追憶Ⅰ
昔から、人と関わるのが苦手だった。
みんなの輪の中に入れない。遊びに混ぜてと切り出せない。自分の気持ちを声に出して誰かに伝えることができない。
どうにか必死で言葉を絞り出して話しかければ、大概相手は怪訝な顔をするか苦笑いするかのどっちかだ。
頭の中ではあれこれいろいろ考えて、その上で発言しているつもりなのに、口に出すとどうしてもどこかがズレた発言になってしまう。
対人コミュニケーション能力の欠如。
もしくは、他人との生きるリズムの違い。
それは火箱風花という少女を内気で孤独な子どもにするには十分すぎる欠陥で、そして彼女のそんなズレはしばしば嘲笑の種にされた。
風花自身、そうして笑われることには子どもながらに納得していた。
そりゃそうだ、仕方がない。
まともに人と喋れない、関われない。こんな滑稽な欠陥品が周りに居たら指差して笑いたくもなるだろう。
班での集団行動や文化祭などの行事準備では、この性格が災いして人に迷惑をかけてしまうこともあった。周りへの実害があったのだ。
だから風花は笑われようが怒りをぶつけられようが「自分が悪い」と諦めて縮こまりぺこぺこ頭を下げてきたし、中学三年生になって毎朝自分の教科書や筆記用具がゴミ箱に捨てられるようになってもどこか納得したような気持ちで日々を過ごしてきた。
何もおかしなことじゃない。むしろ今までが恵まれていたのだ。
笑われはしても虐められはしなかった今までが、たまたま幸運だっただけ。巡り合わせや周りの人間関係の噛み合いが良かっただけ。
いつこういうことが始まってもおかしくはなかった。
十代も半ばだというのに意思疎通もまともにできず、おまけに何をしたって反抗する度胸なんてない弱虫。なるほど格好の玩具じゃないか。
仕方ない。全部自分が悪い。今までいろんな"できない"をああだこうだと言い訳しながら正当化してきたツケだ。
風花はそう諦めていたが、しかし彼女の心はどうやら自分で思っているほど強くはなかったようで。
"いじめ"が始まってから、外を眺める時間が増えた。
ベランダに立つ時間が増えた。立入禁止の屋上にこっそり出て、地面を見つめる時間が増えた。
死んだ後、人間はどうなるのだろうと考えることが増えた。
そして何より、自分のこれから先の人生について思いを馳せることが増えた。
今、健康的な日本人の平均寿命は八十四歳だという。
女はそれよりもっと長くて、八十七歳。
今の時点でこうなのだから、風花が老人になる頃にはもっと伸びているだろう。
冗談ではなく百歳まで生きるのが普通の時代になっていても何ら不思議ではない筈だ。
風花は今年で、ようやく十五歳になる。
この先大きな病気も怪我もせず順当に生きたとして、想定される先行きはあと七十年以上。
七十年。それは、十年そこそこしか生きていない子どもの風花にとって気の遠くなるような歳月だった。
七十年。七十年、か。もしかしたら、それよりもっと長いのか。
「ちょっと、きついな……」
この先この心臓が止まるまでに、一体どれだけの辛いことがあるのだろう。
どれほど苦しみ、笑われ、謗られ、虐げられなければならないのだろう。
どれほど自分が人とは違うのだと思い知らされ、惨めな気分にならなければいけないのだろう。
考えれば考えるほど、蚤の心臓がぎゅうと押し潰されて余計に小さくなっていく気がした。
屋上のフェンス。脆くなって壊れている箇所を縫うようにして、その向こう側へと一歩を踏み出す。
そこにある空間は一足ぶん。その先に足の踏み場はない。
高さ十数メートルのしょぼい奈落。されど、人間が此処ではないどこかへと墜ちていくには十分な高さが口を開けている。
――思い出せば思い出すほど、嫌なことばかりの人生だった。
友達はいない。お母さんもお父さんも私のせいで死んでしまった。
自分に残ったのは、望んでもない力がひとつだけ。
こんな声があったから何になるというのか。
人を殺す力なんかより、気になる誰かと仲良くなれる力がほしかった。
みんなの輪に笑顔で入って、一緒にわいわい遊べる力がほしかった。
とろくて傍迷惑な自分を殺すこともできない、役に立たない力だ。この期に及んでもなお、この力は私を助けてなんかくれない。
もう、いいかな。
フェンスの向こうに立つのは思っていたよりも怖くなかった。
足のすくむ感覚も今はない。むしろ、とても清々しいものだけがあった。
あと一歩。ほんの一歩で、この苦しくて辛いだけの日々が終わる。
奈落の底に先があるのかどうかは分からないけれど、どちらにしたって馴染めない社会の片隅で縮こまって震えるだけの日々よりはマシだろう。
そう思えたから、いざ。すべての痛みを終わらせる選択に踏み出そうとした――そこで。
「それでいいんですか?」
声が、した。
びっくりして振り返ると、そこには見覚えのある顔。
見覚えはある。けれど、話したことはたぶんない。
ショートカットの黒髪。色白な肌、硝子玉みたいに綺麗な瞳。
よくできた人形のような可愛らしさと清らかさを持った少女。
初めて見た時、かわいい子だな、と感じたのを風花はよく覚えていた。
名前は、確か……
「小綿、さん……?」
「はい、小綿です。親しい人は詩述ちゃんと呼びます」
「え、と……なんで、此処に……?」
「なんでと言われましても。この屋上はわたしもお気に入りにしている場所なので」
そうだ――小綿詩述。
ふん、と鼻を鳴らして、彼女は何ら怖じることもなく風花の方へと歩み寄ってきた。
びくりとしてしまう風花だったが、今後ずさりなどしようものならその瞬間に地面まで真っ逆さまだ。
死にたいと思ってはいても、せめて死に際は潔く綺麗に逝きたいと思う。そのくらいの美意識は、風花にもまだあったらしい。
「で、いいんですか」
「……なにが」
「多くの宗教では、自殺をすると自動的に地獄行きになるそうです。
これは怪談の文脈になりますが、自殺者は決意と行動を永遠にその場で繰り返し続けるという話もありますね」
理屈っぽい子だな、と思った。
詩述も風花ほどではないが、クラスでは大人しい部類だ。大声を出して騒いでいるようなところは見たことがない。
だからか、饒舌に語る彼女の姿には新鮮な印象を受けたが――しかしその内容については、"余計なお世話だ"以外の感想はなかった。
「そんなの、迷信だよ。私は、神様も幽霊も信じてないし……天国も地獄も、死ぬのが怖い人が考えた気休めだと思う」
「あら、意外と現実的な考え方をするんですね」
「それに」
死後がどうとか。救われるとか救われないとか。
そんなことは、風花だってこれまで何度も考えた。
寝る前。授業中。隠された上履きを探している最中。ずっと。
確かに地獄に落ちるのは怖い。
永遠に死に続けるのも、痛くて苦しいだろう。
でも。
「だとしても、私は今が一番苦しいから」
――どんな結末が待っているにせよ、そこにきっともう人間の悪意はない。
針のむしろで芋虫みたいに身を捩りながら少ない酸素を頑張って吸う、そんな生活をする必要はない筈だ。
なら、きっと今よりはずっといい。
いつか慣れると信じて、喜んで地獄の火/永遠の虚ろに身を窶そう。
そう答えた風花に、詩述は「ふーん」と気のない返事をした。
両手で握った紙パックのコーヒー牛乳を、ぢゅう、と啜る。
「ま、考え方は人それぞれですね。わたしは死ぬのはめちゃくちゃ怖いので、そういう考えができるのは凄いなあと思います」
「……そんなことないよ。私は、ただ……ほんとに弱くて情けなくて、何もかも面倒くさがってきただけだから」
いつもの風花なら、こんなに人と話すことはできない。
もっと蚊の鳴くような声で、もっと吃ってしまうだろうことは想像に難くなかった。
では何故今はちゃんと話せているのかといえば、それはこれから死ぬから。
今から全部終わらせるから、という覚悟が生んだ開放感の賜物だ。
いざとなれば、人とこうして話せるのに。
いざとならなきゃ、それができない。やろうともしない。
失敗するのが怖いから、笑われるのが嫌だから、現状に胡座をかいて甘え続けて。
その結果がこれだ。何も持たず、何も得ず、悲劇のヒロインにすらなれない空っぽの人生。
弱さを言い訳にした怠惰の報い。それが、今の
「じゃ、もっと月並みな話をしましょうか」
「……、……?」
「わたしはタナトフォビアです。なので自殺はしませんし、したいと思ったこともありません。
ですがそれ以前にその道を選ばない理由がひとつあります」
「……聞いても、いい?」
「自ら命を絶つのは、すなわち敗北を認める行為だから」
すごいことを言う。
驚いて詩述の顔を見ても、表情は先ほどまでとそう変わらない。
けれどその、硝子玉のような瞳に宿る光が――少しだけ、真剣味を増しているように見えた。
「それが病気であれ金銭苦であれ、今のあなたのように"誰か"の悪意に打ちひしがれた結果であれ。
自殺とは等しく敗北宣言。将棋で言うところの"負けました"です。
一度きりの人生を蝕んできたちょこざいな理不尽に白旗揚げて頭を下げる、この上なく惨めな行為です」
「それは……っ、小綿さんが、そういうつらい思いをしたことないだけで――」
「ありますよ。たぶん、あなたよりもずっとある」
じ、と覗き込んでくる瞳から目を反らせない。
それは、夜空のようでもあり。
宇宙の暗黒のようでもあった。
苦しまぎれの反論の言葉なんて、この状況では簡単に途切れてしまう。
「だけどわたしは死にません。絶対に死んでなんかやらない。
わたしの人生はわたしだけのもので、他の誰に委ねるものでもないのだから。
わたしを死に追いやろうとするものがあるのなら――わたしはその時こう思うようにしています。てめえが死にやがれ、と」
「……、……」
「あなたの人生です。偉そうに言ってはいますが、決めるのはもちろんあなただ。
心配しなくても救急車は呼ばないで、見なかったことにしておきますよ。飛び降りで死に損なうのは辛いと聞きますから。
自分の中の生死観や人生論を他人に押し付けられるほど偉くなった覚えもありませんしね」
「――びっくりした。小綿さん、こんなに喋る子だったんだね」
「こっちの台詞です。あなたも結構おしゃべりできるじゃないですか、火箱さん」
強い人だと、思った。
自分にはこんな考え方はできない。
何しろ、その気になれば人を口先ひとつで殺すことができるのに――そうする度胸すらない弱虫だ。
小綿さんには、一体何があったんだろう。
どうして小綿さんは、こんなに強くなれたんだろう。
考える風花の視界の中で、フェンスに凭れかかりながらコーヒー牛乳を啜る詩述。
口にする言葉の強さと大人びた語調とは裏腹に、彼女のそんな姿はクラスメイト達よりもずっと幼く見えた。
「……でも、やっぱり――難しいよ。怖いよ。私は、小綿さんみたいにはなれないよ」
悔しい。そんな気持ちが、ないわけではないのだ。
風花だって人間だ。どんなに人と違っていても、人間なのだから悪意をぶつけられれば哀しみだけでなく怒りも少しは覚える。
ただ、それを外に出力できない。持続させて、燃やし続けることができない。
よしんばできたとしても、それを相手にぶつけ返してやり返すだなんて考えただけで頭の中がくらくらしてくる。
件の"声"だって、風花は今まで一度も自分の意志で使ったことはなかった。
もしも自分以外の人間にこの力が備わっていたら、きっとさぞかし楽しい人生が送れただろうと風花自身でさえそう思う。
そんな弱くて情けない自分だから、やっぱり詩述のように強く気高くはなれそうもない。
けれど。
「じゃあ、わたしが助けてあげましょう」
そこで、詩述は。
フェンスの内側から、向こう側に立つ風花へと――手を差し伸べて言った。
「……え?」
「あなたが望むなら、わたしがあなたの代わりに戦ってあげます。
わたしはあなたと違って、人の悪意に対しどう立ち向かえばいいかを知っています。
ガキが背伸びして政治ごっこしてる光景にもいい加減うんざりしてきたところだったので、わたしとしてもちょうどいいです」
「な、に。言って……」
「人の話はちゃんと聞きましょうね。わたしは今、"助けてあげる"と言ったんですよ」
その手は、小さくてか細くて。
力を入れれば簡単に折れてしまいそうなほど頼りなくて。
なのに、風花にとっては――この生き地獄の中に降りてきた、一筋の希望の糸のように尊く写った。
「とはいえ、やっぱり選ぶのはあなたです。
先ほども言いましたが、わたしは最終的にはあなたの決断を尊重します。
それでも死にたいんだと言うのならいいでしょう。線香くらいは供えてあげます。
けれど、もしも"死にたくない"と。"助けてほしい"と、あなたがほんの少しでもそう思うのなら――」
詩述は、にやりと笑った。
不敵な、犯人を暴く名探偵のような笑顔だった。
「その時はわたしの出番です。
正義のヒーローらしく、あなたの手を取りどこまでも連れ出してあげましょう!」
その――言葉に。
風花は、知らず震えていた。
瞳からこぼれ落ちる液体は塩辛くて、垂れ落ちて顔を濡らす感覚がとても不快で。
なのに不思議と、自分の中に永いこと蟠っていた澱みが液体と一緒に流れ落ちていく奇妙な爽快感もあって。
この子は、何なんだろうと。そう思った。
ろくに話したこともない相手。本当なら、むしろ疑ってかかるべきなのかもしれない。
いきなり現れて、べらべらと哲学じみたことを捲し立てて、挙げ句助けてやろうかと手を差し伸べる。
むちゃくちゃだ。やってることも、言ってることも、まるで漫画のキャラクターのよう。
ちっとも現実味がないし、それどころか胡散臭いと言ってもいいくらい。
でも――だけど。
今の風花には、これまで散々"現実"に打ちのめされてきた少女には、その過剰なまでのフィクション臭さがひどく心地よくて。
「……しにたく、ない……」
気付けば、押し込めていたはずの本音を吐き出していた。
「しぬの、やだ……怖いよ、そんなの……。
痛いのも、苦しいのも、や……もっと、生きていたい……まだ、生きていたい……!
でも――でも、苦しくて……何をしててもつらくて、死にたくて……っ、もうやだ、やなの、ぜんぶ……」
震える手を、おそるおそる――伸ばす。
ぴと、と。情けなく頼りなく、それでもなけなしの力を込めて詩述の手を取る。
きっと今、自分は笑えるほど情けない顔をしているだろう。
涙も鼻水も垂らし放題で、もしかしたら涎なんかも零してしまってるかもしれない。
でも取り繕う余力はなかった。最期くらい綺麗に潔く、なんて強がっていた風花の心のメッキは、全部詩述が剥ぎ取ってしまったから。
「……………………たすけて、ください……」
「――それで、いいんですね?」
「たすけて、……っ。わたしを、たすけて……!」
あまりにも不格好で、泣きじゃくる子どもそのものな有様。
そんな醜態を晒しながら、どうにかこうにか絞り出した"選択"の言葉。
つながれた手が、ゆっくりと引かれる。
フェンスの向こうから、フェンスの内側へ。
死から、生へ。そして敗北から――勝利の方へ。
「承りました。それでは反撃開始といきましょう」
ぐす、ひぐ、と。
嗚咽を漏らす風花の涙や鼻水で制服が汚れるのも気にせず、彼女の顔を胸元で受け止めて。
背中に回した手で優しく抱き留めながら、詩述は彼女の求めに応える。
人の悪意を呪い、因果には応報があるべきだと信じた少女の声は、風花が知る誰のそれよりも力強く頼もしかった。
「此処からはわたしの時間です。だから、もう泣かないで。こう見えてもわたし――結構やり手なんですよ?」
◆◆
青ざめた顔で、いじめっ子達が震えている。
放課後の教室に呼び出された彼女達は、最初はむしろ詩述のことをせせら笑っていた。
風花を庇おうとする姿をヒーロー気取りの偽善者と罵り、あんたも今後は標的にしてやろうかとほくそ笑む始末だった。
しかしそれは、詩述が突き付けたスマートフォン。
そこから流れ出した、風花に対する陰湿ないじめと暴行の証拠映像を見るなり一変する。
いじめ、虐待、その大原則はバレないこと。
誰かに事の実情を記録されてしまったならその時点で、加害者達の安穏の時間は終焉を迎える。
トイレの床に蹴り倒された風花に、便器から汲み上げた水をバケツでかけ。
呻く彼女を蹴りつけて、踏み躙って、顔に唾を吐き捨て汚いと笑う。
靴底を舐めさせた下りも、へし折られて床に転がる風花の私物のボールペンも、きちんとカメラに収められていた。
トイレの中に詩述が仕掛けていた――スマートフォンのカメラに。
ふざけるな、とか。
こんなの盗撮じゃん、とか。
これがバレたらあんたもヤバいよ、とか。
苦しまぎれの言い訳は、しかし詩述にとっては全て想定の内。
「ええ。確かに盗撮です」
「褒められたことではありません。でもね、わたしってほら。皆さんと一緒で子どもですから」
「いじめられてる友達を助けたくて、証拠映像を撮るために仕方なくやったんです――って涙でも浮かべて言ったら」
「クラスメイトに靴を舐めさせて喜ぶ変態集団と、やり方は間違っているけど善意で必死の行動をした美少女」
「いったい、先生方はどっちに肩入れするでしょう」
「あ。スマホを奪って削除しても無駄ですよ?
動画はうちのパソコンとクラウドサービスと、あとはそこの火箱さんのスマホと同じく彼女名義で作らせたクラウドにもコピー済みです」
――完膚なきまでに、とはきっとこういうことを言うのだろう。
風花を悩ませ、苦しめ、遂には死を考えさせるほど追い詰めた"生き地獄"は詩述の介入によって二日足らずで終わりを迎えた。
いよいよどうしようもなくなったと遅まきながら悟ったいじめっ子達は、一転して媚びへつらう態度を取り始める。
今までごめん。
ちょっとしたいじりのつもりだったの。
仲良くなりたくて、でもどうすればいいか分からなくて。
そんなに火箱さんが苦しんでるなんて知らなかった。
謝る。もうしない。だから許して。
手のひらを返したそれは、きっと心にもない言葉。
けれど風花は、頷きかけてしまう。
もういいよ、と。わかった、と。
控えめながらに、赦そうとしてしまう。
何故なら風花は、彼女達のそんな姿を見たことがなかったし。
他人が腹に抱える一物の有無にまで思いを巡らせられるほど、人という生き物と向き合ってこなかったから。
だから赦してしまいそうになる――まんまと。思惑通りに。
しかし。今、彼女はひとりではない。
「……あ。ごめんなさい、何か勘違いさせちゃいましたかね?」
此処には、詩述がいる。
風花に手を差し伸べてくれた、あのフェンスの向こうから彼女を救い出してくれた――
「皆さんに今してるのは"報告"であって、いじめをやめるようにっていう"警告"ではないんです。
今見てもらった動画とか、その他様々な証拠の写真はもう、わたしと火箱さんでそれはもういろんな先生方に見せて回った後ですから」
『正義のヒーロー』が、いる。
罵詈雑言。
発狂。
怒号。
慌てふためき、泣き出し、本性を剥き出しにする悪人達に、詩述は。
「だめですよ。ずるいじゃないですか、そんなの。
やったことのぶんの報いは、きちんと受けてもらわなきゃ」
本当に――本当に楽しそうに笑って、言った。
「大丈夫。人生、生きてさえいれば意外となんとかなるもんですから」
……かくして、この日。
火箱風花は、いじめの標的から解放され。
永遠に続くのではないかと錯覚した、生き地獄の中から這い出した。
いや。
これだけで終わってしまったなら、それは単にマイナスからゼロへと戻っただけだ。
現実はそうではない。
地獄を抜けた風花を出迎えてくれたのは、前と同じ孤独で無味な日常――ではなかった。
◆◆
「んむ。ほあようございまふ、火箱さん」
「うん、おはよう……えっと、何食べてるの?」
「チョコパンです。おいしいですよ」
「……もしかして寝坊した? 朝ごはん、食べれなかったとか」
「いえ、朝ごはんは昨日のあまりの肉じゃがでした」
「じゃあ、なんで今も食べてるの」
「天才には糖分が必要不可欠なのです。それに」
「それに?」
「お腹をいっぱいにしておくと、一時間目の授業でとっても気持ちよく眠れるんですよ」
「……初めて話した時から思ってたけど。小綿さんって、けっこう変わってるよね」
「……、……」
「あ――――ご、ごめん。失礼なこと、言っちゃった」
「呼び方」
「え?」
「最初に会った時、言ったはずですよ。親しい人は詩述ちゃんと呼ぶ、って」
「え、でも……」
「む。火箱さんはまだわたしのこと、親しいとまでは思ってくれてないのでしょうか。
だとしたらとってもかなしいです。しくしくです。友達ができたと思ってたのはわたしだけだったということになります。えーんえーんえーん」
「――あっ、ちが……そんなつもりじゃ……!」
「えーんえーん」
「し――詩述、ちゃん……っ。これで、いいでしょ……?」
「ふふ。はい、とっても嬉しいです。花丸あげちゃいます、火箱さん――いえ、そうですね……風花ちゃん?」
小綿詩述。
頭が良くて、どこか達観していて、なのに不思議と阿呆っぽいところもある奇妙な少女。
風花を助けてくれた、正義のヒーロー。
可愛くて、綺麗で、多勢に無勢でも物怖じしない、風花とは正反対の性格。
そんな彼女はどういうわけか、いじめが解決してからもこうやって風花と関わり続けてくれて。
そして当の風花自身も――そんな新しい日常が楽しくて、愛おしくて、彼女と一緒にいると自然と笑顔になることができた。
――火箱風花は生まれてはじめて、友達と過ごす時間の楽しさを知った。
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