第9話 補習

 かつての教室に足を踏み入れる瞬間は、若干の緊張が走った。とっくに高校を卒業している異質な俺が、当たり前のような顔をして教室に入るのは至難の業だった。


 しかし、そんなことを気にしているのは俺くらいで、クラスの連中は俺が教室に入ったことすら気に留めていなかった。


 一安心したのも束の間、どこの席につけばいいのか分からず狼狽えた。教室の後ろでうろうろしていると、クラスの女子が声をかけてきた。


「補習だから、どの席に座っても良いんだって」


 席に着くのを躊躇っていたからか、親切に教えてくれた。俺は軽くお礼を告げてから、一番後ろの窓際の席に着いた。


 席のことを教えてくれたのは有り難いが、さっきの女子の名前は思い出せなかった。顔は何となく覚えているんだけど。


 席についてからは本を読むふりをしながら、クラス連中をこっそり観察した。


 名前を思い出せるのは半分といったところだった。といっても、この場にいるのは期末試験で赤点を取った連中だけだから、人数は十人もいないけど。


 クラスの連中は、先生が来るまでの間、思い思いの時間を過ごしている。


 友達の机に集まって芸能人の話題で盛り上がる奴ら。堂々と漫画を持ち込んで馬鹿笑いする奴ら。下を向いてスマホをいじる奴ら。

 休み時間の過ごし方ひとつでも、それぞれの性格が滲み出ている。


 ちなみに俺は、話しかけられるのを拒絶するように机に突っ伏しているのがお決まりのパターンだ。中学時代からそうだった。人と群れることを嫌い、休み時間のたびに寝たふりをしていた。


 傍から見れば、無気力な人間に見えるだろうけど、頭の中はフル回転している。当時の俺は、机に突っ伏しながら小説の続きを考えていた。


 そして授業が始まると、A4ノートを取り出して頭の中に浮かんだストーリーを書き綴っていた。


 そんな生活をしていれば、試験で赤点を取るのは目に見えていた。授業なんてほとんど聞いていないのだから。


 過去の自分の愚かさに嘆いていると、前方の扉から数学教師が入ってきた。その途端、クラスの連中は慌てて席に戻り、漫画やスマホを鞄に隠した。


 授業が始まると、数学教師の証明を黒板に書く。証明問題ほど嫌いなものはない。板書するのが疲れるからだ。


 当時の俺も、板書するのを早々に諦めて、小説の世界に逃げたのを思えている。まさか二十五歳になってまで、数学の証明を板書する日が来るとは思わなかった。


 案の定、内容はさっぱり頭に入って来なかった。俺は板書することを諦めた。


 どうせ二十五歳の俺が、まともに補習をうけたって無駄なんだ。とりあえず出席していればそれでいい。そう開き直って、窓の外に視線を向けた。



 校庭では真っ白なユニフォームをまとった野球部が練習をしている。野太い掛け声は、二階の教室まで聞こえてきた。


 この暑い中、よくやっている。スポーツの面白さを理解できない俺からすれば、運動部の連中の行動は異常としか思えなかった。


 グラウンドの端に視線を向けると、集団から少し離れた場所で、投球練習をしている奴らがいた。


 大きく振りかぶって鋭い球を繰り出す投手。その球を吸い込むようにキャッチする捕手。捕手はボールを受け止めると、「ナイピー」と野太い声で叫んだ。

 その言葉を聞いた投手は、「あざっす!」とひと際大声で叫んだ。


 この投手を俺はよく知っている。透矢だ。


 透矢は捕手から球を受け取ると、次の投球準備に入る。いつものお茶らけた雰囲気はなく、ピリッとした緊張感を纏っていた。

 圧倒されるような空気感は、教室まで伝わってくる。


 しかしその緊張感は、あっさりと崩れ去ることになる。


 透矢は球を投げようとする直前、校舎棟に視線を向けた。そして偶然にも俺と視線が合った。その瞬間、透矢はにやりと笑い、投球体制を崩した。


「おーい、圭一郎! 真面目に補習うけろって!」


 透矢の声は、教室まで届いた。真っすぐ通る声のせいで、俺が余所見をしていたことがバレてしまった。クラスメイトはクスクスと笑う。


 数学教師が半笑いと呆れ顔を織り交ぜた表情で、俺の机に近付いてきた。


「古谷くん。お友達を応援する気持ちは分かるけど、今は補習に集中しようね」


 諭すような穏やかな声で注意されて、申し訳ない気分になった。


「はい。すいません……」


 俺が素直に謝ると、何事もなかったかのように授業が再開された。

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