そして私も、きっとあなたに

 夜道の向こうから、小さなシルエットが駆けてくる。

 詩述や迷依ほどではないものの、小柄な方である来瑠より更に小さい背丈。

 体力のある方でもないのに、わざわざ急いで来なくてもいいのに。

 そんなことを思いながら見つめる来瑠の前方、2メートルほどの距離で火箱風花は息を切らしながら足を止めた。


 額に浮かんだ汗を拭うと、その視線がまっすぐに来瑠へと向けられる。

 潤んだ瞳は、来瑠のことを魅了してやまなかったあのガラス球のようにきれいなそれのままだ。

 かわいい。むかつくほどに、かわいい。

 そう思っても口に出せない。いつもとは違う理由で、来瑠の口がそれを発することを許さない。

 来瑠が黙っていると、風花は少し逡巡してから――おず、と口を開いた。


「……くーちゃんの力になりたかった」


 秘め事の最中に通りかかった生徒指導の教師を殺した。

 来瑠を長年に渡って苦しめ抑圧してきた、父親を殺した。

 詩述たちのことだってそうだ。風花はいつだって来瑠の力になろうとして行動してきた。

 

「でも、……私の力は、私以上に"私"に対して正直だった。

 私の中に生まれた、きもち。抱いちゃいけない、とても悪いきもちに――ちゃんと気付いてた」


 ――火箱風花は、その声ひとつで人を殺せる。

 証拠も何も残さずに、死を望んだ人間を突然死させることができる。

 その力が、もしもちゃんと十全に働いていたのなら。

 今頃、彼女達の戦いは全てが片付いていたことだろう。


 全てが文字通り、片付いていた筈だ。

 詩述、結菜、八朔、茶々を入れてきた迷依、その他有象無象のクラスメイト達。

 それら全員を風花の声で殺して、排除して、ふたりだけの住みよい世界を作り上げることができていたに違いない。

 では、何故そうすることができなかったのか? 今はもう、来瑠もそれを知っている。

 風花が――この夢のような非日常を、愛してしまったからだ。

 弱り、苦しみ、自分なんかに依存してしまうかわいそうな来瑠という、非日常ゆめを。


「私、ね。……苦しんでるくーちゃんのことも、好きだった」

「……、……」

「私にしなだれかかってくれるくーちゃんが好きだった。

 私に当たって、でもすぐに捨てられちゃうかもって後悔して震えてるくーちゃんがかわいくて。

 ずっと、おなかの奥のところがきゅんきゅんってして――止まらなくて。

 くーちゃんを助けてあげたい気持ちは本物なのに、でもくーちゃんとのこんな時間がずっと続けばいいなとも思ってたの。……おかしいよね。ひどいよね」


 そう言って風花は俯き、自嘲するように笑った。

 火箱風花は天性の虐げられる者、被虐者だ。

 長い鬱屈とお決まりの役割が、来瑠という自分より下の弱者に接したことで化学反応を引き起こした。

 そうして、へきが生まれた。ひどく歪んだ/淀んだ、語るのもおぞましいような性癖が。


 ――火箱風花は、高嶺来瑠に欲情している。

 ――その弱さを、悦びとして受け取っていた。


「ごめんね」


 謝られても、どうしようもない。

 来瑠はただ黙って彼女の言葉を聞いていた。

 風花はそんな来瑠を見て、また小さく笑うと、言った。

 まるで独り言みたいに、ぽつりと呟いて。


「私、あの頃となんにも変わってない」


 そう、自虐した。

 あの頃。小綿詩述と過ごした、蜜月の青春。

 甘く熟れた、それでいて爽やかな果実のような日々。

 その、最後。縋ってくるあの子を無視して、背を向けて、振り向くことなく立ち去ったあの時と本質は同じだ。

 自分勝手。欲深いくせに、いざ手に入るとおかしくなる。

 前は、相手への拒絶。そして今は、相手への邪願。


 本当に――――何一つ変わっていない。

 風花は、自分という人間が如何に汚い生き物であるのかを痛感せずにはいられなかった。


 要するに、人を愛することに向いていない。

 人と関わることに、向いていないのだろう。

 それどころか、致命的な欠陥があるように思えてならなかった。

 思えば、だからあの時自分は決めたのではなかったか。

 これから先の一生を、ひとりで生きていこうと。

 自分のことだけを考えて、誰にも迷惑をかけずに生きていくのだと。

 しかしそれは、撤回されてしまった。あっさりと、呆れるほどの都合良さで――吹き飛ばされてしまった。


 来瑠と出会い。

 彼女に、きらきら輝く恋をした。

 恋を、してしまった。好きになってしまった。


「……あのさ」


 そんな風花に、来瑠がゆっくりと口を開く。

 びく、と風花の小さな身体が跳ねた。

 来瑠の声を、彼女は恐れている。

 来瑠の言葉が、怖かった。

 

 彼女のくれるものなら、愛でも痛みでもすべて受け入れるとそう決めていたけれど。

 今の自分の醜悪な内面を見透かし否定するような――そんな冷たい言葉が今かけられたら、自分は果たして正気を保てるだろうか。

 壊れずに、いられるだろうか。

 来瑠の口から放たれるのは、一体どんな言葉なのか。

 それを思うと、胸が張り裂けそうになる。

 怖い。聞きたくない。逃げ出したくなる。

 それでも風花はその場から一歩も動かず、耳を押さえることさえしなかった。

 そうしてはいけないと思ったからだ。

 やがて、来瑠が言う。


「勘違いしてるかもしんないけど、ほんとに怒ってはないんだ」


 え、と風花の目が見開かれた。

 来瑠の性格はよく知っている。

 彼女は、強く有ることに固執している。

 そんな来瑠にとって、自身の弱さを愛玩されるというのは何よりも尊厳を凌辱されることに等しく。

 だからこそ、何を言われることも/何をされることも覚悟していたのだけど――


「怒ってるとすれば、むしろ自分に対してかな。

 何やってんだよ、って。ふーちゃんなんかに守られてちゃ終わりだろ、って。

 わかってたけど、わかってたのに、目を逸らし続けてきた自分の情けなさに……愕然としたってだけ」

「っ……。そんな、こと……」

「で、どうすればいいかわかんなくなっちゃった。

 迷依のバカがむちゃくちゃしてくれたせいで思ったより早く顔合わせることになったけど、それは今でも変わんないよ」


 言いながら、来瑠が風花へと歩み寄る。

 距離が縮まり、互いの息遣いが聞こえるほどにまで近づいて。

 そこで来瑠は足を止めた。

 それ以上近づこうとはせず、風花の瞳をまっすぐに見つめる。

 ガラス球のような四つが、見つめ合う。


「ねえ」

「……、……」

「ふーちゃんは、どうすればいいと思う?」


 ……わからなくなると同時に、ひとつわかったこともあった。

 それは。きっとこの先、自分が元通りの"強い"高嶺来瑠に戻るのは不可能だろうということ。

 壊れてはいけないところが壊れてしまった。折れてはいけないところが、折れてしまった。

 それはきっと不可逆で、もう二度と、来瑠がなりたかった自分には戻れないのだとわかったから。

 

 だから。余計に、何をすればいいのかがわからなくなった。

 

「あいつらをどうにかして、私たちの関係を守って。それから、どうすればいいかな」


 玩具と呼んだ少女に人生相談を持ちかけるようでは終わりだ。

 内心で自嘲しながらも、溢れる言葉を止めることは来瑠にはできなかった。

 それほどまでに、来瑠の心は乱れきっていたのだ。

 その有様を、風花は静かに眺める。


「……なにも、しなくていいよ」


 そして、ぽつりと言った。

 優しく囁くような、それでいて力強く語りかけてくるような。

 そんな声で、心の断片がぽろぽろと漏れ落ちる。


「くーちゃんがつらいなら、何もしなくていい。

 ……何かになろうとしなくたって、いい。

 くーちゃんが強くても、弱くても。どんなくーちゃんでも、関係ないよ」

「――どっちでもいい、ってこと」

「……うん。ごめんね。私って、ほんとに汚い女だから」


 来瑠の弱った姿が好きだった。

 輝いている彼女を想うのとはまた別な"好き"が、確かにそこにはあった。

 でも今の来瑠は、見ていてただただ心の奥が痛くなるような、切ない痛ましさだけに満ちていて。

 風花の方も、自分で自分のことがわからなくなってくる。

 ただひとつ確かなのは、自分はとても、本当にひどく汚い女であるということだけ。

 だからだろうか。もう取り繕う必要はないからと、心の内を絞り出して告げることに躊躇はなかった。


「私は、くーちゃんがいい」

「……、……」

「くーちゃんなら、なんでもいい。

 どんなくーちゃんだって、いいの。

 それがくーちゃんなら、私の好きになった女の子でさえあるなら……強くても、弱くても。明るくても、暗くても。笑ってても、泣いてても。たぶん、どうでもいいの」


 それは、あまりにも無責任で、自分勝手な告白。

 自分という存在の悪性を丸ごと肯定するような、そんな言葉を、風花は口にする。

 来瑠のことを愛している。好きだ。だから、なんでもいい。

 彼女がどうだろうが、自分には関係ないと。

 そう言い放つさまは可憐なる醜悪でありながら。

 それと同時に、清々しいほど――


「くーちゃんがそばにいてくれるなら、なんでもいい」


 ――ありのままの。

 きれいな、花のようだった。

 まるで、憑物が落ちたかのように晴れやかな表情で。


「私ね。くーちゃんの、全部が好きなんだよ」


 そう言い放つ風花に、もうひとりの少女は――



◆◆



 高嶺来瑠も、過去に呪われている。

 強くあれ。強くなければ、人間に価値はない。

 この世はどこまでも弱肉強食で、強い人間だけが幸福を選び取れるのだと。

 そう語った男の言葉が、彼が荼毘に臥して久しい今になっても消えることなく来瑠の中に残り続けている。


 だから弱さを嫌っているのだ。

 だから、この有様いまを忌んでいるのだ。

 見ないふりをして、でも現実に追い付かれて。

 病んで、迷って、自棄になって、曝け出したくもない胸の内を全部見せてやって。

 

 その上で返ってきたのが、こんな台詞。

 それは、来瑠にしてみれば地雷の上で踊られるようなものだった。

 激昂どころでは済まない。百年の執着も冷める、そんな事態になっても決して不思議ではなかった筈だ。

 実際その言葉を聞いた来瑠の頭の中には、風花への反感と怒りが湧いていて。

 ぐるぐる、ぐるぐると。まるで下した腹のように、それら感情が渦を巻く。


 ――ふざけんな、こいつ。

 ――何を言うかと思えば、どうでもいいだと。

 ――人が。どんな気持ちで。

 ――どんな気持ちで、此処まで悩んできたと。抱えてきたと、思ってるんだ。

 ――あの父親の幻影を。

 ――あいつの呪いを。

 ――どんな気持ちで。


 止まらない激情が、腸を煮えくり返らせる。

 許せない。認められるか、そんな舐めた発言を。

 今すぐに理解わからせてやる。

 叩いて、蹴って、ありったけの罵詈雑言をぶつけてそれで終わりだ。


 そう思っているのに。

 なのに。

 喉の奥からやってきた憤怒の言葉の数々は、口をついて出るのを待たずして。


「っ…………」


 なんだか異様に熱い顔の温度にやられて、ぼふんと蒸発してしまった。

 顔が熱い。こころなしかくらくらする。

 来瑠の頬は、真っ赤に染まっていた。

 それを自覚して、更に熱が上がる。

 ああもう、なんなのこれ。

 わけがわかんない。

 どうして、自分はこんなにも恥ずかしいのだろう。

 意味がわからない。


「ふーちゃん、って……ほんと、ほんっっっっとさあ……」

「え……? く、くーちゃん?」

「っ、ああああああ、もう……っ」


 思わず声が上擦る。

 未だ頬は赤く染まったままだが、もうそれは気にしないことにした。

 

 本当に。なんてこと言うんだ、こいつ。


 心臓が変な動き方をしている。

 きっとこれは、風花が悪いのだ。

 あんなことを言われてしまったら、誰だってこうなるに違いない。



 ――私は、くーちゃんがいい。

 ――くーちゃんなら、なんでもいい。

    どんなくーちゃんだって、いいの。

    それがくーちゃんなら、私の好きになった女の子でさえあるなら……強くても、弱くても。明るくても、暗くても。笑ってても、泣いてても。たぶん、どうでもいいの。


 

 強い自分には、価値がある。

 でも弱い自分には、なにもない。

 あの教室での一幕がそれを証明している。

 強い自分には、誰もがへりくだって接したけれど。

 弱くなったら途端に手のひら返し。誰も彼もの笑い者だ。

 

 そんな"当たり前"を。

 風花は、どこまでも自分勝手にぶち壊した。

 

 本当に馬鹿な女だと思う。

 汚い女、よく分かってるじゃないかと思う。

 人畜無害な顔をして、勝手で、よこしまで、あとすけべで。

 ――人の心のデリケートな部分を。あろうことか、どうでもいいなんて。

 どんなあなただって好きだよと、そんなふらついた言葉をかけてくるなんて――


「……もういい。帰る」

「えっ。……それは――」

「ほら、早く。今からご飯作るのもだるいし、なんか惣菜でも買って帰ろうよ」

「っ。……う、うん!」


 そんなの。

 ずるい。


 反則。卑怯だ。酷い。ずるい女だ。

 そう思うのに、今も顔の熱と心臓の高鳴りは引いてくれなくて。

 思わず反射的に握りしめたその小さな手の感触が、いやに鮮明だった。


 強い来瑠じぶんには、価値がある。

 でも弱い来瑠じぶんには、なにもない。

 

 それが、当たり前だった筈なのに。

 自分に限らず、すべての人間がそうだと生きてきた。

 だからこそ、そのレールを外れてしまったことが怖くて怖くて仕方なかったのに。

 なのに――肯定、されてしまった。


 どうでもいい、と。

 どんなくーちゃんでも、好きだからと。

 その言葉は。その言葉は、愛する母からさえ貰ったことのないもので。

 だから、思わずちょっとびっくりしてしまった。

 きっとそれだけだ。

 それだけ。

 それ以上でも、以下でもない。

 




 ……なんて。


 自分に嘘をついてごまかすのも。

 流石に、そろそろ限界だった。



「くーちゃん?」


 不意に足を止めた自分を。

 きょとんとした顔で見上げる、真隣のこいつ。

 やっぱり、むかつく。本当に、腹が立つくらい綺麗な顔立ちをした奴だ。

 気付けば、来瑠は風花の頬に手を伸ばしていた。

 やわらかい。ふわふわする。まるで子供みたいな肌の質感と温かさに、ただでさえくらつく頭が余計馬鹿になってきて。


(ああ、私――――)


 そんなふやけた頭だからか、湧いて出た感情をすっと理解まで落とし込むことができた。

 

(――――こいつのこと、好きなんだ)


 それは、あまりに自然な感情だった。

 きっと、ずっと前から胸の奥底にあったような感覚すらあった。

 ただ、それに今まで気付かないふりをしていただけで。

 でも、もうそんなこともできそうになくて。

 


 だから来瑠はこの瞬間。

 そう、まさにこの瞬間。

 きっと、ちいさな恋をした。



「――――――――」



 ちゅ。

 小さな音が、夜闇の中に溶けた。

 それは、あのじっとり蕩かすような激しいものじゃない。

 ほんの一瞬の触れ合い。

 時間にしたら一秒に遠く満たないだろう、適量摂取の"ちゅ"。


 目を見開いて。

 顔を、ちょうどさっきの来瑠のように赤くして。

 口を開けたり閉めたりしている風花の手をもう一度強く握り、来瑠は足を踏み出した。


「……ほら、行くよ」

「う、……うん。うん……」

「一応、今回ばかりはあのバカもほっとくわけにいかないし。

 また泊まるとか言い出すかもだから、おじいさんに電話しといたら」

「うん。……いちおう、しとく」


 ――灰は灰に、塵は塵に。

 一度は還ったものが、ほんとうの意味であるべきところに還ってゆく。


 彼女達は、一人たりとてではない。

 人を殺し。人を踏みつけにして、その上に自分達の幸福の城を築く。

 そうやって生きてきたろくでなしの少女達。

 死後の世界が存在するのなら、きっと誰一人天国には行けないだろう四つの器。


 ――それでも。少女達は、生きている。

 今日も今日とて、自分勝手に戦って。生きていく。

 幸せになる。幸せになるのだ。そのために、生きる。

 恋は揃った。想いは並んだ。であれば後は、広げた風呂敷を畳むだけ。



 木枯らしの風が、一筋吹いた。

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