第6話 一万時間
翌日の早朝に約束のピアノが届いた。
幸いなことにこのマンションは防音をしておりヘッドホンをすれば練習する事は出来た。
だが、防音と言え、ペダルを踏む音などで苦情がくるかもしれないと思い。
床に防音のマットを置いたり、様々な試行錯誤を行って翌日には練習できる環境を作った。
学校と内定した企業に内定辞退の謝罪をする。
内定辞退は早期だったために簡単に出来たが、担任からは猛反発された。
出来ない夢は追い求めるモノではない。
一般的に生きる道が一番幸せな道なんだと担任は何度も私を説得した。
私は深く担任に謝罪して、何を言っても説得できないと悟った様で溜息を吐かれた。
バイトしながら生計を立てると聞いた私をクラスの子は陰で嘲笑した。
才能がないと此処まで落ちぶれるんだ――。
心ない陰口を聞いて高校を卒業した。
私はスーパーのレジでバイトをしながらピアノの練習をした。
バイトが休みの日は深夜まで練習した。
始めの一年は苦痛だった。
自分の演奏では音の世界に入れないのは疎か、上達のペースが余りにも遅い。
想像以上に才能がない自分がいる事に痛感させられたからだ。
でも、私はピアノが何よりも好きだった。
この気持ちは嘘ではない。
それを糧に努力を積み重ねる。
アマチュアの定期演奏会に出て発表するが、余りにも不出来な演奏を行い。冷たい目線が痛かった。
昨年度の国内最高峰のコンクール優秀者がこんな稚拙な演奏を行う事に同情すらも与えられる。私に取ってその同情が何よりも痛かった。
同情されるために演奏をしているのではない――。
演奏会には母親と璃音もいたが、璃音は私よりも上手な演奏をして母は私に聞こえるように褒めまくった。
二年目になる、少しずつ、ほんの少しずつだけど音の世界に入っていけるようになった。
少しでも音域がずれると現実世界に戻されるが、紛れもなく自分の演奏で音の世界に入れたのだ。
その日は興奮して眠れなかった。
音の世界に貪欲にのめり込んでいく。
ここからは進歩が速かった。
いや、進歩が速いと言うより、練習時間が膨大な時間も積み重なっていた。
食事を忘れるほど練習を行っており、音の世界に一分一秒でも長くいようと必死だった。指が思うようにやっと動いてくる。
三年目になるとバイトと睡眠以外の時間は殆どピアノの練習をしていた。
定期演奏会でも人並み程度の演奏が出来るようになっていた。
だがプロの壁は厚く。その程度では到底かなわなかった。
四年目は壁を感じて中々上達できずにいた。
それでも自分が好きな事をしているのだ。
苦痛に感じることはない。
五年目になると壁を超えたようで演奏会で一番下だが賞を貰う結果になる。
少し、本当に少しだけ前に進んでいる気がした。
この時点で練習時間は軽く一万時間にも及んでいた。
絶え間ない努力の結果、ある一定の境地に達した気がした。
まるで才が戻った気がしたからだ――。
六年目の演奏会。
再びピアノの第一人者であるカサルさんの前で演奏できる機会を得た。
そこには母と璃音もいて、嘲笑するように私を笑ってからカサルさんに挨拶に出向いていった。
私は最後に挨拶に出向く。
カサルさんは眼鏡を拭きながら、ドイツ語で何か言われたが、意味が分からず一礼をして控室に向かう。
私の演奏は最後だった。
演奏に耳を傾けていると母親が私の前に来た。
「……貴女。まだピアノをしていたの」
軽蔑するかのような言動。
「してはいけませんか?」
「ピアノは才能がモノを言うの。貴女みたいな才能がなくなった凡人がピアノを触るなんて何て浅ましい」
母親の言動とは思えなかった。
だが、その言葉に何の反応をしなかった自分に何より驚いた。
「アンタの魂胆なんて分かっているわ。どうせ、同情を貰うために演奏に出たのでしょう」
母が侮蔑する様に言うと、母の後ろから璃音が出て来て鼻で笑いながら私を野次る。
「言っちゃ悪いけど。貴女、才能ないよ。五年前の演奏は本当に酷かった。お遊戯会かと錯覚したよ。さっさとピアノ止めたら? 誰も貴女の演奏なんて聞きたくないのよ」
「…………」
私は、その罵声の全てを受け入れた。
何も言い返さない事を良い事に、満足するまで散々なじってから消えた。
私は感情が全く揺れない自分がいて驚いた。
璃音の演奏が始まる。
高校生にしては飛び抜けた上手さがあった。
皆がその音色に魅了される。
その演奏は着実であった。
減点方式の採点なら殆ど満点な出来の演奏を奏でる。
だが、その演奏は耳が壊れた直後の私と同じ様に感じた。
音の世界に入れない演奏だからだ。
璃音の演奏には楽しむと言う余地が見えない音だった。
まるで母がメンテナンスした機械が演奏した音楽に聞こえた。
この演奏を聴き、私と璃音の音楽が全く違うことに気付いてしまう。
私は自らの世界に入って楽しむために上手くなった音楽――。
璃音は優越感に浸りたいから上手くなった音楽だからだ――。
以前に璃音の高校の噂を聞いた事がある。
それは吹奏楽部のピアノ経験者達を馬鹿にして全員退部させたと言う噂だ。
この演奏を聴いて、そう噂は本当であると確信した。
璃音の演奏を聞き終え、次は私の出番だった。
私が最後を締める形になる。
「それでは本日最後の演奏者、古村響さんです」
私の名前が呼ばれた。
六年前のように心臓をバクバクさせながら歩いて行く。
一礼して椅子に座る。
鍵盤を見ると妙に落ち着き、笑みすら漏れた。
さて楽しもう。
鍵盤に触れると流れるように指が動き始める。
指が動き始めると、私は審査を忘れて普段通りに音の世界に入る。
鍵盤の一つ一つが生き物である。
私はこの子の音を導き、繋ぐ案内人。
私は一音、一音を愛おしむように演奏していた。
そこには私だけの世界があった――。
私の演奏に目を瞑って真剣に陶酔する人もいた。
自分が楽しめない演奏に誰が感動するのだろうか。
自分が感動出来るから人を感動させられるんだ――。
名残惜しく、最後の鍵盤を押した。
反響した音が消え去り、ゆっくりと指を戻すと。
盛大な拍手が会場中に響き渡る。
私は微笑んで立ち上がった。
私の演奏に感動してくれる人がいる。
私にとってはそれだけで十分だ。
これが私の演奏――。
これが私の世界なのだから――。
賞の授与式が始まる。
カサルさんが片言の日本語で言う。
「コムラヒビキ」
私の名前が呼ばれた。
会場中に拍手が響き渡る。
私は六年ぶりにカサルさんの前に立った。
カサルさんはマイクを持ちドイツ語で何かを言っていた。
そして翻訳の人が日本語に変換して言う。
「私は六年前からずっと見ていた。故障した貴女の演奏を、そして苦難にもめげずに此処まで戻って来た君に惜しみない賛辞を送ろう。出来れば、一緒にドイツに来て貰いたい。私の弟子として学んで欲しいのだ」
私はその言葉を聞いて溢れる涙が止まらなかった。
「よ、よろしくお願いします!」
私は深く一礼をしてチケットを受け取った。
会場を見回すと惜しみない拍手に迎えられる。
璃音は受賞すらできずに、私の演奏の結果に面を食らっていた。
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