第32話 最後のキス

 花火大会のプログラムが中盤に差し掛かった頃、日和が浴衣の裾を持ち上げながら駆け足で戻ってきた。日和の隣には、透矢の姿はなかった。


「透矢は、どうしたんだよ?」

「途中で妹ちゃん達とバッタリ会って、そのままそっちと合流することになった。小学生二人じゃ、心配だからって」

「そうか……」


 もっともらしい理由を聞いて、納得しかけた時、日和が言葉を続けた。


「でもそれは、建前だったのかもね」


 日和は俯きがちに笑った。

 それから俺と目を合わせることなく、淡々と告げた。


「さっきね、透矢に告白されたんだ」


 やっぱり、そういう展開になるよな。俺は小さく溜息をついた。

 その直後、日和は俯きながら言葉を続けた。


「でもね、断っちゃったんだ」


 予想外の言葉に顔を上げる。


 夜空に花火が打ち上がると、日和の横顔をぼんやりと照らした。その横顔からは、まるで自分が悪いことでもしたかのような罪悪感が滲んでいた。


「なんで断ったんだよ?」


 思わず尋ねる。すると日和は、ぎこちなく笑いながらこちらに視線を向けた。


「好きな人がいるから」


 心臓が止まりそうになった。俺は息をするのも忘れて、日和の瞳を見つめた。


 花火の弾ける音が二人の間に響く。何十発の花火が打ち上がろうとも、そんなことはどうでもよかった。俺は日和から目が離せなかった。


 日和は僅かに肩を震わせる。その言葉の続きは、ある程度察しがついた。


「私は、圭ちゃんが好き」


 胸の奥が締め付けられる。嬉しいはずなのに、素直に喜べない自分がいた。

 日和からすれば、俺を好きになることは、破滅への第一歩だからだ。


 目の前の日和は、意思の持った瞳で俺を見つめる。

 俺の脳裏に浮かんだのは、棺に入った真っ白な日和だった。


 あの惨劇を繰り返すのか?

 逃れられない現実を前にして、気が遠くなりそうだった。


 日和は一呼吸おいてから、言葉を続けた。


「私ね、圭ちゃんの小説が好き。でもそれ以上に、夢に向かって突き進む圭ちゃんが好きなの。だから、圭ちゃんが頑張る姿を一番近くで見ていたい。それが、私の一番やりたいことだって気付いたんだ」


 その言葉はあまりに純粋だった。

 俺の心を支配したのは、重々しい罪悪感だった。


 日和は未来を知らないから、そんなことが言えるんだ。すべてを知ったら、きっと失望するだろう。俺なんかといるのは間違いだった、と気付くはずだ。


「お前は俺と関わらない方がいい。一緒にいても、苦労するだけだ」


 募り募った想いが、言葉として表面化する。


 気付いてほしかった。俺には他人の人生を背負えるほどの、責任感も度量もないことに。そして選んでほしかった。日和が幸せになれる道を。


 身体が震えているのが分かった。怖かったんだ。純粋に俺を見つめる日和が、ある日突然いなくなってしまうことが。もう二度と、あんな思いはしたくない。


「もしかして私、圭ちゃんの邪魔になっていた?」


 見当はずれな質問が飛んでくる。俺は咄嗟に首を振った。


「そうじゃない」


 日和を邪魔だと感じたことなんて一度もない。日和がいたから、いまの俺があると思っている。小説を書き始めたのも、小説家になりたいと思えたのも、日和が応援してくれたからだ。


 俺にとって日和は特別だ。特別な存在だからこそ、失いたくなかった。


「俺は日和の優しさに甘えていた。甘えていたことにすら気付かずに、身勝手に生きてきた。だけどようやく分かったんだよ。このままじゃダメだって。俺みたいな奴と一緒にいたら、日和が不幸になる」


 こんなこと、十七歳の日和に伝えたって、どうにもならないことは分かっている。だけど、分かってほしかった。俺がいかにダメな人間であるかを。


 そのうえで見限ってほしかった。そうすれば全部、諦めがつく。


 日和は本音を探るように、じっと見つめる。その視線から耐えられなくなり、目を逸らした。


 その直後、日和の両手がこちらに伸びる。細い指先が、俺の両頬をふわりと包みこんだ。


「圭ちゃんといて不幸だって感じたことは一度もないよ」


 日和の手は温かかった。棺に入った冷たい手とは違う。ちゃんと血の通った人間の手だった。


 日和は俺の瞳を真っすぐ見据える。


「私は圭ちゃんと生きていたい。圭ちゃんが私のことを邪魔だっていうんだったら諦めるけど、そうじゃないなら一緒にいたい」


 意思を持った瞳に圧倒される。全身の力が抜けていくのが分かった。


 俺は誤解していたのかもしれない。日和にとっての俺は、ただの幼馴染で、ただ流されて一緒にいるだけだと思っていた。


 一緒にいるのが当たり前で、別の選択肢なんて思い浮かばないから、傍にいてくれたんだと思っていた。


 だけどいま、日和は他の誰でもなく、俺を選んでくれた。


 俺と一緒に生きていたいなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。それがいかに愚かな決断であるかを日和は知らないんだ。


 日和への失望が重々しく圧し掛かる。

 だけどそれ以上に、心を支配している感情があった。


 俺は、嬉しかったんだ。

 一緒に生きていたいと言ってくれたことが、嬉しかった。


 胸の奥底から感情が溢れ出し、嗚咽交じりの声が漏れる。情けない声は、腹の底まで響く花火の音に意図も簡単にかき消された。


 やっぱり日和は特別だ。こんな奴は、世界中を探したっているはずがない。だからこそ、失いたくなかった。


 俺は日和の肩に手を回す。そして、壊れ物を扱うようにそっと抱き寄せた。


「俺だって日和と生きていたかった。十年先も、二十年先も、ずっと日和と生きていたかった」


 俺には日和が必要だった。日和じゃなきゃ、ダメだったんだ。

 透矢にも渡したくない。ずっと俺の隣で笑っていてほしかった。


 泣きじゃくる俺の頭を、日和がそっと撫でる。全てを包み込むような優しい声が、耳元で囁かれた。


「大丈夫だよ。これから先も、ずっと一緒だよ」


 日和の優しさが辛かった。


 ずっと一緒になんて、いられないんだ。俺のいた未来では、もう日和はいないんだから。


 そんな事実は言えるはずがない。言えないからこそ、積もり積もった感情の吐き出し方が分からなかった。


 いまにも破裂しそうな感情は、俺の理性を鈍らせた。目の前に存在する日和の全てを感じたいという衝動に駆られた。


 一度身体を離してから、日和の後頭部を手のひらで包み込む。そのままゆっくりと唇を重ねた。


 柔らかい感触が伝わる。日和の体温を感じた瞬間、胸が張り裂けそうになった。


 日和にとっては初めてのキス、俺にとっては最後のキスだった。


 瞼の向こう側から、花火の光を感じた。それはまるで、俺達が結ばれたことを祝福しているようだった。


 ゆっくりと身体を離すと、日和は恥ずかしそうに俯いた。


「キス、しちゃったね」

「突然、ごめん」

「ううん、いいの。でも、圭ちゃん慣れているようだったね」

「そんなことねえよ」

「そっか、なら良かった」


 日和は唇に触れながら、やわらかく微笑んだ。


◇◇◇


ここまでをお読みいただきありがとうございます!

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作品ページ

https://kakuyomu.jp/works/16817330658159054809


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