灰は灰に、塵は塵に

 火箱風花は、破格の力を持っている。

 すべてをねじ伏せられる力だ。

 邪魔なものすべてを消して、思うがままに生きられる力だ。

 思えば、ずっと引っかかるものはあった。頭のどこかでずっと疑問には思っていた。


 ――ふ―ちゃんは、こんなに凄い力を持っているのに。

 ――なのにどうしてこうも何もかもうまくいかないのだろう。


 声で人を殺せるなら、何の証拠も残らないんじゃないのか。

 現に過去は、あのクソ女の言うことを聞いて殺しまくってたそうじゃないか。

 ならなんで、今はそうしてくれないんだろう。

 今も風花の心の傷になったままの詩述は百歩譲っていいとして、結菜やその他の障害物はどうとでもなる筈じゃないのか。

 それこそ――ひとりひとり呼び出して声を使うとか。

 自分が電話をかけて、通話越しに声を使うとか。

 やり方はちょっと考えただけでもいろいろ思い付く。なのに風花は一度も自分からそういう提案をしてこなかったし、来瑠もそこを突く真似をしなかった。


 何故か。

 たぶん、薄―気付いていたからだ。

 風花が声を自分から使おうとしない理由。

 それを追及したら、自分たちの間の何か大切なものが崩れてしまう。

 奇跡的なバランスの上に成り立っていた何かが、音を立てて崩れ去ってしまうと。


「ふ―ちゃんさ」


 帰り道、既に日は落ちていた。

 あの後教室に戻って、風花と落ち合って。

 それから校門を出て今に至るまで、二人の間には一言の会話もなかった。

 正確には、風花の話しかける言葉をすべて来瑠が無視していた。

 別に拗ねてるとかふて腐れてるとかそういうわけではない。

 本当に――今、彼女とどう話せばいいか分からなかったのだ。


「……うん。なに、く―ちゃん?」


 さっきまではあんなに気を揉んでいるような、落ち着かないような顔をしていたのに。

 来瑠に話しかけてもらえるなり、ぱっと表情を明るくして応える風花。

 ――かわいい。小動物みたいだ。飼い主に久しぶりに構ってもらえて、喜んでしっぽを振るかわいい生き物。

 

 こいつが本当に小動物だったなら、きっとこんなにやきもきしなくても済んだんだろうな。


 でも、風花は人間だ。

 物を考えるし、都合の悪いことは隠そうともする。

 明かせない想いは、こころに秘める。

 風花は来瑠の玩具だ。でも、それはあくまでも比喩でしかない。

 物を考えず、何も秘めることのない。かわいいだけの小動物おもちゃだったなら、どれほど良かっただろうか。


「私がこうなったこと、良かったと思ってるんでしょ」

「……え」


 ひゅ、という音が聞こえた。

 風花の喉から鳴った音だ。

 微笑みを凍らせて、風花が足を止める。

 そんな彼女に振り返った自分が、果たしてどんな顔をしているのか――来瑠自身でさえ定かではなかった。


「ち、……違うよ。そんなこと、ない――そんなわけない。

 私は、本気でく―ちゃんのことを助けてあげたいと思って……」

「いいよ、隠さなくても。別に責めたいわけじゃないし」


 そうだ、責めたいわけではない。

 以前までの自分だったなら、一も二もなく蹴り倒して喚き散らしていただろう。

 嘘つき、とか。裏切り者、とか。変態、とか。

 あらん限りの罵倒をぶつけて、この感情を発散していた筈だ。

 

 でも今のこれは、たぶん違う。

 そういうのじゃない。ぶつけてどうにかなるものじゃないのだ。


「ふ―ちゃん、優しくてお人好しだもんね。

 他人のために、その父親のことを本気で嫌いになれるくらいに」

「っ……」

「そんなふ―ちゃんが、結菜やクラスメイト達を殺さない。

 あの変態教師は例外としても、それ以外はふ―ちゃんが声を使ってくれれば全部すぐにでもどうにかなった筈でしょ。

 結菜にスマホ壊されたって言ってたよね。その時だってさ、そうじゃん」


 今、心の中にあるこの感情。

 それにどんな名前を付ければいいのか、来瑠には分からなかった。

 怒りではないと思う。失望とも、悲しみとも、多分違う。

 自分でも驚いてしまうほどに、来瑠の心は静かだった。

 荒れ狂って波打っているわけではない。揺れて、震えているわけでもない。

 ただ静かなまま、延―と渦を巻いている。渦巻く凪の水面という不可思議こそが、今の来瑠の心境だった。


 それは動揺であり、納得でもあり。

 誰か/何かにぶつけて発散するという来瑠が十六年間使ってきた手段ではどうやったって発散することのできない、理解不能の感情であった。


「……ま、しょうがないかもね。

 前の私ってふ―ちゃんのこと、本当にただの玩具としか思ってなかったから。

 詩述が結菜を誑かして、結菜がクラスを動かして……こうやって落ちぶれなかったら、きっとふ―ちゃんのことをこんなに考えることって一生なかったと思う」


 身も蓋もないことだが、本音だった。

 火箱風花はこれまで、高嶺来瑠にとって玩具でしかなかった。

 最高でも、極上でも、玩具は玩具だ。人間じゃない。

 それが、あの一件があって――自分が落ちぶれて。

 一緒に暮らすようになって、いろいろあって、距離が縮まった。視点の高さが同じになった。

 いつしか来瑠は、風花を同じ人間として見るようになっていた。

 その上で、特別な存在だと思うようになっていった。


「――違う。違うんだよ、く―ちゃん」


 だからこそ来瑠は、風花の本心にも納得していたのだが。

 それでも風花は、唇を噛んで俯きながら違うと言う。

 声を使わなかったことを弁明しているわけではない。

 違う、というのは。"対等になりたかった"と、そう認識されていることについての言葉だ。


「私、わたしは……そんなのじゃ、ないの。

 わたし、そんな――」


 私のは、そんなかわいい理由じゃない。


 く―ちゃんが好きだった。

 何をされても、どう言われても、ずっとずっと好きだった。

 あの日、夕暮れの桜並木道で振り返ってくれた笑顔を覚えていたから。

 かわいくて、きれいで、いつだって自分の手を引いて誘ってくれる彼女のことが好きだった。

 たとえ自分がどんなに痛くて苦しいことをされようと、く―ちゃんが喜んでくれるならなんだって受け入れてあげるつもりだった。誓って、嘘じゃない。

 でも。


 あの日――傷ついて、弱って、汚くなったく―ちゃんを見たその時。

 私の中で、芽吹いてはいけない何かが芽を出した。


「……言ったでしょ。責めたいわけじゃないの。ていうか私自身、どうしたいのか分かってないから」

「お願い、聞いて。く―ちゃん、あのね。私……」

「いいよ、言わないで。今は……聞きたくない。

 ふ―ちゃんに何言われても、すごいみっともないこと言っちゃいそうだから」

「わたし……!!」

「言わないでって言ってるでしょ!!」


 言わないで、と来瑠は言う。 

 でも風花は堪えられなかった。

 ずっと分かっていた。いつ指摘されるだろうと恐れていた。

 なのに自分からは、どうしても言えなかった。

 声を使わない理由。この心に渦巻く、醜くて汚らしい感情。

 

 自分を受け入れてくれたく―ちゃんが好きだった。

 あの追憶を聞いてくれたく―ちゃんが好きだった。

 意地っ張りで、でも寂しがりで、寝ている時にはきゅっと抱きついてきてくれるく―ちゃんの弱さが好きだった。


 ――すき。だいすき。く―ちゃんの弱い姿を見ていると、お腹の奥がきゅんと疼くのだ。

 だから隠した。だから、素知らぬ顔をして口を閉じた。

 終わらせられない理由、何も変えられない理由、誰も殺さない理由。

 全部隠して、心に秘めて、何食わぬ顔でく―ちゃんの味方をして。

 ……そんな日―がいつまでも続くなんて、そんな都合のいい話がある筈もないのに。

 ずっとずっと隠していた。そして今も自分の本当に救いがたい真実は、この心の中で照らされることなく隠れ潜んでいる。


「――好きだったの」


 それが許せなくて。

 今までずっと隠していた分際で、これ以上の不義を働くことだけは許せないなんてもっともらしい感情は残っていて。

 だから、闇の中に沈めたその真実を白日の下に引きずり出して差し出した。

 そんなことをしたって。何にもならないと、分かっているのに。


「弱って、苦しんで……私に縋ってくれるく―ちゃんが、好きだった」


 自分のために吐露していた。

 自己満足のために吐いていた。

 目を見開いて、そんな自分を見つめる来瑠の顔に心が痛む。

 もう、お腹の疼きはとうになかった。取り返しがつかなくなるなりすぐに引いてしまった醜さ《それ》を、風花は本気で殺したくなった。


「く―ちゃんの泣いてる顔が好きだった。

 夜、布団の中で小さく震えてる姿が好きだった。

 普段の強いく―ちゃんとはぜんぜん違う、弱くて情けないく―ちゃんのことが……すごく、好きだった。

 心が疼いて、きゅんきゅんしたの。だから――く―ちゃんをそうしてくれたクラスの子たちにも、私は……!」


 感謝、していた。

 皆まで言う前に、風花は堰を切ったみたいに溢れ出す口を自ら止めねばならなかった。

 目の前の風花が、さっきまでの自分のように唇を噛んで俯いていたからだ。

 そこでようやく気付いた。自分が、取り返しのつかないことをしてしまったのだと。


 来瑠は、無言のまま踵を返した。

 そして歩き始めた。よろよろとした、所在無げな歩みだった。


「っ……待って、く―ちゃん! どこに――」

「……来ないで。引き止めないで」

「……危ないよ。もうこんなに暗くなってるんだし……。

 わ、私が気持ち悪いこと言ったのが悪いんだよね。

 謝るから、く―ちゃんが怒ってるなら全部ぶつけていいから。だから、帰ろ? うちに帰ればごはんもお布団もあるから、だから……!」


 その言葉に、来瑠は足を止める。

 よかった。聞いてくれた。

 そう思う自分の迂闊さに嫌気が差す。

 現に来瑠は振り返ることをせず。

 背を向けたまま、弱―しい背中のまま――風花に、言った。


「……ごめん。今日は、ほんとに無理」


 その姿は、奇しくも、皮肉にも。

 風花が昏い情欲を燃やしていた、来瑠の弱―しい姿そのものだった。

 ああだからこそだろう。こうしている今も、一度は鳴りを潜めた筈の疼きが帰ってきて下腹をきゅんきゅんと言わせている。

 なんて――醜い。なんて、気持ちの悪い。

 今まで蜜月の日―を共にしてきた自分の本心。昏く、そして深い欲望の灯。

 人間というのはなんとも都合のいいもので、今の風花にはそれが棘の沢山ついた奇怪な毛虫のようにおぞましく思えてならなかった。


「ひとりに、させて」


 そう言って去っていく来瑠の背中に、もう言葉をかけられない。

 ふるふると震える手を伸ばすが、その手が届くことも、愛する彼女の手によって取られることも当然ない。

 来瑠の姿が、晩秋の暗闇の中に消えていく。

 駆け寄って手を掴んででも連れ戻すべき時間と場面だと頭では理解しているのに、それでも風花は動けなかった。

 仮にそうしたとして――どんな顔で何を言えばいいのか、その答えがどうやっても浮かんでくれなかったから。


 罪には罰が下る。

 因果には応報がある。

 それが、この世のあるべき理であると。


 かつて誰かがそう言っていた。今はもう遠く離れてしまった、大好きだった人の言葉だ。

 風花はそういう哲学的な話をする時の彼女のことがあまり好きではなかった。

 なんだか自分とは違う世界の住人であるような感覚を覚えてしまい、なんとも言えず寂しい心地でそれを聞いていたのだったが、今になってそんな言葉の数―が脳裏に蘇っては風花の心の柔らかい部分を突き刺してくる。

 

 ――ああ、確かにこれは自分に対しての罰なのだろう。

 醜くて卑怯で、どこまでも穢らわしい自分への罰。

 大好きな人を守ると言ったその口で、傷つき弱った彼女への欲から来る笑いをこぼした不実に対する報い。

 

 風花は動けなかった。

 何も、言えなかった。

 何も言えず何もできないまま、彼女は久方ぶりに独りになった。



◆◆



『法務省は11月27日、死刑囚2名の刑を執行したと発表した』

『関係者によると執行されたのは、X市D町で一家4人を刺殺した罪に問われた…………死刑囚(54)と』

『N市Y町で小学生の子ども2人を殺害し、強盗殺人罪に問われた小綿正志死刑囚(47)の2名』

『同省などによると…………、…………』

『小綿死刑囚はXX年X月、N市Y町の一軒家に強盗目的で押し入り、居合わせた佐藤健一くん(8)と空ちゃん(5)を殺害し、現金を奪って逃走するなどした』

『関係者によると小綿死刑囚は再審請求を行っていたとのことで、これに対し法相は「慎重な検討を重ねて判断を下した」とし――』



◆◆



 学校には行かないことにした。

 当然だ、行けるわけもない。

 将来の役に立つかどうかも分からない授業と目の前の大事な相手を天秤にかけて前者を選ぶ理由が一体どこにあるというのだ。

 ……気付けば時刻は午後の四時を回っていた。

 季節も季節だ、そろそろ日が傾いて暗くなってくる。

 だというのに。朝から今まで、小綿詩述は何も語ることなくソファに座って俯いたままだった。


「……ごはん、片付けるね」


 ――朝。詩述の父親の死刑が執行された。


 それを詩述は、テレビのニュ―スで知ったようだった。

 学校へ行く支度をして、後は自分の家事が終われば家を出るところで。

 何の気なしに眺めていた朝のニュ―スで、詩述は父の死を知った。

 そのことを理解した結菜がまず抱いたのは、恐らく彼女よりも早くその事実を聞かされていただろう詩述の母親への怒り。


 お前、母親だろ。

 しのの親なんだろ。

 なら、連絡くらいしろよ。

 どんだけどうでもいいと思ってるんだよ、こいつのこと。


 そんなもっともらしい怒りを覚える一方で――それと同じだけあったのは罪悪感。

 これに関しては完全な杞憂だと断言してよかったし、事実結菜には責任などない。

 彼女はただ、何の気なしに願っただけだ。

 何か起こらないかなと。火箱風花という過去の残影に囚われ続け盲目になっている彼女の心を揺るがすような何かが、起こらないものかと。

 そう心の中で思っただけ。そしてそれが、何の因果か叶ってしまったというだけ。

 言うなればただの偶然の重なりでしかない。だがそれでも、結菜はすぐにそう割り切れるほど大雑把な人間性をしていなかった。


 一口も食べてもらえずに冷めきった昼食を片付ける。

 冷蔵庫に入れておけば後でも食べられるかと一瞬思ったけれど、なんだか虚しくて一思いに生ゴミの箱へぶち撒けた。

 そして居間に戻ると、詩述の隣に腰を下ろす。

 詩述は何も言わない。朝からずっとこの調子だった。


 ――うち、帰んなくていいの。


 本当ならそう聞くべきなのだろうと思う。

 でも、結菜はそんな言葉を投げかけたくなかった。

 返したくなかったからだ。に詩述を帰したくない、そんな思考が常識的な考えの一切に打ち勝っていた。


「私もさ、父親が死んでるんだよね」


 電気もつけていない、暗がりの部屋の中で。

 おもむろに結菜はそう切り出した。


「小学校にあがるかどうかの頃だったかな。

 会社でリストラ喰らってさ、でも事が事だからなかなか言い出せなかったらしくて。何ヶ月も会社員のふりして朝出かけて、でもやっぱり誤魔化しきれなくなっちゃって。最後は夫婦喧嘩の末にうち飛び出して、近所の踏切にダイブ」


 家族というのは、ひどく薄っぺらなものだ。

 血の繋がりは所詮生物学上の繋がりでしかなく、それ以上の近しさを意味しない。

 幼い結菜は父親の通夜で笑いながらひそひそと噂話をする同僚たちと、家族写真をゴミ箱に捨てて亡き父への愚痴を平然と自分に聞かせるようになった母の姿を見ながらそう悟った。


「おかげで大変だったよ。母親は水商売始めてうちは荒廃していくし、生活のレベルもぐんと下がるし。ゲ―ム機とか高めの服とかも全部売らなきゃなんなかった」


 思うに小椋結菜じぶんという人間は、ひときわ利口な子どもだったのだろう。

 家族というものに失望と諦観こそ抱けど、それに痛みを感じることはなかった。

 そういうものだと思うことにして、現実とままならない気持ちとの間に分別をつけた。

 ゲ―ムが上手くて休日にはいつも対戦してくれた楽しい父の記憶と、家族にあらゆる迷惑を押し付けて勝手に死んだ愚かな父の現実を切り分けた。

 だから幼い日の離別と、そこから始まった生活の凋落を結びつけることもなく淡―と自分にあてがわれた身の上を享受することができたのだ。


「……大変だよね。親に振り回されるのって」


 ――あの時。自分は一体どんな顔をしていただろう。

 結菜は覚えていなかった。

 ただ今にして思えば、ちょうどこんな顔をしていたのかもしれない。

 そう思って隣の詩述を見る。だからだろうか。部外者の戯言なのは分かっていても、どうしても声をかけずにはいられなかった。


「子は親を選べない。親は産むかどうか選べるのに」


 詩述は答えない。ただ俯いて、何も言わず黙っている。


「けどまあ、なんとかなるって。

 今は悲しくて辛くて、他に何も考えられないかもしれないけどさ。

 しのは強いし……賢い子だから。小さい頃の私がそうだったみたいに、うまく折り合いつけて生きていけるよ」

「……、……」

「うちは大丈夫だから。この間うちの親と鉢合わせた時あったじゃん?

 しのが礼儀正しくてかわいいからかな。うちの母親、ずいぶんしののこと気に入ったみたいでさ。あんな子ならいつまででも居てくれていいわ―って上機嫌そうに話してたんだよね。

 だから、さ。しの、いつまでだってうちに居なよ。

 しののこと見もしない家なんて、親なんて――捨てちゃえって」


 家族なんて、所詮は法律が定める区分の一つに過ぎない。

 でも詩述は今、それにがんじがらめに囚われている。

 過去を振り切れずに歪んだ家族と、そんな家族かこに呪われた娘。

 もしもその束縛を自分が剥がしてあげられたら、ひょっとしたら火箱風花という忌まわしいものからも解放してやれるかもしれない。

 そしてそれを成し遂げられる人間が居るとしたら。

 その役目は舞台上で彼女の隣に立つことを許された自分以外にはあり得ないと、結菜はそう確信していた。


「私がいるじゃん、しのには」


 そうだ、私が居る。

 詩述はひとりじゃない。

 たとえ母親が見てくれなくても。

 たとえ、罪を犯した父親がこの世を去っても。

 あの呪いそのもののような女が振り向かなくても。

 私が居るからあんたはひとりじゃないんだよと、確かな思いを込めてそう語りかけた。


 一秒、二秒と、沈黙の時間が流れて。

 詩述は此処で初めて、ゆっくりと顔を上げた。

 疲れ切ったような顔に薄い笑顔が浮かぶ。

 視線と視線が重なって、結菜は思わずどきりとした。

 それと同時に強い達成感を覚える。

 ああ、自分の言葉は届いてくれたのだと。

 であればもう自分達はどこまででも行ける筈だ。いや、どこまでだって行ってみせる。こいつの手を引っ張って呪いの外へ、いつかの追憶の外へと駆け出そう。

 そう思いながら口を開こうとした結菜を遮って。



「――――さっきから何を知った風な口を利いてくれてるんですか。薄汚い犯罪者のくせに」



 小綿詩述は笑顔のまま、そんなことを、言った。



◆◆



「理解者みたいな顔しないでください。

 あなたの家の話なんて知りません。

 あなたみたいな出来損ない。人の心のわからないクズ女。そんなものを育ててしまうような腐った家の話を、人様の家に当てはめて話さないでください。とても不愉快です」


 息が詰まる。

 え、とそんな声が辛うじて口からこぼれた。

 そんな結菜のことを、詩述は「はっ」と鼻で一笑する。

 本当に、どうしようもないやつ。

 そう言われたような気がした。


「ちょっと優しくして適度に肯定してあげたらすぐ調子に乗って、まるでモテない男の人みたいですね。

 寝言は寝てから言うものですよ。あなたみたいな何の魅力もないただ汚くて卑怯なだけの人間、一体誰が大切に思うというんですか」


 それはまるで、今までずっと堰き止められていた水路の詰まりを取ったような。

 ヘドロや藻で濁り切ったドブ水が、堰を切って溢れ出したような。

 そんな――毒々しい言葉の濁流だった。


 何言ってるんだ、こいつ。

 動揺と混乱が結菜の言葉を奪う。

 言おうとしていた台詞がすべて心の彼方に消し飛んだ。

 疑問符の回る脳内から辛うじて結菜が絞り出したのは……


「……ちょ。落ち着けって、しの」


 まさに毒にも薬にもならない、ひどく軽くて情けない台詞だった。

 銀幕の内側で颯爽と活躍する登場人物キャストでは絶対にあり得ないような、平凡と無個性を突き詰めたみたいな言葉。

 当然それは、劇の進行に何の影響も及ぼすことはない。


「人間の心を掴む方法。知ってますか?」


 溢れ出すこの毒素を、止められない。


「その人のコンプレックスを肯定して、それらしい居場所を用意してあげる。

 なるべく近い距離感で接しつつ、なるべくミステリアスな人物像を装いながら、たまに弱さや人間らしいところを見せてやる」


 ――『ねえ、結菜さん。どうやったって主役にはなれないあなた。』

 ――『わたしの友達を助ける、正義のヒーローになってみませんか?』

 コンプレックスを肯定して、それらしい居場所を用意してあげる。


 ――『おなかがすきました。クリームパイも食べたいです』

 ――『そうと決まれば結菜さんを毒殺することにします。どうぞ』

 なるべく近い距離感で接しつつ。

 なるべくミステリアスな人物像を装いながら。


 ――『わたしにだって心はあります。傷つくためだけに家に帰るのは、ちょっとつらいのです』

 たまに弱さや人間らしいところを見せてやる。

 結菜の中にある、詩述と過ごした思い出が冷たいだけのジグソーパズルのピースになって嵌っていく。

 探偵の"種明かし"が。憑き物を落とすその声が。

 愚かな女が夢見、酔っていたつかの間の蜜月を凌辱する。


「――たのしかったですか。ヒ―ロ―ごっこと探偵ごっこ」


 他でもない探偵自身の言葉によって。

 自分を助手だと信じ、端役の分際で厚顔無恥にも舞台へ上がって勝手に喋り散らしていた馬鹿の役柄レゾンデートルが剥奪される。

 すべてはごっこ遊び。おまえが本当にだったことなんて一度もない。


「わたしとしては助手にするにも鉄砲玉にするにも微妙なひとという認識でしたが、あなたが楽しめたのなら何よりです。

 でも、もういりません。

 もう、あなたがいなくても風花ちゃんを手に入れられる段階に入りましたから」


 言って詩述は椅子から立ち上がり。

 芝居がかった動きで、くるりと回った。

 口の中がひどく乾いている。

 心臓が壊れたみたいに変な鼓動をしていて、息が苦しい。


「――なんだよ、それ」


 気付けば結菜は、詩述を睨みつけていた。

 それだけは、その言葉だけは認められないと。

 いや――認めたくないと。

 約束を破られた子どもみたいな愚直さで、ただ怒りをぶつけていた。


「言ったじゃん。ヒ―ロ―にしてやるって、ワトソンにしてやるって」

「はい。言いましたね」

「あれ、嘘だったの」

「はい。嘘ですよ、ちょっと考えたらわかりませんか? 大好きな人を大嫌いな人と一緒になって好き勝手いじめてた女のことなんて嫌いに決まってるでしょう。

 それともなんですか。ワンチャンス感じちゃいました? 来瑠さんと同じ穴の狢ですもんね、あなた」


 困りました、困りました。

 好きでもない相手にいけると思われるのって、すっごく気持ち悪いんですね。

 正論と悪意を振り撒いて舞う少女の姿に、噛み締めた奥歯が軋む。


「……私は、しのといるの結構楽しかったんだけどな」


 それはまるで、縋るみたいな言葉だった。

 全部嘘です、早合点は悪い癖ですよ結菜さん。

 今日は朝から意気消沈してしまっていたので、それを取り返すためにもちょっと悪ぶってみたんです。びっくりしましたか?

 そんな言葉が、歪んだ笑みを浮かべるその小さな口から出てくることを祈った。


「一緒にあちこち食べ歩きとかして、悪巧みしてさ。うちでのんびり過ごすのも、昨日二人で温泉入ったのも……すごく楽しかった」


 けれどああ、現実はどこまでも端役に対して冷淡で。


「でも、しのはそうじゃなかったの?」

「当たり前じゃないですか。逆に聞きますけど、あなたってわたしを楽しませられてる自信とかあったんですか? だったらとんだ自信家さんですね。人生楽しそうで何よりです」


 端役の精一杯の言葉は、あっさりと切って捨てられる。

 それはさながら悪党の命乞い。

 自己を正当化する殺人犯の戯言。

 俺が倒れても次の俺が現れると言い残す魔王の今際。

 誰も耳を貸すことのない、薄っぺらな言葉に終わる。


「もう少し付き合ってあげてもよかったんですが。度が過ぎましたね」


 心底見下したような瞳が、現実へ引き戻された女を睥睨した。


「あなたなんかが、わたしの大切なものを語らないでください。反吐が出そうです」


 要するに、小椋結菜は地雷を踏んだのだ。

 優しい言葉を吐きながら龍の逆鱗を撫でてしまった。

 とはいえ、これは遅いか早いかの違いでしかなかったと言っていい。

 もしも今日此処で結菜が詩述の地雷を踏まなかったとしても、彼女の本心は何も変わらなかったに違いない。

 いつか終わる。崩れて消える。

 それが、この"探偵ごっこ"の絶対不変の結末だったのだ。


「この汚い家ももう出ます。今だから言いますが、わたし煙草の匂いって嫌いなんですよ。

 そんな空間で作られたごはんとか、匂いが染み込んでて吐き気がしそうでした」

「……ああ、そう」


 吐き出された離別の言葉に、結菜が漏らしたのは自分でも驚くほど乾ききった言葉だった。

 そこにはもう、引き止めようとする"縋り"の感情すらない。

 かと言って怒りとも違う。本当にただ乾ききった、冷淡な声。


「なら、もう出てけよ」


 ――そっか。

 ――全部、嘘だったんだ。

 ――なら、もういいや。

 ――もう、終わりにしよう。


「こっちだってずっと、お前にむかついてたんだよね。心の中でず―っと馬鹿みたいだなって思ってたよ。

 あんな人を苛つかせる以外何の取り柄もない味噌っかすみたいな女に執着してさ。見る目のない馬鹿がいたもんだって笑ってたんだわ、私も」

「負け惜しみとして受け取っておきます」


 探偵ごっこはこれで終わり。

 非日常に舞い上がるのも此処まで。

 でも、このままじゃ自分の負けになってしまうから。

 荷物の入ったかばんを持って、足を弾ませながら玄関へ歩いていく詩述の背中に、結菜は最後の言葉を投げつけた。


「――しのこそさ、気付けよ」


 今まで、ずっと言えなかったこと。

 いつかは言わねばならないと思いながら、秘め続けていたとっておきの言葉。


「他人に横恋慕して、そいつの今カノぶっ殺して無理やりモノにして」


 舞台劇にそぐわない端役に唯一許される、正論。


「そんなやり方しといて――――最後の最後だけ都合よく元通りになんて、なれるわけないじゃん」


 扉の閉まる音がした。

 もう、結菜の相棒はいない。

 ソファの上。まだ温もりの残る隣の空間を撫でて、結菜は背もたれに身を投げ出した。


「……知るかよ、くそ」


 外から、しとしとと雨の音が聞こえ始める。

 どうやら降ってきたみたいだ。

 詩述は傘を持っていなかった。今頃濡れていることだろう。

 知ったことではない。もう自分には関係ない。

 結菜はそう自分に言い聞かせながら、眠気に身を任せて目を閉じた。

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