追憶Ⅳ/そして私は、きっとあなたに恋をした
「……なんだ。本当に殺せないんですね」
火箱風花は、嫌悪していない人間を殺せない。
声の力――両親や祖父は"
詩述に半ば押し切られるようにして、彼女が独自に選定したという老人に"死ね"と叫んだ声は案の定不発に終わった。
若い頃に強盗殺人を犯して無期懲役の判決を受け、40年以上服役してようやく仮釈放されてきたという御仁らしい。
そんな相手が……いや、そんな相手でなくとも、いきなり見ず知らずの子どもに罵詈雑言をぶつけられたらどんな反応をするかは自明の理だろう。
杖を振り上げて、顔を猿のように紅潮させ、怒鳴り声をあげながら迫ってくる老人。
その気迫にひゅっと喉を鳴らしてしまう風花をよそに、詩述はふむ、と呟いて。
「わたしの敵は風花ちゃんにとっても敵だと思っていたのですが、そううまくはいきませんか」
そんなこと言ってる場合じゃないよ。
早く逃げよう――焦る風花には見向きもせず、詩述は逃げるどころか老人に向けて一歩踏み出した。
「まあ、いいです。だったらアプローチの方法を変えてみましょう」
それはまるで、実験に失敗した科学者が前提の条件を一つ変えてみるような。
そんな気軽さに満ちた言葉だった。
過去に殺人を犯したというのも頷ける凶暴な気迫を滲ませて迫る老爺が、詩述へどんどん近付いていく。
このままじゃ、まずい。詩述ちゃんが傷つけられてしまう。
去来する思い出。たとえ果実が腐り始めたとしても、楽しかったあの頃の思い出までもが嘘になったわけではない。
だからこそ。大切な友人であり、自分のヒーローである詩述を傷つけようとする相手の存在を――風花はまんまと嫌悪させられた。
それを察したのだろう。詩述は振り返らぬまま、風花に言った。
「今です、風花ちゃん」
「っ――死ね……!」
風花は当然、そうするしかない。
詩述の計算通りに条件は満たされ、発語は完了し。
今にも殴りかからん勢いで何事か喚きながら迫っていた老人が、白目を剥いてひっくり返った。
どこかで、犬がわんと鳴いた声がした。
口元から溢れてくる泡が、その命が突然かつ乱雑に奪い去られたことを如実に物語っていて。
そんな死体を前にして呆然と立ち尽くす風花の手を取り、詩述は笑った。
「ほら、ちゃんとできた」
「……詩、述――ちゃん」
「ちょっと計算違いでしたけど、これはこれでいいものですね。
共同作業って感じがして、悪くないです。風花ちゃんもそう思いますよね?」
ねえ、やめよう。
もうやめよう、こんなこと。
やめてよ。もう、やめて。
こんな、こんな風に――
道具みたいに、使わないで。
ねえ、詩述ちゃん。ねえ――
「――ん、っ」
そんな言葉は、柔らかな唇によって封じ込められた。
詩述の舌はとても柔らかくて、流れ込んでくる唾液は大好きなあの子の匂いそのもので。
大好きな要素しかないのに、凍えるほど空寒くて、寂しい気持ちになった。
うっとりとした目で見つめられても、もう胸はちっとも高鳴らない。
むしろ心の中の寂しさが、孔が、どんどん広がっていくのだけを感じてしまう。
「ぷは。……ごほうびです。仕事終わりのちゅー」
「……、……」
「明日もまたやりましょう。悪い人ならたくさん知ってるんです」
ずっとずっと、こういう機会が来るのを待ってたから。
そう言って笑う詩述に、風花はもう何も言えなかった。
自分が何を言ったところで、きっと彼女は止まってなどくれない。
自分の声は――この声は誰かの命を奪うばかりで、一番大切な人に対しては想いのひとつも届けてくれやしなかった。
なんて。なんて、役立たず。
こんな力さえなければ。
いつか以来のやるせなさが、風花の胸中にぶわりと広がっていく。
「さ。帰りましょ、風花ちゃん。最寄りまで送ってあげます」
詩述ちゃん、あのね。
こういうの、もうやめようよ。
また前みたいに二人でお出かけしよう。一緒に遊ぼう。
ほら、約束してたゲームセンターだって、結局行けてないし。
詩述ちゃんの辛いこと、全部受け止めて分かち合ってあげるから。
だから、ねえ、詩述ちゃん――。
「ふふっ。いいことをした後の帰り道は、気持ちがいいですね」
……私のこと、見てよ。
その想いは届くことなく、残暑の熱風に溶けて消えてしまった。
この日から始まった、詩述と風花による"裁き"。
毎日ではないが、彼女達は着実に悪人を裁いていった。
声一つで他人を殺す。死因はバラバラで、足がつく心配なんて当然ながらない。
フィクション世界の超常殺人とは違って、現実のそれはそもそも誰一人"そういう力"の介在を疑うこともなく数を重ね続けた。
――75人。それが、火箱風花が小綿詩述の指示によって殺した"悪人"の数である。
彼女達はせっせと殺した。
殺して、殺して、殺して、殺して。神のように、悪業へ報いを与え続けた。
詩述はいつも楽しそうに笑っていて。
風花は、彼女と出会う前のように浮かない顔で俯いてばかり。
二人で過ごす時間は、ほとんどが"裁き"とその事前相談に費やされることになった。
楽しみにしていた体育祭。詩述は、前みたいに全力では取り組まずあからさまに手を抜いた。
一緒に出店を回るんだとわくわくしていた文化祭は"裁き"の予定の都合で、二人揃って欠席することになった。
風花の描いた青春の未来予想図は、全部でたらめになってしまった。
◆◆
「へくちっ」
「……だいじょうぶ、詩述ちゃん」
「平気です。それにしても、流石にこれだけ雪が降ると寒いですね。厳冬と言われるだけはあります」
「……、……」
「風花ちゃん? どうしたんですか、お腹でも痛いんです?」
「――あの、さ。詩述ちゃん」
「?」
「前に言ってた、北海道旅行だけどさ。これだけ雪がいっぱい降る冬だったら、すっごく楽しそうだね。
詩述ちゃんがしたいって言ってたスノーボードもさ、それこそ絶好のコンディションで楽しめるんじゃないかな。
やっぱりちょっと心配だけど、そこはふたりでじっくり練習してうまくなっていけばいいもんね。毎年ちょっとずつ、ちょっとずつうまくなっていったら、いつかはふたりでかっこよく滑れるようになるかもだし――」
「……、……」
「……えぇと。」
「わたし、そんな話、しましたっけ?」
「…………」
「……、……」
「……そっか。ごめんね、記憶違いだったかも」
……楽しみに、してたんだけどな。
◆◆
「風花ちゃんは、どこの高校に行くんですか?」
「……まだ決めてない」
「え。流石にそろそろ決めないとまずいですよ。
ていうかわたし、風花ちゃんの行くところに合わせようと思ってたのに」
「詩述ちゃん頭いいんだし、レベルの高いところでもいけるんじゃないの」
「学歴とかあんまり興味ないので。それよりも、風花ちゃんがいるかいないかの方が大事です」
「……そっか。ふふ、詩述ちゃんらしいや」
「でしょう?」
「――、」
「――もうちょっとだけ考えさせて。決めたら、必ず言うから」
「はい。待ってますね、風花ちゃん」
「高校に行ってもずっといっしょですよ。
どっちか片方だけ落ちて離れ離れとか、絶対なしですからね」
「風花ちゃんのいない学校生活なんて、もう考えられませんし」
「……ありがと、詩述ちゃん」
「私も、だよ。詩述ちゃんのいない毎日なんて――考えただけで、泣きそうになる」
「助けてくれてありがとう。私に、青春をくれたこと、今でもほんとに感謝してるんだよ」
――『この先も、いつまでも』
『ずっと、この子の手を握っていよう』――
「……待ってて。約束、きっと守るから」
◆◆
「――、」
午前、三時。
机の上に広げたのは、進路選択のために先生が集めてくれた資料。
「…………、」
その下に、進路とはまったく関係ないパンフレットが力なく横たわっていた。
学生をターゲットにした、北海道旅行の格安プラン。
ツアーのように変に日程を束縛されることもなく、いざ現地に着いたら自由に観光を楽しめるという触れ込みだ。
「~~~~~~、っ……」
それだけじゃない。
風花のスマートフォンには、あの夏祭りの日から少しずつ調べていたおいしいお店や評判のいいホテルの情報がたくさん詰まっていた。
スノーボードのコツだとか、現地で有名な水族館だとか。
もう叶わなくなった――そもそも叶うはずなんてなかった。
風花しか覚えていなかった未来予想図の残骸が、未練がましく積み重なっている。
「ごめん」
知らず、誰にともなく呟いていた。
いや、誰にともなく、ではない。
誰にあてた言葉なのかなんて分かりきっている。
ただ、その相手が今此処にいないというだけだ。
「ごめんね」
机の上に突っ伏して、風花は泣いた。
この日は結局、朝までまんじりともできずにそのまま泣き続けて。
いつもの曲がり角、ふたりの待ち合わせ場所に行くなり詩述にびっくりされてしまった。
そんな詩述に、寝不足の疲れが滲んだ顔で笑って、風花は言った。
◆◆
「高校、決めたよ。
市立三崎之原高校」
◆◆
風花は無事、志望校に合格することができた。
自分のレベルよりも一段、いや二段は上の学校の受験だったので最後まで不安は拭えなかったが、努力は彼女を裏切らず無事実りの時を迎えてくれた。
一方で滑り止めで受けた方は、不合格。
自己採点すらしていないけれど、恐らく半分も点数は取れていないだろう。
そもそも受かる気がないのだから。受かってしまったら、全部無駄になってしまうから。
風花は序盤の数問だけ解いて、あとは問題もろくに読まず白紙で提出するのを全教科で行った。
これならきっと、受験先から自分の中学に苦情の電話が入るようなこともないだろうと。
角を立たせないように取り繕う余裕さえ持ちながら、火箱風花はしっかりと目的を達成したのだった。
今日の帰り道は一人だ。
今日は、合格者と担任教師との間で面談があったから。
授業はそのために軒並み潰され、今日だけで全生徒への面談が行われたから。
だから――たぶん、伝わってしまっただろうなと思って。
顔を合わせずに済むように、帰りのHRが終わるなり一目散に学校を出た。
そんなことをしても、いずれは話すことになると分かっていたけれど。
それでも、今日だけは顔を合わせたくなかった。
しかし。そんな風花の背後から、余裕のない足音と、ぜぇはぁという喘鳴のような乱れた呼吸音が聞こえてきて。
「風花ちゃんっ!」
――やっぱり、だめか。と。
風花は、諦めにも似た感情を抱いて足を止めた。
「――なんで。約束したじゃないですか。
ずっと一緒にいるって、おんなじ高校に行くって……」
そうだ、約束をした。
風花は詩述と、いつかの夜に誓った。
ずっと一緒にいると。そう、花火に照らされながら誓い合った。
嘘じゃない。あの時感じた、大好きな人のぬくもりは今だってちゃんと覚えている。
「わたし、何かしましたか。
風花ちゃんに嫌われるようなこと、怒らせるようなこと――」
体力がないのに、此処まで全力で追いかけてきたのだろう。
詩述の息は惨めなほど乱れていて、その声は肺でも患っているみたいにか細かった。
いや、か細いのはきっと疲れと酸欠だけが理由ではあるまい。
それを、風花は知っている。
風花は志望校に合格した。
でもそれは、詩述に伝えていた公立高校ではない。
滑り止めとして――その割には、本命よりもレベルが遥かに高い――受けていた私立の女子高の方だ。
公立高校の方は手を抜いて、面接もわざとぼろぼろにして、受からないための努力を精いっぱいした。
なぜわざわざそんなことをしたのか。その理由は、改めて語るまでもないだろう。
「……ごめんなさい! 嫌だったんですよね? わたしに言われて人を殺すの……!!」
風花は。
詩述と、離れたかった。
自分にできた最初の、そしてきっと最後の友達と、赤の他人に戻りたかった。
「謝ります。風花ちゃんが許せないっていうなら、土下座でもなんでもします……
だから、っ、ぐす――こっち、向いてください。
おねがい、風花ちゃん……無視、しないで……」
――嫌いになったわけじゃない。
今だって、詩述は風花にとって大切な人だ。
詩述を傷つける人が居たなら、きっと風花は躊躇うことなく"声枯らし"を使うだろう。
そのくらい、小綿詩述は火箱風花にとって特別な存在で。
だからこそ、これ以上一緒にいたくなかった。
これ以上、すれ違いたくなかった。互いの見ている世界が、抱いている気持ちが、絶望的なほどに噛み合っていないことを思い知らされるばかりの時間を、もう味わいたくなかった。
だって、これ以上一緒にいたら。
あの夏祭りの夜の思い出まで、幸せまで――いつか霞んでしまいそうで。
「好きです。あなたのことが、いちばん大切なんです。
ねえ、風花ちゃん。二人でずっといましょう、いつもみたいに、手をつないで」
風花は、振り向かない。
振り向いてしまったら、全部が無駄になってしまう。
そして、きっと。今、そうしてしまったら――あとは、何もかもが腐って崩れるまで終われないだろうと思ったから。
「秘密の場所でキスをしましょう。あなたが望むなら、それ以上だって構わない。だから、ねえ……」
違う。
違うよ、詩述ちゃん。
私ね、詩述ちゃんのことが好きだった。
だけど、それ以上に友達でいたかったの。
ふたりで色んなところに行って、色んなものを見て、飽きるほど色んなことを話して。
キスも、抱っこも、時々でいい。
そんなふたりに、なりたかった。
「風花ちゃん……」
詩述が泣く声を初めて聞いた。
ぐす、ひぐ、と啜り泣いて、鼻を啜って。
「どうして……」
――振り向きたい。
振り向いて、今すぐ駆け寄って。
抱きしめて、撫でて、ごめんねって言いたい。
今からでも、心の内を全部さらけ出せばまだ元に戻れるだろうか。
そんなことをつい考えてしまうけれど、風花は結局、そうしなかった。
言葉のひとつも返すことなく。
泣きじゃくる詩述を無視して、歩き出した。
もう、足音は追いかけてこなかった。
ただ、小さい子どもみたいに嗚咽する声だけが聞こえ続けていた。
……。
……、……。
…………、…………。
………………………………そうして。
家に帰り着いた風花は、祖父に「ただいま」も言わず、幽鬼のような足取りで自分の部屋へ転がり込んだ。
かばんを置いて、制服を脱ごうとして。
そこで、机の上に置かれた写真立てが目に入った。
いつも見ていた筈のそれ。去年の夏ごろは、毎日のようにじっくり見つめてはうっとりしていた思い出の写真。
「あ、…………ぁ、」
夏祭り。
花火を見終えて、家に帰ってきて。
祖父の勧めで、家の前でふたり並んで写真を撮った。
浴衣姿の風花と、普段着の詩述が並んで微笑んでいる写真。
それを見た時が、限界だった。
張り詰めていた、張り詰めさせていた感情の糸。
ずっと堪えていた何もかもが、堰を切ったように一気に溢れ出した。
「――ああああぁあああああ……!!」
死ね。
死ねよ、お前なんか。
死んじゃえ、死んでしまえ。
蹲って必死に叫ぶも、何人もの命を奪ってきたその声はしらを切ったみたいに無反応で。
風花は本当に、今此処で自分の命を終わらせてしまいたいとそう思った。
こんな人間は死ぬべきであると、そう思わずにはいられなかった。
「あ、あぁああ、あああああああ――!!!」
なんで、振り返らなかった!
あんなに泣いていたのに!
あんなに、こんな自分なんかに縋っていたのに!
振り向いて、抱きしめてあげればよかったんだ!
それだけできれば、きっと、自分たちは、きっと――
……その先が。言えなかった。
「詩述、ちゃん……ごめんね……ごめんね、詩述ちゃんっ……!!」
死ね。
死んでしまえ。
誓った言葉も、心で結んだ約束も、初めての友達も、何ひとつ守れなくて。
あまつさえ自分の手で裏切って、泣かせて、どん底に突き落として。
お前なんか――もう、生きるな。
失意のままに風花は自分を呪い。
そしてこの日、彼女の青春は本当の意味で終わりを迎えた。
誰の目も気にすることなく繋いだ手と手は離れ。
腐った果実は、屑籠の中。
火箱風花はこの日、友達を失って。
また――――ひとりになった。
◆◆
高校に進学しても、風花は何も変わらなかった。
持って生まれた内気さを改善する意欲は、中学の頃のそれに輪をかけて失せていた。
友達なんて居なくてもいい。仮にいじめに遭おうが、その時は運命だと受け入れよう。
死ぬこともせず、黙って受け止めながら苦しんでやろう。
それが自分という最低な人間に対してあるべき因果応報のかたちであると、風花はそう思っていた。そう信じていた。
桜はいつの間にか葉桜に変わっていた。
花見をして、桜餅を食べる。
あの子が嫌いな葉っぱは、自分が食べてあげる。
そんな約束も当然ながら、消えてなくなってしまった。
葉桜の並木道をひとり歩きながら、風花は虚ろな追憶を断ち切った。
この先の人生、何度だってこうして追憶を繰り返すのだろう。
そしてその度悔やんで、死にたくなって、自分を呪い続けるのだろう。
――人殺し。裏切り者。
誰かを傷つけるしかできない、呪われた命。
死ね。お前なんか、私なんか、うんと傷ついて死んでしまえばいい。
そう願いながら歩く陰気な背中へ、不意に。
「ねえ。火箱さん、だったよね」
声がかけられた。
驚いて足を止め、振り返る。
振り向いてみて、また驚いた。
そこに立っていたのは、自分なんかとは大違いな――クラスの花形。
文武両道、性格も明るくてリーダーシップも抜群。
およそ火箱風花とは正反対の人間と言っていい、高嶺の花たる少女だったからだ。
「今日、私一人なんだ――だからさ、いっしょに帰らない?」
「え……」
「あ……もしかして嫌だった?
だったらごめんね。私さ、一人で帰るのってなんだか寂しくて嫌いなんだ。
だから火箱さんと一緒に帰れたらいいなって、そう思ったんだけど……」
……理由は、それだけじゃない。
黄昏の夕日に照らされ、逆光で彩られたその姿。
黄金の輝きを背に、はにかんだように微笑む姿が――
(…………きれ、い…………)
目を奪われてしまうほどに、綺麗だったから。
自分の汚さも、犯してきた罪も、全て忘れてしまいそうになるくらい美しかったから。
気付けば風花は、こくこくと必死に頷いていた。
ろくな言葉も返せないコミュ障っぷりは健在だったけれど、幸いにして相手は「やった」と嬉しそうに笑ってくれた。
隣を歩く、高嶺の花。
ちら、と時々横目で見つめてはすぐ目を逸らしてしまう。
この人は、自分とは違う世界に生きている人間だ。
否応なしにそう感じさせてくるものが、彼女にはあった。
「火箱さんってさ」
「っ! う、……うん」
「下の名前、なんていうんだっけ」
「……風花」
「へー。風花っていい名前だね。響きがかわいい」
「そんなこと、ないよ……。
風の花って、意味分かんないし。おじいちゃんがつけた、古臭い名前だよ」
「そうかな。かわいいと思うけどなあ――――あっ、そうだ」
何か思いついたように手を叩いて。
彼女は風花の三歩ほど前に出ると、両手を腰の後ろで組んで、くるりと振り向いた。
「ねえ、ふーちゃんって呼んでもいい?」
「え……い、いいの……? そんな、友達みたいな――」
「いいよいいよ、クラスメイトじゃん私たち。
そのかわり私のことは――うん。くーちゃんって呼ぶように」
あだ名で呼び合うなんて、あの子とだってしたことがない。
でも、不思議と嫌ではなかった。気後れよりも、目の前にいる彼女とそうなりたい気持ちの方が勝っていた。
だから頷いた。すると彼女は満足げに笑った後、「ん」と呟いて指を一本自分の顔に当てる。
「ていうか、もしかしてふーちゃんって友達いない?」
「……うん。私、高嶺さんと違って陰気だし。
どんくさいし、頭もそんなに良くないし。かわいくもないし」
「苗字呼び禁止。呼び名、さっき教えてあげたよね?」
「――ぅ。え、えと……」
「……、……」
「く、く……」
「…………♪」
「……………………くー、ちゃん?」
「ふふ、よろしい」
よくできました。
ご褒美をあげないとね。
そう言って、"彼女"は指先で風花の鼻をつんとつついた。
「じゃあ、私がふーちゃんの友達になってあげよう!」
――その、言葉が。
――その、きれいな顔が。
――何もかもが、罪と過去に押し潰されて死にゆく風花の心に沁み入った。
「……えっ、ちょ……泣くほど?
あーもうっ、こんなところで泣かれたら私がいじめたみたいになるじゃんっ」
「ご、ごめん……ごめんなさい、高――くーちゃん。
嬉しすぎて、っ、つい……今、いま、止めるから……!」
ああ、私はなんて汚い人間。
なんて汚くて、勝手で、罪深くて、醜い人間だろう。
そう思っていても、高鳴る心と抱いた確信は止まってなんてくれなくて。
それは、あの日――中学校の屋上で、"あの子"と出会った時とよく似た。
けれどたぶん、"友達"に対して向けるのとは違う感情。
あの子とは、友達でいられればそれでよかった。
愛を誓い合って身体を重ねるよりも、そういうありふれた幸せの方をこそ風花は求めていた。
でも、彼女は違う。
彼女に対して向ける気持ちは、きっと、その真逆。
「でも……私なんかと友達になって、本当にいいの?」
「はあ? ……もう、馬鹿だなあ。ふーちゃんだからいいんだよ」
火箱風花は、小綿詩述を裏切って。
その友情を捨てて、ひとりになって。
そしてまた、差し伸べられた手を取ってしまった。
高嶺来瑠。その心に、表裏一体の業と弱さを飼う少女の手を。
夕暮れの葉桜並木道で困ったみたいに笑うその姿、言葉、佇まい、すべてに――
「ほら、行こ? ふーちゃん」
火箱風花は――――――――罪そのものな恋をした。
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