屏風の絵空

 起きて伸びをして、部屋の有様を見て来瑠は深くため息をついた。

 ボードゲームの箱が置かれ、食べきれなかった分のポテトチップスが口を輪ゴムで結ばれてその横に添えられている。

 この間片付けたばかりの部屋はすっかり散らかってしまっていた。

 風花はもう起きて、朝食の準備に取り掛かっているらしい。

 そこまではいい。だが、開きっぱなしになっている押し入れの下段に入ってちんまりと丸くなって寝息を立てているあの生物はなんだ。


「蹴り出してやればよかった……」


 立ち直りが早いのとはきっと違うだろう。

 どちらかと言うと、遠慮がなくなった――というのが近いのだと思う。

 風花が一計を案じてくれたことで、自分達のことを"よりどころにしてもいい存在"だと認識したとかそんなところではなかろうか。

 なんともいじらしいことだが、来瑠に言わせれば知ったことではない。

 部屋にやって来た時点でさっさと蹴り出してしまえばよかったのだが、気付けばあれよあれよと卓に着かされ、十数分後には高校入試に失敗し、一時間が経つ頃には大量の約束手形を抱えて人生のどん底を養いきれない子ども達を乗せて車でとろとろ走り続ける羽目になっていた。

 何が悲しくて現在進行形でどん底にいるのにゲームの中でまでどん底人生を歩まなければならないというのか。

 理想の家庭を築いて一番乗りでゴールした風花と油田を掘り当てて億万長者になった迷依の背中を追うだけの謎の時間は負けず嫌いの来瑠に火を点けた。

 結果白熱の二ゲーム目が開幕し、床に就いたのは午前三時を回った頃である。


 死ぬほど無駄な時間を過ごしてしまった。

 何をしているんだ私は。

 来瑠は深夜テンションというものの恐ろしさを知った。


「……こら、起きろおまえ」


 つま先でげしげしと突いてやる。

 遠慮はないし負い目もない。

 びくん!と身を震わせて飛び起きる姿にはまだトラウマの気配が滲んでいたが、人を借金地獄に落としてくれた報いだとそう思った。


「ぁ……えぇと。おはようございます……?」

「あんたさ、今日学校休むとか無しにしてよね。一応私達の兵隊なんだから」

「…………っ。え、えと。どうしても、行かなきゃだめですか……?」

「だめ。当然でしょ」


 風花が何を言ったのかは知らないが、少なくとも自分達と迷依は"対等な"友達などではない。

 迷依は戦力であって、手駒だ。

 壊れてしまったり、はたまた将棋よろしく敵方に奪われてしまうのは面倒だから風花の提案を受け入れてケアを任せはしたものの、決してそれ以上の関係に昇格させてやったわけではない。

 彼女の身に起きたことはおおよそ察しが付いている。

 昨日の今日では割り切ることも乗り越えることも恐らくできてはいないだろうが、この家でただ惰眠を貪り続けることは許せない。


「言ったでしょ。あんたは、私とふーちゃんのために働くの」

「……、わかってます。わかってますよ。

 私がちゃんと働かないと、好美ちゃんに手を出すっていつもの脅しでしょ」

「そうそう、いつものやつ。それに」


 それにしても。

 今更だが、風花が迷依のメンタルをある程度立て直せたことには驚いた。

 こればかりは印象の悪い来瑠では無理だったろう。あいつも意外としたたかなところがあるのかもしれない。新しい発見だった。


「私達、友達なんでしょ? だったら助けてよ、私とあの子のこと」


 迷依ごときにわざわざ手を打ってきたのには驚いたが、逆に言えばどこに向かうかコントロールを深めるきっかけをくれたとも言える。

 誰にも相談することのできない悩み。それを共有する、"友達"の存在。

 昨日は面食らったが、依存してくる分には実際悪くもない。

 最悪、それこそ鉄砲玉代わりに使い潰せばいいのだ。

 こんなのでも駒は駒。せいぜい有用に使わせてもらおう。

 逡巡の末、こく……と縋るように小さく頷いた迷依の姿を見ながら、内心そうほくそ笑んだ。


「よろしい。じゃあ、ふーちゃんが来る前に一個聞かせて。

 あんただって、あの子がいる前で直接言いたくはないだろうから」


 穏やかな雨の夜は終わりを告げ、世界は肌寒くそれでいて晴れ晴れと澄み渡った朝を迎えている。


「あんた結局、誰に何されたの」


 小綿詩述が動いた。であれば、こっちからも動かねばならない。

 嫌な記憶を思い出したのか、歯を小さく鳴らしながら迷依が絞り出した"その名前"を聞き――来瑠は早速頭の中で計画を練り上げ始めるのであった。



◆◆



「昨日はごめんね。びっくりさせちゃったかな」


 時計の針は、午後の四時を指していた。

 授業は終わり、今は各々来たる文化祭の準備に精を出したり、はたまた家路に就いているだろう時間帯。

 空は彼方の方まで鉛のような分厚い雲が垂れ込めており、もしかすると今日もまた季節の今際めいた秋雨が降ってくるのかもしれなかった。

 呼び出しを受けてやって来た薄暗い教室の中で、泡野迷依は人間の顔をした妖怪と再び相対していた。

 表情は硬く、俯き加減で。身体は小さく震え、強張っている。

 そのいつもとは別な意味で小動物めいた――今日はそこに、"虐待された"という枕詞が付くが――姿に、八朔冬美は柔らかく笑った。


「外も暗いし、送ってあげればよかったね。最近はいろいろと物騒なんだし、どこに狼が潜んでいるか分からないんだから」


 天を衝くような、女性離れした長身。

 蟷螂や座頭虫の類を思わせる、すらりと細長い手足。

 こうして薄暗い場所で見ると、血が通っているのかを疑いたくなるような蒼白い肌。

 長い黒髪は人間のかたちの上から墨汁を垂らしたように深い黒を湛えており、その佇まいの怪奇性を際立たせている。

 これに比べれば、町のそこかしこに潜んでいるいきり立った狼など皆取るに足らない野良犬だろう。

 人を喰う、実在する"怪"に比べれば。


「困ってることとか、悩んでることはない?

 先生にできる範囲でなら、力を貸してあげるから。なんでも言ってね、泡野さん」


 一体どの口で、そんな台詞が吐けるのか。

 疑問に思うと同時に昨日の体験がフラッシュバックして、迷依は吐き気を覚えた。

 薄暗くて狭い部屋。ぬらりと、自分の前に佇む

 その口が、唾液の糸を引かせながら大きく、おおきく開かれて。

 そして――――。


「……先生は」


 その先のおぞましい記憶を振り払うように、迷依は言葉を絞り出していた。


「いつも、ああいうことをしてるんですか」


 迷依の中で、八朔冬美という教師に対する印象は決して悪くなかった。

 大人しくて物静かな性格だけれど、意外とユーモアがあって面白い。

 勉強から私生活、進路のことに至るまで幅広く親身になって相談に応じてくれるとかで、生徒間での評判も上々だった。

 その目を引く容姿を揶揄する声はないでもなかったが、それを含めても皆から概ね好かれている人物だったと言っていい筈だ。

 だからこそ今も、教室で生徒に接する彼女の姿と、自分が昨日見た怪物の姿とがどうも一致しない。

 この人は普段、あんな――あんな恐ろしいものを内に抱えながら、良い先生をやっていたのか。そう思うと背筋が粟立ち、得も言われぬ恐怖に脳が揺さぶられる。


「ああやって、ひとの──生徒のこと、むりやり」


 迷依は、八朔の過去を知らない。

 だからこんな、事情を知る者に言わせれば愚問と言う他ない質問が出てくる。

 それに対し、八朔は肯定するでも否定するでもなく。

 自分の薄い腹にそっと手を添えながら、明かした。


「お腹がすくんだ」


 ――自分の、性癖習性を。


「ふと気がつくとお腹が減ってる。

 そうなったらいてもたってもいられない。

 泡野さんも、お腹がすいたらごはんやお菓子を食べるでしょ?

 感覚としてはそれと同じかな。

 私の中では、それがごはんやお菓子じゃなくて“女の子”だってだけ」


 昨今同性愛への理解と配慮の必要性が声高に叫ばれるようになって久しいが、少なくとも八朔は自分の中に存在するこの衝動/飢餓を"そういうもの"だとは思っていなかった。

 愛とかそういうものではない。これはもっと純粋で、根源的な感情。

 すなわち、欲。ショーウィンドウに並んだ色とりどりのケーキを眺めていると口の中に涎が溢れてくるように、肉汁溢れるステーキに思わずかぶりつきたくなるように、ひどく単純で故に逃れがたい衝動。

 すなわち、食欲。八朔冬美はひとつの生態として、少女を食べる。


「そんなに怖がらなくてもいいよ。食べはするけど、乱暴にはしないから」

「……違い、ます。そんなこと、考えてるわけない。

 先生は――わかんないんですか? ひとの気持ちとか、そういうの」


 ずれている。

 歪んでいる。

 八朔への恐怖は衰えることなく健在だったが、それでも迷依は気付けば詰問していた。


「先生なんでしょ。大人なんでしょ。

 なのに、そんな……そんなことで、ひとを傷つけたらだめだって。

 なんでわからないの。なんで、わかってくれないんですか」

 

 ひとを傷つけてはいけません。

 "好き"を、無理やり誰かに向けてはいけません。

 他人を自分の思い通りにしようとしたらいけません。

 学校で、保健体育で、道徳で、誰しも習うことだ。

 それくらい普通で、それくらい当たり前のこと。

 なのにどうしてそれを、学校の先生がわかっていないのか。


「私。わたし――これから、どうやって生きてけばいいんですか? ねえ、先生」


 ぎゅ、と。

 自分の中に渦巻くものが恐怖の前に霧散するのを防ぐように拳を握りながら、迷依は人生相談でもするみたいに剥き出しの感情を八朔へぶつけていく。

 

「おとなになって、好きなひとができて、結婚して、子どもができて。

 そんな当たり前の幸せの全部に、先生の顔が出てくるようになっちゃったんですよ」


 いや、そんな未来の話じゃなくたって。

 友達と遊んでいる時や、勉強している時。おいしいものを食べている時。家族と他愛ない話をしている時。

 どんな些細な幸せにも、サブリミナルのようにあの時の記憶と目の前の教師の顔が割り込んでくるようになってしまった。

 現に昨夜、半ば無理やりにあの二人を巻き込んで遊んでいた時だってそうだったのだ。迷依は雰囲気を壊さないために、そしてその呪いじみた挿入を振り払うために意図して元気な馬鹿を演じなければならなかった。

 望んでそう振る舞ったのは、人生で初めての経験だった。

 そしてもしかしたら自分はこの先、ずっとそうして生きていかなければいけないかもしれない。

 そう考えただけで、気が狂いそうになる。


「責任、とれるんですか。とってくれるんですか。ねえ、先生……!」

「……そうだね。人を傷つけたら、だめだ」


 そう――それは。

 迷依の言う通り、とても当たり前のこと。

 ゆら、と。

 蛍光灯も点いていない薄暗い教室の中で揺らめくように身体を傾がせて、八朔は少女の指摘と嘆きを肯定した。


「お腹がすいたから、ひとを食べたり。

 人気者になりたいから、弱ったひとをもっと追い詰めようとしてみたり」

「……っ!」


 そう、いけないことだ。

 否定されるべき悪徳だ。

 あまりに当たり前のことだからこそ、明後日の方向から自分を突き刺した指摘に迷依は思わず声を詰まらせた。

 なんで知ってるの、とか。そんな言葉すら出てこない。


「それ、は……ちが、っ」


 ――違う? なにが?

 ――違わない。そうでしょ。


 迷依は短絡的な人間だ。

 何事においても、そうだった。

 だから目先の欲望に飛びついて行動した。

 高嶺来瑠という、自分の踏み台になってくれそうな相手を貶めて高みに向かおうとした。

 彼女の、彼女達のことを、糧にしようとして意気揚々と廊下を駆けた。


 あの時自分は、二人を食べるつもりだった。

 そんなことも棚に上げて、友達だと言われて舞い上がって。

 自分の弱さを一方的に委ね、支えてもらって。

 そうやってなんとか、今の自分は生きている。

 それは。それは、なんて――――


「別に責めるつもりなんかないよ。どの口で、って話だしね。

 それに――私は、人間が生きる上でやっちゃいけないことなんてないと思ってる」


 煩悶の螺旋を断ち切るように、八朔は言った。

 間違っているはずの答えに、赤ペンで丸を付けてしまうように。

 肯定してはいけないものを肯定する。叱らねばならない間違いを善しと言う。


「愛することも、殺すことも、傷つけることも、騙すことも、それが生きるために必要なら好きにするべきなんだ。

 蚊が血を吸い、牛が草を食い、鳥が虫を啄み、そして怪がひとを脅かすように。

 誰もみんな、食べたいものを食べればいい。法や道徳は賢しらな人間が身内の間で勝手に定めた内輪ノリの一環に過ぎない」


 それは、思想ですらない。

 自己への信仰を拗らせた人間の世迷言ならば救いようもあるだろう。

 しかし八朔は、ただあるがままに生きているだけ。

 酸素を取り入れて二酸化炭素を吐く、そんな環境汚染を誰もが仕方のないことと割り切って生きているように。

 彼女はすべての食を当たり前に肯定する。

 "誰か"をしょくする、食を。

 我慢する必要なんかないんだよと、肯定する。


 ――これは、思想ですらない。


「どうせ、ここは地獄なんだから」


 ただの、諦めだ。


 その言葉を聞いた時、迷依は理解した。

 彼女は来瑠や詩述に比べれば、いくらか良識的な人間である。

 短絡的ではあってもあまりに酷いことには抵抗感が勝つし、人間はみんな話し合えば分かり合えるなんてチープな主張のこともどこかで信じていた。

 それはもしかしたら、自分を食べたこの女に対してもそうだったのかもしれない。

 もしかしたら、昨日のことを謝ってくれるかもだとか。

 心を入れ替えてくれるかも、だとか。心を込めて問いかければ何か通じるものがあるかも、だとか。

 そんな期待を、どこかで抱いていたのかもしれない。


 しかし、今なら分かる。

 そんなことはありえないと。

 この世には、決して分かり合えない――いや。

 分かってはいけない存在ものというのも、いるのだと。

 微笑みながら、諦めという名の赤インクで世界にペケをした地獄道の女から、泡野迷依はそれを学んだ。


 事前に示し合わせていたわけでも迷依から合図を送ったわけでもないが、教室のドアがおもむろに開かれたのはまさにその瞬間だった。

 驚いた顔をして音の方を見る、八朔。

 そこに立っていたのは――


「火箱さん……」


 迷依ほどではないが小柄な、二人の少女を狂わせてきた美貌を持つ少女。

 火箱風花。今、この学校を――もとい八朔のクラスを舞台に繰り広げられている戦争の当事者の一人であり、そして小綿詩述の依頼を受けた八朔冬美がその腹に収めるべき標的えものの一匹でもあった。

 

 風花の口が、ゆっくりと開かれる。

 八朔の眼はしかし、彼女の足元に向けられていた。

 それは、心底驚いたような顔。

 見知った相手の意外な一面を知ったような、そんな顔だった。


「それは、犬神か?」


 その言葉に、一瞬だけ風花は動揺を滲ませたが。

 かと言って、引き金を引く動作は止めない。

 止める意味がない。

 ちゃんと条件は満たされている――八朔冬美はクラスメイト達と違って、彼女の中に存在する欲望を満たすのに貢献したわけではない。従って、感謝の念が存在していないからだ。

 殺せる。自分はちゃんと、この敵を嫌悪している。

 その確信と共に風花は口を開き、そして。



「死ね」



 吐いた。

 放った。必殺の弾丸ことばを。

 善人も悪人も、等しく黄泉路へ引っ張る言霊を。

 それを受けた八朔は、またゆらりとその場でよろめいた。


「…………え」


 それだけ、だった。

 風花の顔が、初めての当惑に歪む。

 条件は満たした。言葉は放った。

 相手を殺せるだけのすべてが、この場には揃っていた筈だ。

 それなのに八朔冬美という標的は、血を吐くでものたうち回るでもなく微笑を浮かべながら幽けく佇んでいる。

 蟷螂の眼が、射抜くように火箱風花を見た。

 ぞ――と。背筋を這う冷たいものを感じ、風花は知らず一歩後退っていた。


「嘘、なんで」


 ありえない。

 それだけは、ありえない筈だ。


「そんな、はずは」


 それだけは――あってはいけない。

 だって、そんなことがあるのだったら。

 今までのことは、一体なんだったというのか。

 風花の頭に、青い春の追憶と、更にその前……詩述にも来瑠にも未だ明かしていない原罪の記憶が去来する。

 そんな彼女に、教師は優しく語りかけた。


「火箱さん」


 びく、と身体が反応する。

 それは奇しくも、昨夜の迷依と同じようなしぐさだった。


「先生はね、人間じゃないんだよ」


 ――火箱風花は、言葉で人を殺せる。

 ――人なら、彼女はすべて殺せる。

 ――けれど。


 人でないなら、殺せない。


 曇天の下のどこからも、犬が吠える声は聞こえなかった。

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