第一章 将棋の才

第1話 奨励会

 古びたアパートの一室にて将棋の駒音が響き渡る。

 部屋の中には一人の青年が。

 切羽詰まった表情でプロ棋士の棋譜を検討していた。



 青年の名前は笹倉昌司ささくら しょうじ

 将棋のプロを養成する機関。

 奨励会に在籍しており段位は三段である。



 四段に昇格するとプロ棋士となるため。

 文字通りにあと一歩の所まで近づいていたのだ。



 三段に昇格したのは五年も前の話であり。

 五年前は自身がプロ棋士になった姿を想像して笑みがこぼれていた。



 だが、時間が経つごとにそんな雑念が入る余地がなくなり。

 プロ棋士に成れない姿ばかり想像するように移り変わる。



 こんなにも否定的な思考に陥ったのは昇格できないからではない。

 奨励会の一つの制度、年齢制限の事が頭を過ぎるからだ。



 奨励会では二十六歳までに四段になれなければ。

 年齢制限により退会させられる。



 笹倉の年齢は二十五歳であり。

 猶予は今年しか残されていなかった。



 その為、寝る間を惜しんで将棋に打ち込む。



 将棋しかない味気ない部屋で。

 笹倉は何かに取り憑かれるかのようにひたすら将棋を指す。



 明日は最後のリーグ戦があり、気が気ではいられなかった。



 昇格できればプロ棋士として華々しい道で生きていけるが。

 昇格できなければ奨励会を退会し。

 職歴なし。

 高卒。

 二十代中盤と言った。



 ハンデを負ったまま社会に放り出されてしまう。



 人生の大半を将棋に捧げていた笹倉にとって。 

 プロ棋士に成れないのは人生の全てが否定される事に繋がるため。

 次のリーグ戦に全てを賭けていた。



 棋譜の検討を終えて駒から指を放すと。

 指が小刻みに震えていることに気づく。



「……っ」

 


 こんなにも将棋が恐ろしいと感じたのは初めてだった。



 たかが一局、いや一手で人生が変わるゲームを行うのだから――。



 笹倉は落ち着かずに新たな棋譜を並べ始める。

 将棋に集中しているわけではない。

 何かをしていなければ不安で仕方がなかったからだ。



 緊張と不安に押しつぶされ。

 何かから逃げる様に一心不乱に棋譜を並べていた。



 時刻は深夜二時になっており。

 就寝の為に将棋を中断した。

 カレンダーを見ると、リーグ戦の開始まであと十時間に迫っていた。



 笹倉は今期のリーグ戦の事が頭に過ると不安に煽られる。

 それは笹倉の実力が足りていないからだけではない。

 今期のリーグ戦に二人の化物が参戦したのが一番の理由だ。



 一人目は天才少年棋士と呼ばれた羽入である。

 中学生でありながら三段まで駆け上った天才であり。

 才能と言うのは彼の為にあると名人に言わした正真正銘の天才だ。



 独自の大局観を持っており逆転不可能と思われた局面を何度も塗り替え。

 彼の棋譜を見た者はプロ棋士ですら冷や汗を流すとまで言われている。



 二人目は村下である。

 僅か二年で三段まで駆け上がり。

 プロ棋士からも終盤は村下に聞くのが良いと言わしめた程の天才である。



 彼が負けるのは体調不良で不戦敗するときだけで。

 体調さえ良ければ負ける事はないとまで言わしめる実力を保持していた。



 笹倉はこの二人には勝てる気がしなかった。

 それは同時にプロ入りを断念せざる負えなかった。



 なぜなら。

 プロに成れるのは上位二名のみと近年で改正されたからである。



 リーグ戦が始まる前から。

 新聞紙にはプロ入り確定は羽入、村下の二名と大げさに書かれており。

 笹倉の名前どころか、他の人物の名前が挙がる事は決してなかった。

 笹倉たちは世間からは羽入と村下の盛り上げ役。



 厳しい言い方を言えば、やられ役としか見なされていなかったのだ。



 しかし、笹倉にとっては最後のプロ棋士になる試験であり。

 どうしても負けるわけにはいかなかった。



 反則をしてでも勝ちたいのだ――。



 笹倉は言い知れぬ不安に襲われながら眠りの世界に逃避した。



 夢の中でも羽入と村下に敗れる夢を見せつけられ。

 妙に現実感がある将棋盤と。

 盤上に並べられた駒から自己の無力感を示しつけられる。



 悪夢としか思えない光景から逃避するように眼を覚ますと。

 朝の八時であり。

 洗面台で鏡を見ると目が充血していた。



 表情は青白く。

 先程の悪夢の質の悪さを現していた。



 歯を磨き。

 顔を洗ってから外の景色を眺める為に窓を開ける。

 外には元気よく登校している小学生がおり。

 その姿が眩しく映った。



「……懐かしいな。そういや、将棋を始めた切掛けは小学生の頃か」



 笹倉が将棋を始めたのは小学生の頃。

 友人に誘われて将棋を指したのが切掛けである。

 劣勢から盤上を塗り替える感触は何事にも代え難く。

 其れに魅了されたのだ。



 母に頼み込んで将棋盤セットと将棋の本を買ってもらい。

 昼夜を忘れて没頭する。



 将棋の本を読み終えては。

 新たな本を買って将棋盤に向かうのが日課になっていた。

 将棋の実力を磨いていき。

 遂には小さな将棋大会で優勝する。



 大会で優勝した帰りに母は息子の優勝に喜び。

 御褒美に少し高い将棋駒を買ってくれた。

 その駒は今も愛用しており。

 大事な対局があると御守代わりに持って行くのが習慣になった。



 今日は初戦であり絶対に負けれない対局である。

 その為、鞄の中にお守りとして将棋駒を入れた。



 笹倉は今日の試合の事が頭によぎると胃が痛くなる。

 これから負けることを許されない戦いに挑まなければならないのだから。



 今日の対戦相手は、最近、三段に上がって来た人物だった。

 実力も三段の中では下であり。

 普通に戦えば負けるはずがない相手だ。



 今回は対戦相手の棋譜を隅々までに渡って調べ上げてきた。

 負ける要素はないとすら思える相手であった。



 今日の試合は勝ち試合で。

 羽入、村山以外に敗けなければプロ棋士になれる道は十分残っている。

 そう自分に言い聞かせて平常心を保つ。



 心臓の高まりを落ち着かせ。

 身嗜みを整えてから戦いの舞台へと赴く。



 将棋会館に着くと。

 はやる心臓が抑えられなかった。

 今迄に味わった事のない。

 尋常でないプレッシャーに押し潰されそうになる。



 対局室に入ると対戦相手が既に待機していた。

 笹倉は軽く会釈してから座り。

 開始時間まで目を瞑っていた。



 対局が始まり。

 先手であるために駒を握ろうとすると。

 信じられないほど心臓が鼓動していた。



 異常なまでの緊張感が身体中に駆け巡り過呼吸になる。



 この試合は落とせない――。



 初戦でつまずいたら。

 勝ち残ることは非常に難しい。

 その為に負けるわけにはいかない。



 笹倉は今まで以上に無難で危険が少ない将棋を無意識的に打っていた。



 負けたくない、負けてはならない、負けられない――。



 勝ちたいと言う気持ちより。

 負けてはならないと言う感情が葛藤しており。

 弱弱しい将棋を打つ。



 それは、負け癖が付いた将棋であった。



 形勢が悪くなるにつれて。

 更に弱弱しい手を打つ。

 もはや誰が見ても決着は付いていた。

 笹倉は頭が真っ白になる。



 それは形勢が悪いからではない。

 こんな酷い将棋を指してしまった事に対してだ。

 勝ち筋が一切見えず。

 時間だけが過ぎ去る。



 打つ手がなく顔を上げると。

 相手は安堵している表情をしていた。

 勝ちを確信しているのだろう。



 その表情を見て、心が折れてしまう。



「……負けました」

 


 笹倉の口から重い一言が漏れた。



 相手は、ほっとした顔で立ち上がった。

 将棋盤を見ると。

 無様な将棋が並べられていた。



 笹倉は頭が真っ白になりながらも。

 午後の試合に勝てば良いと何度も心で唱え。

 


 冷静になろうと心がけるが。

 先程の惨敗を思い出して心機一転なんてできるはずがなかった。



 昼食の弁当も喉に通らず。

 箸を持ったまま放心状態になっていた。

 試合開始十分前になり。

 一口も食べなかった弁当をゴミ箱に捨てて試合に向かう。

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