第3話 咲慧

 学校の授業が終わると家に変えるのも億劫なため目的もなく自転車をこいでいた。

 今までは学校と家の往復だったため、見知らぬ場所に訪れることに新鮮味があった。


 普通の女子高生なら友達と買い物に行ったり、遊びに行ったりするものだが、ピアノ漬けだった私には友達と言う友達はいなかった。


 だから、一人寂しく見知らぬ街で自転車を走らせていたのだ。

 目的もないために何をして良いか分からず。景色だけが移り変わる。


 ふと、脳裏に霞めるのは音の世界についてだけであり、ピアノに未練があるのを無意識的に思い出された。

 二時間近くも自転車で彷徨っていた為に夕日が落ち始める。


「もう、そろそろ帰らなきゃ。……帰りたくないなぁ」

 重い溜息が漏らして自転車を走らせていると、目の前には古びた書店があった。


 シャッターが半分閉まっていたため閉店していると思っていたが、店内はライトがついていたために気になり、書店の前に自転車を止めて中を覗いた。


 店内には音楽関係の本だけが並べられており、店内の奥には高価そうなグランドピアノが置かれていた。


戸惑いながら店内を覗いていると、店の奥から美人な女性が現れた。

「いらっしゃい。遠慮せずに入ってきたまえ」

 女性はそう言うと、椅子に座り本を読み始めた。


 恐る恐る店内に入る。そして本棚を見渡すと、私が好きな音楽家の半生が書かれた本があったため手に取った。

 本を流し読みしていると女性に声をかけられる。


「君はピアノを弾いているのかな?」

「ど、どうして分かるんですか?」

「指を見れば分かる。……良ければ一曲、弾いてくれないか? 少し前にピアノを買ったんだが、私自身、弾いた事がなくてな。このまま放置するのも余りにも勿体ない」


 女性は店奥に置かれていた高級そうなグランドピアノを指差した。

 そのピアノは国内では滅多にお目に掛かれないほど高価なピアノだった。

 こんな寂れた書店にあること自体、異質に感じるほど高級なモノであった。


「……私の演奏なんか聞いても面白くありませんよ」

 音の世界に入れないため、人様に自分の演奏を聞かせる事に抵抗を感じる。

「面白いかどうかは私が決めることだ。君はいつも通りに弾けばいい。それに、そのピアノも君に弾いて欲しそうだぞ」

 女性は私ではなく、グランドピアノに目線を当てて話す。


「……一曲だけですよ」

 私は女性に押されて渋々とピアノを弾くことを受け入れた。

 グランドピアノには埃がなく、使っていないと言った割には手入れが整っていた。

椅子に腰かけ、呼吸を整えてから鍵盤に触れる。

久しぶりに弾くピアノ。


 だが、身体は覚えており自然と指は動いて演奏を始めた。

 演奏曲は以前の演奏会で優勝した曲であり、カサルさんにも認められた曲。

 依然と同じく指や、ペダルを踏む足は動くが、前回の演奏とは明らかに格が落ちていた。

 

 音楽に重要なモノ。

 致命的な何かが足りない。

 そんな演奏だった。

 

ピアノを弾き終ると、女性は軽く拍手をして私の演奏を褒める。

「ふむ。実に上手い演奏だった。聞いていて心地が良かったぞ」

「こんな演奏が心地いいのですか?」


「ああ。十二分に上手い演奏だ」

「……上手い、ですか」

 素人騙しの演奏をしていると思い。皮肉的に言ってしまう。


「そんなに弾けるのに、何故、留学を諦めたんだ?」

「留学って? 私のこと知ってるのですか?」

「周辺の本を見てみろ。ここは音楽の本しか扱っていないのだぞ。国内で注目された音楽コンクールの優勝者を知らないはずがないだろう」


「……それもそうですね」

「詮索する様で悪いと思うが、良ければ君が留学を辞めた理由を話してくれないか?」

「……留学を辞めたのではありません。ピアノを辞めたのです」


「おや、どうしてだ? それだけの才を捨てるとは」

「本当の事を言って下さい。さっきの私の演奏。感動出来ました?」

 女性の目を見つめて本気で問いかける。


「感心はした。だが、感動には程遠いな」

 女性は臆面もせずに言い切った。

「正直な方ですね。……そうです。こんな演奏がいつまでも通じるわけがない。だからピアノを辞めたんです」


「何かあったのかい?」

 女性は神妙な面持ちになって問う。あまり言いたくなかったが悩みを聞いてくれる人もいなかった為に、初めて弱みを吐露してしまう。


「み、耳が故障して、音の知覚が殆どできなくなりました。今まで、味わっていた音の世界にもういけないんです。こんな耳で人を感動させられるはずがありません」

 私は自嘲気味に笑ってしまった。


「ふむ。なるほど。そういう訳か。それでピアノを辞めると言うんだな」

 女性は何かを考えるように口元を手に当ててから私に問いかける。


「もし……もしもだ。君がピアノの才能、そして今までの努力を無にすることになってでも耳が治ると言うのなら、君は、その道を選ぶかい?」


 女性の質問は余りにも現実味もなく。一瞬ふざけているのかと思った。

 だが、女性の目を見てみると本気であり、私自身、この質問に対して本気で返答しなければならないと本能的に察知する。


「……え、ええ。もし耳が治るのなら、才でも努力でも何でも捨てます」

 私は思っていることを率直に言う。


「後悔はしないか? 耳が治っても今までのような演奏は一切出来なくなる。それだけじゃない。いくら練習してもかつてのような演奏が出来なくなる可能性もあるんだぞ」

 女性は私の覚悟を計るかのような質問をする。

だが、答えなんて自分の中でとっくに出来ている。


 音の世界が私の全てなんだ――。


「後悔しません!」

「……ふむ。良い眼だ」

 女性は少し微笑むと、表情を戻した。


「私は君の才と引き換えに、耳を以前の様に治す事が出来る。……と言ったら君は信じるかい?」

「ど、どういうことですか?」

「君の才能と引き換えに、相対音感の才を譲ろうと言ってるんだ」


「で、でも、耳に異常があるのにそんな才を貰っても……」

「この程度の障害なら才でカバーできる。医療では残念ながら難しいがな」

 女性は当然のように言い切った。


「そ、相対音感の才ってなんですか?」

「音域の違いを区別する才能だ。普遍的に備わっているモノが才として昇華したモノで、あまり稀少でもない。君が持っている才能と比較にすらならないほど他愛のない才だよ」


「わ、私には相対音感の才は備わってないのですか?」

「備わってない。仮に備わっていたら、耳の異常を才で補っている」

「……」

「さて、どうする? 君の持っている稀少な才と私が渡す凡庸な才との交換に応じるかい?」


「……私が持っている才って何なのですか?」

「悪いが言えない。だが、君なら気付いているだろう。……才を交換すると君が今まで積み上げてきたモノを全て頂く。これは等価交換じゃない。明らかに君に取っては損しかない話だ。才を交換すれば君は想像する以上に苦悩するだろう。よく考えてから返答したまえ」

 女性は最終通告のように発した。


 だが、私の中では答えは出ている。

「……才の交換に応じます。私にとって、音の世界が全てですから」

「才は返還できない。それでも受けるかい?」

「ええ」


「了承した。君の覚悟、見届けさせてもらおう」

 女性は何か呪文の様な言葉を詠唱し始めると、片手に半透明な本が浮かび上がってきた。


 女性はゆっくりと、その本の中心部に手を当て呟く。

「……八九代目、咲慧が赦す。我が命じる才を銘記せよ」

 女性がそう唱えると、半透明な本にタイトルが浮かび上がる。


 相対音感の才と書かれた半透明な本が私に渡された。

 私は恐る恐る本を開けると、中には何も書かれていなかった。だが、身体が、本能が何かを読むかのように必死に食らいつく。


 目が、見えない文字を追っていく。

 数分で最後まで読み終えると、私は気を失った。


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