第9話 芸術と言う訳語の誤謬

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 リベラルアーツについて語る前に、余談ながらここで日本語の「芸術」について話したい。


「Art(アート)」の訳語として、または同義語として「芸術」という言葉があるが、この「Art(アート)」もしくは美学に関連する、または現在この「芸術」関連に携わってるあらゆる分野の方は、この訳語、または同義語としての「芸術」について、少なからずともその根本的な意味も含め同一ではないということは意外と知られており、また現代は現実に色んな場面で区別され使用されていることが多い。


 この「芸術」と言う言葉は明治の頃に「Art(アート)」と言う言葉が輸入されたと同時にその当時の知識人達によって日本語に訳された。


 だがその和訳そのものは「Art(アート)」そのものについて意味をいわゆる完全ではなく、一部誤謬を伴った形で「Art(アート)」そのものの本質を伝える上で瑕疵を負った形で訳されてしまったと解釈してもらいたい。


 何よりも、当時の日本は西洋化政策が必須であり、ある意味社会全体を同一化することに躍起で在り、あらゆるものを輸入した。それは産業のみならず、いわゆる思想においても。



 その「芸術」という近代日本語の導入と成り立ちについて、自由気ままに思うまま推論を書いてみる。


 そもそも「芸」とは勿論、日本語で古来より諸芸一般をさす。

 勿論、それらをさすが何よりも「芸」の本質は「神も人も」共に社会に存在することを示す技術として「芸」があり、どちらかと言えばそれらは全てにおいて「神事」に近い。


 考えてみれば、明治期における輸入の大本は「キリスト教圏」である。そこに於ける西洋の美術一般は彼等の信じる一神教の唯一神の下で展開されており、それらを初めて見た多神教国家である東アジアの日本人において、それを説明され感じ得た意味としての「Art(アート)」を直感的に「芸(藝)という言葉に置き換えても仕方がなく、また方法としての手段としての「術」を併記して、「芸(藝)術」と訳す当時の知識の限界を感じても無理は無い。


 やがて日本の社会が西洋化と共に安定し、その言葉が定着しても意味そのものの本質が「Art(アート)」から大きく離れている訳では無いことから仕方のないことだと思うが、然しながら現代においてそれらは良く理解され「芸術」と「Art(アート)」(現在はカタカナで同じような意味合いで『アート』と書かれている言葉も含めて)は別物になって扱われている。(但し、この随筆家(エッセイスト)においては「Art(アート)」と現代語の『アート』もまた大きく違い、それはこのエッセイの最後までお付き合いいただければ相互の違いを理解頂けるものと期待している)


 ここで言いたいのは、つまり近代日本においては「Art(アート)」は無かったという事である。


 つまり工芸品というものは有ったが「Art(アート)」も「アート」そのものも無かったという事である(何遍も言うが、ここでの現代語の『アート』とこの随筆家(エッセイスト)の言う『Art(アート)』は意味が違う事を理解していただきたい。何故なら現代語の『アート』は総合的クリエイションと言う意味で捉えているからである)


 そしてこの段における話は自分よりも有意義に分かり易く書かれたページがあるので参考までに載せておきたい。

 そちらの方がとてもこの随筆(エッセイ)の助けになり、より分かり易いように思う。


 では以下に引用を記載する。


「アート」と「ART」と「芸術」と「美術」の違いとは?現代美術家が解説 | イロハニアート (irohani.art)https://irohani.art/study/11999/



 では、『Art(アート)』における重要なリベラルアーツについて次に語りたい。















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