それは動乱のスクールライフ

 高嶺来瑠が登校してきた。

 その事実は、彼女と同じクラスの面々に少なからぬ衝撃を与えた。

 しかもそれだけではない。あろうことか彼女は、あんな写真が出回っていたにも関わらず――何に憚ることもなく、火箱風花と共に登校してきたのだ。


 学校は被虐の立場に堕ちた人間にとっては針の筵であり、悪意の沼である。

 子どもは残酷だから弱い相手には何でもするし、苦しまぎれの強がりや効いていないフリは却って事態の悪化を生むのが常だ。

 それはこの、他でもない来瑠その人によって培養されたいじめの土壌でも何ら変わらずそうだったが、しかし今日ばかりは事情が違った。

 今まであれほど悪意的に虐げてきた風花と、平然と話しながら登校してきたその姿に。少女達が抱いたのは、困惑だった。


「ふーん。じゃあ私がいないと、特にふーちゃんにちょっかい出してくる奴もいないんだ」

「うん。腫れ物扱いみたいで逆に居づらかったけど」

「私のありがたみが分かったようで何より」

「くーちゃん居たら居たでたいへんなんだよ? 毎日いきなり宝探しゲームしないといけなくなるし……上履きや机の中はぜったい警戒しなくちゃだし、トイレもなるべく教室から遠いところ選ばなきゃいけないし」

「へー。たいへんだね」

「くーちゃん?」


 開き直った? 脅してる?

 いや、そうは見えない。じゃあなんで?

 同意の上だったってこと? まさか。だったらもっとやばいじゃん。

 仲直りしたの? 仲直りとかそういう話じゃないでしょ。

 頭でも下げた? いや、高嶺さんそんなプライド高そうだしそれはなくない?

 ひそひそ、こそこそ。端役の考察は来瑠達の耳にも入っていたが、二人は特に足を止めるでもなく教室へと入った。


「そうだ、休んでた間のノートあとでちょうだい」

「うん。あ、でも……昨日の国語だけ取れてないんだ。ごめんね」

「なんで。保健室でも行ってたの?」

「そのぉ……。ちょっとうとうとしちゃって……」

「あんた結構私のいない学校生活エンジョイしてない?」


 来瑠の机にぴょこぴょこと足を運んで会話に興じる、風花。

 それは、クラスの全員にとって未知の光景だった。当人である来瑠達でさえ例外ではない。

 クラスの頂点で、風花に対するいじめを先導していた来瑠。

 彼女に選ばれた結果、必然的にクラス全員から悪意の矛先を向けられた風花。

 その二人が、さも普通の友人同士みたいに教室の中で話している光景なんて、間違いなく数日前まではありえない代物であった。


 こうまで異様では、誰も行動を起こす気にならない。

 ある種、怯んだ――と表現してもいいかもしれない。

 来瑠の変わりようとそれに当然のような顔で順応している風花という、これまでの常識を覆す非日常的光景に。


「げ。今日体育あるじゃん。は~あ、これから体操はふーちゃんと組むのかあ」

「だ……大丈夫。くーちゃんに頑張って合わせるよっ」

「当たり前でしょ。まあ、多分私が合わせる方になるんだろうけど――」


 視線が集中する中で特に取り繕うでもなく、二人一組になってくれる相手が風花以外にいないことを前提とした会話をする来瑠と風花。

 彼女達に近付く影が、しかし一つだけある。

 近付くなり、片手で風花の細い身体を押し退けて。

 自分の定位置だとばかりに我が物顔で机に手を着いたのは、紛れもなく高嶺来瑠を地獄に突き落とした張本人だった。


「来瑠、おっはよー! なんか最近休んでたけどどしたの? 風邪でも引いた?」


 顔いっぱいに、見た目だけは明るく爛漫とした笑顔を貼り付けて。

 けれど内の悪意と嘲笑を隠そうともせず、小椋結菜が来瑠へ話しかけた。

 それはまるで、調子に乗っている様を諌めるように。

 お前はだろうと、正しい在り方を享受するように。


「……、結菜……」

「あれ? 私、"おはよう"って言ったつもりなんだけどな。"おはようございます"はどうしたの? もしかしてまだ体調悪い?」

「…………」

「――何? その目。ちょっと反抗的じゃん。学校サボってリラックスしてる内に忘れちゃったのかな、色々と」


 なで、なで、と。

 来瑠の頭を撫でるのは、明確に互いの"格"を示す意味を含んだ動作である。

 私が上でお前は下だと。自分とお前は対等なんかじゃなくて、お前は自分に媚びへつらって機嫌を取る側なのだと。

 そう示すための行動。それに、一時は圧倒されていた教室内の空気も少しずつに戻ってくる。


「この前はすっごく上手にお返事できてたじゃん。

 あ。それとも、もっかい見たら思い出せるかな。

 ちょうどいいから愛しの"ふーちゃん"にも見て、知ってもらおっか? あんたが人じゃなくてクラスみんなのワンちゃんなんだってこと」


 ――くす。

 誰かが笑ったのと同時に、それは伝播を始める。

 ――くすくす。くすくす。

 このクラスではごくありふれた光景だった。

 本来あるべき光景だった、と言い換えてもいいかもしれない。

 混乱の朝は結菜一人の行動と言葉であっさりと数日前と同じ形に戻る。

 風花はそれをぎゅっと唇を噛みしめながら見つめていて、やがて我慢ができなくなったように口を開こうとしたが。


「ずいぶん口が達者じゃん、私の添え物がいつから主役になったの」


 それを待たずして、来瑠が頭を撫でる手を払い除けた。

 途端にぴたりと。また、笑い声が止む。

 

「ああ、今は鞍替えしてるんだったっけ。ほんとに節操がないよね、あんたって。誰かの後ろに隠れられるなら何でもいいんだ。

 よく人のこと犬呼ばわりできるよね。誰より飼い犬根性極まってるくせして」

「……ふ~ん?」

「詩述ちゃんは優しく頭でも撫でてくれた? ごめんね、可愛がってあげられなくて。今度フリスビーでも投げてあげよっか」

「何急にイキっちゃってんの。今更ダサいだけだって、やめとけよ」


 睨み付ける来瑠と、笑みを崩さず受けて立つ結菜。

 彼女達の会話の意味を、外野が百パーセント理解することは不可能だったろう。

 理解できるのは来瑠と結菜と、そして風花。舞台の上の人間だけだ。

 

「てか、さ。さっきから何椅子に座ったまま話してんの?」


 ぐ、と結菜の手が来瑠の腕を掴んで引く。

 床に引き倒そうとする動きに、来瑠は逆らわなかったが。

 しかし椅子から下ろされた瞬間に、そのまま机が倒れるのも構わず前へと身を乗り出した。


「気安くっ、触んな!」

「――――っ」


 そのまま、平手で頬を張り飛ばした。

 来瑠としては本当は突き飛ばして、この間結菜が自分にやったのと同じ構図にしてやりたかったのだが、流石に不安定な態勢からではそうも行かなかったらしい。

 瞬間、カッと激情の火を瞳に宿した結菜が前蹴りで来瑠の腹に一撃加えた。

 風花が咄嗟に駆け寄って、倒れ込みそうになった来瑠を支える。

 張られた頬を仄かに赤く染めながら、結菜はそんな来瑠と視線を交錯させた。


「……ほんと、いい度胸してんね。

 おとなしく可愛くびくびくしてるんだったら、こっちだってちょっとは優しくしてやろうと思ってたのに」

「はあ、はあ……へえ、そうなんだ。だったらごめんね。

 私、あのメンヘラ女のこと昨日散々怖がらせちゃったからさ。今頃トイレでがたがた震えながら、どうやって私のこと潰すか考えてるんじゃないかな。

 また怖い思いしたくないだろうしね。雑魚が調子づくからそういうことになるんだって教えてあげたら?」

「はッ――自分が虐めてた女と乳繰り合ってる変態のくせに、一丁前に人のこと煽ってんじゃねえよ。

 何、お前ら。レズなの? ねえ」


 誰も二人の対峙に割り込めないのは、もはや自明と言う他なかった。

 彼女達はどちらも"虐げること"に慣れている。

 人間はどう傷付ければ悲鳴をあげるかを知っている者同士の喧嘩なのだから、当然凡百のギャラリーに入り込める余地はない。


 そんな中、しかしどちらかと言えば優位に立っているのは結菜の方だった。

 直近で来瑠を追い落としていること。その証拠映像も残っていて、しかもそれがクラス中に出回っていること。

 それがどうしても、来瑠の旗色を悪くしている。

 どれだけ抵抗しても、何処かに必死さやいじらしさのようなものが滲み出てしまっているのは否めなかった。

 結菜もそれは承知の上で。二人の関係性に論点を移し、責め立てる。嘲笑う。

 

 来瑠と風花の関係性は、結菜にしてみれば絶好の隙だった。

 いじめっ子といじめられっ子。傷痕が残るほどの苛烈な、しかし単にそれだけではないことを思わせる仕打ち。

 そんな二人が、あろうことか仲睦まじく友達同士のように登校してきて。

 あまつさえ風花は、所々で来瑠を庇おうとする素振りさえ見せている始末。

 疑問と興味が高まりに高まっている中で、結菜が"レズ"という単語を口にすれば、言わずもがな群衆の中での彼女達の関係性はそういう型に嵌められていく。

 そして、それは。多様性なんて高尚な概念を許容する寛容さなどある筈もないこの教室においては、必然的にあらゆる悪意と嘲笑の的にされるに足る存在に成り果てることを意味していた。


「もしかして火箱が来瑠のこと慰めてあげてたのかな――色んな意味で。

 やりそうだよね。だって、あんなことされてたのに健気に庇おうとしちゃうような間柄みたいだし」

「……逃げるんだ? 一対一でやろうよ、こんな小動物今は関係ないでしょ」

「小動物って。大事な彼女なんでしょ、"ふーちゃん"って呼んであげたら?」


 にや、と顔を歪めて。


「ほら、そういう仲ならキスでもしちゃえよ。

 この教室の全員が証人になってあげるから。――ねーみんな、そうだよね~?」


 かつて来瑠から学んだ、群衆ギャラリーを味方につける手法を使えば――途端に教室の中は悪意一色に染まった。

 最初は控えめに。けれど徐々に大きく。

 響き渡る拍手の音、急かすような音色は結菜に同調して来瑠と風花を悪意たっぷりに囃し立てている。


 それを――来瑠は、しばらくじっと聞いていた。

 その顔は何か考えているようでも、感じ入っているようでもあって。

 結菜が次の言葉を吐くべく口を開くのとほぼ同時のタイミングで、彼女は動いた。


「あっそ。ならもうそうするね、めんどくさいし」

「……へ?」


 声をあげたのは風花だった。

 無理もないだろう。この絶望的な雰囲気の中で、いきなり頭の後ろに手を回されたのだから。

 そのまま力を込めれば風花のか細い身体は簡単に動かせる。

 そうして、自分を支えてくれていた彼女を己の側へと引き寄せれば。


 ――ちゅ、と。


 この衆人環視の状況で、来瑠はその唇へ自らのそれを重ねた。


「っ…………!??!」


 目を白黒させて、それから顔を真っ赤に染めていく風花をよそに。

 来瑠は唇を離すと、眉根を寄せてこちらを見つめる結菜にふんと鼻を鳴らして。


「これでいい? そろそろ授業の準備したいんだけど」


 さも当然のことをしたように、言い放った。

 これからどうなるかなんてこと、今の来瑠の頭にはなかった。

 言いたい奴には言わせておけばいいと片付けることができるほど、来瑠は強くない。

 けれど、今此処で風花とキスをするというとんでもない行動に出るに至った理由は自分でもそれだけではない気がしていて。

 その奇妙な感覚を振り払うように倒れた机を立て直すと、結菜を無視して教科書を広げた。

 

 ――高嶺来瑠の新たな学校生活。

 動乱のスクールライフは、クラス中どころか学年中、学校中にまで轟く大胆不敵な愛の証明からその幕を開けた。



◆◆



 昼休み――屋上。

 火箱風花の"秘密の場所"で、二人は昼食を共にしていた。

 いや。厳密に言うなら、まだ食事を始められてはいない。


「……っ、は……」


 正真正銘、二人だけの空間。

 そこに辿り着いた途端、来瑠は胸を抑えてその場に座り込んでしまった。


「は、っ、ぁ……ッ、ふーっ、ふぅっ、ひゅ……っ」


 過呼吸にまでは至らねど。

 上手く呼吸ができず、喉が奇妙な音を鳴らす。

 朝から昼まで。来瑠は、教室の中できちんと自分を貫いた。

 演じきった、というべきかもしれない。結菜に胸倉を掴まれなくてよかったと、心の底からそう思う。

 もしそうされていたなら、気付かれていただろうから。

 ばくばくと惨めに高鳴る鼓動と、冷や汗でじっとりと湿った身体に。


「……大丈夫。大丈夫だよ、くーちゃん」

「……うん。うん、うん……」

「くーちゃんには私がいるから。だから大丈夫、大丈夫」


 何かを演じることには慣れていた。

 だから普段の自分を意識して演じただけだ。

 けれどその内心は、今すぐにでも学校を飛び出して風花の家に帰りたい気持ちでいっぱいだった。

 学校へ行くなんて決意をしたことを心底後悔していた。甘く見ていた。自分の負った心の傷が、一体どれほど深いかを。


 息が苦しい。

 変な汗が出る。

 頭が痛くてとにかく落ち着かない。

 ほんの一日。たったそれだけで、高嶺来瑠の身体はすっかりと弱者のそれに成りさらばえてしまっていた。

 そんな来瑠の身体を抱き寄せて、風花はよしよしと元気付ける。

 そうされている間、来瑠は思った。こいつ、今まであんな状況の中でずっと生きていたのか――と。


「ゆっくり息をして。吸って、吐いて」

「……っ。す――……、は……っ」

「そうそう。上手だよ」

「ふ、ぅ――……、は、っ……!」


 風花に抱かれて深呼吸する自分を、情けないとあまり思わなくなってきたことに危機感を覚えずにはいられない。

 けれど今はそんなことを考えている余裕もなく、ただひたすらに目の前の少女に身を委ねてしまう。

 ――あったかい。背中をさすってくれる手が優しくて、耳元で囁かれる言葉の一つひとつに安心させられていく。

 このまま眠ってしまいたいとさえ思えるような温もりの中で、少しずつ冷静さを取り戻してきた頭の中に思い浮かぶのは。


「……あのさ、ふーちゃん」

「うん? どうしたの、くーちゃん」

「もしかしなくても私さ――とんでもないことやった気がするんだけど、どう思う?」

「……、……」


 途端、風花の慈愛に満ちた表情がぼっ! と真っ赤に染まった。

 そしてそれを見て、来瑠はまた心臓が激しく脈打つのを感じる。ただし朝のとはまた別の意味で。

 今更、理解と実感が追いついてきた。教室。衆人環視の中。あの面々の前で、堂々と風花にキスをしてしまったこと。

 一応言い訳をさせてもらうならば、あの時来瑠はほぼほぼ自棄になっていた。

 風花との関係が明白になったところで、別に困ることなど何一つないと。むしろそれでこいつらの鼻を明かせるんならいいじゃないかと。

 私はこいつにえっちなキスをされたこともあるんだぞと――わけのわからない、根拠など欠片もない自信に背中を押されて行動してしまった。


 ……だんだん、顔が熱くなってくる。

 恥ずかしくてたまらない。もういっそ消えてしまいたくすらある。

 あんなの、まるで――告白みたいじゃないか。

 そう思った矢先に、追い打ちをかけるみたいに風花がぽつり。


「……わ。私は、けっこう悪くなかったよ?」

「う、ううううっさい! えっち! 私は悪いの!!」

「え、えぇ……。くーちゃんからしてきたのに……」

「あんなキスしやすいところに立ってるやつが悪い!!」

「め、めちゃくちゃだよぅ……」


 顔を真っ赤にして叫ぶ来瑠に、ぷるぷると抗議の声をあげる風花。

 それでも抱き締める腕の力は緩めない辺りが彼女らしいというか、なんというか。


「――と、とにかく。ああまでしちゃったら、今更ヘンに距離取ったりするのはむしろ逆効果。これは絶対にそう」

「そ、そうだよね……白々しいよね、そんなの」

「じゃあどうすればいいかわかる、ふーちゃん」

「う、うぅん……」


 しばらく考え込んで、「!」と風花はインスピレーションの感嘆符を躍らせた。


「こ、これから毎朝ところ構わずああいうことをするってこ――あいたっ」

「んなわけあるか!!」


 ぺちんっ、と風花の額を叩いて突っ込む来瑠。

 えっちめ。すけべめ。ふん、と鼻息を荒く鳴らしながら、「そうじゃなくて」ととんちんかんな発言を振り払う。


「今朝、一緒に登校したでしょ。ああいう感じで、とにかく周りを気にせず話したり関わったりしようってこと」

「あ、うん……。私は元からそのつもりだったし、大丈夫だよ」

「まあ、それは私もそうなんだけど……つまり、何か特別なことをしたりは何もしなくていいってことね。

 結菜はともかくそれ以外はほとんどが周りに流されるばっかりの雑魚ばっかりなんだし、気にするだけ損。そう、損なんだよ……」


 最後は、自分自身にも言い聞かせるようにして。

 来瑠は風花の腕の中からようやく離れて、額に浮いた脂汗を拭った。

 その雑魚どもに、此処まで心の中を抉られていたことが情けなくて腹立たしくて仕方がない。

 こんなザマでは、いずれ必ずまた恥を晒すことになると来瑠には確信めいた予感があった。

 けれど、そうはさせない。心の中の弱気と、疼く傷口を無理やり殴りつけて来瑠は意地を張る。


 そんな来瑠の心が、伝わったのかそれともなんとなくなのか。

 風花はおもむろにもう一度、来瑠の頭を優しく撫でた。


「……なに」

「……ううん。なんでもないよ」

「なんでもないわけないでしょ。人の頭、気安く撫でて」

「くーちゃん、頑張っててえらいって思って」

「…………馬鹿にしてる?」

「し、してないよ。むしろ、えっと……すごいなって思ってる。

 私――いじめられてた時、くーちゃんみたいに強く振る舞おうなんて思いもしなかったから。ずっと怖くて、震えてるだけだったから……」


 ――少し微笑んで、風花は言う。

 それから彼女は、ゆっくりと手を伸ばしてきて。

 来瑠の頬に、触れた。咎める代わりに、来瑠は口を開く。


「……ふーちゃんをそんな風にしてたのは私なんだけど。それはいいの?」

「いいよ。だって、くーちゃんだもん」

「何がいいのかわかんない」

「くーちゃんになら、何をされたって我慢できるよ。だって、好きなんだから」

「……ふうん。そういうもんなの、ふーちゃんの中じゃ?」

「うん。そういうもんなの、えへへ」


 そう言って、花が綻ぶみたいに笑う風花の顔を見つめていると――自然と、疲れとか焦りとかそういうものが抜けていくのを感じた。

 なんだかんだで、悪くない。こうして、こいつと二人でいるのは。

 それを言葉にするのは恥ずかしいし癪だから、まだしないけれど。


「そろそろお弁当食べよっか。お腹すいたでしょ、くーちゃんも」

「……うん。すいた。おかず何?」

「卵焼きと、タコさんウインナーと……アスパラをベーコンで巻いたやつと、ちっちゃいハンバーグだよ。ごはんはわかめの混ぜごはん」

「悪くないね。ウインナーはあらびき?」

「ううん、赤ウインナーだよ。魚肉のやつ」

「…………なんで私の好み知ってるの。こわ」

「べ、別に調べたわけじゃないよ!? 偶然だから、偶然……!!」


 そんなふうに和気あいあいとした、普通の学生の日常めいた会話を重ねていると。



「……っ!?」


 がちゃり、と音がした。

 ドアノブの回る音だ。

 来瑠も風花も、反射的に音の方を向く。


 開け放たれた扉。

 そこに、一人の女が立っている。

 顔に浮かんでいるのは笑み。朝、小椋結菜が浮かべていたのと同じタイプのそれ。

 手に持っているのは――スマートフォン。


「……なぁんだ。やっぱり弱ってたんだぁ、高嶺さん」


 笑う女の名前を、風花も来瑠も知っていた。

 同じクラスなのだから当然だろう。

 出席番号一番。身長は、ちょうどあの小綿詩述と同じくらいだろうか。

 そんな小さな身体で出口を塞ぐように立ち、少女は不敵に宣言した。


「全部録音してましたっ。さてと、これ――小椋さんやみんなに回しちゃおっかな?」



◆◆



 泡野あわの迷依めいは、はっきり言ってしまえば中堅どころの生徒である。

 友達はいるけれど多くない。陰気ではないけれどそこまで目立たない。

 そんな感じの立ち位置で今日まで十五年間とちょっと生きてきた。

 

 迷依はきらびやかな人達に憧れていた。

 かつての高嶺来瑠は、まさにその筆頭例に他ならなかった。

 容姿端麗、文武両道。彼女の一声でみんなが動く、最強で無敵のリーダー。

 スクールカーストの最上位。なんとも言えず地味で、かと言って他から一目置かれる能力もない迷依にとって来瑠は違う世界の人間で、だからこそそんな来瑠が自分より遥か下まで転落していった時にはひそかに心を躍らせた。

 そして――これはチャンスだと、そう思った。


 ――いける。

 ――高嶺さんがいなくなって、小椋さんが玉座を取ったのなら。

 ――小椋さんのサイドキック(※迷依は父親の趣味がうつって大のアメコミ好きなので、いつかこの単語を使える機会をずっと待っていたのだ)の位置になら、今からでも滑り込めるかもしれない!


 ましてや、来瑠と風花があんなことをして皆今ひとつ踏み込みことに躊躇している状況なのだ。

 此処で他に先んじて動き出せれば、新たなリーダー・小椋結菜に次ぐNo.2の座を奪取することは夢物語ではなくなるはず――そう考えた。

 そうと決まれば善は急げだ。昼休み、風花と一緒に教室を出ていく来瑠のことをひそひそ追いかけた。

 後ろから「ちょ、やめときなって」「あんたじゃ無理だって」と仲良しの好美ちゃんが止める声が聞こえたけれど、此処で振り返っては成長できないと心を鬼にして無視した。


 二人が屋上に出たのを見て、迷依は屋上に続く扉の鍵が壊れて事実上開けっぱなしになっていることを初めて知った。 

 へー、とか。此処でお昼食べたら気持ちよさそうだなあ、とか。そんな牧歌的なことを考えてしまう自分の頬をべちんと叩いて、そんなことだからおまえはカースト中堅止まりなんだと自分を叱咤した。

 強く叩きすぎてちょっと涙目になりながら耳をそばだててみると、来瑠の荒い息遣いが聞こえたものだから急いで録音モードにしたスマートフォンを扉の隙間へ押し付ける。


『……大丈夫。大丈夫だよ、くーちゃん』

『……うん。うん、うん……』

『くーちゃんには私がいるから。だから大丈夫、大丈夫』


 ――きた、と思った。

 降って湧いたチャンスがより確実なものになっていく感覚に胸が躍る。

 やっぱり朝のあれは痩せ我慢だったんだ。弱っていたんだ。この事実を喧伝すれば、周りはもちろん小椋さんからの自分への評価も鰻登りになるに違いない。

 風花に慰められながら深呼吸をしている来瑠の声は、前のきらきらしたそれを知っているとなんだか不思議な背徳感が込み上げてくる。


 その後も聞き耳を立て続け、録音を回し続けていた迷依だったが、結局それ以降は目立った収穫はなかった。

 何やらいちゃいちゃし始めた音声が記録できたくらいだ。もう少し露骨なら使いようもあるだろうが、残念ながらそこまでの代物ではない。


 しかしそれでも、来瑠の本心を垣間見れた上にその証拠を記録できたことはあまりに大きい。大収穫だと言ってもいい。

 皆が自分をちやほやする姿が目に浮かぶ。これからはもし家にお弁当を忘れてしまっても、誰かが気を利かせて購買に走ってくれる生活の始まりだ。

 来瑠が焼きそばパンと月曜日に新刊が出るあの漫画雑誌を買ってきてくれたなら、自分から小椋さんにいじめをやめるよう進言してあげてもいいかもしれない。

 取り巻きは多いに越したことはないし、来瑠も風花も顔がいいから、そばに侍らせておくだけで自分の株もぐんぐん高騰あがっていくというものだろう。

 もしそうなっても好美ちゃんとは変わらず仲良くしよう。そういうところの義理人情は大事にしたいし、体育で組む相手がいなくてうろうろおろおろしていた時に手を差し伸べてくれた功績を私は忘れていない。

 ふふ、ふふふふ、と含み笑いを漏らしながら、意気揚々と迷依は目の前の扉を蹴り開けた。

 ばーん! と大きな音を響かせつつの颯爽登場。来瑠も風花も度肝を抜かれたような顔をしている(※迷依視点)。


「……なぁんだ。やっぱり弱ってたんだぁ、高嶺さん。

 全部録音してましたっ。さてと、これ――小椋さんやみんなに回しちゃおっかな?」


 勝利宣言にも等しい言葉を吐き、自慢気にスマートフォンを突きつける。

 冷静に考えると、別に面と向かって突きつける意味はなかった気もするが、こういうのは劇的であればあるほどいいのだと相場が決まっている。

 さあ、来瑠や風花はどうするだろう。自分にデータを消してと懇願してくるだろうか。

 わくわくしながら反応を待っている迷依に向かって、ひゅんと何かが飛んできた。

 直後、手に鋭い痛みが走って――迷依は思わず端末を取り落してしまった。


「いた……え?」


 足元には、二つのものが落ちていた。

 自分の見慣れたスマートフォンと、そしてなんだか赤い汚れのついたカッターナイフ。

 

「? ……???」


 ふっ、と。

 自分の右手を見て――


「えっ」


 血の気が引く。

 文字通り、さっと青い顔になった。

 右手の人差し指から、どくどくと真っ赤な血が流れ落ちている。

 

「えっ、え……はあ……?」


 カッターナイフ。血。痛み。

 三つの点が、迷依の鈍めの脳みその中でやっと線になっていく。

 あ。もしかして今私、カッター投げられたのかな。

 そう思った時にはもう、目の前まで来瑠が近付いてきていて。

 遠くの方で風花が「なむ……」と呟く声が聞こえた。


「………………」

「………………」

「あ、あのぉ……ちょっと待ってもらうことはですね、そのぉ……可能でしょうか……」

「却下」


 へたり込んだ制服の胸元へ馬乗りになられ。

 うまく回らない口で頑張って、一生懸命紡いだ命乞いの言葉は一言で切り捨てられ。

 来瑠が怖い顔で拳を振り上げるのを、迷依はただ見上げるしかなかった。


「――ひぃいいいいいいぃいいいいいいん!!!!」


 哀れな娘の悲鳴が屋上に響き渡る中。

 風花はなるべくそっちの方を見ないようにしながら、タコさんウインナーを一つ小さく食むのであった。

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