ちゅ、オーバードーズ

「は?」


 それが、高嶺来瑠が火箱風花の台詞を受けて漏らした率直な感想だった。

 今、こいつはなんと言ったのか?

 前々からおかしなやつだとは思っていた。だけど今のはそういう次元をすら飛び越えた、とんでもない放言ではなかったか。

 

「……えっと。なんて?」

「だから、その」

「うん。ごめん、ちょっとよく聞こえなかった」


 そうだ、きっと聞き間違いに決まっている。

 だってそうでなければ意味が分からない。

 何故このタイミングなのかも分からないし、自分を相手に言うことでもなかった気がする。

 あまりの衝撃に、来瑠が勝手に抱き募らせていた緊張もすっかり吹き飛んでしまった。

 当惑中の彼女に対して風花は、少し恥ずかしそうに。

 されどこの期に及んで隠したり誤魔化すことはせず、再びその懇願を吐露した。


「キス、してもいい?」

「は……はあ!? えっ、いや……なんで。何言ってんの、なに――煙に巻こうとするにしたってもうちょっとやり方あるでしょ!?」

「そ、そんなんじゃないよ……! 煙に巻いたりとか、誤魔化したりとか……くーちゃんを裏切ることは、もうしないって決めてるから」

「じゃ、じゃあなんで……なんで私が、ふーちゃんと、………………その!!

 き、……き…………。――キス、なんてしなきゃいけないの!! 意味分かんないじゃん!?」


 来瑠と風花の付き合いはもうだいぶ長い。

 一年には達していないものの、それでも友達がいない者同士の人間関係としては破格の長さだ。濃さも申し分ない。

 けれど、来瑠が風花に対して此処まで困惑し心をかき乱されたのは間違いなく初めてだった。

 ぼっ、と頬は紅潮し、視線はあちこち泳ぐ。

 なんでこいつにこんな動揺しなきゃいけないんだ、と来瑠は目の前の柔らかそうなほっぺたを思い切り引っ張ってやりたくなった。


「……くーちゃんは、私とするのは嫌?」

「そういう話してない! そうじゃなくて、だから……意味が分かんないって言ってるの! 必要性とかも、いろいろ……わからん!!」


 寂しそうに眉を下げる風花に、何故こう言い訳じみたことを言わなければいけないのか。

 相手は風花なのだし、嫌だの一言で済ませてやればいいものを、どうにも最近は自分という人間のギアが入っていないのを感じる。

 しかし来瑠は半ばやけくそだった。というのも、である。高嶺来瑠は、基本的には温室育ちなのだ。


 共学だったのは小学校まで。

 中学校は附属の女子校に通っていたし、高校は言わずもがなだ。

 その上、誰も彼もを獲物と標的という枠組みでしか区分しなかった来瑠には――いわゆる浮いた話というものが一切なかった。

 だからこそ、当然こうして面と向かって自分という人間を求められたこともない。

 初めてで、女同士で、相手が火箱風花。

 動揺の材料たちは見事なまでの化学反応を引き起こし、来瑠の誰も見たことのないような顔を引き出していた。


「私ね、くーちゃんが好きだよ」

「友達として、でしょ」

「…………、…………うん。でも、くーちゃんは一人目じゃない。私は、それをくーちゃんに隠してた」

「……、……」

「だから、ね。くーちゃんに、忘れさせてほしいの」


 ……こいつの言う"友達"、なんかいかがわしくないか?


 そんな言葉を口に出す前に。

 忘れさせてほしい、とそう言った風花は来瑠へ体重を預けてきた。

 正面からだ。両者の体格に、そこまでの差はない。

 そうなるとどうなるか。必然――押し倒すような格好になる。


「……っ」


 来瑠の頭の横、それぞれ左右に。

 風花の小さな手が置かれ、床を突いた。

 仰向けで見上げる来瑠と、それを四つん這いの格好で見下ろす風花。

 少女漫画の中でしか見たことのない構図に、来瑠は言おうとした言葉も引っ込めて息を呑んでしまう。

 呼気の温度も感じ取れるほど間近へ近付いた、風花の顔。

 それを見て、来瑠は思った。


(なんで、そんな真剣な顔してんのよ……っ)


 自分とは違い、風花は真剣そのもの。

 おまけに距離が近いので、顔立ちの精微さやあどけない雰囲気もいつも以上に強く感じられてしまう。

 こんな可愛かったっけ、こいつ……。

 その感想は浮かび上がった瞬間に丸めて脳の奥底のゴミ箱へと投げ捨てた。


「くーちゃんが好き」

「だ、から……聞いたって、それ」

「好きなの、本当に……大切なの、くーちゃんのこと。

 だけどね、私は汚い女だから――どこかで覚えてる。思い出してしまってる。

 昔の友達のこと。私が、初めて好きになった人のこと。まだ、頭の中にあるの」

「――――」


 なにそれ。

 気分悪い。腹立つ。

 こいつ、今までそんなこと思い出しながら私と付き合ってたのか。

 いや付き合ってはない、付き合ってはないんだけど。

 私がただ一方的に玩具にしてただけなんだけど――ああなのになんでこんなに腹の奥がむかむかするのか分からない。

 

 どこの馬の骨だか知らないが。

 私の所有物に、何を色濃く染み付けてくれてる。

 そう考えると沸々と身体の内側が熱くなってくる。

 第一、そんな誰かにこの自分が間接的に心をぐちゃぐちゃにされたということが腹立たしくて堪らなかった。

 風花に友達なんて今も昔も必要ない、そうに決まっている。

 風花は、ふーちゃんは私の玩具であり所有物だ。

 手で触れられる人間なんて、いていいわけがない。


「だから、忘れたいの」

「……やっぱりさ、ふーちゃんはちょっとおかしいよ」

「変かな」

「変。真面目なんだかどん臭いんだかさっぱり分かんないもん。まあ多分、後者なんだろうけど」


 申し訳なさそうな顔でもじもじする風花に、来瑠はため息をついた。

 このままじゃ埒が明かないし、それ以前に押し倒されている。

 この状況から延々とぐずぐずできるのが火箱風花という人間なのだ。

 彼女のもじもじ癖とどん臭さに、前々からどれほどやきもきさせられたか分からない。

 つまり、こうなったらもう来瑠がするべきことは一つだった。


「好きにしなよ、もう……」

「――、いいの?」

「しなくていいんだったらやんないよ」

「……、うう。その……したい、かも」

「じゃあちゃっちゃとして。人のこと押し倒しといて、恥ずかしくてやっぱり無理、とか言い出したらひっぱたくからね」


 この手の人種は、強めに背中を蹴っ飛ばしてやらないと本当に何も始まらない。

 来瑠の中でいろんなものを天秤にかけた結果、此処は風花の好きにさせるしかないとそういう結論に至った。

 思うところは正直死ぬほどあったが、それは全部この際後回しだ。

 力を抜いて、無抵抗のまま先を促す来瑠。

 そんな彼女の姿を見て――ごく、と。風花が生唾を飲んだのが分かった。


「じゃあ……いく、ね」


 ――風花の顔が、近づいてくる。

 心臓は早鐘になって久しく、相手にも聞こえているのではと勘繰りたくなるほどだった。

 来瑠に同性愛の嗜好はないし、そもそもそうしたものへの理解もない。

 どちらかといえば来瑠はそれを笑ったり侮蔑したりする側の人間だったが、しかし不思議と今の状況に対する嫌悪感のようなものは湧いてこなかった。

 


(なに考えてんの、私)


 違う、これは決してではない。

 風花に過去を話させるためだ。

 こうしないと話してくれないようだから仕方なくわがままに応えてやる、それだけの話だ。

 お気に入りの玩具が中古品だと分かった以上は、所有者である自分にはその遍歴を知る義務がある。

 だからこれは、仕方のないこと。必要経費のようなものなのだ。

 そう自分に言い聞かせる来瑠の唇に、風花のそれが優しく触れた。


 ちゅ――。

 そんな音を立てて慎ましく触れた唇は、思っていたよりも柔らかくて潤いに溢れていて。

 どことなく甘い味わいが、自分の口の中に仄かに流れ込んでくれば来瑠は脳が沸騰するのではないかというほど顔を熱くしてしまう。


(っ――こ、こいつ、舌……っ)


 目を見開いてわなわなと震えながらされるがままになる来瑠だったが、風花も風花で慣れない“攻め”の行動に徹するので精一杯らしく、お構いなしに舌を侵入させてくる。

 それらしく実況する余裕はもちろんなかった。

 何やってんのこいつとか、めちゃくちゃいい匂いするとか、私のファーストキスこれ?とか、悲喜交々さまざまな感情が去来しては去っていく脳内は既に激流の様相。

 口と口の間から、どちらともなく透明な雫をつぅと垂らした。

 手と手は絡め合うように恋人つなぎで握り締められ、風花の華奢な身体が来瑠のそれに重なる。


 ――あったかい。

 ――あつい。

 頭がくらくらする。

 最悪な気分のはずなのに間近で見る風花の顔は嫌になるほど可愛くて、身体の奥の何かが馬鹿みたいに疼いているのを感じた。


 ――かわいい。

 左手の恋人つなぎを振り解いて、顔に垂れてくる長髪を梳いてやる。

 いい匂いがした。ふーちゃんの匂いだ。

 自分にそういう趣味はないし、こいつとは決してそういう間柄ではない。その筈だ。

 けれど。この傍迷惑な初体験を心のどこかで悪くないと感じ受け入れている自分がいるのはもはや誤魔化しようのない事実で。


「――は、っ……ん、っ……くー、ちゃんっ…………!」

「っ、あ――ふ、くっ……!」


 名前呼ぶな。

 息荒すぎ。

 発情期か、ばか。

 思いつく限りの悪態が風花の唇と舌に封殺されて、その律動に合わせて身を揺らすしかない。

 逆らうだけ無駄だと理解すると、自動的に身体は過ぎ去るのを待つ方向にシフトした。

 学習性無力感。来瑠が何度となく利用してきた人体の仕組みが、今回は他でもない彼女自身に怠惰を促していた。


 唇が、離れる。

 たら、と伸びて繋がる銀色の橋が官能的だった。

 はあ、はあ、とうるさい呼吸は吐息の香りさえ嗅ぎ取れるほど間近。

 嫌味などまるでない、果実の断面を思わすような芳香が鼻腔を擽る。

 微かに上気した頬、潤んだ瞳。

 それを見上げる自分は、どんな顔をしているだろうか。

 なんとなく察しはついた。風花の顔を見ていれば、ああ、自分も今はこいつに負けず劣らずひどい顔をしているのだろうなと、分かった。

 

(最悪……)


 お前のせいで、私の人生めちゃくちゃだ。

 現在進行形で更にめちゃくちゃになろうとしている。

 どうしてくれるんだ、ほんと――思いながら、再び落ちてくる顔を見つめた。

 なんで、こいつ。

 こんな、無駄にかわいいの。

 

 くーちゃん、好き。

 そんな、どうでもいい言葉が脳内に再生されて自然と息が乱れる。

 意味わかんない。頭おかしい。

 好きとか、ないでしょ。いじめられてる側が、いじめてる側になんて。それに、女の子同士だし。何から何まで、めちゃくちゃだよ。

 ――くーちゃん、好き。

 ――好き。

 ――すき。


「すき…………」


 とろりと、蕩けるような熱を持った声色で囁いてくるこいつに苛立ちが止まらない。

 なのに無理やりやめさせる気にはなれなくて、こんな吹けば飛ぶような細い身体に好き放題させてしまっている。

 また、唇と唇が重なった。

 ちゅ、ちゅ、と音を立てて繰り広げられるキスにこっちの脳まで蕩けそうになる。

 こいつは、どうも本当に私のことが好きらしい。


(じゃあ――私は?)


 答えは簡単だ。好きとかじゃない。何度もそう言っている。

 ……本当に?


(私は、ふーちゃんのこと……どう思ってるの)


 嫌いではない。筈だ。

 だって使えるし。見た目もかわいいし。

 嫌いだったらあんなに執着して、今までしなかったようなリスキーな加虐もしていない。

 でも、今問われている“好き”の意味はたぶん今までのとは違う“好き”で。

 だからこそ、来瑠は答えに窮した。

 それを口にしたら――何か、自分の中のとても大切な何かが、もう戻れないところまで崩れてしまいそうだったから。


 ふーちゃん。

 わかんないよ、ふーちゃん。

 私達は、何?

 私達は、どこに向かってるの。

 ねえ、ふーちゃん。教えてよ――ふーちゃん。


「すぅっ――――」

「…………?」


 そんな来瑠をよそに、風花が大きく、本当に大きく息を吸い込んだ。

 そして、一拍置いて。


「――――ぢゅうううううっ」

「…………………!?!?!?!!?!?!!?!!!?!!??」


 それはもう盛大な音を鳴らしながら、肺活量の限界まで思いっきり息もいろんなものも“来瑠とつながった上で”吸い込んだものだから。

 来瑠の中に渦巻いていた迷いだとか葛藤だとか陶酔だとか、そういうものはあまりにムードもへったくれもない音の前にかき消されてしまった。


 ここで来瑠はようやく思い出す。

 何か積極的な雰囲気を出していたし、やたらと発情していたけれど、基本的には火箱風花という人間はめちゃくちゃどん臭くて要領が悪いのだということを。

 口を離し、満足げに口元を拭って風花は息を漏らした。


「ぷは……」

「ぷはぁじゃない!! 下手くそ!!」

「あ、あれ? えっと……くーちゃん、何か怒ってる……?」

「ファーストキス! わかる!? はじめてなのこっちは!!

 なにあのぢゅうううう!ってやつ! ふーちゃんの変態! むっつりすけべ!!」

「え、えぇ……? 私なりに、くーちゃんが退屈しないように頑張ったんだけどな」

「……よかったね、一応退屈はしなかったよ」

「えへ。ならよかった……」

「褒めてない! ばか! ぼんくら!!」

「いたいっ」


 せっかくいい気分だったのに、口に掃除機を突っ込まれたのかと錯覚する吸い込みで何もかも台無しになってしまった。

 いや、何をいい気分になってたんだ私は。

 冷静になれ、冷静に。

 来瑠は切れ気味の呼吸とキレ気味の脳みそをなんとか整えながら、お互いの涎でべっとり濡れた口元を服の袖で拭った。

 少し風花の匂いがして、頭の奥がぽわりとするのが余計に癪だった。


「……で、満足したの」

「うん。……ごめんね、付き合わせちゃって」

「それは本当にそう。これでしょうもない話だったら絶対許さないからね。めちゃくちゃ怒るから」


 風花は忘れるためと言って来瑠にキスをしたが、来瑠の方は逆に一生忘れられない思い出がひとつ増えてしまった。

 本当になんだ、あのぢゅうううう!は。

 キスしてる最中に吸い込むやつがどこにいるんだ。すけべめ。

 ぶつぶつと心の中で愚痴りながら、また畳の上に座り直して風花を見る来瑠。

 要望には応えてやった。忘れ去る手伝いは、してやった。身体も貸してやった。

 であれば今度は――こっちが、答えてもらう番だ。


「――じゃ、話して。私の前のやつのこと」

「うん。話すよ、全部」


 風花も、そんな来瑠の前に座る。

 その目にはもう迷いはない。

 本当は話したくなかった。話さないまま、彼女との付き合いを続けていきたかった。

 それが風花の本心だ。けれど、もうそうは言ってはいられない状況になってしまった。

 来瑠がこうなって、“あの子”が動き出した今。

 疼きを通り越して膿み始めた傷をこの期に及んで隠し通そうとしていれば、それは自分達の仲に深刻な亀裂を生みかねない。


 ――くーちゃんは、私のわがままに応えてくれた。

 なら、もう何を怖がることがあるだろう。

 私には、くーちゃんがいる。いてくれる。

 今つなぐべき手を、見誤ってはいけない。


「私ね。中三の頃もいじめられてたんだ」


 記憶の扉が開き、過去の匂いと景色が頭の中に勢いよく流れ出してくる。

 それは封じていた記憶。

 二度と思い出すことがないように、振り向いてしまうことがないように、引き出しの奥底にしまって鍵をかけた火箱風花の罪と罰。

 爛れ果てた友情の、腐乱した標本。

 

「そんな時に、助けてくれた子がいたの」


 ――それが、小綿詩述。

 火箱風花を追って現れ、高嶺来瑠を破滅させた、青春の残響/残骸。

 そして。


「私はきっと――あの子のことが好きだった」


 風花にとって、正真正銘初恋の相手だった。

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