追憶SⅡ/Elementary,my dear

『えー。やだよ、だってお前女じゃん』

『女がヒーローごっこなんておかしいんだぞ』

『そうだよ。女はあっちでおままごとでもしてろよ』


『――えー、やだー』

『だって結菜ちゃん、男の子みたいなんだもん』

『結菜ちゃんと遊ぶのつまんない。おままごとも下手くそだし、お話もヒーロー番組のことばっかりだし』

『あっちで男子と遊んでくればいいじゃん。私、結菜ちゃんがいるなら帰るー』

『私もー』



◆◆



 ――嫌な夢を見た。

 昔の夢だ。たぶん、小学校にあがったばかりの頃。

 今よりももっとずっと、自分という人間に素直であれた頃の記憶。


「……何。寝てたんだけど」

「そんなの見れば分かるわよ」


 そんな悪夢から結菜を浮上させたのは、ヤニの匂いを漂わせた母だった。

 下品なくすんだ金髪に、年齢由来の劣化を隠すための厚化粧。

 みっともないとか、必死とか。そういう言葉が否応なく浮かぶ、悪い意味で年甲斐のない姿で母は結菜の身体を揺さぶっていた。


「冷蔵庫のビール減ってんのよ。七本あった筈なのに五本になってる」

「あー……ごめん。しのと二人で一本ずつ飲んだわ」

「冷蔵庫のもの食べたり飲んだりしたらメモに書いとけっていつも言ってんでしょ。ったく、あんたは何回言っても覚えないんだから」


 眠気が酷い。

 下らない要件で起こしやがって。

 心の中で悪態をつきつつ、もう一度身体を丸めて目を閉じようとする。

 しかし、生憎とこの毒母はまだ娘のことを解放する気がないようで。


「ていうか、そうよ。詩述ちゃんは何処行ったの。当分居候するって話じゃなかったの?」

「…………うっさいなあ」

「は?」

「なんでもない。なんも言ってないよ。……ちょっと喧嘩しただけ。家に帰るって言ってさっき出てった」

「家に帰るって……。あんた、あの子んちはろくでもないから帰すわけにいかないんだよね、とか言ってたじゃん」


 詩述。しの。

 その名前を聞いた途端、露骨に顔を顰めてしまうのを堪えられなかった。

 本当にこの母親は余計なことしかしない。自分が少し仲間外れにされたと愚痴を言っただけで相手の家まで怒鳴り込んで菓子折り持って謝りに来させたあの日から何も変わっていないと言わざるを得ない。

 こっちは、その名前を忘れるためにわざわざこんな時間から寝てるってのに。


「さあ? 自分で帰ったんだし、いいんじゃないの。別に」


 そうだ。あいつのことなんて、もう知ったことじゃない。

 自分はお人好しではない。あそこまで言われてまだあれこれ世話を焼いてやる義理などないのだ。

 やれ出来損ないだ、クズ女だ、犯罪者だと好き勝手言ってくれた。

 そんな相手のことなど知ったことか。野垂れ死ぬなり、家に帰って気まずい思いをするなり、好きにすればいい。

 もう私には一切関係ない。私は所詮、舞台に上がったと勘違いして浮かれてはしゃいでいた子どもでしかなかったのだから。


「外、雨すごいよ」

「傘くらいそのへんで買うでしょ。それかバスでも乗ったんじゃない?」

「乗ったんじゃない?って、あんたねえ」

「関係ないでしょ、ママには。……こっちにはこっちの事情があるの。とにかく、もう私はあんな女のことなんて知らないから」


 結菜の母は、気まぐれと自己中心的思考の塊のような人間だ。

 機嫌を損ねなければ陽気でひょうきんだが、一度スイッチが入れば際限がない。

 だからこそ結菜はナチュラルに失礼なところのある詩述とはなるべく会わせないようにしようと思っていたのだが、いざ顔を合わせてみると彼女は大層詩述のことを気に入ったようだった。

 面白い子だとか。かわいいだとか。結菜の代わりにうちの子になりなよだとか、デリカシーってものはないのかと思わず突っ込んでしまうくらいの猫可愛がりを見せたのがついこの間のことだ。

 ――ち、と心の中で舌打ちをする。

 どうでもいいだろ。あんたには、関係ないだろ。

 娘にそんなことを思われているとは露知らぬまま、結菜の母親は肩を竦めて煙草に火を点けた。


「まあ、親の私が口出すことでもないけど」

「ならもういいでしょ。私寝るから」

「ほんとガキだねえ、あんた。相変わらず」

「……何、喧嘩売ってんの」


 思わず食って掛かってしまう。

 そういうところがガキなのだと言われれば返す言葉もなかったが、これをスルーできるほど結菜は大人ではなかった。

 相手は親だ。扶養されている自覚もある。だから大概のことははいはいと生返事で聞き流してやる。

 でも、詩述のことは話が別だ。あいつのことに関しては、親だろうが何だろうが他人にとやかく言われる筋合いはない。

 露骨に不快感を露わにする娘に、しかし母は。


「あんたは昔からねえ、相手に求めすぎなのよ」

「は?」

「相手に理解と許容を求めるくせに、自分はてんで合わせないでしょ。

 ちっちゃい頃何度泣きつかれたことか。結菜ちゃんうるさいから嫌いだって言われた、仲間外れにされたーって。

 そんで息巻いて相手の家に乗り込んで言い分聞いてみれば、大体あんたのこだわりとか自己主張が強すぎてあっちが痺れ切らしたのが事の真相なのよ。こっちも吐いた唾飲めないから散々怒鳴り散らして帰るけど、内心結構罪悪感あったんだからね」


 でもそういうとこ、本当私に似てるわ。

 そう言ってからからと笑った。

 こうなると不服なのは結菜の方だ。

 似てる? 私が。この毳々しい女に?


「うち、傘無駄にいっぱいあるでしょ」

「……誰かさんが定期的に拝借してくるおかげでね」

「ちょっと、人聞き悪いこと言わないでよ。ご自由にお持ちくださいって書いてるから持ってきてんのよ」

「目腐ってんじゃないの」

「いいから。さっさと追っかけてきなさいな」

「……なんでママにそんなこと言われなきゃなんないのよ。私と詩述の問題に口出さないでほしいんだけど」


 女のくせに、大の男でも嫌がるような重い煙草ばっかり吸って。

 年甲斐もなく韓国の良い化粧品やらサプリやら買い漁って、毎回違う男を連れて帰ってきて耳触りな音を聞かせてくるこいつに、私が似てるというのか。

 そんな不快感を隠せている自信はもはやなかった。

 しかし母は、どうやら真っ昼間から相当酒を入れているらしい。

 仕事がたまに休みだとこうやって日の高い内から飲み歩いて、へべれけになって帰ってきては物好きな男を呼んで遊ぶのが結菜の母の習性だった。

 とにかく――いつもなら喧嘩に発展しても不思議ではない結菜の態度を前にしても、母はどこ吹く風といった様子だった。


「あんた、いっつも後になってから後悔するんだから。

 あんなことしなきゃよかったってめそめそめそめそ。女々しいったらないのよ」

「……だから――」

「来瑠ちゃんともどうせそれで別れたんでしょ。せっかくの新カノなんだし大事にしなさいな」

「――は?」


 時が止まる。

 こいつ今なんて言った?


「しかしあんたってあれよね。来瑠ちゃんといい、詩述ちゃんといい」

「……いや、あの。ママ?」

「ちっちゃい子が好きなのね(笑)」

「そこに直りやがれこの色ボケ毒親ァ!!!」


 天まで届く勢いで絶叫したら、なんだかどうでも良くなってきた。

 激重の煙草を吹かしながら、冷蔵庫から取り出したビール発泡酒を呷って酒臭いげっぷを吐き出す姿は本当にこんな大人にだけはなりたくないと思わせてくれる。

 

「……そんなんじゃないから。私レズじゃないし。

 来瑠とは色々あって離れただけ。詩述とも別に付き合ってるとかそういうのじゃないっつの」

「あはは、マジ? ずいぶん甲斐甲斐しく世話焼いてるから、おー次はヒモ系ダメ女でも囲い込んだのかと思ってたのに」

「ママって私のこと何だと思ってんの?」


 そういうのじゃない。

 断じてそういうのじゃないんだ、私のは。

 私はただ、あいつに魅入られただけ。

 退屈してた私の前に、青天の霹靂のように現れたあいつに。

 あの不敵な笑顔に。抜けているのに、変なところで鋭い性格に。

 たまに見せる無防備な顔に。寝ている時の無垢な顔に。

 触れ合うと感じる体温に、艷めく黒髪に、白い肌に手足に――非日常のにおいを感じ取って飛びついただけ。


 あんな変態どもと一緒にされるのは心外だった。

 本当に脳の溶けた女だ。脳が頭じゃなく子宮に入っているとしか思えない。

 辟易しながら、結菜は立ち上がる。

 上着を着て、家の合鍵をポケットに入れて。

 乱れた髪を手櫛で整えて、玄関の方へと歩き出した。


「はは、結局行くんじゃん」

「うっさい。酔ってるママと居るのがだるいだけだから」


 そうだ。

 私はただ、この空間に居たくないから仕方なく行くだけ。

 外は雨が降り続いている。風も出てきて、傘なんて役に立つかどうか。


「お風呂沸かしとく?」

「……お願い」


 傘を二本持って、結菜は外に飛び出した。



◆◆



『結菜ちゃんってさ、昔すっごい変な子だったよね』

『あ、それ分かる。男の子とばっかり遊んでてさ、お話しててもなんとか戦隊がどうとかそういう話ばっかりで』

『今だから言うけど、私結構結菜ちゃんのこと苦手だったなー』

『えへへ、実は私も。変な子だなって思ってた』


『あ、今は全然そんなことないから安心してね』

『うんうん、今の結菜ちゃんはぜんぜん変じゃないよ!』

『結菜ちゃん、コスメとかファッションにすっごい詳しいもんね。

 服のコーデとかもすっごい可愛くてイケてるし、むしろちょっと憧れちゃう』

『女の子、って感じだよね! うちのクラスだと未華ちゃんと結菜ちゃんがぶっちぎりで女の子らしくて可愛いと思う!!』



◆◆



 思えばずっと、ヒーローになりたかった。



◆◆



 外は案の定の土砂降りだった。

 持ってきた傘は走り始めてものの三分としない内に骨が折れてゴミと化してしまった。

 ああまったく、なんであんな奴のためにこんなことをしなきゃいけないのか。

 考えるだけで腹が立つ。人のことを犯罪者だのクズだの好き勝手言ってくれたあいつに、私をおだてるだけおだてて心の中でけらけら笑ってたような腹黒女のために、私はなんだってこうも必死こいて走っているのか。


(……家にはたぶん、帰ってないよな。だったら――)


 こっちの方、だろうか。

 ほぼほぼ直感に従って足を動かす。

 水溜まりを思い切り踏み抜いてしまい、ズボンが派手に汚れた。

 息が切れる。寒い筈なのにひどく暑い。

 ああ――くそ。どこまで行ったんだ、あのバカ。



『ねえ、結菜さん。どうやったって主役にはなれないあなた』



 脳裏に、私達の始まりになった言葉がよみがえる。

 痛いところを突くな、と思った。

 高嶺来瑠の添え物。機嫌を取りながら意向に従う腹心。

 なんて言えば聞こえはいいが、要するにやってることは金魚の糞。


 ――うむ、まったく返す言葉もない。

 実際それは、結菜自身自覚した上でやっているロールだったのだから。

 

(この世界は、フィクションじゃない。

 悪の怪人はいないし、ひとりの勇気や強さでみんなが動くこともない。

 むしろ現実はその真逆。輝きすぎた釘は、冷たく素っ気なく平らになるまでぶっ叩かれるだけ)



 結菜がそれを実感したのは、"女の子らしさ"という常識の壁を前にしてだった。



 昔の自分はそれはそれはであった。結菜はそう述懐する。

 昔父親が見せてくれた特撮番組に感銘を受けてすっかりハマり込み、同年代の女子が見るようなコンテンツを低俗でつまらない子供騙しと見下していた。

 その言動は同性の反感を買ったが、結菜としてはそんなものどうでもよかった。

 せいぜい弱い女同士で集まって、キラキラ可愛い幼稚なコンテンツにうつつを抜かしていればいいとそう思っていた。

 だが――


 ――えー。やだよ、だってお前女じゃん。

 ――女がヒーローごっこなんておかしいんだぞ。


 ――えー、やだー。

 ――だって結菜ちゃん、男の子みたいなんだもん。


 その"痛さ"と"熱意"は、学校という幼稚性の渦巻く箱庭においては十分すぎるほどに"出る釘"だった。

 気付けば居場所はなくなっていて。

 気付けば、遊ぶ相手はおろか話してくれる相手もいなくなっていた。

 ちょうどそんな頃に父が電車に飛び込んで。

 色々あって、本当に色々あって。

 父が大事にしていた変身ベルトがゴミ箱に突っ込まれているのを見て、結菜は「ヒーローなんていない」という当たり前にようやく気がついた。


 主役になろうとせずにうまく生きることは、驚くほどに簡単だった。

 ひときわ目立つ誰かのそばで、その光を喰わない程度に眩しく輝く。

 そうすればいつだってみんながちやほやしてくれた。

 二人セットでなら、誰もが自分を光り輝くヒロインとして持て囃した。


 金魚の糞と揶揄する声があろうが構わない。

 言いたいやつには言わせておけ。どうせ勝てやしないんだ。

 この生き方に隙はない。いざとなったらすぐに鞍替えすれば、何があっても自分が落ちぶれることだけはあり得ない。

 それが、小椋結菜の選んだ生き方。

 誰よりも賢く、誰よりも"強い"生き方。

 

 でも。

 本当は。


 ――それじゃ、お姫様役は未華ちゃんに決まりでいいですか。

 ――……結菜ちゃん? どうしたの。もしかして。

 ――結菜ちゃんもお姫様、やりたいのかな?


 ――あはは。そんなわけないでしょ、先生。

 ――お姫様やれるのは未華しかいませんって。未華が一番可愛いんだから。


 

 本当は、いつだって主役ヒーローになりたかった。



◆◆



『わたしの友達を助ける、正義のヒーローになってみませんか?』



◆◆



 今の時代は、どこの店もしっかりしてる。

 面倒事を避けたい気持ちはみんな同じなのだ。

 だから、基本的に未成年が一人で夜を明かすなんてことはできない。

 ラブホテルなんかであれば話は別だろうが、それでも一人客なんて見えた地雷を泊める真似をするところはそうそうないだろう。

 ましてや詩述はあの見た目だ。

 十中八九、店に入って時間を潰しているとは考えられない――あってもコンビニ程度だろう。


「くっそ……」


 身体が暑かったのは最初の内だけだった。

 今やすっかり雨で身体が濡れて、芯まで凍えるほど寒い。

 こんな空の下、どこで何をしてるんだ。

 息を切らしたせいで喉が痛い。足に乳酸が溜まってひどく重い――無視する。



 とんだ道化ピエロだ。

 甘い言葉にほいほい釣られて。

 詩述の真意なんて露知らぬまま踊っていた。

 手駒兼金づる程度に思われていたのだろう。ああくそ腹が立つ。

 そんな相手が衣食住を提供してやるなんて言い出した時のあいつの気持ちは一体どんなだったのか考えたくもない。


 ――ヒーローになりたかった。

 ――このつまらない日常を、粉々にぶち壊すような非日常に遭いたかった。


 高嶺来瑠という光の傍にいるのは心地よかった。

 来瑠は凄い奴だ。今まで色んな人間の太鼓持ちをやってきた結菜だが、あそこまで抜きん出た人間は見たことがない。

 人の上に立つべくして生まれた人間とは、ああいう奴のことを言うんだろう。

 そんな来瑠は結菜にとって最高の寄生先で。

 けれどそんな極上を見出し寄生している時でさえも、胸の奥に渦巻く願望は消えてはくれなかった。

 だから、なのだろう。

 小綿詩述などという、見るからに怪しい案内人の誘いに飛びついてしまったのは。


 来瑠という悪を成敗するのは楽しかった。

 本当に、笑ってしまうほど爽快だった。

 でも、その実。心のどこかでは。 

 父が熱の入った口調で解説してくれた、液晶の中で颯爽と活躍し悪を挫く覆面のヒーロー達の姿と今の自分が重ならないことを自覚していた。


 ――これの、どこがヒーローだ。

 ――悪を倒して、次の弱い者にして。

 ――虐げて、苛めて、踏みつけにする。

 ――パパは、そんなものを私に勧めたんだったっけ?


 そうだ、分かってた。

 こんなのはヒーローじゃない。

 自分の憧れてたものとは、違うって。

 そう分かってたんだ、最初から。



 すれ違う制服姿の女にいちいち足を止めてしまう。

 奇異の目を浴びることは気にならなかった。

 この土砂降りのなか傘も差さずにずぶ濡れで走っている時点で今更だ。

 いない、いない――どこに行ったんだ、あいつ。


 ――あのさ。もう、いいんじゃない?


 心の中の誰かが語りかける。

 誰だ、こいつは。

 いいや分かりきっている。

 私自身だ。


 ――家に帰ったのかもしれないし、私がぜんぜん知らないところに行ったのかもしれないじゃん。

 ――こんな闇雲に探したって仕方ないって。

 ――本当に無理そうだったら、適当な謝罪文句でも引っさげて電話なりなんなりしてくるでしょ。あいつ無駄に賢いんだし。


 湧いて出る言葉は、甘言と呼ぶに相応しい甘さで。

 思わず釣られてしまいそうになる響きを含んでいたが、それでも結菜は進んだ。

 らしくない。この"熱意"は、自分らしくないものだ。

 それは捨てたはずだろう。あの日、ひとりぼっちになった日に。

 ゴミ箱に突っ込まれた変身ベルトを見てヒーローの不在を感じ取った日に。


「……うるせえんだよ、ヘタレ」


 至極冷静で真っ当な意見を伝えてくる自分をそう罵倒して。

 結菜は寒さで震える歯を、がぢりと強く食い縛った。


「あいつ、チビのへなちょこなんだよ」


 結菜はあそこまで弱い人間を知らない。

 あいつの運動神経はクソだ。いや、それを言うなら性格もだけど。

 そんな奴がこの雨の下で、もしかしたら今も雨に降られているかもしれない。

 ――ほっとけよ。――あんな奴。――見苦しいな、お前も。

 ――まだ夢見てんのかよ。――いい加減気付けよ。――お前なんて。

 ――所詮、ただの添え物だろうが『うるさい』『お前は、もう黙ってな』


「あんな奴……!」


 小綿詩述はどうしようもない人間だ。

 頭がいいくせして抜けていておとぼけだ。

 誰がどう見ても貧弱なのに、平気な顔して無茶をする。

 そのくせ性格も最悪だ。他人の傷付く言葉を次から次へと用立ててくるノンデリだ。

 そんな人間なのによりによってろくでもない女に未練がましく執着している。

 私のことなんて――見てくれもしない。


「あんな奴……!!」


 そんな奴のことなんて。

 ああ――


「ほっとけるわけ、ないだろうがよ……!!」



◆◆



『わたしにだって心はあります。傷つくためだけに家に帰るのは、ちょっとつらいのです』

『ただ、見てくれないだけです。

 話しかければ返事もしてくれる。でも、あの人はわたしを見てくれない。

 人の苦しみと自分の苦しみに優劣をつけるなんて愚の骨頂ですが、わたしはいっそ、煙草でも押し付けられた方がまだ耐えられたでしょう。

 だってその時、あの人はわたしを見てくれるから』

『結菜さんを連れ回したのも、お察しの通り大体はそのためでした。迷惑でしたか?』



◆◆



『結菜』

『ヒーローが好きか?』


 ――うん、パパ。

 ――好きだよ。だってかっこいいんだもん!


『そうか』

『じゃあ、結菜はさ』

『"みんな"じゃなくてもいい。

 自分の本当に大切な、守ってあげたいと思う人が泣いていたら――助けてあげるんだぞ』

『パパとの、約束だ』


 ――わかった、約束!

 ――ゆびきりげんまん、嘘ついたらはりせんぼんのーますっ……

 ――ゆーびきった!



◆◆



 ……そんな約束を。

 なぜだか今になって思い出した。



◆◆



 雨が降り続いている。

 小さな、本当に小さな公園だった。

 その入口に立つなりすぐに、木の下の小さな影を見つけた。

 膝を抱えて、顔を俯かせて。

 ――なんだよ、そのザマは。

 そんな言葉を胸の中で吐き捨てながら、足を一歩前に出す。


 その音を聞いたのだろうか。

 影は、顔を上げて。

 一瞬――ひどく驚いたような顔をした。

 

「……びっくりです。まさか追いかけてくるなんて」


 しかしその顔は、すぐにあの時と同じ笑顔に変わる。

 嘲りと、悪意とをたっぷりと秘めた笑顔に。

 

「未練がましいことこの上ありませんね。

 わたしの言葉、ちゃんと届いていなかったんでしょうか」


 改めて実感する。

 自分はきっと、舞い上がっていたのだろう。

 自分の中にずっとあった飢えを見透かされて、おだてられて。

 ヒーローだワトソンだと扱われて気分を良くして、自分こそが彼女の唯一無二の理解者なのだと思い上がっていたのだろう。

 なんて滑稽。思い出しただけで、胸を掻き毟って悶絶しそうになる。

 

「それとも、なんです? わたしに一杯食わされたままじゃ我慢できなくて、お得意の暴力でも振るいに来たんですか?

 ふふ、やっぱり来瑠さんにそっくりですね。浅ましいというか、なんというか」


 詩述は、やっぱりずぶ濡れだった。

 濡れた髪が肌に貼り付いて、いつもの姿とは大違いだ。

 だからだろうか。その言葉も嘲笑も、ちっとも心に響かなかった。

 それをいいことに足を進める。少しだけ、詩述の表情が変わった。


「……来ても無駄ですよ。あなたなんかじゃわたしはどうにもできません。

 来瑠さんならまだしも、あなたはただの金魚の糞。添え物でしょう?

 それがわたしをどうこうしようだなんて、思い上がるのも――」

「うるさいよ」


 溢れ出しては次から次へと投げかけられる言葉の洪水をその一言で断ち切る。

 ただ、足を進める。

 詩述は、座ったまま――少し後ずさりしたように見えた。


「しのってさ、大概向こう見ずだよね」


 あの時は、投げつけられる言葉のひとつひとつがあまりに痛くてそれどころではなかったけれど。

 今になって改めて考えてみれば、あれが計画されていた"切り捨て"じゃなかったのだとよく分かる。


「私がいなくても問題ないみたいなこと言ってたけどさ。もやしのあんたと根暗女の火箱の二人だけ残って、あの変態教師にどう対処すんのよ」

「……なんですか、それは。思い上がりも甚だしいです、そんなもの幾らでもやりようが――」

「あれがそんな理屈が通じる奴に見えたのかよ、しのには。

 二人纏めてぺろっと平らげられて終わりでしょ。一回暴力でわからされてるんだから、そのくらい考えて行動しろって。

 ていうかまず私がいなきゃ来瑠にも勝てないだろ。あいつ格闘技経験ある猛獣だぞ。しのなんて十人いてもどうにもなんないよ」


 となるとやっぱり、詩述がそんな行動に出たのは自分が言ったあの言葉のせいなのだろう。

 結菜としては完全に善意でかけた励ましのつもりだったのだが、詩述にしてみれば地雷の上でタップダンスを踊られたようなものだったらしい。

 配慮が欠けていたとは思う。だけど、謝る気はさらさらなかった。

 そもそも最初に騙していたのはこいつの方なのだからこれでおあいこだし、何より今必要なのは謝罪の言葉ではないと確信している。


「あんたにホームズは無理だよ。感情的すぎる」

「……、……」

「過去のろくでもない女にいつまでも執着して、そのくせ相手の気持ちなんてまったく考えてない。自分勝手で押し付けがましくて、足元は疎かで向こう見ずで意固地。そんな奴に探偵なんて務まるわけないでしょ」

「――うっさい、です!!」


 詩述が、濡れて震える小さな身体を動かし立ち上がった。


「あなたが、あなたなんかがわたしのことを語らないでください!

 底の浅い、能力のない、添え物のくせに!

 いつまで片翼ヅラをしているんですか、気持ちの悪い……!!」


 結菜はもう、何も言わない。

 ただ、その足を前へと進める。


「来ないで! わたしは!」


 足を。


「わたしは、一人で……全部叶えてみせる!!」


 進める。


「あなたなんか、必要なものか――」


 ――足を、

 ――進める。


なんて、言ってない……!!!」



◆◆



 たすけて。



◆◆



「――ああ、わかったよ」

「私があんたを、助けてあげる」



◆◆



 今になって思うことがある。

 答えはすごく、初歩的なことだった。

 基本だった。なんですぐに気付かなかったんだろうってくらいに。


 結菜は、らしくない大声で叫ぶ詩述の身体に手を伸ばした。

 詩述の身体が、びくりと震える。

 殴られるとでも思ったのだろうか。だとしたら馬鹿な奴だ。

 私が――あんたのこと、殴るわけないだろ。

 そう心の中で呟きながら、私は雨に濡れた小さな身体を抱き寄せて。

 そのまま……



「――――っ……~~~~~、……!!??」



 目の前の唇に、自分のを重ねた。

 ちゅ、という音が少し弱くなってきた雨垂れの中に小さく響く。

 詩述はばたばたともがいていたが、当然離さない。

 離してやるもんか。やっと見つけたんだ、こっちは。


「ちょ、やめ……何、して、っ。ふ、んむ……っ!? ぷぁ、んっ! ぁ、ぅ……」

「……うっさい。……黙ってろ、馬鹿探偵」

「ぅあ、ひ……っ、ん、ぅ……!」


 抵抗のすべてを封殺して舌をねじ込んだ。

 正当性なんてまったくありはしない。

 本命がいると分かってやってるんだ、ただの性暴力である。

 そんなのは百も承知だ。しかし今更だろう。こちとら元々いじめっ子、校内暴力の片棒担ぎ。犯罪者呼ばわりなんて――今更すぎる。


「ぷ、は……! はあ、はあ、っ、……あ、あなた……何を、してっ……!」


 口と口とを繋いだ、銀色の糸。

 それを垂らしたままで、詩述は見たこともない顔でわなわなと震えた。

 そんな詩述を抱えたまま、さっきまで彼女が座っていた木の根元に腰を下ろす。

 自分はあぐらをかいて。その上に彼女を座らせる、そんな格好だった。


「助けてほしいなら、最初から素直にそう言えっての」

「そんな、こと……!」

「何、ないの? じゃあ私の勘違い? だったらこのままほっぽり出して帰るけど」

「は――はあ……!? なんですかそれは!

 人に、恋する乙女に……こ、こんなこと、しておいて……!

 よくもそんな無責任なことが言えたものですね、この変態っ……!」

「あー、うん。もうそれでいいや。はい、ちゅっちゅ」

「んむむぅっ……!?」


 ――小綿詩述は呪われている。

 すべての過去に、呪われている。

 その呪いはとても強固で、複雑怪奇。

 だから、結菜はもう解くための手段を選ばなかった。

 彼女を助けるために、手を伸ばすことを惜しまなかった。



 ……雨降りの夜に。

 淫靡な音が、何度か連続して。

 諦めた詩述が抵抗をやめると、しばらくはお互いの息遣いだけが響く時間が流れた。


 どれくらいそうしていただろう。

 数分だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。

 正確なところは定かではないが――その静寂を破ったのは、詩述の方だった。


「……なんなんですか、あなたは」

「何、って?」

「行動の理由がさっぱりわかりません。

 種明かしは済んだはずです。わたしがあなたを裏切っていた、いや最初から一度だって信用などしていなかったことは明かしました。

 なのにどうしてあなたは、わたしに――こうやって鬱陶しくまとわりつくんですか。理解不能です」


 それはきっと、至極もっともな疑問。

 詩述にしてみれば、結菜の行動のすべてが不可解でならないに違いない。

 あれほど徹底的に種を明かし、尊厳を凌辱し、その上で切り捨ててやったのに。

 訣別の言葉の舌の根も乾かぬうちに追いかけてきて、こんなことをする。

 

 そんな問いを受けて、結菜は。

 ふ、と小さく笑った。

 

「わたしは真面目に聞いているんです」

「いや――ごめんごめん。しのって結構、察し悪いなって思って」

「……なにをわたしを差し置いて探偵ぶっているんですかこの添え物さんは。

 いいからさっさと答えを言いなさい、これは命令です」


 はいはい。

 そう言って、抱きしめる腕の力を少し強める。


簡単なことだよElementary,my dear、しの。

 ……だっけ。これで合ってる?」

「それ、は――」


 小綿詩述は、シャーロック・ホームズなんて読んだこともない。

 でも、その言葉は――



◆◆



?』

『ふふん。そんなの――』

簡単なことですよElementary,my dear、モリアーティ』


『わたしは、あなたに死んでほしくなかった』

『あなただって、わたしの大事な友達なんですから』


 あの日、あの頃。

 大好きだった、あの子の。

 一番の、決め台詞で――



◆◆



「私をヒーローにしたのは、あんたでしょ」


 小椋結菜は知っている。

 この世に、ヒーローなんていやしない。

 彼らの存在が許されるのはいつだって液晶の中、銀幕の向こうだけ。

 みんなを助けるヒーローなんてあり得ないから、自分だってヒーローを名乗りながら他人を虐げることしかできなかったのだと今なら分かる。


 ――それでも。

 ――あの人がくれた希望を、否定したくない。

 ――あの頃の私を、否定したくない。

 ――だから。小椋結菜は、決めた。


 みんななんて、どうでもいい。

 私はただ、ただ一人。

 小綿詩述こいつだけのヒーローになろう。

 無駄に賢しくて意地っ張りなその手を引いて、暖かい方に連れ出してやれる、そんなワトソンになってやる。


「そりゃ助けるでしょ。まだ私達、何にも勝ってないんだから」



 ……その、言葉に。

 詩述は悪態を返してやるつもりだった。

 でも、不思議と言葉が出てこなかった。

 あまりにも馬鹿馬鹿しくて、なんだか怒ったり意地張ったりするのも疲れてしまって。


「…………雨、やみませんね」

「そろそろ帰る?」

「…………仕方ないです。

 寂しがり屋なワトソンさんに免じて、しょうがなく今日のところは帰ってあげますか」

「じゃあ置いてくかぁ」

「お? 乱暴されたってめちゃくちゃ叫びますよ?」


 つい、空を見上げた。

 本当に今日はひどい雨降りだ。

 おかげで目の前がよく見えない。

 すん、と小さく鼻を鳴らして。

 詩述は、差し伸べられた手を掴んだ。


 ――もう、寒くはなかった。

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