泡野迷依の憂鬱

 数分後、迷依は屋上の粗野なコンクリートの上で正座しながらひっくひっくとしゃくり上げていた。

 と言っても、最初にカッターを投げつけてやったこと以外来瑠は何もしていない。

 振り上げた拳を寸止めした理由は決して情け容赦ではなくて、単にこいつならこれだけで十分だろうと思ったからというだけに過ぎない。現にめっちゃ泣いてるし。


「で、私が墜ちたのをいいことに結菜あいつの右腕狙ってたってわけ?」

「ぐす、ひっく……ひゃい……」

「……私がいなくなったからと言って、流石にあんたがその位置は無理でしょ」


 呆れたように言いながら、来瑠は自身の脳内に格納されていた迷依の情報を引っ張り出していた。

 屋上の扉の向こうから自信ありげに彼女が姿を見せた時、来瑠が抱いた感想は『こいつかぁ……』である。

 泡野迷依。顔は悪くないがクラスでの立ち位置は今ひとつ。

 とはいえその知性をまったく感じられない性格はそれなりに愛嬌のあるもので、マスコット的な存在としては来瑠の知る時点でも十分な立ち位置を確保していた。

 だから、まさかこいつがそんな野心を秘めていたなんて全く想像もしていなかった。

 人は見かけや言動によらないものだと、ちんまり正座して情けなく啜り泣くシルエットを見下ろしながら嘆息する。


(できれば、もうちょっと使えそうな奴がよかったんだけどな……)


 自慢ではないが、一対一であればそこらの女子に負ける気はしない。

 だから、朝の騒動に触発された馬鹿が突撃してきたなら返り討ちにした上で傀儡にしてやるつもりでいた。

 そのため、こうして馬鹿が乗り込んでくること自体は想定の内だったのだが。

 だが……


「こいつかぁ……」


 そこでもう一度、同じ感想に回帰する。

 本当に使えるのか、こいつ。こんなの。

 知性も戦闘力も微塵も感じないが、こいつが何かの役に立つ場面など本当にあるのか。

 とはいえ、せっかく事が思い通りに進んでくれたのだから、この飛んで火に入ってきた夏の虫を逃す手立てはないのもまた事実。

 来瑠は逡巡の後に、正座する迷依の前に屈み込んで目線を合わせてからその頭を掴んだ。


「――ひぃん! あ、あの、なでなでならもう少し優しく……」

「今度は本当に殴るよ」

「ご、ごごごごめんなさいっ! 叩かないでくださいぃ……」


 詩述は結菜を味方につけている。

 つまり、学校の内外問わず何を仕掛けてきたとしても不思議ではないということだ。

 それに対し、基本的に味方のいない自分と風花だけで対応するのはどう考えても無理筋である。

 そこで来瑠が欲したのは、人手だった。自由に動かすことができ、その気になればいつでも切り捨てられる駒。


「その扉ってさ、結構分厚いんだよね」

「……へ? あ、ぇと、そうなの……?」

「うん。だから、あんたが多少うるさくしても此処の音って外に漏れないんだ」

「…………なんで私がうるさくする前提なのかって、聞いてもいい?」

「迷依は爪の間とへそどっちが好き?」

「ひ~~~んバイオレンス二択! どっちもやです嫌いです痛いのいやあっ! 靴とか磨くので許してくださいぃ~~っ!!」

「そこは舐めろよ。何ちょっとプライド守ろうとしてんの」


 ぴーっ! と泣き喚く様を見ていると、なんだか愛玩動物を虐待しているような気分になってくる。

 必要であれば本当に、風花に対してやったようなハードな加虐も用いて恐怖を植え付けてやるつもりだったが、この分だとどうもその必要はなさそうだった。

 手間が省けたと喜ぶべきか、信用性に悖ると訝るべきか。

 きっと後者なのだろうと思うが、とはいえこれでも居ないよりはマシだろう。

 迷依の潤んだ瞳を覗き込みながら、来瑠は一方的な雇用関係の成立に向けて言葉を紡いだ。


「小綿詩述。この名前、知ってる?」

「……あ。えぇと、確か4組に来た転校生――でしたっけ……」

「知ってるんだ、だったら話が早いね。

 経緯は省くけど、私達は今その詩述っていうストーカー女に狙われてるの。

 あんたが胡麻擦ろうとしてた結菜もそいつの仲間。で、私達はを取り戻すためにも詩述や結菜に潰れてほしいわけ」


 詩述はもちろんであるし、こうまで事を深刻にしてくれた結菜も確実に排除しなければならない。

 詩述の妄執が完膚なきまでに破れ、結菜が失脚して二度とあの耳触りな声を響かせることのない生活が来瑠の理想だ。

 物理的であれ、社会的であれ。あの二人を潰し、排除することで平和な元の暮らしを取り戻す。

 そして火箱風花を、自分だけが触れていいこの少女を、今度こそ永遠に自分のそばに置いておくのだ。

 そのためなら、来瑠はどんなことにも手を染めるつもりだったし――どんなものでも利用してやるつもりだった。

 例えば、今まで路傍の石程度にしか思っていなかった雑多で矮小なクラスメイト達であろうと例外ではない。


「迷依。あんた、私達に協力しなさい」

「協力って……その、具体的には何を?」

「今はとりあえず情報収集とか、あいつらのストーキングとかでいいよ。

 もしにっちもさっちも行かなくなったら……そうだなあ、刃物とか持って突っ込んでもらうかもだけど」

「刃傷沙汰!? うわーん! 鉄砲玉なんてやりたくないよ~~!!」

「それが嫌なら、精々役に立ってみせなさい。

 私も鬼じゃないから。迷依が私達にとって役に立つ人間である内は、ちゃんと優しくしてあげるし労ってあげるよ」


 嘘というわけではない。

 来瑠は校内暴力、要するにいじめのプロだ。

 飴と鞭を使い分けて人心をコントロールすることには非常に長けている。

 駒を長持ちさせるためにも、成果をあげてきたならちゃんと優しく甘やかしてやるつもりだった。

 とはいえ、もしも。もしも役に立たなかったら、その時は。


「……役に立たなかったら?」

「サンドバッグかな」

「ひぃっやっぱり暴力!」

「というのは冗談として。あんたさ、確か好美と仲良かったよね」


 好美――好美ちゃん。

 その名前が出ると、びく、と迷依の身体が震えた。

 目に宿る感情……怯えの色合いが少しだけ変わったのが分かり、来瑠はこのアプローチが正解だったことを確信する。


「な……なんで今、好美ちゃんの名前を?」

「別に? ちょっと思い出しただけだよ」


 迷依は、分不相応にもクラスのナンバー2なんて立ち位置を狙っていたようだが。

 役者云々を抜きにしても彼女に結菜の側近はまず務まらないと来瑠はそう感じた。

 何故か。迷依は――基本的に、人を虐めたりすることに向いていない性格だからだ。

 優しいとまでは言わない。

 彼女はこれまでいじめを止めようとしてこなかったし、風花が悪意と嘲笑の渦に曝されている環境の中で平然と友人と談笑して騒いでいられたたぐいの人間だ。見て見ぬ振りをするのも加害者というよくある理屈に照らし合わせて言うならば、彼女も立派な加害者こちら側だと言えよう。


 しかし、来瑠や結菜にあるものを迷依は持っておらず、また彼女が持っているものを来瑠達は持っていない。これも事実だ。

 迷依が持っていないのは加虐心。迷依が持っているのは最低限の良識。

 いじめを静観はできても、いじめに実際に参加しては来なかったのがその証拠だ。

 そんな彼女の前で、日頃仲良くしている大事な友人の名前を出してやれば。

 

「もしも誰かさんが逃げたり、あんまりにも役に立たなかったりしたら、そっちに声をかけるかもしれないし」

「それは……! っ、それは、そんなの、ずる――あ、違くて、えっと……好美ちゃんは、関係ないでしょ……!?」


 ――ほら、こうなる。


「関係あるとかないとか、ずるいとかずるくないとか。そういうのはどうでもいいんだよね。

 それともあんた、私が手段とか選ぶタイプに見えた? 今まで何人もの人生台無しにしておいて、そのくせ今もこうしてのうのうと生き永らえてる悪人なんだよ、私」


 知ってるでしょ? 結菜から色々回ってきてるだろうしね、あんたにも。

 来瑠がそう言うと、迷依はこの世の終わりみたいな顔をした。

 それから唇をぎゅっと噛んで、俯いて小さく震える。

 そんな手駒めいの頭を今度は本当に撫でながら、来瑠は優しい声色で語りかけた。


「大丈夫。迷依が私とふーちゃんのために頑張ってくれる内は、そんなひどいことしないから」


 ――高嶺来瑠という女は、決して哀れな被害者ではない。

 ――親の教育で歪むしかなかった、同情されるべき子どもなどでもない。


「だから」


 来瑠の本質は、悪だ。

 他人を踏みつけ、その幸せの上で優雅にダンスを踊る。そういう生き方をこそ是とする、根っからのアウトサイダー。

 火箱風花との関係性と、彼女との対話は少なからず来瑠の内面にも影響を及ぼしていたが、それでも人は一朝一夕じゃ変わらない。ましてやそれが血で血を洗う抗争の中であるなら尚更だ。

 そして風花も――来瑠のそんな悪性を含めて、彼女のことを愛している。

 故に止まらない。止まる筈などない。高嶺来瑠はたとえ落ちぶれようが、依然としてあるがままに暴君だ。

 これは、因果つみ応報ばつのせめぎ合いでもあるのだ。


「勝手にいなくなったりしたら、嫌だよ?」


 迷依はその言葉に、ただ頷くことしかできない。

 きらびやかな誘惑に誘われた愚かな蝶は、あっという間に絡新婦の理に絡め取られてしまった。



◆◆



「なるほど。風花ちゃんは潜在的に、来瑠さんが弱者に落ちぶれた今の状況を快く思っているのではないかと」


 放課後。

 いつもの空き教室に、小綿詩述と小椋結菜の姿はあった。

 結菜の報告を受けた詩述は、興味深そうに「ふむ」と呟く。


「たぶんね。でもそうじゃなかったら、声だけで他人を殺せる奴があの状況で躊躇したりなんかしないと思う」

「それは一理あります。今の風花ちゃんは、来瑠さんの"敵"を殺すことに抵抗がないようですから」

「詩述はともかく、私なんてこれ以上ないくらい分かりやすいあいつの敵だしね。

 その私を一対一の状況で殺さなかったってことは……まあ、つまりそういうことなんじゃないかな」

 

 微妙に最後の方の歯切れが悪くなってしまったのは、一つだけ思いつく反証があったからだ。

 あの時風花は、自分に対して感謝の言葉を口にしてもいた。

 来瑠絡みのことではなく、詩述と一緒にいてくれていることに対しての感謝。

 殺せない理由がそこにあった可能性もまあ、ないわけではない。他のクラスメイト達が無事である以上、十中八九声を使わない理由は現状への充実感に起因しているのだろうが、可能性は可能性だ。本来なら、考慮しておくに越したことはない。

 だが結菜は、このことを意図的に詩述へ伏せていた。

 過去に執着している詩述へ面と向かって「お前の隣に居てあげてることに感謝されたぞ」などと言い放つほど、結菜は配慮のない人間ではなかったし。

 そして――あの一挙一動が癪に障る忌まわしい女が、未だに詩述の理解者ぶった顔をしていたのがひどく腹立たしかったからというのも、ある。


「お手柄です。実に大きな収穫ですよ、結菜さん。花丸あげちゃいます」

「そりゃどうも。……てかそれはいいんだけどさ。来瑠に殺されかけたんでしょ?

 強く止めなかった私も悪いけどさ、次からはマジで気をつけなよ。流石に迂闊すぎでしょ」

「正確には殺されかけた、というより顔面をぐちゃぐちゃにされかけた、ですけどね。

 まあ、結菜さんに心配されるようなことではありません。失敗は成功の母と言います。むしろ良い勉強になったと――」

「私、今真面目に言ってんだけど」


 いつになく苦言を呈されたことが意外だったのか、詩述はびっくりしたような顔をしている。

 そこまで言って我に返り、結菜は自分の頭をぼりぼりと掻いた。

 何を言ってるんだ、私は。そういうのは柄ではないと、誰より分かっているだろうに。


「とにかく……人を誘っといて、勝手に潰れられたら困るってこと。

 しのの判断は信用してるけど、こういうのって適材適所でしょ。危険そうだと思ったら私を使いなよ」

「……むう。困りました、正論を言われているので言い返せません」


 結菜が熱くなった感情をクールダウンさせながら、なるべく筋の通った根拠を述べると詩述は頬を膨らませた。

 

「まあ、たまにはワトソンくんの進言にも耳を傾けておきましょう。

 失策でした、反省します。猛獣の相手は同じ猛獣にしてもらうべきでしたね」

「誰が猛獣だよ。あんなのと一緒にされるのは流石に不服だって。あいつはケンカに平気で刃物出してくるタイプだから」

「おかげさまでプリティな詩述ちゃんがモザイクがないと画面に載せられないお顔になるところでした。

 おまぬけなところをルックスで誤魔化してるタイプのホームズっ子なので、そこを崩されるととても困ります」

「え。自覚あったんだ」

「美少女なことにですか?」

「おまぬけなことにだよ」


 ……とにかく、詩述に居なくなられたら困るのだ。

 せっかく乗ってきたところだというのに、この非日常が――この舞台がこれで終わりだなんて納得できるわけがない。

 ようやく、自分の敵も分かったところなのだから。

 もっとこの位置で、こいつと色々楽しまなければ一生後悔する。そういう自覚が、結菜にはあった。


「で? どうするの、これから」

「あてが一つあります。というか、今日の時点でもう声をかけてみました」

「早っ。へこたれないタイプなんだ」

「当たり前です。風花ちゃんをあの人でなしから救い出すために、事は常に一刻でも早く進めなければならないのですから」


 また、火箱か。

 あれの何処がそんなにいいんだか。

 へこたれないんだったら過去の女くらいさっさと忘れてしまえばいいのに。

 そんな気持ちはおくびにも出さず、「"あて"って?」と質問を返す。

 いずれは火箱を排除し、詩述にかけられた呪いを解いてやるつもりだがそれは今じゃない。生兵法は大怪我のもとだ。


「おや、心当たりがないのですか? それはびっくりです。結菜さんくらい耳聡いなら、とっくに勘付いているものだとばかり」

「……お生憎様。ていうか私の情報網なんてたかが知れてるって。来瑠の過去もしのに教えてもらうまで、全然知らなかったし」

「来瑠さんのとはまたベクトルが違いますけどね。

 来瑠さんの存在が個人の歪みなら、こっちは社会の歪みそのものです。

 信条的にも生理的にもあまり頼りたくない相手ですが、致し方ありません」


 ――協力者、か。

 先程と同様に本心は秘めるよう努めたつもりだったが、それでも滲み出てしまっていたのかもしれない。

 詩述はふっと小さく笑うと、結菜の頬を指でつんとつついた。


「心配しないでください。助手とはまた別腹の協力関係ですから」

「別に気にしてないけど」

「ふふ。結菜さんは、自分で思ってるより顔に出るタイプなようですね」

「しのには言われたくないなあ」


 まあ、子どもじみたわがままを言うつもりもない。 

 もやついた思考を素早く切り替えると、「それで」と切り出す。


「誰なの、協力者。もったいぶらないで教えてよ」

「いいでしょう。それはですね、あなた達の――」


 さて、この探偵娘は一体誰を──何を、取り込もうとしているのか。

 固唾を呑んで種明かしを待つ結菜だったが、しかしその瞬間のことだった。

 夕暮れ、西日が照らす黄昏色の空き教室。

 その扉の外、廊下から――ぴろろろん! ぴろろん! と、耳障りな電子音が響き渡ったのは。

 次いで、恐らくスマートフォンであろう何かを取り落とす音。


「――結菜さん!」

「分かってる!」


 偶然通りかかった誰かならば良し。

 だがもしそうでないのなら、此処で抑えるに限る。

 仮に来瑠や風花が自ら視察に来ているのだとしても、それならそれで攻め時だ。

 結菜は勢いよく扉に駆け寄れば、そのまま開いて廊下に飛び出した。

 すると、そこで。


「――ひいいいいいん! な、何も見てないし聞いてません~~っ!!」


 結菜は、聞いてもないのに何やら喚きながら廊下の曲がり角に消えていく後ろ姿を見た。

 見覚えのある女だった。

 別に深く関わりがあったわけではないが、言動といい行動といいとにかく目立つ奴だったので結菜も覚えていた。

 その上で、眉根を寄せてため息をつく。

 急いで追いかけたが、文字通り脱兎の如く逃げ出した結果かすでにその背中は長い渡り廊下の遥か彼方に小さく見えるのみとなっていた。


「……正気か? あいつら」


 半ば無駄だと諦めながらも、とりあえず捕まえるために走りながら、思わず結菜は呟いてしまった。

 あの声といいちっこいシルエットといい、盗み聞き――恐らくは録音も兼ねていたのだろう――最中にスマホを鳴らしてしまうような超絶怒涛の間抜けぶりといい、思い浮かぶ人間は一人しか居ない。

 泡野迷依。愛嬌と滑稽の二足のわらじでどうにか人生を生きているような女。


 よりによって、あんなのを……。

 あんな知性のまったくなさそうなやつを……。

 うちのクラスどころか、この学校中を見ても下から数えた方が早そうなやつを……。

 結菜は来瑠の考えがまったくわからなかった。

 来瑠だって好きで迷依を起用したわけではないのだが、彼女が登用されるまでの経緯はあまりに阿呆らしすぎたから、結菜にはやっぱりまったく察せられないのだった。



◆◆



 ――まずいことになった。

 本当にまずいことになってしまった。

 泡野迷依は焦っていた。過去最高を更新する勢いの焦りだった。

 自分だけが巻き込まれるのなら、それは最悪いい。

 いや良くないのだけど、本当は泣きたいくらい逃げ出したいのだけど、しかしそれよりまずいことが起きてしまったから良くなさランキングでは二番目に落ち着くことになった。


(来瑠さんの馬鹿っ、人でなし、あほかすぼけ! やり口が闇金業者!!)


 自分の軽率な行動のせいで好美ちゃんが巻き込まれるかもしれない。

 人に向けて躊躇なくカッターを投げ、笑顔で恫喝してくるおっかない来瑠さんにあの子がいじめられてしまう――いや、それだけならまだいい。それ以上に恐ろしいことに放り込まれてしまうかもしれないのだ。

 これで焦らずにいられる理由があるだろうか。いやない。迷依は自問自答する。



 ──迷依は去年(つまり中三の頃だ)までは北海道にいた。

 そこから父親の都合で今春、今の街へと引っ越してきたという経歴がある。

 見知らぬ土地での進学という状況は迷依を追い詰め、彼女を極端な行動へと至らせた。

 端的に言うと、高校デビューしようとしたのだ。前みたいにちょっと暗めの女の子が集まったグループでお絵かきや漫画の感想を言い合って過ごすのではなく、流行りのコーヒーショップの新作やお隣の国のコスメなんかについて話して過ごす、そんなきらきらした学校生活に夢を見、あまつさえ手を伸ばしてしまった。

 しかし迷依は、やり方を間違えた。

 入学式。クラスの初顔合わせ、自己紹介の場で――自分の中にあるきらきらガールの理想像を演じ、見事にずっこけた。

 詳細は彼女の名誉のために控える(今でも寝る前に思い出しては枕を抱えて転げ回っているくらいなのだ)が、その"ずっこけ"は迷依のスタートダッシュに甚大な悪影響を及ぼした。

 いじめられこそしなかったが、誰も寄り付いてこない。

 お昼の誘いもなければ、トイレや移動教室に誘ってくれる相手もいない。

 スベり散らかした自覚があるから自分から話しかける度胸もなく、結果夢にまで見た新生活は前以上にひどい日陰者としてスタートを切る羽目になってしまった。

 

 そんな迷依を拾ってくれたのが、好美ちゃんである。

 好美ちゃんは体育の時間、二人一組の体操を一緒にやる相手がいなくてうろうろしている迷依へ声をかけてくれた。

 自分のグループの子と組むこともできた筈なのに、わざわざそっちを一人あぶれさせてまで迷依を拾ってくれたのだ。

 好美ちゃんはぶっきらぼうで素直じゃない。要するにクールタイプだ。

 けれど彼女のおかげで、迷依はそっちのグループに入れてもらうことができ、今ではあの壮絶な大失敗のエピソードも時折思い出したみたいに蒸し返されては笑い者にされているくらいで済んでいる。

 好美ちゃんには感謝している。だからこそ、あの子を泣かせるようなことだけは絶対にしたくなかった。


 ――来瑠さんに、風花さんに……役に立つって思ってもらわないと。


 そう思って行動したのはいいが、そこで迷依の"いつものやつ"が発動した。

 要するに、ドジをやらかしたのである。

 スマホをマナーモードにするのを忘れていることに気付かず録音をして、そんな時に限ってお母さんから電話がかかってきて(ちなみに要件は、今日の晩ごはんは迷依の大好きな唐揚げにするから早く帰っておいで、というものだったと後で聞いた)、結果夕暮れの廊下をダッシュで駆け抜けねばならなくなった。


「はっ、はっ、はっ、はあっ……!」


 もうやだ。早くおうちに帰りたい。

 お風呂に入って晩ごはんを食べたら柴犬のまめとうんと遊んで、終わったら積みゲーを崩して、何も考えずにぐっすり朝まで寝よう。

 いやでも追いつかれたらどうしようか。もとい、どうされてしまうのだろうか。

 来瑠さんでさえあれだったのだ。あんなことやこんなこともされてしまうかもしれない。迷依はえっちなことには免疫がなかった。

 顔をぼっと赤くしていると、脳内で心の好美ちゃんが「それはないでしょ」とツッコミを入れてくれる。心の好美ちゃんはいつも迷依を導いてくれる頼もしい仲間だ。


 ――なんてことを考えながら走っていたのが悪かったのだろう。

 迷依は正面から、どんと何かにぶつかった。

 「ぴぃっ!?」と小鳥みたいな悲鳴をあげる迷依。

 こんな時にどこの誰だと憤慨しながら見上げると、そこに居たのは。



 身長147cmの迷依よりも遥かに背の高い、白い服に身を包んだ、長い黒髪の、やけに色の白い女だった。

 その病的に白い顔が、晩秋の黄昏の薄闇の中にぼんやりと浮かび上がっていて――



「ひ~~~~ん!!! 今度はおばけ!!! もう踏んだり蹴ったりなんだけど――――!!!!」



 迷依はもうやけくそになって絶叫した。

 何をどうしたらこんなことになるんだと思った。

 こんな人生なら生まれてきたくなんてなかった。

 お父さんとお母さんと、愛犬のまめと、好美ちゃんと、唐揚げと、あと数々の名作漫画に出会えたことくらいしかいいことがない。

 

「もう知らーん! 煮るなり焼くなり好きに――」

「錯乱してるね。何かあったの?」

「――しろ、……って、あれ……。その、声は……」

「なんだか知らないけど、廊下を走るのは感心しないし。

 あと、自分からぶつかっといて人をおばけ呼ばわりするのも戴けないな。先生は大人だけど普通に傷つくよ」


 もはやこれまで。

 このままトイレの三番目の個室とか、存在しない第二理科室とかにしまわれちゃうんだ。

 しくしく泣きながら世を儚んだ迷依だったが、目の前の女の声を聞くなりその顔が「む?」と変わった。


「あ――あーっ! な、なんだぁ。八尺先生じゃないですかあ……」

「うん、自分の担任の名前くらいいい加減覚えようか。八尺じゃなくて八朔ね」

「は~~っ、びっくりしたあ……。てっきり私、学校の七不思議の一つとして一生語り継がれていくことになるんだと思ってました」

「七不思議ならもう七つあるよ。追加ぶんは要らないんじゃない?」

「あるの!?」

「それ以外にも結構出るし。

 例えば壊れてもう何年もそのままになってるっていうプールとか、見る人が見れば性別も年齢もばらばらの生首がぶどうの房みたいにわらわらと」

「ひぃいいいいん言わなくていいです! 今それどころじゃないので! 私の楽しい学校生活の行く末がかかってるので~!!」


 幽霊の正体見たり枯れ尾花、ではないが。

 蓋を開けてみれば、なんということもない。

 おばけかと思われた長身の女性は、迷依の担任教師であった。

 雲を衝くような長身。白基調の服。長い黒髪。真っ白な肌。

 改めて特徴を挙げ連ねてみれば、なるほどどこからどう見ても担任の八朔――八朔はっさく冬美ふゆみ先生その人である。


「……なに。泡野さん、誰かに追われてるの?」

「そ、そうなんです実は! 捕まるとあんなことやこんなことをされてしまう可能性は非常に高く――」

「ふうん」


 そう言うと、八朔先生は少し考えるような素振りを見せて。

 それから、迷依に向けて願ってもない申し出を一つした。


「じゃあ、匿ってあげよっか」

「え――い、いいんですか!? それはその、すっごく助かりますぅ……!!」


 迷依の手を、八朔の手が握る。

 冬も近い肌寒い季節だというのを含めても、やけに冷たい手だった。

 そのまま踵をくるりと返して、歩き出した彼女の顔は迷依からは見えない。

 だから彼女は気付かない。気付くこともない。


「いいよ。じゃあ、行こう」


 悦楽に歪んだ粘っこい笑みの形に、その口元だけが歪んでいることになんて。

 ぽ、ぽ──と、八朔先生の双眸に欲の灯が点いた。



◆◆



 ────いただきます。

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