最終話 努力の才

 会場を出ると母親だった女性が追って来た。

「驚いたわ。まさか、あそこまで上手くなるなんて。貴女にも、まだ才能があったのね」

 手の平を返したかのような低姿勢だった。


「才……能? まだ貴女は理解していないのですか」

 率直な意見を言う。

 才能なんて安いモノで、私は返り咲いた訳ではないからだ。


「そうよ。カサル先生に認められるのなんて才能がなければ出来ない事よ」

「……はあ。貴女には一生分からないでしょうね」

 私は女性を払いのけて帰ろうとするが手を掴んで来た。


「誰が貴女を育てたと思っているの! 貴女にどれだけのお金を賭けたと思っているのよ!」

 女性はヒステリックになりながら叫ぶ。

「お金ですか?」


「二千万円よ! 二千万! こんなにも大金を叩いたのに失敗したら憎くもなるわよ!」

 辺りにも聞こえるような声で叫んでいた。


「子供は貴女の玩具ではありません」

「私が生んだのよ。生かすも殺すも私にあるわ! 出来損ないの貴女が成功したのなら親の私に恩返ししなさいよ!」

 周辺の人達はどよめき始める。


「失敗したら捨てる母親を、私は母親だとは思いません。貴女は自分が出来なかった事を子供に押し付けているだけです。仮に璃音が失敗したら捨てて、また才能がある子供を養子に取るのでしょう」


「当然でしょ! 璃音も高校卒業までに有名な賞が取れなかったら、要らないに決まっているわ! ピアニストである私が育てたのに賞が取れないなんて出来損ないは要らないわ!」

 後ろにいる璃音はその言葉を聞いて蒼白していた。

 まさか、自分が捨てられる側に回るとは思っていなかったからだろう。


「……ピアニスト? 音大を出たことしか取り得がなく。大した賞も取れないで、父親の収入で生計を立てているのにピアニスト気取りですか?」

 私の言葉が逆鱗に触れたのか本気のビンタが顔に振りかかる。

 頬に大きな衝撃が響く。


「良いわ! ならお金を返しなさい! 貴女に当てた養育費の全て! 二千万円! さあ! 今すぐ返しなさい!」

 女性は私の胸元を掴んで鬼の形相で睨んでいる。

 すると誰かが女性の肩を軽く叩く。

 女性が後ろを振り向くとカサルさんがいた。

「えっ……」


 女性が何よりも尊敬していた人物が女性に向けて何かを話していた。

 翻訳の人が訳し始める。


「貴方は人間としても、ピアニストとしても未成熟だ。貴女は見たのか? 卒業式で同級生から交わされる心ない言葉を。貴女は見たのか? 就職を辞退して、バイトをしながらピアニストを目指すと言う茨の道を歩んだ彼女を。貴女は見たのか? 報われない練習をひたすらする彼女を。愚鈍と思えるほどの膨大な練習をし、この境地まで辿り着いた彼女に貴女は一体何をしたのだ?」

 その言葉を聞いて女性は膝から崩れ落ちる。


「……間違ってない。私は間違ってない。間違ってない。間違ってない」

壊れた人形のように同じ言葉を繰り返す。


 カサルは小切手に二千万円と書き女性の手に握らせる。

「彼女に二度と近づかないでくれ。貴女は親ではない。これは貴女が望んだお金だ。これで文句ないはずだ」

 翻訳の人が言うと女性は小切手を捨てて、走って消え去った。


 私は、今日の結果を咲慧に報告しに本屋に向かった。

 相変わらずシャッターは半分締まっており、シャッターを超えて声を出す。

「咲慧さん! いますか」


 照明が付き、咲慧が奥から出て来た。

「大きな声を出すな。聞こえている」

 何故か服装は綺麗な黒の洋服を着ていた。


「つ、遂にピアニストになれます!」

「ほう、それはめでたいな。何か御褒美でもやろうかな」

「これ以上、何も貰えませんよ。だって、私に売ってくれたピアノ。五百万円以上するの知ってますから」

「それは初耳だ。貰い物だったから値段を知らなかった」


「五年前は買ったと言ってましたよ」

「……」

「どうして、私をそこまで目にかけてくれたのですか?」


「……才能がなく、あがく奴を応援するのが好きでね。凡人が才ある者に追いつくのを見ているのが好きなんだ」

「そうなんですか」


 咲慧は少しばかり微笑んでから言う。

「そうだ。特別に君に教えてあげよう。才の中で一番、凄い才は何だと思う?」

「凄い才ですか? うーん全知全能とかですか?」


「……努力する才だ――」

「努力する才ですか?」


「万人が備わっている不便的な才であり、己の意志で大いに変貌する才だ。才を失った君が返り咲いたのも努力した結果だ。君は少なくとも一万時間を超える努力をしたはずだ。確かに、何でも努力で解決する事はない。だが、一万時間何かに費やす事に無駄ではないはずだ。得られる物が大なり小なりある」


「それって一万時間の法則の事ですか?」

「ああ。そうだ。プロになる者達は少なくとも一万時間努力していると言われているからね。君もそうだろう」

「……はい。大なり小なり得る者はありました」


「さて、明後日にもドイツに行くのだろう。早く用意して体調を整えなさい」

「分かりました。……今度、私が日本に帰って来て演奏会をする日が来たらチケットを送ります」


「それは楽しみだ。気長に待っておこう」

「……ありがとうございます。また、会いましょう」

「ああ、また会おう」

 私はそう言って咲慧と別れた。


 次に会うときは、一流のピアニストになった時だ――。


 店の奥から少年が出てきて咲慧に問いかける。

「咲慧。どうして、あの子の才が開花するって分かったんだい?」

咲慧は衣服のポケットからコンサートのチケットを机の上に置いてから答えた。


「彼女なら努力が継続すると確信したからだよ」

「いくら努力しても実らない事もあるだろう。どうして才がない彼女に努力を唆したんだと聞いているんだよ」

 咲慧は少年に目線を合わせ当然のように言い切る。


「一念岩をも通すと言う。彼女は人生の全てをピアノに捧げる覚悟があった。その不屈の精神が実らないはずがない」

「……成程。相変わらず人を見る目は僕よりも確かなようだね」

 少年は少し微笑んでから、冷たい目線で咲慧に言い放つ。


「でも、勘違いして貰っては困るよ。君の使命は人の夢を叶えることではない。超越者と成りえる者を選定し補佐することだ。残念ながら彼女は超越者に成りえることはない。ピアノの第一人者程度には名を憚すだろうが、その程度だ。世界を動かすには値しない。さて、聞きたいことがあるんだ咲慧。……どうして今の彼女から才を取り上げなかった?」


「相対音感の才がほしいのか?」

「惚けないでほしいね。……僕が言っている才は、感受の才のことだよ」

「……」


「たゆまぬ努力により、彼女の才が二つ開花した。一つは演奏の才。……そしてもう一つが感受の才――。自己の感情や思いを芸術、文学に乗せて他者に伝達する稀有なる才能。何故、感受の才を奪わなかった? 感受の才は是が非でも奪わなければいけない才だ。それなのに何故、奪わなかった? 僕なら数多の才を渡してでも感受の才を頂く。WIN―WINだからね。此方は稀有なる才が手に入れられる。彼女はピアノをアシストできる数多の才を手に入れ、さらに飛躍した演奏を奏でられる。どちらも得しかない話だ」


「……確かに彼女は超越者には成えまい。本人自身、世界を動かそうなぞと大それた考えも意思もない。だが、彼女はこれから世界を、人々を感動させる使命がある。それには感受の才が必要不可欠だ。彼女の演奏に感化された者がその道を選び、極めて何かを成し遂げるやもしれん。遠道になるやもしれんが、短絡的に奪うよりも良いと判断したまでだ」


「ふっ。相変わらず甘いね。育んだ才を奪うことに抵抗があっただけの話だろう。如何なる才を与えたとしても感受の才が奏でる演奏には及ばないだろうからね。……まぁ、良いさ。着実に才は増えているからね」

 少年は不敵な笑みを見せてから腕時計を覗き見て残念そうに呟く。


「おっと、少し予定があるんでね。そろそろ失礼させてもらうよ」

「二度と来るな」


「これは随分と弟子に嫌われたモノだ。ふっふふふ」

 少年は不気味な笑みをして消え去った。

 店内には少し思いつめた表情をした咲慧がいた。

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