第54話「夏の暑さと」

 八月、学校が夏休みになった。

 私はしばらく休みでほっとしているのだが、夏休み明けにはすぐに就職活動を行わなければならない。志望する就職先を決めるのだ。ちょっと緊張している私もいた。

 まぁ、それはまた後で考えるとして、今日は団吉の家に遊びに行くことにしていた。団吉が「よかったらおいで」と言ってくれたのだ。

 団吉の家の鍵を握りしめて私は家を出る。今日も外は暑い。猛暑日になるのではないだろうか。

 駅前まで歩いてきた。そうだ、たまには何かお土産を……と思って、駅前でクッキーを買った。これは美味しいと団吉も言っていたから、いいかなと思った。

 団吉の家まで歩いて行く。駅前からそんなに遠くなくて、すぐに着く。鍵を使ってオートロックを開けて、中に入り三階へと行く。団吉の家のドアをそっと開けて入る。

 ……実はこの時、中に他の女性がいたらどうしようと思う自分もいた。いや、団吉はそんな人じゃない。ふるふると首を振ってその考えを消した。私も心配症だな。

 部屋に入ると、団吉がニコッと笑顔で、


「いらっしゃい、外暑かったよね、ここで涼んで」


 と、言った。私は嬉しくなる。


「う、うん、ごめん、またインターホンも押さずに入って来た……」

「いやいや、鍵渡してあるから大丈夫だよ。いつでも入って来てくれていいからね」

「ありがと。あ、何かやってたのか?」

「ああ、夏休み明けに提出するレポートが一個残っていたから、それをやってたところだよ。まぁもうほとんど終わりに近いから、あとは思いっきり羽を伸ばそうかなと」

「そっか。あ、クッキー買ってきた。駅前のやつ。一緒に食べないか?」

「ああ、ありがとう。うん、あそこの美味しいよね。ジュース持ってくるね」


 団吉がキッチンへ行き、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して持ってきた。コップを二つ用意して、ジュースを注いで私に差し出してくれた。


「はい、どうぞ」

「あ、ありがと。じゃあクッキーも……いただきます」

「僕もいただきます……あ、やっぱり美味しいね」

「うん」


 どこかに出かけるとか、特別なことをしているわけではない。でも私は家でまったりする時間も好きだった。団吉と一緒に暮らしたら、毎日がこうなるのかな。それも楽しみだが、家でまったりの特別感が薄くなるだろうか……でも、団吉と一緒にいたい。その思いは強かった。


「この家で暮らしてしばらく経つけど、団吉はもう慣れた?」

「あ、うん、だいぶ慣れたんじゃないかと自分でも思うよ。家事もそこそこできてるし、大学もバイトも行けてるし、いいんじゃないかなって」

「そっか、さすが団吉だな」

「いやいや、これならきっと絵菜もできるんじゃないかなって思うよ」


 私は一人暮らし……をすっ飛ばして、実家を出て団吉と一緒に暮らしそうだな……と思ってしまった。


「絵菜は八月いっぱい夏休みなんだよね?」

「あ、うん。でも九月になったら就職活動がある……志望する就職先を決めないと」

「そっか、なかなか大変になりそうだね。もう考えているところはある?」

「うーん、ちょっと悩んでるんだけど、一応決めているというか」

「おお、そうなんだね、それなら大丈夫なんじゃないかな。あとは面接とかあるだろうから、しっかり準備しないといけないね」


 そう言って団吉がニコッと笑った。団吉の笑顔を見るとやっぱり大人になってきたな……と思う私だった。


「うん、なんか緊張するけど頑張る……それにしても、私は来年の今頃はもう働いているんだなって思うとちょっとびっくりというか……あ、まだ分からないけど」

「ほんとだね、絵菜の方が社会人の先輩になるもんね。それもあっという間だなぁ。この前学校に入学したような気がするのに」

「うん、私もそう思う。でも、社会人になったら私の夢も叶うのかなって」

「ああ、一緒に暮らして、くっついて寝るって言ってた夢だね。うん、僕もその日を楽しみにしているよ」


 団吉は優しい。出会った時からずっとそうだ。

 こんな私でもバカにしたり笑ったりすることなく、真面目に、ストレートに私と向き合ってくれた。そんな団吉を好きになって、お付き合いを始めてもう五年目になろうとしている。他の人はよく分からないが、きっと長いお付き合いなんだろうなと思った。

 団吉とずっと一緒にいたい。その気持ちも変わることはない。これからも、ずっと……。


「――菜、絵菜? どうかした?」


 呼ばれる声がして、私はハッとした。どうやら少し昔を思い出していたようだ。


「あ、ご、ごめん、ちょっと昔を思い出してしまったというか」

「そっか、昔ってどのくらい前?」

「あ、その……私たちがお付き合いする前くらい……かな」

「そうなんだね、なんだか懐かしいね。僕もまだ子どもだったし、今思うと恥ずかしいこともあったなとか」

「うん。でも、団吉と出会って、団吉を好きになって、本当によかった……ありがと」


 恥ずかしくなってちょっと俯いてしまった。いつも支えてもらっている団吉にお礼が言いたくなったが、いざ言うと恥ずかしいものだな……そう思っていると、団吉が立ち上がった。あれ? と思ったら――


「あ、だ、団吉――」

「……僕も絵菜と出会って、絵菜を好きになって、本当によかったと思ってるよ。いつもありがとう」


 座っている私の後ろから私を抱きしめて、耳元でそう言う団吉だった。私は胸がドキドキした。好きな人に好きって言ってもらえる幸せ……私は団吉の方に寄りかかった。


「……あ、な、なんかこれはちょっとキザな奴と思われないかな……大丈夫かな……」

「……ふふっ、大丈夫だよ。優しい団吉らしいなって思った」

「そ、そっか、なんか急に絵菜を抱きしめたくなってね……冷静になったらちょっと恥ずかしいんだけど」

「ふふっ、抱きしめてくれて嬉しい……じゃあちょっとお礼に……」


 私は団吉の頬にそっとキスをした。


「あ、え、絵菜……」

「団吉、いつもありがと。その……もうちょっと先だけど、私のことお嫁さんにもらってくれる?」

「え!? あ、う、うん、絵菜と、け、結婚できたらいいなぁと思ってるから……」


 団吉がぎゅっと私を抱きしめて、


「……その時は、ちゃんと絵菜にプロポーズするね」


 と、言った。


「……うん、ありがと。ずっと待ってる……」


 夏の暑さに負けないくらい、私は嬉しくなって身体が熱くなっていた。

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