第二章 ピアニストの非才

第1話 演奏の才

 控室の一室で高まる心臓を抑えるように深く呼吸して気持ちを落ち着かす。

「……大丈夫。普段通りすれば絶対に成功する」

 自分自身に言い聞かせるように私は呟いた。


 自己暗示が効いたのか、少しだけ気持ちが落ち着く。

 普段から人前に立つ機会が多いために緊張には慣れているが、今回は流石に緊張が隠せなかった。


 と言うのも、今回のコンクールにはドイツから音楽界、第一人者のカサルさんが来ているからだ。


 もし、その方の目に留まればドイツの名門音楽大学に推薦されるだけでなく、弟子入りも夢ではないため普段以上に心臓が高まっていた。


 これからピアノを発表できると言う高揚感と失敗してはならないと言う不安感に襲われて気が気じゃなかった。


 前奏者の演奏が終わったようで舞台を覗いてみると、舞台の中央で深く一礼するのが眼に入る。


 演奏が終わるのが早く感じる。

 それ程までに時間が経つのが早く感じた。

 数分後に司会の人にマイク越しに私の名を呼んだ。


「次の演奏者は古村響こむら ひびきさんです」

 深呼吸してから舞台の中心まで冷静を装って歩いていく。


 審査員席を見てみると審査員の中に外国の方が多くて萎縮してしまう。

 動揺を顔に表さないように笑みを見せて椅子に向かって歩き、椅子に座るとゆっくりと鍵盤を見た。


 呼吸が整うと、自然と指が鍵盤に向かう。 

 指が動き始めると自然と足も動き始めた。

 綺麗な音が会場に響き渡る。


 そして同時に自分の世界に入っていった。

 音楽の世界に入り込むと私は怖いモノなしである。

 音楽の世界に入り込むと失敗したことがないからだ。

 

 此処が私の世界――。


 此処だけが私を表現できる最高の世界。

 二章に入る頃には私は審査されている事なんか頭の中から吹き飛んでおり気持ちよく演奏していた。


 この鍵盤の感触に、音の響き。

 音が反響する気持ち良さ。

 身体中に快楽を与えられる。


 緊張なんて忘れ去り、ただあるがままに演奏した。

 唯一、恐怖があるのならこの世界を邪魔される事だけであった。

 

 長い演奏にも終わりが迎える。

 終わりたくないのに、楽譜は終章へと向かっていく。

 

 名残惜しく、一つ一つの音を噛み締めるように鍵盤を押す。

 最早、ピアノは私の一部である。

 引き間違えるなんて有り得ない。


 そして、最後の音が反響して消え去ると、数秒の静粛の後。

 盛大な拍手がこちらに向かって来た。

 惜しみない拍手が沸き上がる。


 審査員からも満悦の笑みで惜しみない拍手をしてくれた。

 私は審査中であった事を思い出して立ち上がり、慌てて一礼して舞台から去った。

 控室に戻ると一気に緊張が戻って来た。


 あるがままに弾けたのか急に不安になってくる。

 音楽の世界に入ると空間が乖離されたように感じており、周りの景色も音も一切聞こえなくなる。その為、自分の演奏を客観的に捉えることは難しい。


 一抹の不安を抱いて悩んでいると、ピアノの先生でもある母が私の元にやって来て手を掴んだ。


「素晴らしい。流石、私の娘だわ。カサルさんにも好印象を与えられたに違いないわ」

 母が珍しく頭を撫ぜながら褒めてくれた。


 普段褒めない母であるため、それ程までに私の演奏は満点に近かったのだろう。

 結果が出るまで時間があるため、控室から他の人の音楽を聞いていた。


 ピアノは千差万別の音を出してくれると言うが、私には細かな違いはよく分からない。

 私に分かるのは音の世界に入れるか、入れないかだけであった。


 このコンクールに出られるのはプロばかりで、アマチュアでも出られるのは最高峰の方々だけであり、聞いていても心地が良い演奏ばかりであった。


「……なんて素晴らしい世界なのかしら」

 演奏を聞いていてふと漏らしてしまう。

 この音だけの世界は嘘を付くことも、人を傷つけることも出来ないため素晴らしい世界だった。


 音楽は嘘を付けない。


 努力したかどうかは演奏だけで分かる。

 そして何よりも必要なのは音楽愛。

 これさえあればいくら下手でもそれなりに大成する。

 

 逆に才能があろうが音楽愛がなければ未完に終わるのだ。

 全ての演奏が終わり優秀な人物の名前が呼ばれる。

 音楽会の権威者である、カサルはマイクを持ちカタコトの日本語で名前を言う。

「コムラヒビキ」

 私の名前が呼ばれた。

 

 心臓が飛び出る思いになり、一瞬意識が飛びかける。

 ピアノの権威者に認められるなんて夢のまた夢に感じたからだ。

 私はゆっくりとカサルさんの前に行き、トロフィーを貰い受ける。

 固く握手をした。

 

 興奮が冷め止まない。

 他の人の受賞が終わり控室に戻ると、カサルさんは私の元に来てドイツ語で何かを言っていた。言い終わると側にいた通訳の人が訳してくれる。


「大変素晴らしい演奏だった。もし国外の大学で学び、ピアニストになるのだったら私の元に来なさい。ウィーン大学の推薦をあげよう……と申しています」

 自分の望んでいる大学だったので即座に返答した。

「よ、宜しくお願いします!」


 私は深くお辞儀すると、カサルさんは悠々と帰って行った。

 その日は、もうあまり覚えていない。

 興奮して祝賀会で色々な人と会話したが上の空だった。


 家に帰宅して絢爛豪華な衣装を脱ぎ去りベッドに飛び込んだ。

 ウサギの人形を抱きしめて今日の内容を報告する。


「うふふ。遂に、遂に認められちゃった。本当に信じられないよ。夢じゃないよね?」

 ウサギのヌイグルミに話しかける。


 ウサギの頭の部分を持って裏声で返事させる。

「うんうん。君の努力が実ったんだよ。来年からはウィーンで一流の人達と演奏できるよ響ちゃん」

 興奮が冷め止まずにヌイグルミに頬で擦りつけて、この喜びを噛み締めていた。

 

 達成感が凄かったために興奮して眠れずピアノ部屋に向かう。

 時刻は深夜であった為に、イヤホンをして演奏を始めた。

 此処だけが私の世界。

 誰もが癒される幸福な空間。

 

 私は自ら弾くピアノの音に酔いしれていた。

 三大欲求よりもこの音の響きが私を癒してくれる。

 気が付くと時刻は深夜三時になっていた。

 

 明日、学校もあるため最後に名残惜しく弾いていると急に耳に違和感を抱く。

 言いようのない悪寒。

 虫唾が走る戦慄。

 

 強制的に音楽の世界から引き剥がされる――。


「……っ!」


 投げ捨てるようにヘッドホンを捨て去った。

 耳が妙に響いて気持ち悪い。

 自分の演奏が不協和音に聞こえたからだ。


 今迄起きたことがない状況に無意識的に息が荒くなっていた。

 私は逃げるように自室に戻り、布団の中に入った。


「……寝れば治る。寝れば治る。寝れば治る。寝れば治る」

 自己暗示の様に自分に言い聞かせるように言って眠りに入った。

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