第3話 才の壁

 それから一カ月、将棋に本気に打ち込んだ。

 寝る間を惜しんで将棋に打ち込み。

 今迄にないほど頭が冴えわたる。

 笹倉は自己の棋力が上がった事を確信しており。

 


 この調子なら羽入に勝てる事も可能であると思い始めた。

 そして羽入との試合当日。

 体調は万全で将棋会館に着く。

 


 顔の血色は良く。

 これから戦いに挑む目をしていた。



 対局席に付き。

 静かに息を整えて羽入との対局に挑む。

 


 先手は羽入だった。

 序盤、中盤まで均衡が続く。

 笹倉は今迄に感じたことがない程に思考が冴えわたり。

 少しずつであるが羽入を追い詰めていた。

 


 終盤に入ると一つの勝ち筋が閃き。

 その勝ち筋に漏れがないか何度も脳内で確認してから駒を打ち込む。

 


 羽入は険しい顔をして頭を掻いており。

 笹倉は勝利を確信した。

 緊張の中に安堵を覚えると。

 羽入が打った一手に思考が硬直する。



「……えっ?」



 笹倉は知らず知らずのうちに声が漏れていた。

 羽入の打った一手は駒を捨てるかのような意味のない一手であった。



 駒をタダで取れるが。

 終盤にわざわざタダで駒を渡す訳がない。

 意味深な一手に手が硬直する。

 だが、無視するわけにもいかずに熟考すると冷や汗が流れ出た。



「……取れない」



 駒を取ると十手で詰むからだ。

 だからと言って無視すると打った駒が基軸となり。

 自陣が崩壊して一方的に攻められる。



 必死になって王の生きる道を模索するが全く見当たらない。

 


 十分近い考量の末に王を逃がす手を打つ。

 羽入の追撃が始まる。



 それより先は一方的に追い詰められた。

 そして詰めろがかかり。

 正しく受けなければ王が詰む状態になった。

 


 盤上を必死になって凝視し。

 勝ち筋を模索するが発見できない。



 対局時計の無機質な音が。

 持ち時間の少なさを露呈する。

 


 いつもの笹倉ならとっくに投了している場面ですら。

 尚、勝ち筋を発見しようと必死になる。



 頭がショートする寸前まで思考回路を回す。

 この時の笹倉の脳裏には。

 負けるなどネガティブな感情は一切なかった。



 ただ、勝つ――。



 それだけであった。

 


 残りの持ち時間が五分を切った瞬間。

 閃いた一手に全てを賭けて王手をかけて力強く打ち込んだ。



 羽入はその一手は予期しており即座に受ける。

 笹倉は迷いなく盤上の駒で王手をかける。

 羽入の読み筋であるため駒を払いのける。



 そして連続王手をかけて王を中央まで引きずり出した。

 数手の猛襲の結果。

 笹倉の王は安全になってた。

 


 羽入は頭を強く掻いており。

 持ち時間は一分を切る。



 この難しい局面を短時間で最善手が指せるはずもない。

 そのため勝てると思っていると。

 羽入は苦い顔をして駒を打った。



 その駒は王を守るにしては豪華な駒であった。

 普通なら、合い駒は価値の低い駒を打つ。

 強い駒を合い駒にすると。

 相手に取られて際に追い詰められるからだ。

 


 だが、羽入も勝ち筋を確信してるのか盤上を睨んでおり。

 笹倉の次の一手を待っていた。

 


 これだけ追い詰めているため。

 笹倉は今までの経験上勝てると確信していたが。

 羽入の合い駒が絶妙な守りになっており打ち崩せないことに気づく。

 


 あの短時間でこの展開まで読み切った羽入に初めて恐怖する。



 笹倉は必死に食らいつくが、其の全てを受け流され。

 遂に、笹倉の持ち駒はなくなってしまう。

 


 詰めることが出来なかった為に受けに回るしかない。

 だが、羽入の駒台には駒が溢れており。

 これだけ持ち駒があるなら。

 アマチュアでも簡単に詰ます事は可能である。



 ましてや相手は将棋の天才――。



 笹倉は詰み筋の光明が一切見えなくなり、弱弱しい声で呟く。



「……まけ、ました」



 羽入はその声が聞こえていないのか。

 重々しい顔で盤上を見ていた。



 笹倉は頭が真っ白になって茫然としていると。

 羽入は先程の笹倉の妙手を打った場面に駒を戻し。



「この一手は面白かった。……君、奨励会で戦った中で一番強いかもね」



 そう言ってから羽入は立ち上がり出て行った。

 笹倉は何も感じずにその言葉を聞き流す。



 対局が終わったのにその場から動けなかった。

 この一カ月、将棋に対して本気で打ち込んだのに敗北し。

 虚無感に襲われたからだ。



 この一カ月は人生の中でも最も努力をした。

 それなのに。

 その努力を一瞬にして打ち払う。

 天才の読みと妙手を目の当たりにして心の整理がつかない。



 一時間近く時間が経つと午後の対局が始まった。

 笹倉は本日の試合は午前だけであった為に将棋会館から出て行く。



 ふらふらした足取りで外に出ると。

 小雨が降っていた。



 その雨は笹倉の努力が報われなかったことを示すかのように降り注ぐ。



 折り畳み傘を持っていたが。

 さす気にもなれず濡れたまま歩き始めた。



 笹倉は目的地も定まらないまま歩き始めた。

 このまま家に帰る気も起こらず。

 行く当てもないまま虚ろな目で歩き始める。



「……初戦から三連敗」



 もはやプロ入りは、ほぼ不可能な所まで差し掛かった。

 全てを投げ打って挑んだ。

 羽入戦では本当の才能と言うのを身を以て知った。

 


 地面を見ながら虚構の町を彷徨う。

 奨励会では。

 奨励会員は人間ではないと言われることがある。

 


 社会人として働いている訳でもなく。

 プロ棋士でもない奨励会員は。

 人間としての務めを果たしていないからだろう。

 


 今日の敗戦でプロ棋士の道を殆ど断たれた自分は。

 晴れて人間に成れなかった事になる。



 人間でないと言うのなら。

 自分は一体何なのだろうか――。



 自問自答しながら町を歩く。



 何時間歩いたのか。



 此処が何処なのかも分からずにひたすら彷徨い続ける。



 太陽はいつの間にか沈んでおり。

 雨は更に降り注ぐ。



 歩いていると公園が目に入り。

 無意識的に公園の中に入った。

 喉が異常なまでに乾いており適当な飲料水を購入する為。

 自販機の前で立ち止まり鞄から財布を取り出そうとした。



 鞄を開けると。

 そこには御守代わりに入れていた将棋駒が入った木箱が目に入る。

 無意識的に将棋の木箱を手に触れると。

 言い知れぬ憎しみが湧き上がってきた。

 


 これさえなければ此処まで苦しい思いをしなかったからだ。



 木箱を乱暴に取りだして地面に叩きつける――。



「これさえなければ! 僕は、僕は! 僕は普通に生きれたんだ! 僕の人生を狂わせやがって!」



 目からは無性に涙が溢れており。

 地面に散らばった将棋駒に罵声を浴びかける。



「そうさ! 知っているさ! 僕には将棋の才能がないことに! 僕が一番知っているさ! ただの凡人で! 人より少し将棋が出来る程度だって!」



 地面の駒に向けて投げかける言葉は自分に反射して返ってくる。



「だけど、だけど仕方がないじゃないか! もう……もうとっくに引き返せない所まで歩んできたんだから! 自分に才能があるって信じないと、一体何を信じたら良いんだよ!」



 地面の駒には無数の涙が降り注ぎ。

 駒に水滴が染みこむ。



「嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ。………将棋なんか大っ嫌いだァ! 僕は、僕はァ!」

 


 慟哭のような声を上げてから。

 膝から崩れ落ちて泣き崩れた。



 目からは溢れんばかりに涙が押し寄せて来る。

 人生の全てが否定され。

 感情が抑えきれずに呻き声を上げながら泣いていた。



 青春の大半を将棋に捧げた青年の末路がこれである。

 泣き続けていると。

 どうしてもっと頑張らなかったのか。

 後悔の念だけが胸の中で押し寄せて余計に辛くなる。



 声に成らない声で永延と泣いていた。

 目を瞑って泣き続け。

 数時間経つと涙は出尽くした。

 雨は止み。

 太陽が上がり始め。

 小鳥がさえずり始める。



 腕時計を見ると朝の五時になっていた。



 こんな無様な姿を誰にも見せたくないため。

 ゆっくりと立ち上がり。

 地面には散らばっていた駒を何の感情も持たずに木箱の中に詰めた。



 全ての駒が木箱に入ると近くにゴミ箱があり。

 そこに向けて歩き始める。



「……もう必要ないよね」



 言い聞かせるように呟き。

 捨てようとした。



「……バイ、バイ」

 


 別れの言葉を呟いて手の力を緩めようとしたが。



 手は木箱を掴んだまま放さなかった――。



 捨てようとすればするほど。

 切り捨てようと思うほど。

 手は硬直して木箱を離さない。



 心が必死になって捨てようとしているのに。

 身体が必死になって捨てる事を拒絶する。



 木箱は力強く握られており。

 あまりにも矛盾した行動に理解出来なかった。



「もう赦してくれよ。もう、僕は充分頑張ったろう。だからさ、お願いだよ。もう僕を放してくれよ……」



 贖罪するかのように呟くと手の力が緩み始める。

 力が緩むにつれて木箱が傾く。



 あと少し、ほんの少しで放すことが出来るのだが。

 寸前のところで手が硬直した。



 最早、涙は出しつくしているため目から涙が出て来なかったが。

 木箱の掛かった水滴が零れ落ちる。



 水滴がゴミ箱の中に落ちて弾ける――。



 次にゴミ箱に落下するのは木箱である。


 だが、その木箱が落ちる事はなかった。

 笹倉は膝から崩れ落ちて木箱を胸の中で大事に抱えていたからだ。



「……捨てられない。これだけは捨てられないんだ。これだけは捨てられないんだよ」



 将棋を憎んでいたが。

 それ以上に愛していたために捨てることが出来なかったのだ。



「……御免よ。……御免よ」



 気が付くと胸に収まった将棋駒に向けて。

 必死になって謝罪している自分がいた。

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