落ちる天蓋
「じゃあ、火箱にいじめをしていた事実はないって言うんだな?」
「……んー、そうか」
「いや、先生だって高嶺のことは信じたいよ。
けどなあ……他の生徒にも聞き取りしてるんだが、みんな"いじめはあった"っていうんだ」
「高嶺の言ってた、小椋が主導して撮ったっていうお前へのいじめの動画も結局出てこずじまいなんだよ」
「なあ、高嶺」
「そろそろ、本当のことを話してみないか?」
「……、……。そうか」
「まあそれは一旦置いておくとしてだ。お前にはもう一つ聞きたいことがあってな」
「お前が最近、家に帰ってないんだって言うやつがいるんだよ」
「……そんなことない? そうか、それならいいんだ。
でも此処まで事が大きくなるとな、一回親御さんにも話を通す必要が出てくる」
「近々、八朔先生と俺で家庭訪問に上がらせて貰いたい。
だからお母さんが家に居て、都合のいい日があったら教えてくれるか」
「……高嶺」
「失敗は誰にでもある。人間はやり直せるんだ」
「先生はお前を信じてる。でも、これだけは覚えておいてくれよ」
◆◆
「ちっ――死ね、クソ教師」
事態は、八朔の言った通りになった。
学校へ行くなりこそこそとこっちを見て何やら噂話に興じられるのは今更気にもならないが、朝のHRが終わるなり生徒指導の教師に呼び出しを喰らった。
風花によって殺害された前の体育教師に比べれば話の通じる人間ではあったが、それは何の幸いにもならなかった。
来瑠は彼にいじめをしていた事実はないこと、そしてむしろ自分が小椋結菜を始めとするクラスメイトからいじめを受けていたことを打ち明け、例の屈辱的な動画の存在についても断腸の思いで告白したのだったが――次の日再び来瑠を呼び出した彼は、あからさまに来瑠を疑った様子で上記の言葉達を投げかけてきた。
しかし無理もない。
このクラスにおいて今や来瑠は完全に孤立していたし、風花をいじめていたことに関しては事実なのだ。
来瑠自身、我ながら苦しい言い訳だと思いながら潔白を主張していたのだったが……やはり大人はそんな悪あがきに騙されてはくれなかった。
(……どうする。このままじゃ、本当に大事になりかねない)
風花がいじめがあったことを認めるのは百パーセントない。
親も居ないし、あの祖父は来瑠に不利益になる証言はしないだろう。
ただ――令和の教育現場は被害者が"されていない"というなら無罪、と軽々認定してくれるほどザルではない。
風花の答え如何に関わらず、いじめをしていた事実がほぼほぼ明白な自分に対して何らかの処分が下される可能性は極めて高かった。
そして何より不味いのが……風花の家に居候していることまで告げ口されていることだった。
「……あ、くーちゃん。その――どうだった?」
「最悪。詩述だか結菜だか知らないけど、私がふーちゃんちに転がり込んでることチクったみたい。今度家庭訪問行くから予定聞いてこいって言われた」
「それ、は……困ったね。どうしよっか……」
今更、あの家には帰れない。
家庭訪問なんて以ての外だ。
それに――あんなになった母を、他人になんて見せたくなかった。
お前が死ねばよかったのだとそう罵られても、家に帰らなくなっても、それでもまだ来瑠は母のことが好きだったから。
美しくてお淑やかだった母の姿を、これ以上世界から消したくない。
そんな風に考えてしまう。自分の進退なんかよりも、そっちの方をよっぽど嫌だと感じてしまうくらいには。
「……ふーちゃんの方はどうだったの。六時限目の途中で呼ばれてたよね」
「うん、それなんだけどね――その」
風花は、きゅっと唇を噛んで眉根を寄せて。
「私以外にも、くーちゃんからいじめを受けてた子がいっぱい申し出てるって。
だからお前も怖がらないで本当のこと話していいんだぞって、言われた」
「……は?」
それは、来瑠にとって完全に寝耳に水な話だった。
風花にいじめを働いていたのは事実だ。
事実上合意の上で行われていたことだったとしても、そのいびつな関係性を理解できるのはこの世に彼女達だけであろう。
だが、この学校で風花以外に対していじめを働いたことは誓って一度もない。
確かに来瑠は人を虐げることで生を実感する、そういう
けれど誰でもいいわけでは決してない。来瑠は来瑠なりの基準と美的感覚でいじめる相手を選別している。
ましてやこの学校には風花が居るのだ。
来瑠の人生で最も眩しく可憐に写る、後にも先にもこいつに並ぶ者など決して出てこないだろう至高の玩具。
そんな相手が居るのに誰彼構わず虐げて回るほど、来瑠は悪食ではない。
「なに、それ……」
「うん。私も、くーちゃんが私以外にそういうことしてたとは思ってないよ」
「してるわけないでしょ、あんなつまんない連中いじめて何になるのよ。
これもあいつらが手回したってわけ? どんだけ徹底してんのよ、くそ……」
舌打ちが出る。
思わず机を蹴り飛ばしたくなったが、無益だと思いやめた。
詩述を暴力で制圧し、久々の登校で結菜や周りの有象無象たちにも一泡吹かせられた自信があったからこそ見落としていた事実が来瑠の首を真綿のように絞めてくる。
今この学校において、自分は――絶対的に弱者であるのだと。
敵に囲まれ、一秒ごとに削られて擦れていくだけの存在でしかないのだと。
本物の罪に素知らぬ顔で上乗せされていく身に覚えのない業が、来瑠にそのことを思い知らせていた。
「迷依ちゃんは、お願いした通りに答えてくれたみたいだけど……」
風花はそう呟いたが、そんなことは何の足しにもならない。
多くの生徒がいじめがあったと訴えている以上、風花や迷依が何を言おうと教師達は聞き取り調査という名の茶番をやめないだろう。
来瑠は詩述達と対等な勝負をしているつもりだった。そう思い上がってしまっていた。
でも実際は違う。真実は、この通り。
来瑠の盤面にはもう駒がない。王と、金と、歩がそれぞれ一つずつ。
「……ふーちゃんさ」
緩やかな死が口を開けている。
もはや来瑠にできることは、勝ちに繋がらない逃げを打ち続けて少しでも自分の生存できる時間を伸ばすばかりの悪あがきだけ。
どうする。どうする。――どうしよう。
ぐるぐると回る思考は、焦りは、次第に苛立ちに変わっていく。
そんなことをしてもどうにもならないというのに、気付けば口に出していた。
「いつからあいつとそんなに仲良くなったの」
「え? あ……迷依ちゃんのこと?」
「その呼び方やめてよ。それじゃ本当に友達みたいじゃん、あいつとあんたが」
「……ご、ごめんね。その――この間、危ないところを助けてもらったから。ちょっと心の距離、近くなっちゃってたかも」
「ふーちゃんは、私だけじゃ足りないの?」
やめろよ。
みっともない。
「私がいるじゃん、ふーちゃんには」
――これじゃまるで、縋ってるみたいじゃないか。
他人に弱いところを見せるな。
常に強い者として振る舞え。
そんな風に生きろって、ちっちゃい頃からずっと心がけてきたんじゃなかったのか。
頭の中をよぎる幻影がある。
それは、ああこんな時に思い出したくもない冷たい顔。
死んでほしくて消えてほしくて仕方なかった父の顔が、言葉が、来瑠を責めるように蘇ってきた。
――強くなりなさい。
――強くなければ、人間に価値はない。
「あんな奴にうつつ抜かすのとかやめてよ。こんな時に」
「……うん。ごめんね、くーちゃん。泡野さんとの付き合い方、ちゃんと考えるね。くーちゃんのこと傷つけるつもりはなかったんだけど」
「別に傷ついてなんかない、勝手に決めないで。ただ鬱陶しいと思っただけだから。ふーちゃんのそういうとこ、マジでうざいよ」
溺れる者は藁をも掴むという。
今の自分がやってることが、それと同じでなくて何だというのか。
みっともない。くだらない。情けない。
どうしようもなく惨めな気分になりながら、来瑠は逃げるように風花へ背を向けた。
理不尽で醜い八つ当たりをされて困ったように目を伏せるその顔を、見ていたくなかった。
――風花の顔は大好きだ。
風花の泣き顔も苦しむ顔も、恥ずかしがる顔も、全部好きだ。今だってそれは変わらない。
でも、今だけはこれを見たくなかった。これは、自分の情けなさが引き出した
今、風花は自分の強さではなく弱さに困っている。その事実を、受け止めたくなかった。
「……ごめん。ちょっと、トイレ行ってくる」
謝るな。
――謝るなよ、馬鹿。
とめどなく湧いて出る自己嫌悪から逃げるように、来瑠は呼び止める風花の声を無視して夕暮れの廊下へと出た。
◆◆
肌寒い放課後の廊下を、一人歩く。
窓から見える景色は薄暗く、空は雲に覆われている。
雨でも降り出しそうな天気だなとぼんやり考えながら、来瑠は人気のない校舎の中を進んでいく。
どこに行く当てもなかったけれど、まだ教室に戻るのは嫌だった。
それでも風花は待っているのだろうなと思い、また自己嫌悪の念が湧いてくるが。
そんな矢先、視界の先から歩いてくる小さなシルエットを見つけて足を止めた。
「こんにちは。いい夕暮れですね」
「……何、わざわざ探してくれてたの? あんたも懲りないね。せっかくあのジジイのおかげで助かったのに」
忌まわしい女だった。
顔に貼り付いた薄笑いは、否応なしに殴り飛ばしたい欲求を抱かせてくる。
咄嗟に制服のポケットに手を入れる。そこにはカッターナイフが入っていた。辺りに人気はない。やろうと思えば、いつでもやれる。
そんな来瑠のあまりにも暴力的な思考は、かつて彼女――小綿詩述に辛酸を嘗めさせた鬼札であったが。
詩述は腹の立つ薄笑いを浮かべたまま、怯むでもなく手元の鞄から円筒状の物体を取り出して来瑠に向けた。
「じゃーん。こんなこともあろうかと、護身用に買ってみたんです」
それは、熊よけの催涙スプレーだった。
熊に効くのだから、当然人に効かないわけはない。
実際、今にも踏み込もうとしていた来瑠はその足を止めざるを得なくなってしまった。
「おや、来ないんですか? あなたのことです。こんなもの知ったことかと突っ込んでくるかもと少し警戒してたんですが」
「……はっ。必死だね、そんなにこの間のことが悔しかった? わざわざ備えてきてくれたんだ。防犯ブザーの方が似合ってると思うけどね、あんたには」
「その言葉はそっくりそのままお返ししますよ。必死ですね、来瑠さん。そんなに他人から弱く見られたくないのでしょうか」
詩述の言葉に、かっと頭の中が熱くなるのを感じる。
しかし踏み込めない。彼女の手に握られているスプレー缶が、あの時とは違って来瑠の行動を抑制している。
「無秩序な暴力なんて、所詮種が割れればこんなものです。
合理的な対策を取られてしまったが最後、動けずじまいで歯ぎしりするしかありません。
現代における暴力団のあり方にも似ていますね。知ってます? 今のヤクザって、他人にそう名乗っただけで逮捕されちゃうんですよ」
かわいそうですよね。
あなたもそうですよ。
そう言って、詩述はくすくすと笑った。
「あなたは得意の力技でさえ、もうわたしに勝てません。
むしろすればするだけ立場が悪くなる。遅効性の毒のように、何をしてもしなくても、少しずつ少しずつ足元から崩れていく」
「……あんたさ、何か忘れてない? あんたの愛しのふーちゃんはこっちに居るんだよ」
「はい、そうですね。それが何か?」
「あんた達が私を追い詰めれば追い詰めるほど、私のことが大好きなふーちゃんはあんた達のことを嫌いになってく。
思い出補正が切れて愛想尽かされた時があんたの最期だよ。もう少し好感度稼ぎしといた方がいいんじゃない?」
「無理ですよ。風花ちゃんではこの状況を変えられません。あの子は優しい子ですし、それ以上にあなたのせいで歪んでしまいましたから」
ぴく、と来瑠の眉が動く。
何を言っているんだ、こいつは。
そんな内心を見透かしたように言葉が続く。
「考えたことはありませんでしたか? どうしてあの子が、あなたを冷遇し出したクラスメイトたちに声を使わないのか」
「……、それは」
――考えなかったわけじゃない。
でも、何故か答えを出すのを先送りにしていた。
その理由は上手く言語化できないが、今思うと何か本能的にその先を考えることを忌避していたような気がする。
火箱風花は、人を殺せる声を持つ。
彼女の声で、人が死ぬ。
そこに八朔冬美という例外があったことは驚きだったが、それでも大半の人間にとって風花の声は依然無慈悲な死神であり続けている筈だ。
なのに風花は、その力を此処までまるで使っていない。
旧知の仲である詩述はともかく、有象無象のクラスメイト達や結菜に対してもだ。
来瑠はそれを、追及しなかった。しないようにしていた。
それはきっと彼女なりの自己防衛だったのだろうが、来瑠のことが嫌いで嫌いで堪らない詩述はそんな彼女に下卑た答えを突きつける。
コウノトリの祝福を信じている幼子に、人の営みを克明に語って聞かせるみたいに。
「あの子は、弱ったあなたが好きなんですよ」
にた、と。
詩述は、毒のように笑った。
「強くきれいで理不尽なあなた。高嶺来瑠。くーちゃん。
そんなあなたが傷ついて弱って、惨めに泣きじゃくって震えている姿。
あの子は、そういうものに喜びを覚えている。だからあの子は私達に声を使えない。
大事なくーちゃんの敵に対する嫌悪と同時に、大好きなくーちゃんをもっと可愛くしてくれることへの感謝の念があるから」
来瑠は何も言えなかった。
口が動かない、言葉が出てこない。
何を言っても、それはひどく情けない言葉にしかならない気がして。
そんな来瑠を嘲るように見つめながら、詩述はさらに続ける。
何も知らない、可哀そうな子どもを憐れむように。
あるいは、嬲るように。
そんな目をしながら、詩述は言う。
呪いのような言葉を、吐き捨てる。
「本当にとんでもないことをしてくれたものです。あなたは、わたしの風花ちゃんを穢してくれた」
――火箱風花は穢れてしまった。
優しかった女の子は、悦楽の味を覚えてしまった。
誰のせいで? 高嶺来瑠のせいで。
来瑠が弱いせいで、風花は弱さを愛することを知ってしまった。
その気配を感じながらも見て見ぬ振りをして。
強い自分が、虐げ続けた彼女からさえも弱いと見られている事実を必死に拒絶した。
しかしもう、来瑠は"弱さ"から逃げられない。
「さあ、来瑠さん。あなたの地獄が近づいてきましたよ」
――ああ、それとも。
もう、地獄なのでしょうか。
くすくす、くすくす。
黄昏の廊下に笑い声がこだまする。
来瑠の手からカッターナイフがからりと落ちた。
そこからどうやって教室まで戻ったのか――来瑠は、覚えていない。
◆◆
「もう勝ったでしょ、これ」
夜。
相変わらず母親の出払っている部屋の中で、小椋結菜がそう言った。
ドレッサーの前に座り、彼女にドライヤーをかけてもらっている詩述はそれに「まだまだですよ」と答える。
「まだまだ足りません。腹立たしいですが、風花ちゃんはあの人を裏切るようなことはしないでしょうし。
そうなるとこっちはクラスメイトの皆さんを懐柔して行わせた虚偽のいじめ告発を主軸に戦わねばなりませんから。
無いものを武器にして戦うというのは結構たいへんです。何が起こるかわからないので、まだまだ油断禁物ですよ」
「ふーん。そんなもんかね。しのの話聞く分には、来瑠のやつ相当弱ってると思うんだけどな」
「まあ、わたしもある程度楽観視して大丈夫だとは思いますよ。
でもほら、どうせやるなら徹底的にしたいじゃないですか。もっとたくさん苦しんで、無様な姿を晒して、最後はきちんと自分で結末を定めてもらわないと」
ぱたぱたと床に着かない足を所在無げに動かしながら、ほんのり暖かい濡れ髪を乾かして貰っている姿は幼子のようにさえ見えるが。
その一方で彼女が口にしている言葉は、おぞましいまでの悪意と敵意に溢れていた。
詩述が来瑠の未来に求めるのは地獄に落ちることだ。
それは比喩であると同時に、そうではない。
まずはこの世で味わえる地獄を余すところなく味わってもらい、その後は本物の地獄へ落ちて貰おうとそう考えている。
つまり。小綿詩述は、高嶺来瑠を死ぬまで追い詰めるつもりなのだ。
あれがかつて、自分の"標的"に対してそうしたように。
自ら命を絶つ選択をするまで、たとえ学校から放逐されたって追い詰め続ける。
火箱風花の"親友"は、大事な宝物の少女を穢した来瑠を決して許さない。その存在を、認めない。
結菜はそのあまりに苛烈な徹底ぶりに怖気すら覚えながらも、しかし一方で。
(……そんなに良いかね、あの根暗女が)
結局やっぱり、そんな暗い嫉妬心が鎌首をもたげてしまうのだ。
詩述の言葉を聞けば聞くほど、その内面に触れれば触れるほど。
分かってしまう。
詩述のことは好きだ。
でもそこだけは気に入らない。
あんな女の何がいいのだ。
自己肯定感が高い方ではないし、むしろその逆だと思うが、それでもあれよりは自分の方が遥かに面白いものを詩述へ提供してやれる自信がある。
それでも。結菜が何をしても、結局詩述は記憶の中の風花だけを見つめている。
一緒に帰っている時も、悪だくみをしている時も、何か食べている時も、さっき一緒にお風呂に入っていた時だってきっとそう。
「結菜さん? 話聞いてます?」
「……あ、ごめんごめん。ちょっとぼーっとしてた。のぼせ気味なのかも」
「のぼせたときはアイスを食べるといいと思いますよ」
「食べたいだけでしょ。勝ってあるから催促しないの」
「ふふん。流石、よくわかってますね」
「清々しいくらい家主に要求してくるよね、しのって」
「座右の銘は強欲な壺です」
「魔法カードだよ」
まったくもっていつも通りのやり取り。
なのに、詩述の胸中を渦巻く黒い感情はちっとも消えてくれない。
いらいらと、ささくれ立つ気持ちが抑えられなくて。
だからだろう。つい、こんなことを思ってしまったのは。
――来瑠のやつ、また何かやってくれないかな。
別に、来瑠じゃなくてもいい。
誰でもいいし、何でもいいから。
何か、詩述の心を揺るがすようなことをしてくれないだろうか。
そうしたらこいつは、もう少し自分のことを見てくれるようになるかもしれないのに。
そんなことを、思ってしまった。
◆◆
結菜の住むマンションは学校からとても近い。
なので朝は八時くらいまで寝ていられるし、多少寝坊しても気合いを入れて自転車を漕げば大体なんとかなる。
詩述が居候するようになってからは自転車通学ができなくなってしまったので(詩述は自転車を持っていないのではない。自転車に乗れないのだ)多少起床時刻を早める必要があったが、それにしたってそこそこ余裕を持って朝の時間を過ごすことができる。
「……楽しかったなー、昨日の温泉」
せっかくの日曜なので、昨日は詩述を連れて市内の温泉に出かけてきた。
露天風呂が有名なところで、湯加減もサービスもなかなか良かった。
驚くべきことに詩述はこの手の施設は初体験だったらしく、泡風呂が大層気に入ったのかずっとそこでぷかぷかやっていて何とも可愛かったのを覚えている。
湯上がりにはこっそり周りの目を盗んで自販機でビールを買い、二人で飲んだ。
顔を真っ赤にしてぽーっとしている詩述は面白かったし、こいつ酒が入るとぼけっとするタイプなんだな……というのは新たな発見だった。
しかしそんな楽しい休日も終わり、今日も今日とて気だるい学校だ。
とはいえそんなことも言ってられない。
来瑠への攻撃は続けなければならないし、結菜の場合それに並行して風花を潰す方法も考えなければならないのだ。
(そうだよ。もう残り時間あんまりないんだ)
来瑠はただでやられるような性格をしていないが、それにしたって教師陣が動き出した以上はそう長続きするとは思えない。
詩述の攻めによってあいつの心が完全に折られ、潰れてしまう前になんとかして風花を蹴落とさなければ、その先に待っているのはただただ惨めで孤独な時間だ。
きっと詩述は自分と風花を天秤にかけたなら迷わず後者を選ぶ。選んでしまう。
その前提を、どうにかしてぶち壊さなければいけない。
焦りと使命感を胸に居間へ続くドアを開け放ち、ソファでテレビを見ている詩述へと声をかけようとした。
「しの、そろそろ――」
そろそろ出るよ、と。
そう言おうとした口は、途中で止まる。
居間にはちゃんと詩述が居た。
テレビを見ているのも想像の通りだ。
けれど、彼女はソファに座ってはいなかった。
ヤニの汚れが染み込んで黄ばんだ旧型のテレビ。
その前に、立ち尽くして。
足元でかばんが倒れてしまっていることに目もくれず、ただ画面を見つめていた。
「……しの? どうしたの、何か――」
あったの、と言いかけて。
そこで、画面に映し出されたニュースの内容を見た。
言葉が再び途切れる。そうせざるを得なかった。
その瞬間に、すべてを理解してしまったからだ。
――誰でもいいし、何でもいいから。
――何か、詩述の心を揺るがすようなことをしてくれないだろうか。
――そうしたらこいつは、もう少し自分のことを見てくれるようになるかもしれないのに。
「…………………………………ぱぱ……」
願いが、叶ってしまった。
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