第7話 歯車の世界

 夕方になると。

 柳は子供達と一緒に洗濯を取りこんでいた。


 僕はやることもなく呆けていると検診を終えた笹原が話しかけにきた。

「おっ、暇そうだね」


「え、ええ。笹原さんもですか?」

「ああ。取りあえず一段落は付いた」

「いつまで此処にいるのですか?」


「来週までさ。此処に来た目的は感染症の治療と予防だからね。あと一、二週間で患者達の容体は安定するから、その間は滞在する気さ」


「立派ですね。僕には、そこまで出来る笹原さんが凄いです」


「ん? 何でだ?」

「柳さんから聞きましたよ。大量の薬を買って自腹で来たのでしょ。普通の人には出来ませんよ。……僕には笹原さんのように行動できる自信が無いです。仕事が有るから、紛争地域に行くことが危険だから。そんな言い訳して動けなくなると思いますから」


「……お前は、俺を美徳し過ぎだ。実際に柳の連絡が来た際に困ったんだよ。有給を使い切ってまですることなのか? 俺に何が還元される? 寧ろ多額の費用を負担し、損しかないのではないか。脳裏に見捨てると言う選択肢が真っ先に出たんだよ。……だから、少し考えさせてくれと言って電話を切ったんだ」

「えっ?」

「だから言っただろ、俺はそこまで高潔な人間じゃないと」


 笹原は溜息を吐いてから宙を見る。

「考えれば考えるほど、時間が過ぎれば過ぎるほど。断るべきだと気持ちが強くなるんだよ。……だが、医学を志した言葉を思い出し、俺は迷いを断ち切って行動した」


「医学を志した言葉ですか?」


「――少年時の理想主義の中に、人間にとっての真理が潜んでいる。そして少年の頃の理想主義は、何ものにも換えることが出来ない人間の財産である」

 笹原は眼を瞑って自分に言い聞かせるように唱えた。


 その言葉が印象的に耳に残った――。


 自分の中で何かが氷解した気持ちになったからだ。


「ドイツ医の言葉さ。……高校の頃。たまたま見ていたテレビ番組で、この医者の特集が組まれていてね。彼の功績を知って胸が打たれた。彼は、アフリカに行きタダ同然で治療をしていたんだ。俺には彼の行動が理解できなかった。人間とは打算的に動くものだ、それなのに損得勘定を無視して行動する彼の真意が分からなかったんだよ。だから図書館に行き、彼の人生を、彼の功績を必死に調べた。何が彼を変えたのかを、もしかして俺も変わる事が出来るかもしれないと……そして分かったことは単純な事だった。彼は、自分の理想を信じて行動したのだと。彼の理想は困っている人を助けたい。ただ、それだけだ。簡潔が故に感化された――。単純だろう俺の行動基盤は」


「いえ、立派な事だと思います」

「暫く、仕事に翻弄され。初心を忘れていたが、柳の連絡で初心を思い出す良いきっかけを貰ったよ。困っている人を助ける、そこに損得勘定は入れない。それが俺の理想だからな」


「柳さんと似ていますね、どこまでも理想を追いかける姿は」

「そうかもな。……で、君の人生の参考になったか?」

「えっ?」


「このまま就職する事に悩んでいるんだろ。就職したら、自分が朧げに持っていた理想とやらを捨てるかもしれないからな」

「……」


「まあ、余計な、お世話だったかな」

 笹原は立ち上がり診療所に戻ろうとしていた。


「あ、ありがとうございます」

 僕は立ち上がって深く頭を下げた。


 すると笹原は立ち止まり。

 背中を見せたまま答える。


「青年に最後のアドバイスだ。……理想に生きる為に何が必要か考えてみろ。そこに答えが必ず有る」

 それだけ言って立ち去った。


 僕は自分の中で何かが変わってくる気がした。


 それから僕は一人、草原の中で考えていた。


 本当に何がしたいのか? 


 どういう生き方をしたいのか?

 

 様々な葛藤が脳内を駆け巡る。

 

 小さい頃は普通には生きたくないと思っていた。


 父や社会人の姿を見て平凡とは機械のような生き方だと思ったからだ。


 就活の時にも思った。


 皆が同じリクルートスーツを着て。


 皆が模範解答に似た内容の受け答えをする。


 学生が言う内容は殆ど同じであり。


 面接官はどれだけ自信を持って即座に返答できるのかを採点していた。


 言い換えれば。

 

 どれだけテープレコーダーとしての性能が正確なのかを判断しているのだ。


 平凡とは代替が利く。 

 

 社会の歯車だと思った――。


 社会の歯車になり定年まで稼働する。


 定年になると年老いた歯車は。


 新卒と言う新しい歯車と取り換えられ稼働し続ける。



 そんな大人に成りたくなかった。


 だから、僕は普通に生きる事を恐れ。


 この国に行き平凡の素晴らしさを確かめに来たのだ。

 

 確かに、この国の有様と比較して平凡に生きられる社会にいる事は幸運だろう。


 もし、柳や笹原に出会わなければ平凡を肯定し。


 帰国して社会の歯車になることを受け入れただろう。


 だけど、彼らと出会って何かが引っ掛かった。

 自分も彼らのように。


 理想に――。


 信念に――。


 生きたいと思ったのだ。


 だけど、今の僕には理想も信念も持っていない。


 だから、帰国したら理想や信念を探してみようと思い。


 その日は眠りについた。

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