懐古と清濁
「この部屋にわたし以外の人間がいる光景は、正直あまり見たくありませんでした」
来瑠の前に立って、小綿詩述はくすりと笑って言った。
しかしその目は笑っていない。
そこに滲むのは、来瑠のものとは真逆の静かなる敵意だった。
視線の交錯。漂う張り詰めたものが、二人の間に安穏な決着などありはしないのだということを物語る。
過去からの追跡者と、現在の片翼。
二人の立場は決して交わらず、故に相容れることもまた有り得ない。
「前置きはいいから率直に言いなよ。あんたさ、私にどうしてほしいの」
「風花ちゃんを返してください。そしたら私はあなたから一切の手を引きます」
その言葉に、来瑠は露骨に眉を顰めた。
不快感を露わにする彼女の前で、詩述は表情を崩さない。
しかしそれは、ただ単に最初から来瑠に対する嫌悪を隠そうともしていないというだけのこと。
探偵じみた不敵な笑顔の仮面の裏に、無二の親友を奪われたことへの不服と恨みが渦巻いているのを来瑠は幻視した。
「……断ったら?」
「わたしが使えるあらゆる手段に訴えかけて、あなたの人生を壊します」
「……やっぱり、あんたが」
「そうですよ? どうでした、やる側からやられる側に堕ちた気分は。
わたしも人から動画を見せていただきましたが、いやあ胸のすく思いでした。
で、どうします? もう一回味わってみたいですか、飼い犬の気持ち。ずいぶんじょうずにお返事できてたみたいですけど」
くすくす、と笑いながら紡がれる言葉が来瑠の記憶を嫌でも呼び起こす。
思い出したくもない記憶。ずっと強者たれと科され、その通りに生きてきた来瑠にとっては人生を投げ出したくなるほどに忌まわしい屈辱と恥の記憶。
薄いかさぶた一枚で塞がれていた傷から、膿がじゅくりと溢れてくる。
「大方、風花ちゃんに頼み込んでこの家を使わせて貰ってるんでしょうけど。
こうしてわたしがあなたの居場所を突き止めたことの意味は、きちんと噛みしめるべきだと思いますよ。
行き先の分かってる家出少女がどうなるかなんて、ちょっと考えたら分かりますよね」
あの日々に戻るなど、何があっても御免だ。
次にあれを味わったら、自分は二度と立ち上がれる気がしない。
それほどまでに、あの悪夢のような一日と自分に向けられた悪意・嘲笑の数々は来瑠の中でトラウマになっていて。
そんなことはお見通しだとばかりに投げかけられる詩述の言葉が、彼女の生傷だらけの心を容赦なく追い打ちした。
そして、そこに輪をかけるように。
詩述は、来瑠にとっての最大のウィークポイントへと言及する。
「そうそう。お母さんもずいぶん心配していましたよ」
「――っ、
「ええ、行きました。お母さん、冷たくしてしまったととても後悔しておられましたよ。
頭におっきなかさぶたがありましたけど、あれは来瑠さんが喧嘩の拍子で叩くなり殴るなりしたんですよね?
ちゃんとした処置がされてるようには見えませんでしたから、今すぐ帰って診てあげた方がいいんじゃないでしょうか。傷口からの感染症は怖いですからね、放っておいたら手遅れになってしまうかも……」
今の来瑠は、全てに背を向けて逃げ出した格好だ。
学校も、将来も、全部どうでもいいと目を背けて風花の優しさに逃避している。
そんな来瑠の中で、一つだけ今も根を張り続けている感情。罪悪感。
衝動的に暴力を振るってそれきりになってしまっている、母。
最後に見た、優しかった頃の面影など欠片もない憎々しげな表情が詩述の言葉に誘われて脳裏に蘇ってくる。
――とても後悔しておられましたよ。
その言葉が、返しの付いた釣り針みたいに深く来瑠の心へ突き刺さった。
「わたしはね、来瑠さん。この世は因果応報のもとに回るべきだと思っています」
詩述は巧みだ。
虐げることにのみ特化した来瑠のそれよりももっと幅広い範囲に及ぶ、人心への理解と掌握のノウハウを齢十六になるかどうかという年齢で既に所持している。
今の言葉だってそう。
単に来瑠を責め苛むだけでなく、母が後悔していたという情報を追加で伝えることにより、彼女へ逃げ道を示してみせた。
言うなれば飴と鞭。トラウマを蘇らせる"鞭"で虐めてから、やり直すチャンスという"飴"をちらつかせる。
もし此処で、この飴に飛びつけば。
全部とは行かなくとも、この世で一番大切な人とだけはやり直せるかもしれない――そんな希望を抱かせる。
その飴が悪意のみを原料にして作られた嘘八百の産物であるということを除けば、それは来瑠にとっての蜘蛛の糸だった。
「何人もの人間を卑劣に虐め抜いて、時には自殺にまで追い込んだあなたは救いようのない最低な人間です。
わたしの信条に照らし合わせるならば、あなたをもう一度学校へ引きずり出して、自分が人に与えたのと同じだけの苦しみを味わせるのが最も正しい落とし所でしょう」
「……、」
「でも、今なら許してあげます。
風花ちゃんのことを諦めてさえくれれば、全部見逃してあげます。
あなたが学校で元通りに振る舞えるように力添えもしましょう。
あなたに狼藉を働いた生徒達の弱み、付け入る隙、その全てをあなたに教えてあげても構わない」
沈黙を保つ来瑠に対し、詩述はひたすらに饒舌だった。
風花の語る追憶の中で垣間見た、小綿詩述という人間の思想。
その片鱗が、滔々とした語り口調の端々から滲み出ている。
「ねえ、来瑠さん。わたしは、あなたを追い詰めて破滅させたいわけじゃないんです」
来瑠の頬に、詩述の手が触れる。
愛玩動物を慈しむように、馴れ馴れしく。
そして、"お前なんてどうにでもできる"と、無言の内に伝えるような所作だった。
「わたしはただ、友達と仲直りがしたいだけ。
そのために、大事なあの子を囚えているあなたに退いてほしいだけ。
それさえ叶えば後はどうでもいいんです。わたしにとって大切なのは、風花ちゃんだけですから」
そこまで風花ちゃんに執着する理由なんて、あなたにはないでしょう?
詩述は毒のような言葉を来瑠の内に滲み入らせる。
火箱風花は、高嶺来瑠にとって玩具の一つ、標的の一人でしかない。
人生の中で無数に虐げ、時には壊してきた人形の一体。その中でも、頭一つ抜けて見た目がいいというだけの存在。
元々他の誰かのものだった玩具から、名残惜しさを噛み殺して手を離すだけ。
それだけで、来瑠の日常は帰ってくるかもしれない。少なくとも詩述はそう言っている。そう言ってくれている。来瑠という、その気になればいつでもすり潰してしまえる小さくて弱い存在に対して、わざわざ。
「お願いします、来瑠さん。
どうか――わたしに
手を差し伸べた挙げ句、頭まで下げて。
詩述は誠心誠意の"お願い"をした。
来瑠は大袈裟でも何でもなく、その姿に運命の分かれ道を見た。
此処で手を取れば、もしかすると今の緩やかに破滅していくだけの人生から這い上がることができるかもしれない。
来瑠は、しばらく沈黙した。
それは十秒だったかもしれないし、一分だったかもしれない。
とにかく。そんな沈黙の果てに、来瑠は貼り付いた唇をぺりりと離して――詩述へと返す言葉を紡いだ。
風花を手放す。
風花を手放さない。
与えられた選択肢は二つ。
「あんたは、さ」
果たして、来瑠の口にした言葉は――その、どちらでもなく。
「なんで、あいつのことが好きなの」
そんな、問いかけだった。
答えではなく、逆に質問。
詩述が頭を上げる。視線と視線が、再び交錯した。
やがて詩述はゆっくりと口を開き、答える。
「――風花ちゃんは、わたしにたくさんの思い出をくれたから」
風花と詩述が過ごした、一年間の青い春。
果実が実り、熟し、そして腐るまでの物語。
それが彼女達のどちらにとっても尊い思い出であったろうことは、来瑠にも嫌というほど理解できていた。
詩述との楽しい思い出を語る時の風花の顔は、正直あまり思い出したくない。
あれは。本当に、心底幸せな記憶を思い返している、そういう顔だったから。
「わたしはあの子を傷つけてしまった。この世で一番大切だったはずのものを、わたしの幼さで踏み躙ってしまった」
「なに。後悔してるの、あんた」
「ああ――やっぱり風花ちゃんから全部聞いてるんですね。
はい、後悔しています。悔やんでもどうにもならないことは分かっているけれど、それでも手を伸ばさずにはいられないのです」
かつて小綿詩述は火箱風花を"使い"、自分の思想を叶えるための殺人を行った。
そしてそれこそが、彼女達の青春に亀裂を入れた真の要因。
その失敗と風花に対して犯した罪を、今も悔やんでいるのだと詩述は言う。
「だから、大好きな風花ちゃんともう一度……今度こそ一緒になりたい。あの子に今度こそすべてを尽くして償いたい。
それがわたしの"理由"です。だからわたしは、どんな手を使ってでもあの子を取り戻したいと願うのです」
かつての
幼稚な昂ぶりのままに親友を利用して、道を踏み外してしまった。
過ちに気がついたのは最後の最後。だからこそ、小綿詩述は終わってしまった物語をもう一度始め直そうとしている。
「……そう。私は」
――それを聞き届けた来瑠は、返すように口を開いた。
詩述が口にした理由。それに、自分のをぶつけるために言葉を紡いだ。
「私は、あいつの顔が好きだよ」
「……はあ?」
「意味分かんないくらいかわいいでしょ、あいつ。
綺麗な肌も髪の毛もいいし、香水もつけてないのにすっごいいい匂いするからずっと抱きしめてたくなるけど――やっぱり一番は顔かな。
あいつの泣いてる顔、苦しんでる顔……笑ってる顔、とぼけた顔、えっちな顔、全部好き。
抱っこして寝たことある? 体温高くてさ、湯たんぽみたいにあったかくて。もういくらでも寝てられそうなくらい気持ちいいんだよね」
言ってる間にも来瑠の頭の中を、いろんな表情の風花が駆けていく。
初めて会った時の風花。水族館で不器用にはしゃいでる風花。
自分に初めて虐められた時の風花。夕暮れの廊下で、涙を浮かべながら自分を呼び止めた風花。
失意に暮れる自分を抱きしめてくれた風花。全て失った自分を、隠してくれた風花。
自分の唇を、下手にも程があるえっちなキスで奪っていった風花。
腹立つくらい幸せそうな顔で昔の女のことを語って聞かせやがった風花。
この気持ちが、あいつが自分に言った"好き"と一緒なのかどうかは分からない。
分からないが、一つだけ確かなことがあった。
それは――風花をこの女に渡したくない、古ぼけた青春の亡霊なぞに売り渡して堪るかという強い感情。
「渡すわけないでしょ、あんなかわいい生き物。
せいぜいフられた自分を恨んでなよ。ふーちゃんは元カノのあんたより、今カノの私に夢中みたいだからさ」
「……そうだとは思っていましたけど、あなたは本当に浅い性根をしているやですね」
「あんたも大概じゃん。死ぬほど幼稚な性根してるくせに。
中学生で卒業しときなよ、そういうどっかで聞いたみたいな思想はさ。
やっぱり人殺しの娘だから考えの極端さは親譲りなのかな。あ、今はもう親子ともども人殺しか」
「悪意の示し方がありきたりすぎです。幼稚なのはお互い様ではないでしょうか。
よりによってそんなテンプレートみたいな揶揄しかぶつけられないなんて……天国のお父様も報われませんね、手塩にかけて育てた愛娘がこのざまじゃ」
来瑠は、沈黙の内に。
詩述は、笑顔の内に。
それぞれ隠していた敵意が、表層へと出る。
交わす言葉は互いに悪意。それだけしかない、この二人がそれ以外の感情をぶつけ合うことなど有り得ないのだから。
来瑠の心の中で、家族の話はひときわデリケートな部分だ。
仮に誰かが揶揄などしようものなら、すぐさま火が点いたように怒りを爆発させていたことだろう――これまでならば。
しかし今、来瑠は詩述という最大の敵と相対した結果逆に冷静だった。
この女だけは潰さねばならない。
こいつの存在だけは、許してはいけない。
完膚なきまでに粉砕して、自分の世界から消滅させなければならない。
心の奥底から湧き上がってくる使命感にも似た感情が、来瑠の中でともすれば燃え上がろうとする赫怒の火を鎮め安定化させている。
「はいはい。あんた頭良いみたいだし、口で勝てるとは思ってないよ」
実のところ。
高嶺来瑠に、小綿詩述と議論をするつもりなどなかった。
論戦で勝って、それで問題の解決になるなんて思っていない。
それよりもっとずっと手っ取り早く、そして確実に問題を解決できる手段を来瑠は知っている。
小さい頃。物心ついた頃からずっと、来瑠はそれを使って生きてきた。
「だからさ。此処からはあんたの身体と直接お話させてもらうね」
「え――――か、ふ……!?」
目の前に立つ詩述の首筋を腕で握り締め、そのまま全体重をかけて押し倒す。
幸いにして詩述の体格は華奢で、来瑠よりも小柄だ。押し倒すのは簡単だった。
押し倒したら馬乗りになって、首筋の手を今度は口元へ直接持っていく。
唇を押し潰すようにして手で口を塞げば意味のある声はもう発声できないし、漏れ出す声の消音効果も期待できる。
詩述が身体の下でもがく抵抗は、別段警戒しなくても何一つ事態を好転させられそうにないか細いものだった。
「あんたが私のことどれだけ目障りに思ってたか知らないけどさ。
私も、あんたには昨晩からずっと、ずーっとむかついてたんだよ」
「っ……、……!!」
「詩述ちゃんは大好きな風花ちゃんと一緒になりたいんだもんね。
じゃあその願いごと、私が今から叶えてあげよう。
私が今まであいつにやったこと、時間の許す限りあんたの身体に教えてあげる」
押し倒す際に、机の上から掴み取ったペンケース。
そのチャックを開けて、まずはカッターナイフを取り出した。
「でもその前に、まずはあいつにもしなかったことしちゃおっかな。
誰かさんのせいでもう学校にも行けないし、もういちいち周りの目とか考えて我慢する必要もないからさあ。
ふーちゃんの顔は傷つけたくなかったけど、どうでもいい横恋慕女のならこっちも楽しく遊べそうだしね」
チキチキ、と刃を出して。
それを、より恐怖心を煽るように――眼球の前へと持っていき。
「二度と恋とかできない顔にしてやる」
死刑宣告と共に、今度は詩述の頬へと刃先を近付けていった。
流石に顔を切り刻まれるのは嫌なのだろう、抵抗が強まる。
前までの来瑠なら満悦の表情をすら浮かべたろうが、彼女相手にはそれすらない。
ただただ冷めた顔のまま、来瑠はひとまず自分の敵を女でなくするための手術に取り掛かるべく手を動かした。
「────っっ……!」
まあ。ある程度まんべんなく切りつけたら、もうふーちゃんの前には現れないだろう。
こういうタイプは自分の見た目に大なり小なり自信を持ってるものと相場が決まってる。
想い人に釣り合わなくなってしまった自分という精神的ダメージを与えるだけ与えたら、そこからは満を持して個人的な鬱憤を晴らすフェーズに移行すればいい。
美少女の顔面というキャンバスを前に冷静に描画の算段を立てながら、いざ工程に取り掛からんとする来瑠の下で身をよじる詩述の抵抗は笑えるほどか細かったが、その目は未だ恐怖ではなく敵愾心で染まっていた。
大したものだと思う。同情も共感もする気はないが。
「じゃあ終わろっか、クソ女」
そして、全てを終わらせる決着の刃が詩述の白い頬に触れようとした──その時だった。
「そこまでにしとき」
背後の襖が、がらりと開き。
そこから、白髪頭に浴衣姿の老人が姿を現したのは。
◆◆
思わず、ぎょっとした。
風花の祖父。此処でこの人物が乱入してくるというのは考えていなかったから。
というのも、この老爺は認知症が進み、もうまともに人間の識別もできていないという話ではなかったか。
そんな来瑠の当惑を見透かしたように老人はからからと笑い、来瑠とその下で口を塞がれている詩述を交互に見た。
「久しぶりやの、詩述ちゃん」
「っ。む……」
「来瑠ちゃん、離したってや。その子は孫みたいなもんなんでな、勘弁したってくれ」
こんな老人の言うことを聞いてやる理由など、本来はない。
けれど来瑠の中である疑念が持ち上がっており、そうなった以上はこのまま事を続行するわけにはいかなかった。
詩述の口から手を離し、その細身の身体から下りる。
手がべっとりと詩述の涎で濡れているのがなんとも言えず不快だった。
「けほ、けほ……っ。――ありがとうございます、おじいちゃん」
「あかんで詩述ちゃん。野生動物と喧嘩するんやったら、護身用に武器の一つ二つは持っておかんとのぉ」
「……失策でした。素直に認めます」
悔しげな視線で睨み付けてくる詩述を、来瑠も睨み返す。
ていうか、誰が野生動物だ。このクソジジイめ。
今にも火花が散りそうな一触即発の空気の中で、詩述は老爺に向けて言った。
「おじいちゃんは──わたしの味方、なんですよね?」
「わははは、こんなボケ老人捕まえて味方も敵もねえべや。
詩述ちゃんは俺の孫やし、来瑠ちゃんは俺の
まあ流石に、別嬪さんの顔が潰されるのは忍びないんでの。そこは助け船を出してやったが」
「……わたし、おじいちゃんよりもお義父さんがほしいです。
とっても残念です。おじいちゃんなら、わたしの方を取ってくれると思ったのに」
はあ、とため息をついて詩述はようやく立ち上がる。
もう一度、その顔が来瑠の方を向いた。
既に交渉は決裂。差し伸べた悪意の手は振り払われ、予期せぬ手痛いカウンターを食らう羽目にもなってしまった。
なんて無様。探偵の眼差しの底に、憤りの火が燻る。
「今日のであなたがどういう人間なのかはよく分かりました。
そして確信できた。あなたはやっぱり、風花ちゃんを囚えている呪縛そのものだ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。私が呪いならあんたは悪霊でしょ」
「まあ、いいです。あわよくば今日此処で全部終わらせるつもりでしたが、こうなった以上は仕方ありません。
わたしの不手際です、潔く認めて退きましょう。ただ――」
老爺の横を通り過ぎて。
部屋の入口、襖の前で亡霊が言う。
彼女は亡霊。嗜虐の呪いを排除せんとする、古い青春の残響。
過去から来た妄執の影が、現在で愛しい人と道を共にする呪わしい女の存在を認めることなどできる筈もなく。
よって、二人の戦いはこれより泥仕合へ突入する。
より過酷で、より後戻りの利かない――殺し合いのような潰し合いへと。
「もう、安穏な終わり方に期待はしないでくださいね。
ふさわしい地獄に案内してあげますよ、間女さん」
「……やってみなよ。そのむかつく顔、今度こそぐちゃぐちゃにしてやるから」
襖が、閉じる。
足音が遠ざかっていき、玄関を出て外へと消える。
それを聞き届けてから、来瑠はふうと脱力したような息を吐き出した。
緊張の糸が切れた。風花以外の人間と会って喋ることなどできないような精神状態だったにも関わらず、そこに鞭打って大立ち回りを演じたのだ。反動は思いの外大きく、少女はぺたりと畳の上に座り込んでしまう。
そんな様をも、老爺はからから笑って愉快そうに見つめていた。
来瑠は彼のことを見上げ、訝しむのを隠そうともせずに問いかける。
昨日から抱いていた、そして先の詩述を交えた悶着の一幕である種の確信に変わった疑問を。
「……おじいさん、本当はボケてないでしょ」
「なんでそう思う?」
「本当にボケちゃってる年寄りって、もっと話通じないですよ。
少なくともふーちゃんが言うように、現実がまったく分からなくなってしまってる風には見えません」
「わはははは。さよか、やっぱり風花が特別鈍いだけなんやな。
あいつと来たら俺は本当にボケ切ってると信じて疑わんからよ、これで皆だまくらかせるもんだと思っちまってたでよ」
相変わらず、どこの方言なんだか分からない聞き苦しい喋り方ではあったが。
しかしやっぱり、その語り口には一本線が通っていた。
少なくとも、痴呆が進んで認知がぐずぐずになってしまっている人間のそれとは思えない。
――では、わざわざ実の孫相手にまでそんな"フリ"をし続けている理由は何だ。
「ボケてないんだったら、教えてくれませんか。昨日言ってたことの意味」
「何の話じゃ」
「なんであなたが、私の父親の名前を知ってるんですか。
あいつ――此処に来たことがあるんですか。教えてください」
詩述のことも、確かに来瑠にとっては重要だ。
今後、間違いなく詩述は更に激しい攻勢を仕掛けてくる。
風花とこの先も一緒にいたいと思うならば、それを乗り越えるのは必須だ。
ただ――いや、だからこそか。
かつてないほど大きな難局に直面し、ともすればそのまま地獄に落ちる羽目にもなりかねないからこそ、来瑠は自分の中に息づく憂いを取り払っておきたかった。
憂いの正体は一つの謎。
この老爺が来瑠の前で口にした、
それを知らないままでは、この先を戦っていける気がしなかった。
だから来瑠は真正面から、一切の搦め手なしに直球で問いかける。
そんな彼女に対し、老人は――
「……んだな。まあ、そろそろ頃合いか」
「何の話ですか」
「来瑠ちゃんは、風花と一緒にいてくれるか」
「……、……さっきの話聞いてたら分かりませんか。改めて口に出すの、流石に恥ずかしいんですけど」
「わはは、そうかそうか。ま――なら、ええやろ。
あいつと共に歩む言うんやったら、遅かれ早かれ知らなアカンことよ。
のう、高嶺龍櫻の子。なんちゅうか、アレやな。父親に似とるわ、色々と」
そんな聞き捨てならない台詞に脳が熱くなるが、それをよそに老人は立ち上がって来瑠に背中を向けた。
案内してくれるのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
顔だけで来瑠の方を振り返って、彼は言う。そして、問う。
「仏間に行け。仏壇の下に引き出しがあるから、それを開けてみい」
「……そこを探せば、何か分かるんですか。あいつのこと」
「何を考えるかはお前次第じゃ。……ああ、それともう一つだけええかの」
「……、……」
「お前。
「…………はい」
「そうかあ」
来瑠の答えに、老爺は「ふう」とため息をついて。
「どいつもこいつも、死んでからも迷惑かけやがって。
立つ鳥跡を濁さずっちゅう言葉を知らんのか、まったく……」
どこか、遠く。
もう戻らない何かを見つめるような目をして、言ったのだった。
◆◆
――くやしい。
――むかつく。
――わたしとしたことが、とんだ失態だ。
火箱家を後にした小綿詩述は、爪を噛んでいた。
心の中を満たすのは悔しさと、自分自身の不甲斐なさへの憤り。
高嶺来瑠を見くびっていた。転落の苦しみを味わせてやれば簡単に折れる程度の存在だと甘く見ていた。
読みが浅かった。あれは暴力の化身だ。日常生活の選択肢の一つに、暴力で解決するという項が存在するたぐいの人間だ。
風花の祖父の言う通り、武器の一つ――最低でもスタンガンか催涙スプレーは持っておくべきだった。その備えを惜しんでいなければ、あんな無様を晒すことはきっとなかっただろう。
二戦目、直接対決は――敗北。ものの見事にしてやられた形になってしまった。
それは何も、来瑠が暴力で詩述に一泡吹かせたからというだけではない。
来瑠が詩述の甘言に一切乗ってこなかったことも含めて、である。
「……仕方ありません。それに、どっちにしろやることは変わらない」
詩述には、来瑠がどんな選択をしたとしても助けてやるつもりなど微塵もなかった。
風花を奪うだけ奪ったら、後は追い打ちのように叩きのめして破滅させて、人生を終わらせてやる算段だった。
自分の中に揺らぐことなく存在する因果応報という名の正義に則って、然るべき末路を与えてやる。そういう気しかなかった。
すなわち。あそこで少しでも詩述に歩み寄る姿勢を見せていれば、その時点で高嶺来瑠の敗北は確定していたのだ。
詩述の悪意に満ちた詰め手が、逆に来瑠の風花への想いを証明してしまう結果となったことは皮肉と言う他ない。
それも含めて、今日の対決は詩述の完敗だった。
彼女自身、そう認めるしかない結果。悔しさに噛み締めた爪が欠けて、歪な形を描く。
路傍に転がる空き缶を蹴っ飛ばして、隠しきれない苛立ちを表現する姿は歳相応に幼く見えた。
(結菜さんにも連絡しないといけませんね。
そろそろ、あっちも仕事が終わった頃でしょうし……)
思考を無理やりに切り替えて、頭の中から来瑠の憎らしい顔を追い出して。
詩述はスマートフォンを操作しながら、頭の中に相棒の顔を思い浮かべていた。
小椋結菜。彼女には今日、一つの仕事を任せてある。
万一にでもこちらの対決に"あの子"が乱入してくる事態を防ぐため、そしてある疑問の答えを確かめるため。結菜を援護兼来瑠への削り役として同伴させることは敢えてせず、彼女は学校に留まらせた。
結菜がいれば、もしかすると来瑠にしてやられることはなかったかもしれないが――しかしそれはそれ。
「さてと。生きているといいのですが」
通話の発信ボタンを押し、詩述はそう呟いた。
生きているならそれに越したことはない。
とはいえ、そうでなかったとしてもそう大きな支障はない。
詩述の中では、それも一つの正しい結末だ。
「少しは役に立ってくださいね、添え物さん」
昨夜。ハンバーガーショップに設置されていたクレーンゲームで、結菜にせがんで取って貰った熊のキーホルダー。
詩述は冷めた目でそれを見つめ、側溝にぽいと放り捨ててしまった。
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