、俺は両手で強く抱きしめた。


 触れている部分から朝陽の体温が伝わってくる。身体も透けていない。ちゃんとこの場所に存在しているんだ。


「私のこと、見えるようになったんだね」


 涙ぐもった声で呟く朝陽。その声色からは安堵が滲んでいた。


「ああ、ちゃんと見えるよ」


 そう返事をしながら、朝陽を抱きしめる力を強めた。朝陽は子どものように泣きじゃくりながら話し始めた。


「私、ずっとパパの隣にいたんだよ。だけど、いくら話しかけても全然気付いてもらえなくて、幽霊にでもなっちゃったのかと思った。このままずっと誰にも気付かれないままだったらどうしようって、不安だったんだよ」

「ごめん。こんなことになったのは、全部俺のせいだ。俺が過去を変えようとしたから、お前の存在が消えかけたんだ」

「だけど、もとに戻ったってことは、過去が変わらなかったってことだよね?」

「ああ、そういうことだ」


 そう答えると、朝陽はゆっくりと腕を解いた。そして涙でぐしゃぐしゃになった顔で、脱力したように微笑んだ。


「良かったぁ」


 朝陽の笑顔を見て、俺自身も安堵した。落ち着いて物事をまともに考えられるようになると、朝陽の言葉で少し引っかかる箇所を見つけた。


「お前、ずっと隣にいたみたいだけど、日和との会話も聞いていたのか?」


 先ほどの日和とのやり取りを思い出す。キスも含めて全て見られていた、なんて恐ろしい想像をしてしまったが、杞憂に終わった。


「流石にそんな野暮なことはしないよ。公園にママが戻ってきてから、私はすぐに伊崎神社に向かったから」

「そうか。それなら良かった」


 へらへらと笑いながら答える朝陽を見て、俺は安堵の溜息をついた。見られていなくて良かったと、心の底からホッとした。


「この時代とも、もうお別れだね」


 朝陽は名残惜しそうに、夏の夜空を見上げていた。


 この時代に来て、色々なことがあった。高校時代の日和と再会して、成長した朝陽にも出会った。


 はじめは誰とも関わらずに、ひっそりとタイムリミットが来るのを待とうと思っていたけど、色々な奴らに振り回されて、慌ただしく過ごしていた。


 補習、野球の試合、ひまわり畑、花火大会。

 夏のイベントを一気にこなしたような気分だった。


 終わりが近付いていることを実感した今は、夏休みが終わる直前ような喪失感に苛まれた。


 この時代を去ったら、俺は一人になる。


 赤ん坊の朝陽を実家に預けたら、狭苦しいと感じていたアパートも少しはマシに感じるのかもしれない。


 窓を開ければ秋風が吹き込み、遠くから鈴虫の鳴き声が聞こえる。夏の面影なんて微塵も残っていないほどに、過ごしやすい季節が待っている。


 もとの時代に帰れることは喜ばしいはずなのに、心のどこかで帰りたくないと願っている自分がいた。


「本当にもとの時代に帰るんだよな?」


 俺が疑っていると受け取ったのか、朝陽は視線を泳がせながら答えた。


「多分、ね」


 歯切れの悪い返事に、思わず笑ってしまった。


「多分なのかよ」

「少なくとも、私は帰れると思うよ。だけど、イレギュラーでこの時代に飛ばされたパパのことまでは保証できない。もしかしたら、私と一緒に未来に飛ばされちゃうかもしれないし……」

「そうなったら、どうするんだよ?」

「偉い人に何とかしてもらうよ。私も一緒にお願いしてあげるから!」


 朝陽は小さくガッツポーズを浮かべながら答えた。結局は他人任せなのかよ、と呆れてしまった。

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