第5話 音楽を愛する才能

 私は小さなマンションの一階にいた。

 家賃は五万円。このお金も再来月から自分で払わなければいけない。

 私は部屋の中で一日中考えていた。


 これからどう生きるのかを――。

 

 担任が斡旋してくれた銀行で働けば終わる話であるが、卒業した先輩から銀行の仕事を聞いたら、数年はピアノを弾く時間なんてなかった。

 

 就職する事は自分のピアノ人生とも別れることになる。

 だが、そのピアノの腕も中学生以下に落ちぶれた。

 

 答えは出ている。

 

 銀行に就職して。

 一般的な人生を送ることだ。


 それに銀行職に付けるのも学校の先生が私の事を必死に推薦してくれたからだ。

 此処で断るとまともな正社員の仕事に付くことは難しいだろう。

 

 雑念に囚われていると日が暮れており。

 空腹の音が鳴り響く。

 昨晩から何一つ食べておらず。

 身体が食べ物を必死に求めていた。


 私は悶々とした考えのまま夕食を買いに外に出た。

 夕明かりが私を照らしつける。


 少し歩いていると、あの半分シャッターが閉まった本屋があった。

 引っ越し先がまさか、こんなにも書店に近くなるとは思ってもなかったため少し笑みが漏れた。

 耳が良くなった報告の為に中に入る。

 

 中に入ると蛍光灯の明かりが点き。

 店主の女性が出てきて冷たい声で言う。

「……何の様だ。前に行ったが才を返すことは出来んぞ」

「いいえ。お礼を言おうと思って来ました」

「お礼だと?」

 女性は面を喰らった顔をしていた。


「ええ。音の世界に再び戻る事が出来ましたから」

 私は屈託のない笑みで言うと、女性は神妙な面持ちで口を開く。


「……だが、才がなくなった君の腕ではピアノで生計は立てられまい。耳の故障を隠して生きていく選択肢の方が楽な人生ではなかったのか?」


「ええ。そう言う選択肢もありました。ですが、私にとってそれは何よりも辛い。私は音楽だけには嘘を付きたくありませんから」

 私はこの選択肢が間違っていたとは到底思えなかった。


「……そうか。不器用な生き方を選ぶのだな君は」

「ええ」

 すると、私のお腹の音が鳴り響く。


 恥ずかしさで頬が赤くなった。

「ふっ。良ければ夕食をご馳走しよう。奥に入ってくれ」

「えっ」

「遠慮するな」

 女性に招かれて奥の部屋に入る。


 そこは畳で敷き詰められた居間であり、中心には円形の和式のテーブルがあった。

 まるで田舎のお婆ちゃんの家の様なおっとりした部屋であった。

 座布団の上に正座して座っていると。

 

 台所から料理を持ってきた。

 彩り鮮やかな中華料理が大量に出て来る。

 炒飯に餃子、酢豚、麻婆豆腐、チンジャオロース。

 とても一人分の量ではない。数人分の料理が出て来た。


「まあ、遠慮せずに食べなさい。一人では味気ないからな」

 そう言って、私の前に箸と取り皿を置いて向かい合うように座った。

「では、頂きます」

 女性は手を合わして一礼してから食べ始めた。


「い、頂きます」

 私も遠慮がちに食べ始めた。

 お腹が空いていたために物凄く美味しく感じる。

 いや違う。


 本当に美味しかった――。


 今迄に食べたことがない食材の味わいに驚かされる。

 餃子の絶妙な焼き加減と言い、この歯応え。

 手作りが成せる逸品がそこにあった。


 酢豚に手を伸ばしてみると、甘酢のアンが程よく舌を刺激し。

 主食の炒飯を駆り立てる。

 高級中華料理を食べた事はあるし、舌は肥えている私の舌を唸らせる絶妙な中華料理だった。


 食べている途中で、まだ名前を聞いていないことに気づき尋ねる。

「そう言えば、お名前は何というのですか?」

「咲慧だ。君の名は確か、古村響だったかな。以前、君のインタビュー記事を見たから覚えている」

「さえ、ですか? 変わった名前ですね」


 私は気が付くと夢中で食べており、会話も少なく食事が終えた。

「お、美味しかったです」

 私は正直な感想を述べると。

「それは良かった。気に入ってくれて嬉しいよ」


 咲慧はそう言うと食器を洗い場に持っていくので、流石にタダ飯を食らったまま帰れず皿洗いを率先する。

「片付けは私がします」

 私は食べた皿を洗い場に持って行く。

「そうかい。なら任せるよ」

 咲慧は壁にもたれ掛り本を読み始めた。


「任せてください」

 私は食器と中華鍋を洗い始めた。

 台所を見ると綺麗に整頓されており、キッチン台に置かれている調味料が殆ど中華料理に使う味付けだけであったに驚かされる。

 包丁もまな板も、中華用の特注品であった。


 十分近くかけて皿洗いを終え、居間に戻ると咲慧は本を読んでいた。

「終わりました」

「ああ。有難う」

「……では、そろそろ失礼します」


「まあ、待て。少し悩んでいるようだな。良ければ相談に乗るが」

「えっ?」

「顔を見れば悩んでいるのが分かる。才の交換はもう出来ないが相談位は乗ってやる。そこに座れ」

 咲慧は読みかけの本を閉じて立ち上がった。


 私は言われるがままに先程まで座っていた座布団の上に座る。

「さて、お茶と紅茶のどっちが良い?」

 咲慧は台所から尋ねる。

「こ、紅茶で」


「では、少し待っていてくれ」

 咲慧は入れたての紅茶をテーブルの上に出した。

「ありがとうございます」

 紅茶を飲むと少し落ち着いた気がした。


 咲慧は私の目の前に座り、軽く紅茶を飲んでから問いかける。

「さて、君は何に悩んでいるんだ? 聞いたところ才を失った事に悩んでいるのではなさそうだな」

 私は少し伏し目がちになって不安を吐露するかのように口を開いた。

「……このまま就職するのが本当に良いのかと悩んでいて」

 このまま就職する事の不安を事細かに伝える。


 咲慧は真剣に聞いており、頷いたりして私の思いを吐き出しやすい様に聞いてくれた。

「ふむ。そう言う悩みか。難しいな。無難に生きるなら銀行に就職する事だな」

「……はい」

「だが君は、その生き方を拒んでいる。そうだろ?」


「……え、ええ」

 まるで心の底を覗かれているかのように感じる。

「ふむ。では聞こう。君は何をしたいのだい?」

「…………」

 様々な思いが頭を過ぎる。


 私がしたい夢はもはや届かない。

 遠い。

 遠い夢。

 だけど分かる。

 

 私がしたいのは――。


 私が本当にしたいのは――。


「……ピアニストになりたい」

 私は裾を強く握り締め。

 涙を流しながら声を出していた。


「なら目指しなさい」

「……えっ」

 余りにも早く、余りにもあっさりと迷いない返答に驚かされる。


「答えは簡単だ。やりたい内容を両天秤にかけて、思いが強い方を選べば良い。傾いた天秤に悩みを入れるから選べなくなるんだ」

 咲慧は背後に置かれていた天秤を取り出して私の目の前に置いた。


「天秤が平衡になる事は決してない。ただ天秤が傾くと、不安要素を詰め込み。平行に戻すから答えが出ないんだ。君には答えが出ている。ピアニストになりたいと言う答えが」

 そう言って片方の天秤にピアノ玩具を置く。


 天秤が傾く――。


「もう一方の天秤にピアニストになれなかった場合の不安。失敗した時の収入源。それら不安材料を入れて平行に戻しているから答えが出ないのだよ」

 そう言って、角砂糖を反対の天秤に数個置いた。


 天秤は平行になって制止する――。


 その平行になった天秤は、私の悩みの原因を指し示すかの様だった。

「……でも、でも、私にはピアノの才が」

 眼から涙が溢れて鼻水も出る。

 

 感情を人前で出すことは今迄なかったのに溢れ出る感情を止めれなかった。


 母親に捨てられた際にも涙は見せなかったのに、咲慧の前では此処までも感情を吐露する自分がいた。


「才がどうした? そんなモノに頼らなければ君はピアニストになれないのか? 違うだろ。君はピアノが好きでピアノを弾き始めたはずだ。切掛けは親の押しつけかもしれないが、君はピアノを何よりも愛していた。その愛は才能だけで育まれたモノでは決してないはずだ!」

 咲慧は叱咤するように私の眼を真剣に見つめて説く。


「……う、ゔん!」

 私は、くぐもった声で力強く返事した。


「才ある者が百の努力すれば、君は千の努力をすれば抜かすことは出来なくとも追いつくことは出来るはずだ」

 咲慧は私の肩を掴んで真剣な目で言う。


「君には才能より大切なモノを持っている。それは一長一短で得られる才ある者には気付かないモノだ。……一度、全てを失った君なら分かるだろう」


 才よりも大切なモノ。


 才を捨てても、これだけは捨ててはならない大切な、大切なモノ。


「……音楽を、音楽を愛する心です」


「分かっているのなら、それで良い」

 咲慧は柔和な笑みを見せて頭を撫ぜてくれた。

「……ありがとうございます」

 私は眼から溢れる涙を拭いて立って深く礼をした。


「礼はピアニストになってからで良い。……そうだ、店頭に置いてあった。あのピアノを君に授けよう」

「えっ! そこまでして貰わなくても」

 以前に触ったグランドピアノは百万円してもおかしくない出来であったために、流石に戸惑う。


「なら買ってくれ。あのピアノは使わなくてね」

 遅かれ早かれピアノを買う予定だったため、咲慧の提案は魅力的であった。

「い、幾らで売ってくれるのですか」

「無償でも良いのだがな」

「いいえ。こんな高価な物、無償で貰えません」

「そうか。……なら君が今度働いた給料の一割でいいさ」

「……わかりました」

「なら、明日にでも送るから住所を書いてくれ」

 咲慧に住所を書いた紙を渡すと、頷いて受け取る。

「さて、日が暮れて来たし。帰りなさい」


 咲慧に入口まで迎えられて半分閉まったシャッターを超えた。

「ありがとうございます」

 深く礼をすると咲慧は微笑んで言う。

「次に会うときは君がピアニストになったときだ」

「はい!」

 臆面もせずに返答した自分に驚いた。

 無意識的にもピアニストになろうと心が変わっているのだから。


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