2章 日常に溶け込んでいく

第7話 賑やかな朝

 カーテンの隙間から陽の光が入る。朝が来たことはとっくにわかっていたけど、まだ布団から出たくなかった。


 もう一度眠りの世界に入ろうとしたところで、部屋のふすまが音を立てて開いた。


「圭ちゃん、起きて! 遅刻しちゃうよ!」


 切羽詰まったような声と共に、身体が揺さぶられる。狸寝入りを決め込んでいると、布団を引き剥がされた。


 渋々目を開けると、膨れっ面の日和がいた。日和は昨日と同じく、セーラー服をまとっている。


「やっと起きた。補習初日からサボるつもり?」

「は? 補習?」


 懐かしい言葉が飛び出し、思わず聞き返す。すると日和は呆れたように溜息を吐いた。


「忘れちゃったの? 圭ちゃん今日から補習でしょ? 一学期の期末試験で赤点を取ったから」


 夏休み。赤点。補習。そのワードで、夏休みの苦い記憶を思い出した。


 高校二年の一学期、俺は試験勉強そっちのけで小説を書いていた。そのせいで期末試験の結果は散々だった。


 俺の通っていた高校では、期末試験に赤点を取った生徒には補習が課されていた。期末試験をサボったツケが、後になってやってきたということだ。


 当時補習を言い渡された俺は絶望した。夏休みは思いっきり小説を書いて、取材旅行にも行こうと意気込んでいた矢先に、出鼻をくじかれたのだ。

 まあ、自業自得なんだけど。


 そんな苦い夏休みを、もう一度味わうことになるとは思わなかった。絶妙に面倒くさい時間軸にタイムスリップしてしまったものだ。


 せっかくなら、補習が終わった時間軸に飛ばされていたら良かったのだけど、今更言ったところでどうしようもない。


 深い溜息を吐いた後、俺は重い身体を起こした。布団から起き上がると、日和はほっとしたような表情を浮かべた。


「私も今日、学校に行くから一緒に行こう」

「日和も補習か?」

「違うよ。私は野球部のお手伝い。人手が足りないから来て欲しいって、透矢とうやにお願いされて」


 透矢。久々に懐かしい名前を聞いた。


 透矢とは小学校時代からの腐れ縁だ。高校を卒業してからは疎遠になっていたが、この時代ではまだ付き合いがあった。


 日和の葬式にも透矢は参列していた。棺の中に納まる日和を見て、泣き崩れていた姿が脳裏に浮かんだ。

 透矢があれほどまでに取り乱している姿は、初めて見た。


 あいつはくだらない冗談を言いながら、ヘラヘラ笑っている男だった。

 人当たりがよく、些細なことでも笑いに変えていく性質から、男子からも女子からも好かれていた。人付き合いが悪い俺とは正反対の人間だ。


 それにも関わらず、透矢は昔から俺に構ってきた。小学校時代には、俺が教室の隅で本を読んでいれば、しつこく声をかけてきた。


 俺が無視を決め込んでも、机にへばりついて「ねぇねぇ」と永遠に話しかけてくる。結局、俺が根負けして外に連れ出されるのがいつものパターンだった。


 高校時代もその関係性は変わらなかった。

 さすがに高校生ともなれば、机にへばりついてウザ絡みされることはなくなったけど、廊下で顔を合わせるたびに、あいつは人懐っこい犬のように俺に絡んできた。


 お調子者でやや鬱陶しい透矢だが、野球に関しては類まれな才能を持っている。たしか高校二年の夏は、甲子園出場をかけた大舞台でエースを任されていたはずだ。


 透矢に頼まれて日和が野球部の手伝いに行くというのは、ごく自然な流れだった。


 透矢と日和も小学校時代からの付き合いで、透矢は何かにつけて日和を頼りにしていた。クラスメイトの間では、『二人は付き合っているのでは?』とも噂されていたくらいだ。


 お調子者の透矢を日和が窘める。二人の関係は、傍から見てもバランスが取れていた。二人が実は付き合っていると知らされても、周囲の人間は納得するだろう。

 傍から見ても二人はお似合いだ。少なくとも俺よりは。


 ぼんやりと過去の記憶を遡っていると、ハンガーにかけられた制服を日和が手渡した。


「ぼーっとしてないで着替えて! 私は居間で待たせてもらうから」


 そう告げると、日和はパタパタと居間に向かった。

 俺は仕方なく、Tシャツを脱ぎ捨てて、制服のシャツに袖を通した。



 居間の障子を開けると、ふわりと味噌汁の香りが漂ってきた。この感覚は、すごく懐かしい。


 座敷机には、白米と味噌汁、焼き鮭、厚焼玉子が並んでいる。実家で暮らしていた頃は、地味な朝食だと文句を垂れていたが、今ならこのありがたみがわかる。


 居間には、父さん、母さん、こずえ姉さん、日和、そして朝陽が座っていた。セーラー服姿の朝陽は顔を緩ませながら味噌汁を啜っていた。


 なんだ、こいつ。あっさりうちの家族に馴染んでいるじゃないか。

 面食らいながらも、俺も座布団に座った。


 しかし日和だけは、我が家の食卓に朝陽が混ざっている異様な光景に戸惑いを感じているようだった。


「さっきから気になっていたんだけど、なんで朝陽ちゃんがここにいるの?」


 日和は、俺と朝陽を交互に見つめる。なんと説明しようかと言葉を選んでいると、朝陽が先に口を開いた。


「色々あって、居候させていただくことになりました!」


 朝陽は能天気な笑顔を浮かべながら答える。その言葉で、日和は「へ?」と素っ頓狂な声をあげた。


「居候? なんでまた急に?」


 日和の反応はごく自然だ。昨日会ったばかりの少女をうちに泊めているなんて知ったら、驚くに決まっている。


 日和が目をぱちくりとさせていると、朝陽がここに来た経緯を説明した。


「私、家出中で宿なしだったんです。そしたら圭一郎くんが、ここに泊めてくれるように、家族に相談してくれたんです!」

「圭ちゃんが?」


 日和は驚いたように俺の顔を覗き込む。まるで宇宙人でも見るような反応だ。


 確かに見ず知らずの少女を助けるなんて、俺らしくない行動だ。日和が驚くのも無理はない。


「仕方ないだろ。放っておくわけにもいかないし」


 これ以上追及されないように、俺は日和から目を逸らしながら白米をかき込んだ。この話は終わりにしたかったが、余計な邪魔が入った。


「でもさ、圭一郎が友達を連れてくるなんて珍しいよね。しかも相手は女の子だよ」


 こずえ姉さんは茶化すようにニヤニヤしながら、話を広げてきた。その言葉に、父さんと母さんが頷く。


「圭一郎には、日和ちゃんと透矢くんしか、友達はいないと思っていたよ」

「圭一郎は人付き合いが苦手だからねえ」


 父さんと母さんが会話に交ざってくる。

 この二人からは、友達が少ない寂しい人間とでも認識されているのかもしれない。まあ、間違ってはいないけど。


 すると、こずえ姉さん何かを思いついたかのように「あ!」と目を輝かせた。


「わかった! あんた朝陽ちゃんのことが好きなんでしょ?」


 こずえ姉さんの突拍子のない発言に、俺は思わず味噌汁を吹き出す。

 その反応が余計に信憑性を高めてしまったようで、父さんと母さんは「あーあ」と納得したように声を漏らした。


 即座に否定しようと思ったが、味噌汁が気管に入ってむせてしまった。その間に、話はどんどん厄介な方向に進んでいく。


「え……そうなの? 圭ちゃん……」


 日和は神妙な面持ちで俺に問いかける。俺は首をブンブンと横に振って否定をするが、話はどんどん進んでいく。


「絶対そうだよ! じゃなきゃ、うちに泊めたいなんて言い出さないって」

「なるほどね。それならお母さんも納得!」

「圭一郎にもついに彼女ができたというわけか」

「いや、お父さん。昨日の朝陽ちゃんの反応からして、圭一郎の片想い止まりだって」


 おかしな方向に話が進み、頭が痛くなってきた。うちの家族はどうしてこうもデリカシーがないのだろうか。


 俺は咄嗟に朝陽を見る。

 お前も否定しろと、視線で圧を送るも、朝陽には届いていないようだった。朝陽は否定するどころか、腹を抱えて笑っていた。


「あっはっは! 圭一郎くんが私に片想いってウケる」


 ウケているのはお前だけだ。俺は愕然とした。


 このままでは話がややこしくなりそうだ。俺は急いで白米をかき込み、立ち上がった。


「好きとかそういうんじゃねえよ。勝手に話を膨らますな」


 そう牽制すると、逃げるように居間から飛び出した。


「あ! 待ってよ!」

「圭ちゃん、それ本当?」


 俺を追いかけるように、朝陽と日和も居間を飛び出した。

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