仔羊、走る。
英才教育と書けばチープに聞こえるが、高嶺来瑠という人間はまさにその賜物だった。
物心ついた頃から行われていた、父による苛烈で徹底的な教育。
それは来瑠の心を削ったが、一方で並々ならぬ自負心を育てた。
強者としての自覚。そうあるべきと自らを律する精神性。
この世のすべては自分の付属品。自分という星を高め、より輝かせるためのアクセサリーでしかない。
エゴであり存在理由。強さこそが、来瑠にとっての最大の価値だった。
そして、だからこそ。
小綿詩述が彼女に告げた火箱風花の真実――彼女自身無意識に直視するのを避けていた"それ"は、深く鋭くその心を貫いていた。
――あの子は、弱ったあなたが好きなんですよ。
――強くきれいで理不尽なあなた。高嶺来瑠。くーちゃん。
――そんなあなたが傷ついて弱って、惨めに泣きじゃくって震えている姿。
「……死ね、クソ女」
呟いて蹴り飛ばした空き缶が、力なく側溝に消えていく。
激情と呼ぶには熱が足りない。普段の来瑠なら、もっと憤死しそうなほど怒り狂っていただろうに。
そんな今の有様こそが、詩述の言葉がどれほど
自分は、強い。
強くなければ生きている価値がない。
何故。強くなければ、虐げられるからだ。
他人に踏みつけにされても卑屈に笑って媚を売り、輝く誰かのおこぼれに預かって生きるしかできないからだ。
怒られるからだ。見下されるからだ。
あの冷たい目で、淡々と。魂の奥底まで見透かすみたいに、睥睨されるからだ。
――強くありなさい。
ああ、これは呪いだ。
高嶺来瑠は今も、過去に呪われている。
血を吐いて死に、とっくに荼毘に臥したあの男に。
そのことを、嫌でも思い出させられた。
あいつは何だったんだ。本当に何なんだ。
行く先々のすべてに、あいつの影がある。
自分で見つけ出した宝石だと思っていた筈の風花でさえ、その例外ではなかった。
父・龍櫻と火箱家の間に一体何があったのかは今もって分からないままだが。
それでも――龍櫻の影のあるところから繰り出される、"弱いものを見る目"は来瑠にとって心を砕くものに違いない。
暖かいと、そう思っていた。
だからついつい気を許してしまった。
主人と玩具の関係性を、自分自身で崩してしまっていた。
でも自分がそうしている間も、風花は自分の弱いところを見つめていて。
その上で――悦に浸っていたのだ。
弱くなった、傷ついた来瑠の哀れさ惨めさを、愛玩していた。
玩具にされていたのは、来瑠の方だった。
いつからか二人の関係性は変わっていた。
来瑠の本能は、そのことから目を逸らした。
そうやって自分の心を守ろうとした、それは決して愚かしいことではなく、むしろ利口な防衛本能だったのだろうけど――そうして逃げた結果が、これだ。
――ダサいな。
来瑠は、そう思う。
こんな情けない話があるか。
自分で弱くなっただけなのに。
それを見透かされて、勝手にショックを受けて。
挙句ふて腐れた子どもみたいに、逃げ出して。
以前までの来瑠なら、あの場で風花を蹴り倒すくらいのことはしていただろう。
玩具に侮られるなんて、これ以上の屈辱はない。その怒りを容赦なく彼女の身体にぶつけて発散し、調教していた筈だ。
なのに今の自分はただ逃げただけ。
それがもう既に、高嶺来瑠という人間の今のあり方を示していた。
弱い。ダサい。呆れるほどしょうもない、器が小さいだけの小物。
――ただの、弱者。
――誰かの標的。
――そんなだから、あいつにも。
ふーちゃんにも――
「……あー! いた!!」
負のスパイラルに陥って久しい思考が、不意にそんな声で断ち切られた。
◆◆
『ごめんね、泡野さん。ちょっと今は、放っておいてほしいな』
どうしてもこの間のことが心配になって電話をかけるなりそう言われ、泡野迷依は椅子から転げ落ちそうになった。
せっかく詰めた距離感が元に戻っている。
迷依ちゃんと呼ばれて心の中では内心嬉しく思っていたのに、いつの間にかまた苗字呼びにグレードダウンしている。
迷依は意外と、こういう部分には敏感だった。
由々しき事態だ。通話はそれで切られてしまったし、急いでメールを送っても返事は来なかったが、何があったのかはおおよそ察せられた。
――ケンカだ。来瑠さんとケンカしたんだ、風花ちゃん。
風花から吹っかけたとは思えない。
となると大方、来瑠がまた当たり散らすなり何なりしたのだろう。
こうなると迷依としては黙っていられない。来瑠は怖いし、大変なことになっているのも分かっているが、あんなに優しくて健気な風花を傷つけるなんてふてえ奴だと義憤の念を燃やさずにはいられなかった。
既に日は落ちている。
この間の出来事は、今も脳裏に傷として刻まれたままだった。
足が竦む。けれど自分に鞭打って、意を決して家を飛び出した。
風花には恩がある。ぼろぼろになって打ちのめされていた時、やさしい言葉をかけてくれたあの子に泣いてほしくはない。
実際のところ、"その言葉"は打算に基づいた懐柔策の賜物でしかなかったのだが。
打算だろうが何だろうが、迷依がそれで救われたことに違いはなかった。
――なんでケンカするんだよ、あんなに仲良しなのに。
――人前でちゅーするくらい仲良しなんだから、相手の気持ちくらい考えないと。
ぶつぶつ呟きながら走り回って、来瑠を実際に見つけられたのは奇跡と言ってよかっただろう。
何しろ来瑠へかけた電話はすべて無視されていたし、通学路近辺のいそうな場所を虱潰しに当たるしか迷依には手段がなかった。
しかし神様がこのいじらしい生物を儚んだのか、探し始めて一時間ほどした頃。
どこかふらついた足取りで既に日の落ちた街路を歩いている来瑠の姿を見つけることができた。
「探しましたよ、もう……! もっとわかりやすいところにいてくださいよっ」
「……何。ふーちゃんに頼まれたの? 私今、あんたなんかとお喋りしてる気分じゃないんだけど」
な、なんかて……。
やっぱりこの人は苦手だ。
そう思う迷依だったが、友達のためだ。此処で引き下がるわけにはいかない。
ふんす、と鼻を鳴らして自分を鼓舞し、それから震えを押し殺してびしっと来瑠のことを指差した。
「私は来瑠さんとお喋りする気分なんです。
ていうか一言物申さないと気が済みません!」
「どいて」
「ど、どどどどきません! 今日だけは殴られても蹴られてもどきませんよ、絶対に! 地の果てまでつきまとっていきますからね!!」
「私」
ぐ、と胸倉を掴み上げられる。
間近から自分を覗き込む瞳は、見たこともないくらいに冷めきっていた。
思わず喉がひゅっと鳴る。引っ込めていた筈の臆病風が顔を出した。
「同じこと二回言うの、嫌いなんだよね」
怖い。
無理かもしれない。
来瑠への苦手意識以上に迷依を苛むのは、先日の悪夢のような記憶だった。
暗いところで、こうして迫られて、そして。
思わずかちかちと歯が音を立ててしまう。涙目になるのは避けられなかったが、それでもぎゅっと拳を握りしめた。
――ひとりじゃないのに、どうして怖がることがあるの?
――私達がいるよ。友達でしょ、私達。
「……っ、と――」
迷依は正直、来瑠と風花の会話についていけない時がある。
そんな怖い会話ばかりしないで、もっと楽しいことを話せばいいのにと思う。
たとえば昨日のあのテレビが面白かったとか、どこそこのパフェがおいしかったとか。
そんな迷依には、彼女達がどうしてこうまで覚悟を決めて学校生活に臨んでいるのかは分からない。
ただそれでも、今の状況がふたりにとってすごく良くないものであろうことはなんとなく分かった。
「友達が、泣いてるかもしれないのに……どいてなんかいられません……!!」
「……っ」
「なんでケンカしてるんですか、風花ちゃんあんなにいい子なのに!
大体来瑠さんは乱暴なんです、身勝手なんです自己中なんです横暴なんです!
おたんこなすのあんぽんたん! 今日という今日は私、な、殴られても何されても引き下がりませんからね!!」
「あんたに、何が――!」
目の前で手が振り被られる。
ああ、これは平手打ちだ。
ぎゅっと目を瞑って衝撃に備える迷依だったが、いつまで待っても衝撃はやってこなかった。
恐る恐る目を開けると、来瑠は唇を噛み締めたまま、小さく俯いている。
やがて迷依の胸倉から手を離すと、そのまま地面に落としてしまった。
「きゃふっ! ……く、来瑠さん? えっと――」
「ま、そうかもね。間違ったことは言ってないと思うよ、あんた」
急にどうしたんだろう。
お腹でも痛いんですか? と聞こうとして踏み止まれた自分を褒めてあげたい気持ちだった。
そんな迷依に対し、来瑠は「はっ」と笑う。
いつもの彼女のとは違う、どこか自虐するみたいな笑顔だった。
「自己中で傲慢。周りの人間なんて、自分の付属品としか思ってない。
知ってる? 人間ってね、強くなかったら誰かの食い物なんだよ」
そのことを、来瑠はよく知っている。
父の教えは嫌味なくらい実践的だった。
教室で、習い事で、私生活で。
あらゆる場所で、来瑠は強さの恩恵と弱さの罪を目の当たりにしてきた。
弱さは罪だ。弱い者が自分で選べることなど、この世には何ひとつない。
「だから、強く生きてきたつもりだった。
あんたや結菜みたいな"その他大勢"の人間を食い物にして、時々おこぼれで恩恵をあげて飼い慣らして、そうやって暮らしてきた。
これからもずっとそんな日々が続いていくんだと、こんなことになってもそう思ってた」
改めて、その教えが正しかったことを実感していた。
あの男は本当にいけ好かない奴で、血の繋がりがあると信じたくないほど嫌いだけれど、あいつの言うことは常に正しかったのだ。
「でもさ。そう思ってたのは私だけだったみたい」
「……、……」
「笑えよ。裸の王様だったんだ、私」
「…………、…………」
「自分のこと、ずっと強いって勘違いして。
もう何も持ってないのに、まだやれるまだやれるって言い聞かせて。
一番身近なやつにすら、もうそんなこと思われてなかったのに」
「………………、………………」
「なんか、もうどうでもよくなっちゃった」
この先、どうしよう。
これから、どうしよう。
そんなことを考えたくても、熱がない。
ひたすらの空虚が、来瑠の胸の内には広がっていた。
思わず迷依なんかに吐露してしまうくらいには、今の来瑠は不確かなメンタル状態だったのだが。
それを受けて迷依は、しばらく沈黙した後。
眉間にシワを寄せて、ぽつりと呟いた。
「え、えぇ…………。め、めんどくさ…………」
◆◆
びっくりした。
ていうか、若干引いた。
この人、こんなめんどくさいこと考えて生きてたのか。
そう思ったからついつい言葉が口をついて出た。
しまった、と慌てて口を抑えた時にはもう遅い。
「は? …………今なんて言った?」
「ち、ちちち違うんですこれはその、つい本音がぽろりしたっていうかああああ誤魔化せてないっ、えっと、えぇっとぉ……!」
「――あんたってさ、結構いい根性してるよね。
あ、もしかして私の元気を出そうとしてくれたのかな。
ありがとう、おかげでちょっとだけ元気になったかも」
「ひぃいいいん! だ、だってそうじゃないですか!
そんなめんどくさいこと考えて生きてたら疲れちゃいますよぅ! もっとこう……なんか! ふわふわしたわんことかのこと考えたほうがいいですって! ていうか重すぎ! 重すぎです!!」
こうなったらもう開き直るしかない。
青筋を浮かべて靴底を振り上げた来瑠に、迷依は目を「><」←こんな風にしながら早口でまくし立てた。
けれど本心だ。
気難しそうな人だなと思ってはいたけれど、まさか此処までとは思わなかった。
何かうまくいったらご機嫌に口笛吹いて、うまくいかなかったらふて寝するかおいしいものでも食べて元通り。
人生をそんな風に生きている迷依には、来瑠の抱える強さへの信仰とそれに伴うアイデンティティの喪失がさっぱり理解できなかった。
一言、めんどくさい。もひとつ言うなら、重たい。
風花ちゃんって本当に大変なんだなあとしみじみそう思わざるを得なかった。
「ていうか、その。来瑠さんと風花ちゃんって、付き合ってるんですよね?」
「……そういうのじゃないよ、別に」
「ほらまためんどくさい! なんでそういうところはうじうじするんですかっ、付き合ってない二人は人前でちゅっちゅしないんです!!」
なんなんだこの人は。
もしかして風花ちゃんも大概だったりするのか。
迷依は焦れったくなって、思わずうがー!と悶えてしまう。
「付き合ってるんだったら、あの子といちゃいちゃして発散すればいいじゃないですか」
「――だから私は今、そのふーちゃんと」
「ケンカした気になってるのなんて来瑠さんだけですよ。
あの子、人に怒ったりしないでしょ。まして来瑠さんには」
「怒ってるとか怒ってないとかじゃ、なくて……」
「うあー! じれったい! イライラします!!!」
人間、いざとなると大胆になれるものだと迷依はこの時初めて知った。
まるで引き伸ばしのすごいラブコメ漫画を読んでる時みたいな気分だった。
殴る蹴るする元気もない来瑠なんて、ただの態度のでかいやなやつでしかない。
迷依はスマートフォンを取り出すと、風花に向けて速やかにメールを送信する。
「ちょ、何して」
「風花ちゃんに此処のこと教えましたから。
近所の喫茶店でソフトクリーム食べて待ってるので、終わったら呼んでください」
「あ……あんたね、何を勝手に……!」
「勝手じゃないです。私だって部外者じゃないんですから。
来瑠さん達のせいで私、死ぬほど怖い目に遭ったんですからね。
巻き込んだ側として、ちょっとは責任持ってください」
言ってやった言ってやった。
これでだめならもう知らない。
肩を上下させながら、ふーっ! と長めに息を吐き出す仔羊。
こっちだって好美ちゃんたちと遊んだりお話したりする時間を少なからずこの歪んだ雇用関係に割いているのだ。こんな葬式みたいな顔と空気でいられたら堪ったものではない。
「……終わったらちゃんと呼んでくださいね! きっとですよ!!
ほったらかして帰るのやめてくださいね! 泣きながら電話かけますからね!!」
道の先で振り返ってわーわー叫ぶ迷依に、今回ばかりはされっぱなしの来瑠なのだった。
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