追憶Ⅲ
あの後。
花火を見終わった詩述は火箱家に泊まることになった。
二人で布団を並べて、もう寝る時間だというのにずっとお話をした。
これまでのこと、今日のこと。未来のこと、いつかのこと。
どちらが最初に眠りに落ちたのかすら覚えていない。
そのくらい、時間のぜんぶを楽しんで、二人通じ合うことにすべてを尽くした。
次の日になって名残惜しさを噛み殺しながら別れても、けれど次の日にはまた遊ぶ予定が入っていて。
当たり前みたいな顔をして、楽しい時間はまたやってくる。
夕方沈んだ太陽が、朝になったらまた昇ってくるように。
詩述と過ごす夏休みは、本当に息つく暇もないほど濃密に過ぎ去っていった。
ああ、夏が終わってしまった。
そのことに寂しさはあっても、しかし悲しさはない。
休み明け、始業式の日。重い足取りで通学路を進めば、いつもの曲がり角で詩述が待ってくれていたから。
自分の姿を見るなり、ぴょこぴょこ飛び跳ねて手を振る子どもっぽい仕草が愛おしい。
思わず微笑んでしまいながら、風花は「おはようっ」と声をかけつつ駆けていく。
夏の終わり、秋の始まり。
秋には文化祭も、体育祭もある。
今までは億劫で嫌なものでしかなかった学校行事も、詩述と一緒に取り組めると思うと途端に楽しみになってくるのが不思議だった。
詩述ちゃんとなら、なんだってできそう。どんなことだって、一緒に楽しめそう。
無邪気にそう考えていた風花は、当然この時は知る由もなかった。
青春というものを、一個の果実に例えたならば。
あの花火大会の夜に、風花のそれは完熟を迎えていたのだと。
美しさと味の全盛を過ぎた青春の実は、後はただ腐っていくのみなのだと。
無垢な少女は何も知らぬまま、これからの未来というありもしない美食に思いを馳せていた。
幸せな回顧録は此処まで。
この先は、腐りゆく果実の話。
火箱風花の後悔と罪の、追憶である。
◆◆
始業式の日は昼までで授業が終わる。
風花は、詩述と放課後ゲームセンターに出かける約束をしていた。
中学生同士だと補導されるかもと風花は難色を示したのだが、そこはやると決めたら一直線な詩述である。
半ば押し切られる形で風花もうなずくことになり、不安半分期待半分の心持ちで――学校の玄関口で詩述を待っていた。
「……詩述ちゃん、遅いな」
先生に呼ばれているから、少し待っててください。
帰りのHRが終わってすぐにそう言われて別れたのだが、もうかれこれ三十分は経っている。
詩述は成績優秀な優等生だ。夏休みの課題も、めいっぱい夏を楽しむために初日で全て終わらせたと胸を張っていたのを覚えている。
そんな詩述が、一体何の用でこんなに長いこと拘束されているのだろう。
別に待つこと自体は苦ではないのだが、純粋に心配な気持ちが込み上げてきた。
自分と彼女が仲良くなった経緯を思うと、いじめの主犯達が詩述への報復に出ないとは限らなかったから。
(あれからあの人達は、少なくとも私には全然絡んでこなくなったけど――)
……あくまでも義務教育の範疇である中学校に、退学処分というシステムは存在しない。
そのため、風花へいじめを働いていた加害者達は今もこの学校に通い続けている。クラスも同じだ。
とはいえ、親にも学校にも散々絞られたのだろう。あれから加害者達は、まるで人が変わったように大人しくなった。
恐らくは内申点など、各種評価もぐちゃぐちゃになったろうことは想像に難くない。
自棄を起こして、破滅の引き金を引いた張本人である詩述に手を出す可能性も、決して否定はできないだろう。
居ても立っても居られず、風花は詩述を探して歩き始めた。
杞憂ならそれでいい。でも、そうでなかったら? 詩述ちゃんが、あの陰湿な暴力に曝されていたら?
そう思うと足を止めることはとてもではないができなかった。
自分も巻き込まれるかもしれない恐怖よりも、友達にあんな思いをしてほしくない気持ちの方が遥かに勝っていた。
階段を登り、最初に向かったのは自分のクラス。
此処かトイレ、そうでなければ職員室か空き教室だろう。
はあ、ふう――と、足早に歩いたせいで体力不足を実感しながら、風花は足を進め。
そして教室の前に辿り着くなり、室内で二人の人間が向かい合っている光景を目にした。
(あ――――)
そこにあった光景に、どぐんと心臓が変な疼き方をする。
勇ましい足運びは、一瞬にして怯える子羊のそれに戻ってしまった。
教室の中にいる二人の人間は、どちらも生徒同士。どちらも、風花の知った顔。忘れる筈もない顔。
風花の大切な友達と、そして彼女を数ヶ月間の生き地獄に突き落としたかつての"主犯格"だったから。
「は……っ、ぁ……ひゅ、っ」
呼吸がうまくできない。
風花はこの時初めて、自分の心が自身で思っていた以上に傷ついていたのだと気がついた。
心的外傷のフラッシュバック。友達と過ごす幸せな時間という絆創膏で覆っていた傷口から溢れ出す感情の膿。
助けに行かないといけないのに。今度は自分が、詩述ちゃんを助けてあげる番だとそう思っていたのに。
足が、手が――動かない。
なんで、なんで。
自己嫌悪と恐怖の中でともすれば過呼吸にすら陥りかけている風花の耳に、恐ろしい女の声が飛び込んでくる。
しかし、他でもないそれが。
悪意に塗れたその言葉こそが。
風花の精神を覆っていた黒霧を晴らす役割を担ってくれたのは、皮肉と呼ぶ他なかったろう。
「ネットニュースで見たよ。死刑になって二年なんだって? 小綿さんのお父さん」
――それは、放課後の教室で紡がれる台詞としてはあまりに剣呑なワードを含んでいた。
だから風花も、思わず怯えるのも忘れて呆気に取られてしまう。
ネットニュース? 死刑? 何を言っているんだろう。
そう思って視線を詩述に移した時、風花はさっきまでとは違った意味で胸が苦しくなるのを感じた。
「……わざわざ調べたんですか? ご苦労なことですね」
詩述は意外と、表情豊かだ。
すぐ膨れるし、すぐ調子に乗るし、割とすぐ泣く。
それを知っていたが、しかし今の彼女が浮かべているのは風花の知らない
不快感。そして、明確な敵愾心。
抜き身の刃のように鋭く、言い方を変えれば取り繕う余裕のない顔。
そんな顔で、詩述は元主犯の少女を睨み付けていた。
その顔が――今の詩述の心の内を物語っているようで。だからこそ風花は、心が苦しくなったのだ。
「いや? 見つけたのは偶然だよ、ほんとに偶然。
でも小綿って珍しい苗字だからさ、もしかしてって思って調べてみたの。
そしたらさぁ、掲示板に家族構成までリークされてるんだもん。あんまりできすぎな展開で笑っちゃったよ」
「労力の無駄遣いです。そんな暇があったら勉強した方がいいのでは? 校内暴力の主犯格さん」
「人殺しの娘が偉そうだね。お父さん元気? それともやっぱりあれ、ずっと処刑待ちだと頭おかしくなったりしちゃうもんなの?」
風花と詩述はお互いのいろんな話をしてきた。
けれど一つだけ、どちらもしようとしてこなかった話題がある。
それは――家族の話だ。
詩述は今まで一度も、自分の家の話をしなかった。
風花も両親を非業の形で亡くしている身だ、進んでその話題を振ろうとは思わなかったためさほど深くは考えていなかったが、今目の前で繰り広げられている会話が最悪の形でパズルのピースを埋めていく。
「まあでも、どうなってても自業自得かあ。
金目当てで家に押し入って、留守番してたちっちゃい子二人刺し殺したんだもんね」
「……、……」
「で、そんな殺人鬼……ううん、人殺しの泥棒から生まれた詩述さんはヒーロー気取りでいじめっ子を成敗と。もしかして罪滅ぼしのつもりだった?」
――勝手なことを言わないで。
思わず吠えかけたが、こんな時でも心の傷が邪魔をする。
追い打ちのように脳内で起こるのは、かつて詩述から聞いた言葉のリフレイン。
『今だから言えることですが、あれはただの自己満足でした』
『自己満足のヒーローごっこの一環で、たまたま本当に命を助けられたってだけのことなんです』
――違う。いや、だとしても。
理由がなんだったとしても、それで救われた人間が此処にいる。
私は詩述ちゃんに救われたんだ。あの日の記憶は誰にも穢させない。
心の声は当然彼女達に届かず、それどころか続く怨嗟の言葉でかき消された。
「私さ、推薦決まってたんだよ」
声色だけは明るく取り繕っていたが。
しかしそこには、地の底から。
暗い井戸の底から響くような、底知れない呪詛が籠もっていた。
聞いているだけで、思わず背筋が粟立ってくるような暗い感情が。
「なのにあんたの、そんな下らない自己満足のせいでパーになった。
私頭悪いからさあ、レベル低い底辺私立しか行けそうにないんだよね。
あんなことあったから先生も親もまともに相談乗ってくれないし、生き地獄だよ」
「……何を言うかと思えば。それこそ自業自得じゃないですか。生き地獄だなんて逆恨みも甚だしいです」
「今あんたの意見とか聞いてないから。議論しに来たように見える? ――とにかく」
二人だけの世界で、ずっと一緒にいられたらどれほどよかったか分からない。
けれど現実は、時にそんなエモーションを否定する。
だってこの世界には当たり前にたくさんの人間がいて、それぞれが色んな感情を抱いて生きているから。
世界は愛だけで出来てはいない。いつだって、此処はどろりとした悪意で溢れている。
「私、あんたのこと絶対許さないから」
――そのことを、火箱風花は改めて思い知っていた。
眉間に皺を寄せて、悪意の言葉に曝され続ける友人の姿を見ながら。
「あんたの受ける高校決まったらさ、毎日電話かけて父親のこと伝えてあげる。
高校行けなくて浪人しても、バイト先から就職先までどこだって突き止めて同じことするね。
近所にビラもばら撒いてあげよっか。でも引っ越したりしないでよね、まあそしたら今度はSNS使って拡散するだけなんだけど」
「懲りないですね。まだそういうことをするんですか」
「いじめなんてしないよ。あんたが教えてくれたんじゃん、いじめは悪いことだって。
これはあくまで善意だから。人殺しの娘からみんなを守るために、誰かがやらなきゃいけないことなんだよ」
「……どうせやるなら、予告はしない方がよかったと思いますけど。
そうされると分かってたら、わたしだって先回りして動きようがありますよ」
「決まってるじゃん。だって先に教えてあげた方が――小綿さん、びくびくしながら毎日暮らすことになるでしょ?」
風花は、思い出していた。
詩述が現れる前の日々を。
画鋲が入っていると分かって靴をひっくり返す瞬間。
虫の死骸を入れられていると分かって、席についた瞬間。
嫌がらせが始まると分かって聞く休み時間のチャイム。
いじめっ子のすることなんてたかが知れている。レパートリーは見え透いている。
なのに。いや、だから。
予想がつくからこそ、あれは地獄なのだ。
これから痛み苦しみが来ると分かって過ごす日常は、それこそ処刑を待つ囚人のよう。
だから風花は耐えられなくなった。
嫌なことが起こると分かって怯えながら過ごす毎日に、地獄の形を見出した。
そして今。そんな地獄から自分を助け出してくれた親友が、自分の過ごしたのと同じ日々に引き込まれようとしている。
「楽しみにしてて、ほんと」
詩述の胸ぐらが掴み上げられる。
小柄で線の細い詩述は抵抗できず、壁に押し付けられた。
苦しそうに顔を歪めるその顔に、ぺっと唾が吐きかけられる。
「毎日、びっくりするようなことしてあげるから」
――去来する、二人の思い出。
夏祭り。わたあめを美味しそうに口に含んでご機嫌な横顔。
型抜きで失敗して拗ねて膨れて、焼きそばの野菜だけ全部除けて。
自分の腕の中で、花火の光に照らされながら見上げてきたその顔を覚えている。
――友達って、そういうものじゃないんですか?
その言葉を、覚えている。
一緒に旅行に行こうとせがむ顔も、言葉も、清らかな匂いも。一つたりとて忘れるものか。
そうだ。友達だ。
私は、あの子の友達で。
あの子の手を、ずっと握っていようとそう誓った。
夏祭りの夜。花火の咲く夜空の下で。
詩述の身体が、風花の視線の先で床に投げ出されて小さく呻く。
それを見た瞬間に、エモーションに溢れた追憶は一面のどす黒い嫌悪へと反転した。
扉を開ける。
もう、手は震えていない。
女が、びっくりしたような顔で風花を見た。
詩述は――――
「風花、ちゃん……」
まるで、何か大切なものをなくしたみたいな顔をした。
悪意で他人を貶めるしかできない馬の骨に秘密を知られても、面倒でこそあれ痛くはなかった。
それでも、友達に知られてしまうのは違う。それは、痛い。
そんな詩述の心が伝わってくるような、ひどく痛ましい顔だった。
今にも泣き出してしまいそうな、捨てられた子猫が遠ざかっていく飼い主の後ろ姿を見つめるみたいな。
――だいじょうぶ。
――そんな顔、しないで。
――今度は私が、詩述ちゃんのこと助けるから。
心の中でそう告げながら、今はただ憎い女の顔だけを見る。
そこで風花は初めて、自分が彼女の名前を覚えていないことに気がついた。
彼女は恐怖であり、絶望であったが、しかし風花にとって存在を慮るべき"人間"ではなかった。
今までも、今も。そしてこれからも永遠にそれは変わらない。
すうっと、息を吸い込んだ。
力を使うのは、あの時以来だった。
畳の上で寄り添いながら息絶えた両親の姿を思い出しながら、風花はしかし迷わない。
「死ね」
たった一言。
それだけで、目の前に転がる問題のすべてが解決した。
胸を抑えて、悪魔のような女が蹲る。
それなりに整っていた顔を悪鬼そのものの形相に歪めて、ナマコのように太った舌をでろりと出しながら泡を吐く。
どこかで、犬の遠吠えがわんと響いた。
胸を掻きむしりながら悶絶し、白目を剥いて痙攣する姿はこの世のものと思えないほど醜かった。
そして十数秒の苦悶の果て、女は「ぐへっ」と潰れた蛙のような声をあげて白く濁った唾液を噴き出し、それで完全に動かなくなった。
汚らしく撒き散らしたものが、床に水溜まりを広げていく。
そんな光景を――小綿詩述は、ただ茫然と見つめていて。
「え……?」
また、初めて見る顔をした。
何がなんだか分からない、というような。
目の前で起こったことが、さっぱり理解できない。そんな顔。
「今、の。風花ちゃんが、やったんですか……?」
問いかける声は震えていた。
怖がらせてしまった。やっぱり、こうなってしまった。
風花は唇をきゅっと噛みながら、俯き加減に頷いた。
人を殺す声。嫌いな人間を一方的に、全ての因果を無視して殺す"声枯らし"の呪い。
これに比べれば親が殺人犯であることなんて何ということもないだろう。
火箱風花という人殺しは、今もこうして娑婆でのうのうと息をしているのだから。
詩述の、助けた筈の友達の顔が見られない。
もしもそこに、怯え慄いた顔があったらと思うだけで気が狂いそうになる。
そんな風花に、詩述は震える唇をゆっくりと開き、そして――
「……すごい」
「――へ?」
ただ一言、そう言った。
思わず呆気に取られて顔を上げる。
するとそこにあったのは、心底から感動したような表情。恐怖の「き」の字もないような、喜悦の顔だった。
詩述が風花に駆け寄ってくる。その小さな手が、風花の手を取った。
「すごい……! すごいです、風花ちゃん……!
そんなことが――そんなことが、できるんですか!?」
「え、あっ……う、うん……」
それは、全く予期していない反応であった。
怖がるか、もしくは引かれるかすると思っていた。
人殺しと罵倒される可能性すら脳裏に思い描いたくらいだし、むしろこれらが普通の反応だろうと風花は思う。
「そっ、か……そっか、そうなんですね、ふふ、そっかあ……!」
しかし蓋を開けてみれば、詩述が示したのは喜び。
そして、何か尊いものを見るような熱の籠もった視線だった。
「あは、あはははっ! ありがとう……本当にありがとうございます、風花ちゃんっ!
わたしを、助けてくれて……わたしの前に顕れてくれて、ありがとう……!!」
「詩述、ちゃん……?」
とくん、と心臓が脈を打つ。
でもそれは、あの日感じたときめきの鼓動ではなかった。
むしろ、意味合いとしては逆。
何か。何か、自分の大好きだったものが変わっていくのを目の当たりにしているような。
そんな、痛みにも似た疼きを覚える風花の心中はしかし高揚する詩述には伝わらない。
「好きです、風花ちゃん。本当に、大好き……っ」
「――う、うん。ありがとう……嬉しいよ。でも」
「ずっと、待っていたんです。心のどこかで、願ってた。
叶うことはないって分かっていても、願わずにはいられなかった!
風花ちゃん――あなたは! 人を、殺す力を……ううん、裁く力を持ってるんですね!」
ぎゅ、と。
詩述が、風花の身体に腕を回して抱きついた。
もしかすると、心の何処かで望んでいたかもしれない光景。
自分の顔を見上げてくる詩述の瞳はとろんと蕩けていて、興奮で乱れた吐息はひどく熱く、甘い。
――かわいい。
なのに、どうして。
どうして、こんなに――
「今、確信しました。わたしたちはきっと、出会うべくして出会ったんです」
「し、のちゃ……」
「風花ちゃん。わたしが導き、あなたが裁くことで……わたしたちは、きっと」
こんなに――――寂しいと感じてしまうの?
「神さまに、なれる!」
ちゅ、と。
唇に、あたたかいものが触れた。
西日の差し込む放課後の教室には死体が一つ。
アンモニアの異臭が漂うそこで、少女達の姿が重なった。
舌がふれあう音、唾液の泡立っては弾ける音。
それが滴って、ぱたた、と床を静かに叩く音。
互いの衣服が擦れ合う音、荒く熱い息遣いが重なる音。
頬を上気させて、目を潤ませて、ありったけの"愛"を伝えてくる詩述の姿はひどく淫らだった。
夏祭りの日。腕の中で見た、儚く清らかな少女の姿が静かに上書きされていく。
気の遠くなるような感覚の中で、唇が離れて酸素が戻ってくれば。
二人の関係の変質を暗喩するように、互いの間には粘っこく繋がる唾液の橋がひとつ、架かった。
◆◆
「わたしの家、とても貧しかったんです。
家族三人健やかに生きるためにお金を借りなければならなくて、でも返す能力はないものだから、日に日に債務ばかりが増えていきました」
あの後。
詩述は素知らぬ顔で、教室で急に××さんが倒れたと職員室に駆け込んだ。
結果、起こるのは当然ながら大騒動。詩述と風花は事情を聞かれたが、たまたま通りかかったら中で倒れていたと口裏を合わせることにした。
どう見ても何らかの発作に見舞われたのが分かる有様だったので特に疑われることもなく、解放されるまでは意外と早かった。
にわか雨のしとしと降り注ぐ帰り道。
公園の東屋で雨宿りをしながら、風花はただ詩述の話を聞いていた。
いや、正確には――今、どういう言葉を紡げばいいのか分からなかったから、ただ聞き続けるしかなかったという側面が強いのだったが。
「父はとても優しい人でした。
とても子煩悩で、貧しい中で少しでもわたしが楽しく暮らせるようにいつも考えてくれていた。
ただ、父はその優しさを他の誰かに向けることができない人だったのです。
だからある日、彼は罪を犯しました。情状酌量の余地なんてこれっぽっちもありません。娘のわたし自身、あの人は死んで罪を償うべきだと思っています」
唇にはまだ、あの時の感触が残っている。
詩述の熱も、香りも、全てが色鮮やかに残ったままだ。
大好きな詩述にそうされたことは、喜ぶべきことの筈なのに。
なぜか心が、いつまで経ってもこの現実についてきてくれない。
その感情を言語化することはきっと簡単だったけれど、そうしたくはなかった。
そうしたら、自分にとってとても大切なものがひとつ終わってしまうと分かっていたから。
「人殺しの娘と罵られることは、別になんとも思っていません。実際、事実ですし。
むしろ父の事件はわたしにとって、とても大事な真理をひとつ教えてくれました」
「詩述ちゃん……」
「因果応報。犯した罪には必ず報いがやってくる。
それがこの世の理で、あるべき姿かたちなのだと。
わたしの父が"死ね"と社会にそう命じられたように、罪には然るべき罰があるべきです。
でも、はい。当たり前のことですが、この世界の神さまはわかりやすくそれを徹底してはくれません」
自分は、詩述とどうなりたかったのだろう。
どうありたかったのだろう。
考えても考えても答えは出ない。
きっと、今詩述が自分に感じている感情と同じものを自分は詩述に対して持っていた。
そう考えれば。これは、願いが叶った――と、想いが実ったと、そう言ってもいい状況の筈なのに。
「けれど。風花ちゃんになら、それができる」
「ねえ、やめよう」
「わたしが選び、風花ちゃんが裁くことで。
わたしたちは神さまとして、少しでも正しい方に世界を導くことができるんです」
「違うの、だめなの。……私の声は、私が心から嫌悪している人間だけしか殺すことができないから」
頭の中によぎるのは、またしてもあの夏祭りの夜だった。
二人で手を繋いで、楽しく遊んで、綺麗なものを見て、未来の話をして。
二人笑い合って家に帰って、それでも飽きずに夜中までお話して、いつの間にか眠りに落ちて。
ちょっとした名残惜しさを抱えながら、「また明日」をする。
あ、と思う。
気付いてしまう。
(わたし)
気付いて、しまった。
(わたし……それだけで、よかったんだ)
「? それって、なにか問題ですか?」
初恋だった。
それは間違いない。
だけど、思春期の初恋は熱病のようなもの。
火照って、浮かされて、盲目に想いの花を咲かせる。
「わたしの嫌いな人のことは、風花ちゃんも嫌いでしょう?」
――気付いてしまった。
気付きたくなかった。
ずっと、気付かないままでいたかった。
(…………友達で、よかったんだ)
清らかで、潤いに溢れた、青春という名の果実。
あの夏の夜に完熟を迎えたそれが、ぼとりと木から落ちた。
落ちた果実が破れて、じゅくりと中身が溢れ出す。
育ち、実り、熟れるのは此処まで。
後は、ただ、腐っていくだけ。
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