第2話 淡い光
俺は最低な恋人で、最低な旦那だった。
そして今度は、最低な父親に成り下がろうとしている。
ごみ屋敷と化した2LDKのアパートで、俺はベビー用品をかき集める。
おむつ、粉ミルク、哺乳瓶、ベビー服。朝陽のために買い与えられたものを、次々とリュックに詰め込んだ。
「ベビーベッドは郵送すればいいか……」
無駄にスペースを取るベビーベッドを一瞥してから、俺はパンパンに膨らんだリュックを背負った。
そして泣きつかれて眠っている朝陽を、そっと抱きかかえた。
「じゃあな、向こうに行っても元気でやれよ」
朝陽の眠りを妨げないように、そっと囁いた。
これから朝陽を連れて実家に行く。朝陽を実家で引き取ってもらうためだ。
俺一人で朝陽を育てるのは限界だった。
日和が亡くなってから、俺と朝陽の二人きりの生活が始まった。育児を日和に任せきりにしていたツケが、今になって降りかかってきたのだ。
ミルクを作ることも、お風呂に入れることも、日和がいなければ満足にできない。ネットの情報を頼りに手探りでやっていたが、日和のように上手くはできなかった。
2LDKの狭苦しいアパートでは、昼夜問わず朝陽の泣き声が響いていた。四六時中、赤ん坊の泣き声を聞いていると、頭がおかしくなりそうになった。
バイトと朝陽の世話に追われる日々で、俺はボロボロになっていた。朦朧とした頭で泣きわめく朝陽を抱きかかえていると、ふとあることに気が付いた。
この数週間、俺は一度も小説を書いていない。
パソコンのデータを確認してみると、なんと日和が亡くなってから、一度も更新していなかった。
こんなことは初めてだ。いままでは毎日小説を書いていた。小説を書くことは、俺にとって飯を食うのと同じくらい日常に溶けこんでいた。
それなのに日和が亡くなってからの数週間、俺は小説を書いていなかった。
書こうと思ったけど書けなかったのではない。小説のこと自体が、頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。
そのことに気付いた時、背中から汗が滲んだ。全身がぞわぞわと粟立つ。俺は言いようもない恐怖に襲われた。
このままでは小説が書けなくなる。それは俺にとって、生きる意味を失うことと同義だった。
こんな事態が起きた元凶は、朝陽だ。朝陽の世話に追われて、小説を書く余裕がなくなったんだ。
一刻も早く、この状況をどうにかしなければと思った。朝陽の処遇について考えたとき、真っ先に浮かんだのが実家だった。
日和の葬儀の日、母さんは言っていた。「困ったことがあったら頼りなさい」と。
俺はすぐさま実家に電話した。俺一人では朝陽を面倒見切れないことを伝えると、母さんは落ち着いた声色で「うちに連れてきなさい」と言ってくれた。
こうなることは、母さんも予想していたのかもしれない。あっという間に、朝陽を実家で引き取ってもらう話がついた。
もちろん実家に預けたとしても、いつでも会いに行ける状況だ。実家とアパートは徒歩圏内だし、両親との関係も悪くない。実家に戻れば、快く迎えてくれるだろう。
ただ俺の性格上、頻繁に会いに行くとは思えなかった。
週に一度、もしくは月に一度のペースでしか面会しない可能性がある。そうなれば朝陽は父親の存在なんて忘れてしまうだろう。
だけど、それでいいのかもしれない。日和を追い詰めた上に、娘の世話を放棄した父親なんて、いない方がいいだろう。
実家には、母さんも父さんも4つ年の離れた姉もいる。そこで楽しく暮らしていた方が幸せに決まっている。
俺は朝陽を抱きかかえて、アパートを出た。夏はとっくに終わっているはずなのに、頬を撫でる夜風は生暖かく、夏の余韻を残していた。
街頭に照らされた住宅街をゆっくり歩く。時間は二十時過ぎだというのに、外を歩いているのは俺一人だった。
時折、車のヘッドライトで照らされるが、誰かと顔を合わせることはない。静かすぎるせいか、俺と朝陽だけが世界から切り離されたような気分になった。
実家までの道のりをゆっくり歩いていると、馴染み深い朱色の鳥居が視界に入った。
伊崎神社。地元の人しか知らないような、小さい神社だ。
子どもの頃は、学校帰りによく日和と伊崎神社に来ていた。
大きな
区切りのよいところまで読み終えると、日和はふわりと笑う。
「面白かった」と言ってもらえると、心の奥底からエネルギーが漲ってきた。
もしかしたらこの場所が、俺達の原点だったのかもしれない。そう考えると、無性に懐かしくなった。
惹きつけられるように鳥居をくぐる。それから昔と同じように、欅の木を見上げた。
夜風が吹いて、葉がサワサワと揺らめく。枝の隙間から満月が見えた。
月の光が朝陽の顔を照らす。目尻には涙の粒が溜まっていた。俺は指先で朝陽の涙を拭った。
俺の知っている朝陽は、泣いてばかりだった。
普通の赤ん坊がどういうものなのかはわからないが、起きている間はほとんど泣いていたように思える。
もしかしたら朝陽は、不甲斐ない俺を責めていたのかもしれない。
自分の無力さを目の当たりにして溜息を吐くと、月の光とは違う眩しさを感じた。顔を上げると、黄緑色の淡い光の粒がゆらゆらと宙に浮いていた。
1つ、2つ、3つ……。
光の粒は徐々に数を増やしていく。それはまるで、水辺に集まる蛍のようだった。
水辺のない住宅街の片隅に、蛍がいるはずはない。蛍ではないとするなら、これは一体なんだ?
光の正体が知りたくて、恐る恐る手を伸ばす。すると、数えきれないほどの光の粒が俺の手元に集まり、目を覆いたくなるほどの眩しさに襲われた。
その直後、激しい睡魔に襲われた。立っていることすら困難になり、その場に膝をつく。
体勢を崩しながらも、朝陽を潰してはならないという意識だけは残っていた。朝陽を庇いながらひんやりとした石畳に倒れこむと、そのまま意識を失った。
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