第29話 痕跡

 しんと静まり返った部屋に入り、机に置かれた財布に手を伸ばす。その瞬間、妙な違和感に気付く。


 鞄にしまってあったはずのA4ノートが、机の上に出ている。自分では出した記憶がない。日和や透矢が勝手に出したとも考えにくかった。


 不審に思いながらも、パラパラとノートをめくる。すると最後のページに、明らかに俺の筆跡とは異なる字が書かれていた。



『今日の九時、伊崎神社に来て』



 丸みを帯びた文字。日和の筆跡とも違っていた。

 そもそも、こんな指示をする人間なんて、一人しか心当たりがない。


「朝陽?」


 夕暮れで薄暗くなった部屋を見渡す。しかし、朝陽の姿はなかった。


 やっぱり、気のせいか? そう思った直後、朝陽が消える直前の言葉を思い出した。



『ずっと隣に居たんだよ』



 全身がぞわぞわと粟立つ。俺は息をするのも忘れて、立ち尽くした。


 まさか、そんなことってあるのか? もしかして、朝陽はずっと――。


「そこに居るのか?」


 がらんと空いた、薄暗い部屋で問いかける。返事はない。部屋の中は、しんと静まり返っていた。


 俺は目を凝らして、部屋の中を端から端まで隈なく観察する。僅かな変化も見逃さないように、精神を研ぎ澄ませた。


 視線を何往復かさせた時、一瞬だけ焦げ茶色の長い髪が揺れたような気がした。


「朝陽!」


 俺は髪が揺れた場所に駆け寄る。


 返事はない。だけど一瞬だけ、柑橘系の爽やかな香りが漂ってきた。日和の香りだ。よく見ると、部屋の片隅で日和のハンドクリームが転がっていた。


 疑惑は確信へと変わっていく。


 朝陽はまだ、完全に消えたわけではない。この世界に存在の痕跡を残せるほどには、形を保っているんだ。


 安堵から全身の力が抜けた。俺はその場に崩れ落ちる。


「まだ、そこにいるんだな……」


 情けない声が、部屋に響いた。


 心拍数が上がり、呼吸が早くなる。落ち着け、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせた。


 朝陽の存在が完全に消えたわけではないのなら、復活させられる可能性はまだある。今日の花火大会で俺と日和が付き合えば、変わり始めた未来を軌道修正できるかもしれない。


「朝陽、待ってろ。もとに戻してやるからな」


 力強く宣言する。しかし言葉とは裏腹に、まだ迷っている自分もいた。


 俺と日和が付き合えば、八年後の日和は死ぬことになる。本当にそれでいいのか?


 この場に及んでもはっきり決断できない自分に、心底失望した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る