第12話 穏やかな時間

 翌日も補習のために学校へ向かった。


 出かける前に朝陽に声をかけようとしたが、どうやら朝早くに出かけたらしい。昨日のことを謝るタイミング失って、モヤモヤした気分のまま家を出た。


 授業中は相変わらず上の空だった。黒板の英文法を板書するふりをしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


 カラっと晴れた青空の下で、真っ白のユニフォームをまとった野球部員が練習をしている。日和もユニフォーム集団に交じって走り回っていた。




 補習を終えて帰ろうとすると、日和が校門の脇に立っていた。日和は俺の姿を見つけると、ふわりと頬を緩めながら駆け寄ってきた。


「圭ちゃん、補習お疲れ様。一緒に帰ろう」


 周囲を見渡す。日和の傍には、野球部員はいなかった。


「野球部の手伝いはもういいのか?」

「午後はミーティングなんだって。だからお手伝いは午前中で終わり」


 日和は嬉しそうに微笑んだ。


「そうか、じゃあ帰るか」

「うん!」


 俺達は校門を出て、家までの道のりをのんびり歩く。日和は野球部での出来事を楽しそうに話していた。


 俺は相槌を打ちながら、コロコロと変わる日和の表情をしみじみと眺めていた。


 伊崎神社の赤い鳥居の前に差し掛かると、日和はピタリと足を止めた。それから澄んだ瞳を向けた。


「圭ちゃん、小説の続きを読ませて」


 その言葉は、とても懐かしく感じた。学校終わりに小説を読んでもらう。かつての日課をもう一度体現できるとは思わなかった。


 俺は毎回「しょうがねえなぁ」と面倒くさがるふりをしながら、A4ノートを差し出す。だけど本当は、日和から小説をせがまれることが嬉しくて仕方なかったんだ。


「しょうがねえなぁ」


 あの頃と同じようにA4ノートを差し出した。すると日和は、嬉しそうにノートを受け取った。


 けやきの下で並んで腰を下ろす。日和は真剣な表情で、ノートに綴られた文字を追っていた。


 俺は木の幹に背中を預けながら、日和が読み終わるのを待った。


 境内ではアブラゼミの騒がしい声が響く。制服の下はじっとり汗ばんでいたが、風が通り抜けると少しずつ汗が引いていった。


 真っ白な雲がゆっくりと流れるように、穏やかな時間が二人の間に流れる。


 当時は気にもとめていなかったけど、日和に小説を読んでもらう時間はとても心地よかった。


 しばらくすると、日和はパタンとA4ノートを閉じた。眼鏡の奥にある瞳はキラキラと輝いていた。


「面白かった! 早く続きが読みたいな」


 日和の言葉で承認欲求が満たされる。日和から続きをせがまれると、書きたいという欲求が湧き上がってくるから不思議だ。


「続きを書いたら、また渡すよ」


 俺は照れる心を隠しながら、素っ気なく約束をした。


 日和からA4ノートを受け取ろうとした瞬間、ふわっと柑橘系の爽やかな香りを感じた。その香りに、胸がぎゅっと締め付けられた。


 心が揺らぐのを悟られないように手早くノートをしまう。俺の動揺は日和には伝わっていなかった。


 それから日和はいつもと変わらない口調で尋ねる。


「そういえば、新人賞の結果発表ってもうすぐだったよね?」


 その言葉で、過去の苦い記憶を思い出した。


 高校二年の春、俺はとある新人賞に応募した。その結果が出るのが七月末だった。落選を知った時、ひどく落ち込んだのを覚えている。


 世の中そんなに甘いものではない。


 いまとなれば、冷静に結果を受け止められるが、当時の俺は簡単には事実を受け入れられなかった。何度も結果発表のページを見返して、自分のペンネームを見落としていないか確認した。


 しかし何度見返したところで結果は変わらない。俺は自分自身が否定されたような感覚に陥り、自暴自棄になった。


 俺は苦々しい記憶を振り払いながら、日和に返事をした。


「結果が出るのは、七月末だ」


 結果は無残なものだったが、今の日和には告げる必要なない。何も知らない日和は、無邪気に微笑んだ。


「そっか、楽しみだね!」


 俺の才能を信じて疑わない日和。その純粋さはどこから出てくるのかと不思議に感じた。


 日和の笑顔を見つめていたら、もう一つの重大な出来事を思い出した。

 新人賞の落選を知った日、俺は日和とキスをしたんだ。


 日和は落ち込んだ俺を励まそうと、花火大会に連れ出してくれた。俺は行かないと断ったが、日和がどうしてもとせがむから、仕方なく行くことにした。


 夜空に弾ける花火を見ても、気が紛れることはない。一瞬でも気を緩めたら、みっともなく泣き出してしまいそうだった。


 花火がクライマックスに差し掛かった時、日和がそっと俺の頬に撫でた。


『私は、圭ちゃんの書くお話が大好きだよ』


 その瞬間、心の内で渦巻いていた感情が一気に爆発した。すぐそこまで差し迫っていた涙が決壊し、頬に温かな雫が伝わった。


 俺は泣いている姿を見られたくなくて、日和にキスをした。


 日和がどんな表情をしていたかは覚えていない。だけど唇の柔らかな感触だけは、ぼんやりと覚えていた。


 それからだ。俺と日和が付き合いだしたのは。


 告白めいた言葉はなかったけど、あの日から確実に俺と日和の関係は変わった。今思い返せば、とてつもなく身勝手な話だ。


 そういえば、俺がこの時代に留まっていられるのは十日だ。

 計算上だと、十日目は花火大会の日と重なる。つまり俺は、もう一度花火大会の日をやり直すことになる。


 この時代の自分を演じるのであれば、俺はまた日和にキスをする必要がある。そうすれば、なし崩し的に交際が始まるだろう。


 だけど、もしキスをしなかったらどうなる?

 あの時のキスがなければ、俺達が付き合うことはなかったのか?


 高校二年の夏に、俺と日和が付き合わなければ、結婚することだってない。

 そうすれば、日和が死ぬことだってなかったのかもしれない。


 アブラゼミの煩い声が頭に響く。とんでもない可能性に気付き呆然としていると、日和が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「圭ちゃん、大丈夫?」


 小首をかしげながら澄んだ瞳を向けてくる日和を見て、俺は我に返った。そして混乱を悟られないように立ち上がった。


「そろそろ、帰るか」

「そうだね」


 日和はスカートに付いた砂を払いながら立ち上がった。

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