第2話 努力の壁
午後の対戦相手の対策は打っている。
全力を尽くせば負ける相手ではない。
そう何度も自分に言い聞かせて試合に挑む。
だが、午前に負けた試合が脳裏に霞み。
自分の手に迷いが生じていた。
普通なら有り得ないほど。
序盤に時間を使ってしまい。
無駄な時間を使ったツケが終盤で払う破目に陥る。
形勢は笹倉が優勢であったが。
持ち時間は五分を切っていた。
対戦相手の持ち時間は三十分も残っており。
ゆっくりと笹倉の攻撃を受け続ける。
勝ち筋はある。
今までの将棋経験から、そう断定できる――。
だが、持ち時間の少なさから勝ち筋を逃してしまった。
持ち時間が三分を切った瞬間。
笹倉の頭は真っ白になり。
受けに回った。
そして、これが勝敗を決める。
対戦相手は王の近くに守り駒を打って安堵の溜め息を漏らす。
そして直ぐに詰み筋に気付く。
「……あっ」
あと七手で相手は詰んでいたことに。
だが、もはや遅い。
相手が王の守りを強化したことにより。
攻めきれなくなったからだ。
そして、持ち時間の短さから。
相手の王を詰ます事は不可能と悟り。
「……負けました」
そう言ってから。
笹倉は重い足取りで荷物を纏めて自宅に帰った。
自宅に帰ると笹倉は布団に倒れ込む。
「……二連敗」
放心状態でそう呟いて天井を眺める。
その眼は天井を見ておらず虚空を見ていた。
「なぁに、やってんだろう俺。一敗も出来ないって分かってるはずだろ」
泣き言を言っているが。
感情が一切籠っていなかった。
現実味が湧かずに夢であると思っていたからだ。
「一試合目は緊張から自滅。二試合目は敗戦を引きずって時間切れから自滅。はっははは。……わらえねぇよ」
自嘲気味に笑ってから。
重いため息が漏れた。
一時間ほど放心状態のまま倒れていると。
携帯にメールが届く。
メールは兄からであった。
〈仕送りしたが足りているか? 生活に困ったら何時でも連絡よこせよ。身体には気を付けること。お前は昔から病気になっても将棋に打ち込む癖があるからな〉
メール内容はそれだけだった。
今日試合があるのは知っているのに。
その結果については一切聞いてこなかった。
そのことが余計に胸に突き刺さった。
兄は高校を卒業後に就職をした。
本当は音楽大学に行きたかったみたいだが、家にそんな余裕もなく。
それを察した兄は就職する道を選び。
弟には夢を追って欲しいと言い。
少ない給料からお金を送ってくれていた。
今日の無様な試合結果を思い出し。
不安と罪悪感に押しつぶされそうになり。
罪悪感から解放されるためだけに無意識に兄に電話を掛けていた。
数回のコール音の後に電話が繋がる。
「どうした昌司?」
「…………」
笹倉は言葉を出そうとするが出てこなかった。
「なにかあったのか?」
「……き、今日。二試合あって、二試合とも……」
それ以上、言葉が出せなかった。
「……そうか、残念だったな」
兄は負けたと察して。
同情するかのように言う。
「……ゴメン、兄さん。仕送って貰ったのに何も返せなくて。プロ棋士になって兄さんに少しでも恩返ししようと思っていたのに、このザマで」
笹倉は半泣きになって謝罪する。
「気にすんな。お前は好きなようにやれ。努力は最後には報われる。お前が努力してるのは俺が良く知っているからな」
兄の努力と言う言葉が深く胸に突き刺さる。
それは、努力していたとは言えない時期があったからだ。
罪悪感に押し潰されそうで。
笹倉は兄に隠していたことを吐露して。
少しでもこの罪悪感から逃れようと無責任に言葉を発した。
「兄さんに謝罪しなきゃいけないことがあるんだ。……僕が四年前に三段になったことを覚えている?」
「ああ、覚えてるさ」
「三段まで順調に上がっていき。三段になって初めて壁を感じたんだ。……努力しても努力しても全く差が縮まらないように感じた。いや、違う。本当の才能ってやつに気付いちゃったんだ。いくら努力しても才能のある奴には追いつけないって。そして将棋をしない日が増えていった……」
「……」
兄は何も言わずにただ笹倉の懺悔を聞いていた。
「そして二年ぐらい自堕落に遊んでいた。将棋は暇つぶし程度にしかしなくなってたんだ。……僕は兄さんが思うような人間じゃない。僕は兄さんの好意に甘えていたんだ」
「……」
兄は何も言わなかった。
当然、怒っていると笹倉は思い。
いつ怒声が投げかけられるかと恐れていると。
兄から他愛もない口調で返される。
「なんだ、そんなことか」
「お、怒らないの?」
「……一つだけ聞いていいか?」
何かを心配するかのように尋ねられる。
「な、なに?」
「将棋は好きか?」
「…………」
「なら、嫌いか?」
「嫌いじゃない」
笹倉は無意識的に答えていた。
「なら、安心したよ。てっきり将棋が嫌いになったのかと思ったからな」
「ど、どういうこと?」
兄の真意が読み取れずに困惑する。
「俺がお前に仕送りしてる理由を知っているか?」
「僕には夢を叶えて欲しいから……でしょ」
「惜しいが、少し違うな。俺が、お前を応援したのは人生を賭けても叶えたい夢を持っていたからだ。俺には夢がなかったんだ。強いて言えばギターリストになりたかったが、お前みたい四六時中、没頭できるほどでもない。だから、お前のその熱中できる姿勢に素直に感心したんだ。将来、プロに成る人材っていうのはこういう連中なんだなって幼心に思ったんだよ」
兄は照れくさそうに続ける。
「だからな、お前がプロになれなくても、自堕落になった時期があろうが、自分が好きな趣味を大事にできるんなら俺は文句は言わん。まぁ、プロ棋士に成れなかったら自分が食べる分は稼いでもらうがな、はっははは」
「プロに成れなかったら今まで仕送りした分も返すよ」
「……少しでも負い目に感じてるんなら、一つだけ俺の言う事を聞けるか?」
「う、うん」
「プロになれようが、なれなかろうが、残りの試合、後悔無い様に全力を尽くせ。……最後まで死力を尽くして楽しんでこい。それが兄として、いや、一人の男として、お前に求めてるもんだ。以上」
そう言って電話は切られた。
「……最後まで楽しんでこいか。相変わらず兄さんには頭が上がらないよ」
少し苦笑いしてから。
近くにあった将棋駒を握りしめた。
「そうだな。次の試合から勝ちこせば良いんだ。次の試合まで一カ月近くある。最後まで全力を尽くそう。……次の試合は来月。相手は羽入か。泣きっ面に蜂だな」
次の対戦相手が羽入であると思い出して苦笑いする。
勝てる見込みは限りなく低いだろう。
だけど、これ以上負けるわけにはいかないし。
負けるつもりもない。
本棚から自分の棋力が上がった。
愛着ある本を抜きだす。
「一からやりなおそう。最後ぐらい本気になってやる」
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