第2話 崩れゆく才

 深く寝ていたためか身体の調子が良いように感じた。

 時刻を見ると既に十時であり、学校には大遅刻だった。

 眠りが深かったのか目覚ましのアラームにも気付かないとは不覚だ。


 急いで学校の用意を始める。

「……どうして起こしてくれなかったんだろう」

 母さんに自然と愚痴が漏れたが、母としては先日の大舞台の翌日な為に休ませたかったのだろう。

 リビングに行くと母は掃除機を持っていた。


「母さん。学校に行ってくるね」

 母は私の方を向いて、溜息を吐いてから呆れながら何かを言っていた。

「…………」

 口元が動いているが何を言っているのかが聞き取れなかった。


「もう少し声出して言ってよ。聞こえないよ」

「………!」

 母はピアノ練習室を指差して怒った為、昨日、片付けずに寝た事を怒っているのだろう。


 でも、母の言葉が殆ど聞こえなかった。

 真剣に母の声に耳を傾けようとするが、音が一切聞こえなかった。

 この異常な状況に否応なく気づかされる。


 耳が聞こえなくなっていることに――。

 

 膝から崩れ落ちて蒼白する。

「……耳が聞こえない」

 鬼気迫った表情で両耳を触っている私の異常に気付いた母は、すぐさま病院に連れて行った。


 大学病院に着き、診察まで待合室で待たされる。

 母は私の事を心配していると言うより苛立っている様に感じた。

 十分近くの待ち時間が終わると、呼ばれたようで診察室に連れて行かれた。

 

 温和な男性が診察してくれる。

 先生が何を言っているのかが聞き取れない。

 深刻な顔をして筆跡で意思疎通を始めた。

 

 そして耳の中を見て貰うと、異常があったらしく小難しい名前の症状を紙に書かれた。

 一応、手術さえすれば直ぐに回復する病気らしく安堵した。

 

 しかし音が昔と同じように聞こえないかもしれないと念を押された。

 一週間後に手術が行われ無事成功した。

 前と同じく普通に人の声が聞こえた。


 これで、再びピアノが弾けると言う喜びが何物にも代えがたい喜びだった。

 自宅に戻りピアノを弾き始める。

 傍から見れば綺麗に弾いているピアノ。


 音の交響曲が人の感性を奮い立たせる。

 母は演奏を聴いて安心したように立ち去るが、私は冷や汗が止まらなかった。

 

 音が正確に知覚出来ない――。

 

 音の細かな幅が全く掴めなかった。

 鍵盤の一つ一つが全く別の音を鳴らし、同一の音なんて何一つないのに音程が近い音が殆ど同じに聞こえる。

 

 自分の演奏は、まるで出来の悪いカセットテープの音楽を聞いているような気分だった。

 余りにも自己の演奏が気持ち悪くなり、直ぐに弾くのを止めて有名ピアニストの演奏CDを聞いた。


 だが、何が素晴らしいのかが分からなかった。

 自分の中にあった、音の音域が壊れていたのだ。

 必死になって耳を傾けるが、以前のように聞こえない。

 

 そして同時に病院の先生が言った意味が分かった。

 前と同じ音が聞こえないのはなく。

 一度壊れた耳では聞くことが出来ないのだ。

 

 こんな耳では、音の世界に入り込むなんて不可能だった。

 先の演奏が母が満足したのは、身体が覚えているから弾けるだけであって、知らない曲を弾いて練習する事は不可能だと悟る。

 

 耳は治ったけど失ったモノが大きすぎた。

 所持していた音感を失ってしまい。

 音の幅が全く掴めなくなってしまったのだ。


 音楽に携わる仕事に付くことは疎か、趣味で嗜む事も出来ないほどの状態に陥る。

 私は逃げるように自分の部屋に戻って泣きながら布団の中に逃げた。


 次の日になると母は新しい楽曲の練習を求めて来た。

 母に耳の異常を伝えたかったが、厳格な母のため耳の異常が治っていないと知ると怒られると思って中々言えなかった。


 母の目の前で新しい楽譜を見ながら演奏する。

 楽譜通り、母の指示通り正確無比な演奏が部屋中に響き渡る。

 壊れた私の耳には、音の世界に入れず。


 楽譜通りの、母の指示通りの機械的な演奏をせざる負えなかった。

 母の顔を見るのも怖く。一心不乱に間違わないように演奏した。

 演奏が終わり、恐る恐る母の顔色を見ると母は満面の笑みだった。


「いつも以上に素晴らしいわ。非の打ち所がない演奏よ」

 母は拍手して私の機械的な演奏を褒めてくれた。

 自分は、この演奏の良さが分からない。


 まるで機械が演奏してるかのような業務的な演奏。

 まるで光る鍵盤を押すだけの誰でも出来る作業。

 そんな否定的な感情しか湧いて来なかった。


 私は一心不乱にピアノを演奏し続けたが、余計に自分を追い詰める結果に終わる。


 音の世界は壊れたと確信に変わったのだから――。


 一週間が過ぎ去り、耐え切れなくなった私は母に耳の異常が治りきっていないことを打ち明けた。

「母さん。私、以前の様にもうひけない」

 私は恐る恐る言うと、母からは取るに足らないような返答が返ってくる。


「どうしてかしら? 以前よりも上手くなったと思っているのに」

 母にとっては機械的に演奏している方が綺麗に聞こえるようだ。

「だ、だって、音の幅が知覚できないもん」

「ええ。そうでしょうね」


「えっ?」

 母の返答に驚いた。

「先生から聞いてるわよ、以前の様に耳は聞こえなく可能性があるってことぐらい」


「し、知ってたの?」

「ええ、始めはかなり心配したわ。でも、その結果、貴女の演奏は寧ろ上手くなった。今まで自分勝手に弾く部分があったけど、その部分がなくなったのよ。耳が故障したのは結果的には有難いことよ」


「そ、そんな!」

「良い? 貴女は何も考えずに私の命令通りにピアノを弾いていればいいの。それがピアニストになる一番の近道なのだから」

「……わ、私には、もうピアノは弾けない」


「どうしてかしら?」

「音の世界に入れない! 音楽が一切楽しくない!」

「音の世界? 変なことを言うわね。良い機会だから言っておくわ。ピアニストとって大切なのは自分ではなく他人を楽しませる事。自分の観点でしか演奏できない貴女にとっては良い薬になったでしょう」


「……」

「馬鹿な事を言ってないで、早く練習しなさい。これから、カサル先生の元で学ぶのだから、まだまだ不出来な演奏の貴女をこのまま送るのは恥ずかしいわ」

「……行かない」


「……何を言ったのかしら?」

「行かない! こんな状態でピアノを弾くのは音楽に対する冒涜だよ! 自分が楽しめない演奏で……」

 その瞬間、頬に激しい痛みが走った。


「音楽に対する冒涜? 何を言っているのかしら? 私に対する冒涜でしょうが! 今まで自分勝手に弾いて来たのをどれだけ私が我慢してあげたと思ってるの! 賞を取ってるから甘く見てあげたけど、貴女が優勝したのも、貴女の演奏が認められたのではないの! 他の演奏者の実力が低かっただけ! 私の時代なら賞すら取れない程度の実力よ!」

 母は激昂して今までの不満を私にぶつける。


「……」

 私は何も言えずにただ母を睨むしか出来なかった。


「貴女は昔から変に頑固なところがあるわね。……いいわ。もう、貴女には期待しない。音楽を辞めるのなら好きにしなさい」

 母はそう言うと興味なさそうに私から目線を外した。


 その日から母との会話は最低限なモノに移り変わった。

 学校に行くと私が耳の故障によりピアニストになる夢を捨てた事が広まり、表面上では同情するように話しているが、奥底では嘲笑している部分が見えて辛かった。


 担任は私に対しては真剣に向き合ってくれ、高校卒業間際だと言うのに就職先を必死に探してくれた。先生の紹介もあり、一カ月で地元銀行の就職が決まった。


 周りに流されるままに一カ月の就職活動が過ぎ去った。

この間に音楽を弾くことも聞くことも一切なかった。


人生を決める状況で、まるで他人事のように動いている自分に何よりも驚いた。


 音楽がない私の存在って、なんて空虚なんだろう――。


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