窓辺から生まれる泡沫

舟井 のい

エピソード

 目を覚ますと、僕は見知らぬ車の助手席に乗っていた。見たところおそらくは日本製の小型車で、洒落た花の香りが鼻腔を刺激する。けれど、現在走行している道には、全く見覚えがなかった。

ーーどうしてこんなところにいるんだろう

 記憶を手繰り寄せて現状を把握しようとしても、一向に自分がなぜ今車に乗っているのかわからない。しかし、すぐにそんな問いは些細なものに変わってしまった。

「起きたかい」

 声をかけられるまでもなく、僕はさっきからずっと、運転席に座る人物に意識を惹きつけられていた。

「あの、この車ってどこに行くのかなぁ...なんて、ご存知ですか?」

「ああ、知ってる」

 落ち着きのある、低めの声の女性。ただ、僕は過去に一度だってこんな人にあった覚えはなかった。一見老けているように見えるが、よく見ていると若い女性にも思える。

「宜しければ、どこに行くのか教えてくれませんか」

「当ててみなよ」

 彼女はショートボブの髪をこちらに傾けながら、意地悪く笑みを浮かべた。

 僕には、薄々勘づいている事があった。ただ、それを認めたいとは思わなかったし、仮に事実だとしても、口に出したらそれが運命的に確定してしまいそうで、答える勇気はさらさら出なかった。


 回答に渋る僕を横目に、車外では朝焼けが既に終わりかけ、陽光が見知らぬ町の人々を起こす準備をしている。金箔をまぶした様に輝くビル群が道路に沿うようにして並び、景色は綺麗な一点透視を作り出して絵画的な美しさを感じた。


「少年、キミは今、後悔してるか」

 何の脈絡もなく発せられたそんな言葉は、だが不思議とこの旅の核心をついている気がした。

「分かりません。でも、どうせならお別れを告げたかったとは思います」

 言うと、彼女はまるで「ああそうかい」とでも言うようにまた薄く笑った。

「大抵の奴がそんなことを言うよ。でもな、あらゆるものには消費期限があるんだ。キミだって、うっかり何かを腐らせちまったことぐらいあるだろう。それと同じさ」

 消費期限が切れた時っていうのは、つまりそういうことなんだろうか。


 気づけば、斜め前に位置する太陽は、雲を蹴散らすようにしてのぼり始めている。遠くで、送電線がぼんやりした桃色に染められた空へと吸い込まれていくのが見えた。


「僕は、確かにうっかりしすぎたのかも知れません。けど、いずれにせよ僕の賞味期限はとっくに切れてましたし......」

ーーその先まで展望していたはずの僕を置き去りにして。

 そう続けるつもりだった。

「いやぁ、やっぱり未練とかはあるものですね」

「私は今まで未練を持ち合わせない輩なんぞ、久しくみてないけど」

「今になって、もう遅いってわかってるのに色んな顔が浮かんできました。会いに行けばよかったなぁとか、もっとお願い聞いてあげるべきだったなぁとか、 あいつの事もっと理解できたんじゃないかとか」

 言いながら、目頭が熱くなるのを感じた。

クリームソーダ色の空が次第にぼやけ、雲の陰影までもがぼやけて混沌を作り出していた。

 隣の彼女は黙ったまま、それでもどこか柔らかくなった表情で運転を続けている。車内は、足元から伝わる微かな走行音を除き、無音に包まれた。

 そのして、しばらく車に揺られながら車窓を見つめていると、トンネルに差し掛かった時だった。彼女が口を開いた。

「私には、幼馴染の少女がいたんだ」

 

 壁面の赤や青のランプが、淡いネオンサインとなって彼女の横顔を照らしている。彼女は、トンネル内で増幅された走行音で補うようにしながら、言葉を継いでいった。

「あの日は、彼女と海に行っていたんだ。まあ、こんな口ぶりで語ったら、大体何が起きたかは想像がついてしまうかもしれないけれど」



 視界が、海の親しみ深い燻んだ青と、空のどこまでも透明でどこまでも深い青で二分され、尋常でないコントラストを生み出していた。そんな日のことだったという。

 目を離した隙に離岸流で流された幼馴染は、二度と帰ってこなかった。

 茫然自失した彼女は、幼馴染を失った後も、しばらく砂浜からすくんで動けずにいた。時間にして僅か数分間という劇的な変化。

 しかしそれでも、彼女は気づいてしまったそうだ。身体を支える気力がなくなって崩れ込んだ自分の足元、押し寄せる雄大な海の波はそれでも決して幼馴染を砂浜へと連れ帰りはせず、泡立って消失へとひた進んで行く。波は自然の法則に従うまま、一見私を慰めているように見せても、実際は私の個人的感傷には全く無関心なんだと。


 

「まあ、自然様に文句を言うって訳ではないんだけどな」

 そう言いながら、穏やかな笑いを浮かべた彼女の目は、悲しげに光っていた。


 そろそろトンネルも終わりそうだ。


「すいません、もしあなたが宜しければ、僕に名前を教えてもらえませんか」

 彼女は静かに笑みを浮かべたまま、何も答えなかった。

 その代わりなのか、視界を強烈な白色光が覆いつくし、しばらく目を閉じざるを得ない間、彼女はこう言った。

「君には、もっと大事な事があるだろう」


 やっとのことで目を開けると、まず目に映ったのは、生き物の背骨みたいな中央分離帯だった。上空では、先ほどまでの白を少し混ぜた空から濁りが消え去っていて、青色ソーダの底に沈みかけたナタデココの、あの淡い色に染められている。


「僕は...それを言う資格がないし、もう今じゃ伝えることもできませんよ」

「これはまた意外なことを」

 僕には、ここで目覚める前に大切な人がいた。けれど、正直彼女との関係がうまく行っていたとは思えない。もしかすると最初から僕は彼女に不釣り合いだったのかもしれないとさえ考えてしまう。

「でも、今はその子のことが心底愛おしい。違うか少年」

 全てを見透かされているような気がした。

「そうですよ。本当はもっと沢山話して、互いに感情を吐露しあって、そして大事にしたかった」

「なら、それをそのまま伝えればいいじゃないか」

ーーそのまま?どう言う意味だろう...だって自分はもう...


 前方に見え始めたこんもりとした緑一色の山々は、自然さ以上に、どうしてか魑魅魍魎という言葉を当てはめたいほどに鬱蒼としている。旅の終焉が近いのかもしれない。


 運転席の彼女は、何やらゴソゴソと足元に置いた荷物を漁離始めた。

「伝えるって言ったて、もう無理ですよ」

「ん〜、まあとりあえずこいつを見てから決めたらどうだ」

 彼女は何かをこちらに手渡してきた。

ーーペンと、便箋

「この旅の目的地はまあ予想がついてると思うが、着いて仕舞えばもうどうしたってキミの大切な人には関われなくなっちまう。だから、ちょうどいいタイミングで窓を開けてやるから、その時にその便箋を投げ捨てろ」

 言っている意味がわからなかった。

「本当に、彼女に、届くんですか?」

「腕が心配ってか。私にまかせろ」

 全てが急すぎて理解が追いつかない。手紙を書いて、それをしかるべきタイミングに投げ捨てれば、想い人にそれが届く。そんな不思議なことがあり得るのだろうか。

 だが、迷っている暇はなさそうだった。

「悪いが少年、だいぶ勝手なことを言うが、その便箋あと数分で書けるか」

 声に申し訳なさが滲み出ていた。大方アクシデントか何かの類だろう。

「あの、さっきそのまま伝えればいいと言ってましたけど、やっぱりそんなことは僕のエゴじゃないかって思うんです」

「エゴ?だから何だって言うんだ。エゴでも何でも、今伝えないとキミは後悔するんじゃないのか」

 今度の声には焦りと苛立ちがわずかに含まれていた。確かに、彼女が言う通り多分僕はこのまま何もしなかったら後悔するだろう。

「でも僕気づいたんです。確かに、今僕は彼女を愛している。それは揺るぎない事実です。でも僕がここにくる前、彼女のことを純粋に大切に想っていたかわからないんです」

 

 陽光が目を射つつ、同時に太陽本人を除いた景色を影の世界へとすり替える。次に目を開けたとき、世界は空に染められたみたいに、一瞬青色に見えた。


 彼女は長いため息を吐いた。

「要するに、キミは”自分が二度とその人に会えないと自覚したから、今の気持ちを抱いてる”と思ってるってことかい。」

 僕はその言葉に頷いた。


 遠くに見える山々と空の色がかさなり、まるで色付き寒天みたいだった。

「でもそれはつまり、これから毎日あるはずだった、”キミが展望していた”未来に裏付けられた感情だったとも言えるんじゃないか」

「そうだったとして、でもやっぱりそこには彼女との関係性を美化した自分がいるじゃないですか」

 彼女はしばし考え込んでいるようだった。

「でも、私は私の幼馴染との関係をそんな風には思わないよ。円満な関係、何不足ない間柄なんて、この世には存在しない。それは互いに「異なる存在どうし」であればなおのことじゃないか。今思い返すと、くだらない理由で喧嘩したりひどいことを言ってしまったりしたこともある。自分の小ささが、嫌になるくらいにはね」

 何も返す言葉が見つからなかった。

「まあ、どうしても素直になれないなら言葉を伝えるのではなく、予言ならどうだい」

「予言ですか?」

「まあ、あっちに到着してもキミが元々いた世界の様子はわかるからさ。なんか面白いことでもキミの大切な人の周りで起こしたら、きっと彼女もキミを思い返すだろうよ」

 もう、迷っている時間は残されていなかった。

 急いで、頭に浮かんだガラクタのような、でも今も悲しんでいるかもしれない彼女への”予言”を便箋に書き込んだ。


「今だ、投げ捨てろ!」

 その言葉と共に、窓から投げ出された便箋は遥か後方へと吹き飛ばされてゆく。

 果たして本当に届くかは分からない。でも、成否は祈るしかない。

 運転席の彼女は、言いようの無い表情で前方を見つめている。

「あの、ありがとうございます」

「私はただ後悔したくかっただけだよ。これこそエゴだ」



 一週間後、僕は、僕のいない世界を見ていた。そして、気づけば微笑んでいる自分に気づいた。

 @東京のある一軒家

「今から数えて2秒前 あの子の部屋の地球儀の上で 愛が 戦闘機に乗る」


                            fin.




 

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