終章

ジェノサイド

 ――目覚めた時、小綿詩述は一瞬「何故こうなっているのだったか」と自問しなければならなかった。

 やがて徐々に昨日の記憶が蘇ってきて、思わずため息が口をついて出る。

 ソファの上。自分をまるでぬいぐるみかなにかのように抱きかかえながら寝息を立てている"ワトソン"の姿にひっぱたきたい衝動が込み上げてきた。

 でもあんまり疲れたせいかそうする気にもなれず、もう一度ため息をついて彼女の頬をつんつんとつつくことに留めた。


「起きてください。朝ですよ。今日は学校行くつもりなんですから」


 金曜日、高嶺来瑠を追い詰めた。

 そして月曜日、小綿詩述は大切なものを永遠に失った。

 見せるつもりもなかった弱さを、見せたくない相手に見せてしまって。

 挙句の果てにはこのざまだ。宿敵にチェックメイトを決める筈の日は、人生の終わりまで残るだろう汚点の一日に変わってしまった。

 

 ――らしくない。まったくもってらしくないぞ、詩述。

 よりによってこんなのに、あれだけ無様に胸の内を吐露して。

 変に弱さを見せてしまったから付け上がられて、襲われてしまったじゃないか。

 

 唇には、まだ昨日の感触が残っているような気がした。

 おぞましい。気持ち悪い。本当に最悪――そう思っている筈だしそう思うべきなのに。


 ――簡単なことだよElementary,my dear、しの。


 そんな言葉が、今も頭の中に残って離れない。

 昨日まではこうやってくっつくのなんて嫌で嫌で仕方なかった筈なのに、どうしてか今は離れていこうという気にならない。

 自分は本格的にどうかしてしまったのかもしれない。

 何しろあれだけ雨に当たったのだ。風邪の一つくらい引いていたって不思議じゃない、そうだそうに決まってる。そう思って額を触り、普段とそう変わらない体温にむぐぐと唇を噛む詩述をよそに、ねぼすけワトソンが起床した。


「……ん。なに、もう朝? ていうか何これ、なんで私しのを抱いて寝てんの」

「自分の胸に手を当てて聞いてみるのがよろしいかと思いますよ」

「――え゛っ。嘘、あれ、昨日あれから私あんたに何かした?」

「ええ、それはもういろいろと。乙女の尊厳はもうずたぼろです。えーんえーんです。ちら」

「ああオッケー、覚えてる通りの内容で特に間違いなさそうね。びっくりしたわ」

「そうでなくても散々ペット扱いされた記憶があるんですけど?」


 例えばひとりで入れると言ってるのにお風呂に連れ込まれて、湯船の中でまで子どもみたいに抱えられたり。

 起きてる間ずっとべたべたされて、寝ると言ってるのに話して貰えなかったり。

 その果てがこのソファ二人がけ睡眠だ。おかげで身体も痛いし、本当に散々である。

 もぞもぞと身体を動かしてやっとこさ拘束を脱し、詩述は開放感から伸びをした。


「で、何。今日は学校行くの? もう一日くらいゆっくり休んだってバチ当たらないんじゃない?」

「そういうわけにはいきません。正念場なんですから」


 校内戦争の終結は近い。

 高嶺来瑠は追い詰められ、今や彼女が名実共にすべての立場を失うのは時間の問題だ。

 そしてそうなれば、いよいよもって風花に、あの日取りこぼした過去に手が届く時間がやってくる。

 もう一度ふたりで、今度は手を離すことなくどこまでも。

 ――それを結菜の前で口にすることの意味も理解した上で、詩述ははっきりと正念場だと言った。


「……そっか。やっぱ、そっちは諦められないんだ」

「はい。あの子ともう一度やり直すことは、わたしの悲願ですから。

 わたしがそれを諦めることだけは絶対にありませんし、ありえません」

「んー、残念。あれだけ劇的なシチュで駆けつけたら、流石にちょっとくらい靡いてくれるかと思ったんだけど」

「わたしは小動物系が好きなんです。肉食系はしっしっなのです」

「あんたは小動物っていうか…………」

「なんですか」

「…………なんだろ。両生類? カエルとかあのへん」

「えい。パンチです」

「おおっと暴力」


 形だけ見れば、いつものやり取り。

 天然ボケの入った詩述と、ツッコミ役の結菜の漫才じみた応酬。

 でも今のこれは、少しだけ違っていた。

 そのことに、きっと小椋結菜は気付かないだろう。

 ポーカーフェイスは探偵の得意技。もとい、特権なのだから。


(――そう。わたしは、風花ちゃんを取り戻す)


 高嶺来瑠を倒して火箱風花を取り戻し、あの青春をやり直す。

 それが小綿詩述にとってのハッピーエンド。決して揺らぎはしない。

 そう決めている。今更改めて振り返るまでもないくらい当たり前のことなのに、今はどうしてだか胸の奥に小骨のように引っかかるものがあった。


 風花は唯一無二の存在だ。

 あの子に並ぶ人間なんてこの世にいない。

 あの子を取り戻すためならば、何を犠牲にしたって構わない。

 ……その筈なのに、どうして昨夜の光景が頭の中を過ぎるのだろう。


 土砂降りの雨の中。

 ずぶ濡れになりながらやって来た、はた迷惑なヒーロー気取り。

 最初から最後まで勝手なことばかり抜かして、人の心の柔らかい部分に土足で踏み込んできたこの女。

 下品。粗暴。――だいきらい。

 人の思い出の中にまで勝手に上がってきて、甘い追憶を邪魔立てしてくるとは。


「……そういうわけですから。わたしは、これからも引き続き戦いを続けます」


 ああもう、本当に腹立たしい。


「あなたがどうするか、わたしからは別に強制しません。

 ていうかあなた、あの子のこと嫌いでしょうし。いざとなったらあの子のこと、しっちゃかめっちゃかにして無理やりわたしを手籠めにしようとか考えてるんでしょうし」

「……はは。バレてた?」

「結菜さんの考えることで、わたしに解らないものはひとつもありませんよ」

「まあ、うん。ぶっちゃけそう考えてたんだけどさ。昨日までは」


 何が腹立たしいって、こいつは。


「もう、そういうのはやめようかなって」

「……、……どうして?」

「あれ、私の考えなら全部分かるんじゃなかったの~? ……まあいいや、また殴られそうだし。

 昨日の件でわかったんだよね。しのってさ、私が思ってるよりいろいろぐちゃぐちゃなんだなって」

「相変わらず知ったふうな口を利いてくれますね」

「私は火箱のことは嫌いだよ。あいつは駄目。

 絶対しのに合ってないし、あいつとより戻したところで100パー泥船だって分かるもん。

 けど、さ。もしかしたらそんなの私の思い違いで、本当は反省したしのと来瑠を失ったあいつがくっついたら全部うまくいくのかもしんないじゃん? その可能性も、まああるよね。認めたくはないけど」


 この女は――


「だったら、それを見てからでも遅くはないかなって。

 私の相棒とだいっきらいな女がくっつくお手伝い、当分の間は続けてやりますよっと」


 ――こういうことを、平気で言うのだ。

 なんのためにそんなことをするのか皆目分からない。

 ワトソンなんてもういつ解任したっていいのだ。

 ヒーローごっこが名残惜しいならぜひひとりでやってほしい。

 わたしの完璧な盤面と計画を狂わせるのは、どうかやめてほしいものだ。


「……結菜さんのこと、ちょっと勘違いしてたみたいです。もっとしみったれた人だと思ってたんですけど」

「お。見直した?」

「ぜんぜん。思ったよりめんどくさくてだるい人でした」

「がーん。だるいって、どのくらいよ」

「SNSの仕様を毎日のようにめちゃくちゃ変えてくるお金持ちの新社長くらい」

「だるいなあ」


 頭の中を整理する。

 あるべき形に、組み直す。

 もう既に局面は最終決戦。

 余分な贅肉や腫瘍を抱えている暇は、ない。

 ――風花ちゃん。風花ちゃん。わたしの、いちばんの友達。

 あの子のために、すべてを踏み台にしよう。

 大丈夫、大丈夫。わたしは――小綿詩述は、今日もだいじょうぶ。


 あの日憧れた探偵のように颯爽と、この難題を解決してハッピーエンドを掴み取ってみせる。



「え。朝ごはん置いてある。嘘でしょ。不吉」

「……白米と卵が置いてあるだけに見えるんですけど」

「しのに気を遣うようなガラじゃないし……えぇ?

 ああ、昨日はあんまり呑まなかったのかな……いやでも、ううん……? ぶつぶつ……」

「改めて思いますが、結菜さんの家庭環境もなかなかのものですね」


 さあ、今日も一日を始めよう。

 そしてあわよくば、今日で終わらせよう。

 この永い、永い――罪滅ぼしの旅路を。



◆◆



 自分は、小綿詩述だけのヒーローになる。

 そう決めた小椋結菜が、それと同時に理解したことがひとつある。

 それは、自分はどうやらこのちっこくて面倒臭い探偵娘のことが心底好きらしいということだ。

 友人としての意味でも、そして恋愛対象としての意味でも。


(レズっ気はないと思ってたんだけどなあ……人生って何が起こるかわからんね)


 ぽりぽりと頭を掻きながら、隣を歩く詩述を見る。

 ――かわいい。以前よりも強くそう思うので、この気持ちはどうも勘違いではないらしい。

 自分の想いに自覚的な今だからこそわかるのだが、詩述の可愛らしさというのはその外見だけに依るものではないのだ。

 言動の端々から滲み出る絶妙な愛くるしさ、時折見せる小動物のような仕草。あと顔。どれを取っても欠点らしいものが見当たらない。

 けれど、それだけならばここまで惹かれはしなかっただろうと思う。


(こいつは、私を肯定してくれた。

 誰かの添え物でしかなかった私を――理由がどうあれ、見出してくれた)


 都合のいい当て馬でも、何でも構わないのだ。

 大事なのは詩述が自分を見出してくれたというその一点。

 ずっと飢えて、渇いて、自分が主役になれるだなんて非日常に憧れて……それでも抜け出せなかったあの泥濘の中から。

 私を、見つけてくれた。連れ出してくれた。

 思えばあの瞬間にはもう既に、この感情は始まっていたのかもしれない。

 ただ、それに気が付いていなかっただけで。


「今日が正念場みたいなこと言ってたけどさ。なんかアテでもあんの?」

「金曜日、私達が下校した後に職員会議があったようです。そこで来瑠さんの処遇が話し合われたと、八朔先生から聞いてます」

「あー、なるほどね。……で、あの淫行教師は結局どう使うわけ?」

「謹慎なり退学なりになった来瑠さんを襲わせて、精神を崩壊させるのに使います。

 そうしたらプライドの高いあの人は耐えられないでしょう。私達が手を下すまでもなく自殺してくれる筈です」

「……ひゅー。相変わらず容赦のないことで」


 ――しのがすき。

 この気持ちは、きっともうどうやっても嘘にできない。

 

 たぶん、本当に詩述が火箱とくっついたら自分は泣くだろう。

 下手したら立ち直れないかもしれない。少なくとも向こう数年は引きずって歩くだろうことが優に想像できる。

 そう考えると、やっぱり火箱を自分が排除するのが一番手っ取り早いのではないかという発想になるのだけど。

 でも――それをして手に入れた詩述は、きっともう私の欲しかった詩述じゃない。

 

(私も大概、馬鹿って言うかなんというか。こんな性格だったっけなあ……)

 

 何が悲しくて、好きな女が嫌いな女を手に入れようとする恋路の手助けをしなきゃいけないのか。

 そう思いながらも、今日も小椋結菜は小綿詩述のワトソンをする。

 すべてが終わって、結果が出るまでは。

 それで報われてしまったなら結菜の出番はなく、この恋は泡沫に消えるし。

 もしも予想通り、歯車同士が噛み合わなかったなら……その時は、結菜の出番だ。

 風花から詩述をかっさらい、何年かけてでも自分のものにしてやろう。

 

 そうなることを祈りながら足を進める。

 家を出るのが遅かったのもあって、もう歩いている生徒はほぼいなかった。


「じゃ、また後でね」

「はい。昼休みにでも、いつもの空き教室で」

「来瑠には気を付けなよ。なんかあったら連絡して」

「過保護ですねえ。大丈夫ですよ、ちゃんと護身用にいろいろ持ってきてますから」


 下駄箱で靴を履き替えて、階段を上がって。

 教室が近付いてきたところで、一旦別れる。


 ――どうせならクラスも一緒だったらよかったのに。

 来年はワンチャンあるかな。あるといいな。

 そんなことを思いつつ、結菜は教室の扉を開けて。

 そして。




「は?」




 教室の中で、折り重なるようにして死んでいる三十体の"かつてクラスメイトだったもの"達を見た。



◆◆



「ねえ聞いた? 高嶺さんの話」

「うん。ちょっと前に出回ってたやつ、全部本当だったんだね」

「何人か自殺に追い込んでるって話でしょ? 流石に嘘っぽくないかなって思ってたけど、此処まで来ちゃったらね。信憑性あるよねえ」

「こわ~……。そんな人と今まで同じ教室で勉強してたんだ」

「まあでも大丈夫じゃない? ほら、処分決まったらしいし……」

「退学だっけ?」

「そうそう。けど、それにしてもよかったわ――火箱さんの件に関しては、私達も部外者じゃなかったわけだし」

「身代わりになってくれたってことかあ。いやあ、高嶺さん様様だわあ」

「あれ、そういえば好美は?」

「あー。なんかよくわかんないんだけど、迷依がどうしても今日は一緒に学校サボろうっていうから付き合うとか言ってたよ」

「なにそれ。は~、相変わらず迷依は迷依だね。やることなすことぶっ飛んでるんだもん」

「まあいいじゃん、あの子はそういうところがかわいいんだから」

「入学式のときは絶対関わらんとこと思ったけどねー。付き合ってみたら案外面白い奴だったっていうか」

「ウチのマスコットみたいなアレだもんね。好美なんて完全にあの子にホの字じゃん?」

「馬鹿。聞かれたらシバかれるよ」

「だから欠席なんだってば。鬼の居ぬ間になんとやらでしょ――あ、でも別の鬼が来ちゃったや」

「うわ、来たんだ。しかも彼女同伴で」

「よく来れるよね。うちに連絡行ってないのかな」

「最後に挨拶しとく?」

「そうだね、後でなんか言っとこっか。

 一応あいつ、うちらの恩人なわけでもあるんだし?」

「あはは、それもそっか!」



◆◆



「死ね。」



◆◆



「本当、高嶺には困ったものですな」

「いやあ、予想もしていませんでしたよ。

 まさかあの優等生にあんな過去があったとは……」

「唯一幸いなのは火箱の両親が亡くなっていることですね。

 あれの保護者はボケ――失礼。認知症のお爺さん一人と聞いています。

 学校の責任問題だの何だの言われる可能性がないことだけは幸い、ですか」

「それはそうですが、まさかこの学校からいじめ沙汰が出るとは」

「別にいじめてくれても構わないんですけどねえ。ばれないようにやって貰いたいものですよ、本当に」

「言えてますなぁ。我々の手を煩わせないでいただきたい! ははは」

「はははは。……その点、八朔先生は可哀想ですな。如何に公にならない可能性の高い沙汰と言えど、担任がお咎めなしとは行かないでしょうし」

「まあ、彼女に関しては自業自得でしょう。経歴が経歴ですから」

「私も初めて聞いた時は耳を疑いましたよ。教員免許の再取得の前に塀の中でお勤めをしてきて欲しいものです」

「日本はその辺り、歪んでますからなあ」

「いやはやまったく――」



◆◆



「失礼します。」

「先生方、死んでください」



◆◆



「死ね」

「死ね。」

「死んでください」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」

「死ね」



「死ね。」



.

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