青春の腐乱死体
『――なんで。約束したじゃないですか』
『わたし、何かしましたか。
風花ちゃんに嫌われるようなこと、怒らせるようなこと――』
『好きです。あなたのことが、いちばん大切なんです。
ねえ、風花ちゃん。二人でずっといましょう、いつもみたいに、手をつないで』
『秘密の場所でキスをしましょう。あなたが望むなら、それ以上だって構わない。だから、ねえ……』
『風花ちゃん』
『どうして』
◆◆
確かに、教室の中は一変していた。
今まで風花に話しかけてくる人間は、事務的な連絡か悪意ある何かをしようとしているかのどちらかだった。
人付き合いの苦手な風花にとってそれは決して苦痛ではなかったし、悪意だって来瑠の差し金であると思えば辛くはなかった。
一方で、スクールカーストの激変が起こった今の教室は……風花にとって前より格段に居心地の悪い空間となっていた。
――火箱さん、今までごめんね。高嶺さんが怖くて逆らえなかったの。
――これからは何か困ったこととかあったら何でも言ってよ。
――これ見る? 昨日の高嶺さんなんだけどね……
返された手のひらと媚びへつらうような笑顔。
火箱風花を虐めていた高嶺来瑠の失脚は、どうやら彼女らに"自分達もああなるかもしれない"という恐怖を与えたらしい。
みんなのサンドバッグから悲劇のヒロインに変わった風花に優しく接することで、いざという時の保身を図ろうという魂胆なのだろう。
気持ち悪いな、と思った。
それは、来瑠なら絶対にしないことだ。
来瑠にも弱いところがあるのは知っている。
それでも標的に、玩具にしていた相手に媚びて機嫌を取るなんて、来瑠はきっとしない筈だ。現に昨日も変わらずわがままだったし。
他の人に対してどうかは分からない。
でも、くーちゃんは自分に対してだけは強い自分であろうとしてくれる。
風花は来瑠のそんな健気なところも好きだった。
少なくとも、こうして薄ら寒い媚びを売ってくる有象無象よりかは遥かに美しく思えたから。
一緒にお昼食べない、という誘いを愛想笑いで断って。
そそくさと教室を後にし、弁当箱を持って屋上へと続く階段を昇る。
前までは意地でも教室で食べ続けていたけど、来瑠がいなくなった以上はもうその義理もない。
立入禁止の屋上へ続く扉の鍵はずいぶん前から壊れていて、知ってさえいれば誰でも上がり放題だということを風花は知っていた。
来瑠が、前に教えてくれたことだ。
ぎぃ、と重たい扉を押し開けて。
屋上へ出ると、地上よりも更に冷たい空気が肌を撫でて鼻腔に沁み入る。
はふ、と伸びをしようとして――そこで風花は先客の存在に気がついた。
知った顔だった。
忘れる筈もない、顔だ。
自分より更に小さな背、艷やかな長い黒髪と硝子のように綺麗な瞳。
海外のよくできた人形を思わせる彼女の名前は、小綿詩述。
つい昨日まではもう二度と会うことはないだろうと思っていた、かつての"友達"。
「……ほんとに転入してきたんだ、詩述ちゃん」
ふふ、と表情を緩めた詩述は驚くほどにあの頃のままだった。
風花も人のことは言えないが、本当に記憶の中の姿と何も変わらない。
時が止まっているようだと、そう感じてしまうくらい。
「少し遅くなっちゃいましたけどね。流石に子ども一人のわがままで学校を変えるのは、そう簡単にはいかなくて。
でも、風花ちゃんが覚えててくれて嬉しかった。『誰ですか』なんて言われてたら、わたし、泣いてしまってたかも」
「詩述ちゃん――」
話さなければならないことは、無数にある。
風花は扉を開けたままの格好で、ぎゅっと唇を噛んだ。
あの頃、風花と詩述はいつも一緒にいた。
散々馬鹿にされる服の趣味だって、詩述が好きと言ってくれたのが始まりだ。
手をつないでいろんなところに出かけて、いろんなことをして。
そして――最後の最後で、風花の方からその手を離した。
裏切ったのは風花の方だ。
あの時、詩述がどんな顔をしていたのか。
見ようともせずに背を向けて、追い縋る声を無視した。
そんな、"切り捨てた過去"が。青春の腐乱死体が。今風花の前に立って昔のままの顔で微笑みかけている。
「私の写真を流したの、詩述ちゃんでしょ」
「くす。どうしてそう思うんですか」
「私の家を知ってる人なんて、先生の他には詩述ちゃんくらいしかいないから」
「正解です。おじいさんには申し訳ないと思いましたが、忍び込ませて貰いました。
カメラを仕掛けるときと回収するときとで計二回。ほんとはわたし、風花ちゃんの身体を誰かに見せたりはしたくなかったのですけど」
来瑠が写真の件について切り出し始めた時、風花は既にこの可能性に行き当たっていた。
先日、不意に飛んできた連絡。
あの頃のとは違うアドレスで、詩述は風花に「会いたい」と伝えてきた。
断ってもよかった。でも、そうしたところで何も変わらなかったろうとも思う。
小綿詩述という娘は昔から、やると決めたら一直線。そういう女の子だったから。
「もうやめて、そういうの」
風花は、できる限りの険しい声色で旧友にそう吐いた。
争いごとが苦手で、自分の感情を強く押し出すことも得意でない風花にとって。それは、本当に精一杯の敵意だった。
「私はいいよ。でも高嶺さんに迷惑かけないで」
「あら――びっくりです。写真を回したことを怒られるのは覚悟の上でしたが、そっちについてはむしろお礼を言われると思ってたのに」
「私、詩述ちゃんにそんなこと頼んでない」
「風花ちゃん、ちょっと冷静になりましょう?」
詩述の行った風花の日常への介入は、確かに彼女にとって最高の成果を挙げたといえる。
加害者である高嶺来瑠は失脚し、もう学校に来られない、無理して来たとしても恥辱と屈辱を味わされるだけの被虐者と化した。
風花に対するいじめや仕打ちは止まり、来瑠の前例があるからもう誰も手出ししようとはしない。
驚くほどスマートに、そして簡潔に、完璧に。
小綿詩述は、旧友の学校生活を穏やかなそれへと変えてみせたのである。
「痛かったでしょ。苦しかったでしょ。とっても辛かったでしょ、あんなことされて。
高嶺来瑠さんは風花ちゃんにとって、ただただ傍迷惑で有害な人間だった。違いますか?」
「……勝手に決めないで。私の人間関係は、詩述ちゃんのものじゃないよ」
「まるで、高嶺さんが友達だったみたいな言い方をするんですね」
殴られても、蹴られても、刺されても。
それで来瑠のことを嫌になったことなんて一度もない。
傍迷惑だなんて勘違いも甚だしい。来瑠が構ってくれるだけで、どんな形であれ自分を大事に扱ってくれるだけで、風花はとても幸せだった。
「そうだよ。もう昔とは違うの、私」
その思考回路は、きっと端から見ればひどく異常なもの。
ほぼ虐待と言っていい過激ないじめを毎日のように受けて、若い身体を傷だらけにされても恨み言一つ吐かない歪んだ慕情。
「私の友達のこと、傷つけないでよ」
普通なら、そこに好意は成立しないのだ。
するわけがない。してはならない、と言ってもいいかもしれない。
それでも、風花は最初から今に至るまでずっと一貫している。
来瑠が立場を失った後も、弱さをさらけ出すようになってからも。
火箱風花は変わらず、高嶺来瑠を好いている。
彼女のために全てを捧げ、這い蹲る姿を蹴り飛ばすでもなく寄り添い、抱き寄せて大事に大事に愛でる精神性。
それをまんまと引き出した詩述は、ふふ、とまた声を出して笑った。
けれど。その
「そう」
ゾッとするように、冷たい声で。
そう言った詩述を前にして、風花の脳へいつかの記憶が去来する。
つないだ手。
夕暮れの教室。
鼻をつくアンモニアのにおい。
首筋の熱。汗、唾液。
そして。
『風花ちゃん』
『わたし達は、きっと』
そして――
「やっぱり、そうなんですね」
詩述は微笑んだまま、風花の隣を横切った。
風花は引き止めない。詩述は、一度だけ足を止めた。
「風花ちゃん。あなたは間違ってます」
「……うるさい。詩述ちゃんに決められることじゃないもん」
「家庭内ストックホルム症候群という言葉があります。
日常的な虐待のなか、ほんの時々差し伸べられる優しさに必要以上に絆されてしまう。今の風花ちゃんはまさにそれです」
「ちがう! くーちゃんと私のことに口出さないで!!」
風花は、基本的には物静かで消極的な人間である。
誰かに理不尽なことをされたり言われたりしても、黙ってやり過ごすのがほとんどだ。
たとえ他のクラスメイトに来瑠との関係のことをとやかく言われたとしても、ここまでムキになることはなかっただろう。
ましてや声を荒げるなど。まったくもって、らしくない。風花自身でさえ、そう思っていた。
「でも大丈夫。安心して、いつもみたいに待っててください。
わたしが必ず風花ちゃんを助けてあげます。
そしたら、また二人で手をつなぎましょう」
それは、風花の中での詩述と来瑠がある意味で同じだということを意味していた。
心を静かに保たせてくれない。
正負それぞれ方向性も意味合いも全く違えど、そこに居るだけで感情の根幹を揺さぶってくる、そういう相手。
風花は終始一貫して詩述の手と言葉を拒んでいるが、しかしその実ずっと彼女に心を撹拌され続けている。
地金を見せたところで何の得にもならないというのに、感情の発露と本音の吐露を引き出され続けていた。
友達だったから。幕切れはどうあれ、彼女と共に過ごしたあの時間が消えることは決してないから。
だからこそ、風花は確信する。
昨日の時点で予感はあった。
でも、どこかでそうはならないと信じたがっていた。
この再会は、単なる過去の残響であると。
けれど――もう、無理だ。
「死ね、とは言わないんですね。安心しました」
「まだわたしのこと、好きでいてくれてる」
そう、理解してしまった。
声は出せなかった。
出なかった、のではなく、出せなかった。
◆◆
「確信しました。まだ、どうにも潰しが甘かったみたいです」
空き教室にやってきた詩述は、そこで退屈そうにスマートフォンを弄っていた小椋結菜に開口一番そう言った。
屋上での、火箱風花との邂逅。
そこで交わした会話の成果。
高嶺来瑠は、まだ風花の中に根を張っている。
卑しくも友達を僭称して棲みつき、純粋な風花の心を弄び続けている。
それが分かったのは収穫だった。次にやるべきことが分かったからだ。
「兎にも角にも、あの子の呪いを解かないことには話になりません」
「なんかよく分かんないけど。来瑠にもっとぐちゃぐちゃになってもらおうってこと?」
「ざっくり言い換えないでくださいよ、せっかくかっこよく修飾して喋ってるのに」
「え、それキャラ付けなんだ」
「当たり前でしょう。素でこんな喋り方してる高校生がいたら引きますよ。漫画の読みすぎです」
「……しのってさー、なんか結構バカっぽいとこあるよね」
「ふん。天才とは得てして理解されないものなのです」
「ザ・漫画の読みすぎって感じの台詞出ちゃったなあ」
ぼふん、と埃を被った一人がけのソファに座る詩述の表情は屋上で見せたような笑顔ではない。
どちらかというと、もっといくらか直球で苛立ちを表現している。そんな顔だ。
よっぽど面白くなかったのだろうなと結菜はそう思った。
ポケットからココアシガレットを取り出して、箱から一本抜き取る。
「ほい」
「あむ」
餌付けみたいだな、と思いながら見つめられているのも構わず、詩述は手帳に何事か書き込んでいる。
ぼりぼりとココアシガレットを噛み砕いていくお行儀の悪さと、上品に整った見た目と口調がどうにも噛み合わずコミカルだった。
「でもさ、結局どうすんの。
来瑠、学校来なかったよ。いじめのことバラすって言っとけば来続けるかなあと思ったのにさ」
「そこは問題ありません。結菜さん、今日の放課後暇ですか」
「暇。なに、マックで作戦会議でもする?」
「ハンバーガーくどいから嫌いです。そんなの食べるから太るんですよ、胸とか」
「僻みの角度が凄いじゃん、つるぺた」
結菜としても、来瑠がこうもあっさり逃げ出してしまったのは少々拍子抜けだった。
自業自得、因果応報。
誰にも同情されず、ただ懲らしめられることだけ望まれる好きに殴っていい相手とそれを叩いて躾ける正義のヒーロー。
そういう構図は存外に気分の良いもので、来瑠に従うばかりの生活を送ってきた結菜の中に溜まっていた鬱屈を吹き飛ばしてくれた。
だがそれもたったの一日で終わってしまったとなってはあまりにつまらない。
結菜としてもなんとか来瑠を学校に引っ張り出したいところだったが、電話をかけてもSNSでリプライを飛ばしても返事はなしとくればしょせん単なる一介のクラスメイトに過ぎない彼女ではお手上げであった。
しかしそこは流石、来瑠を一日で破滅させてみせた女。
詩述にはこの先、どうやって逃げた来瑠へアクセスするかが既に思いついているらしい。
「来瑠さんのおうちに行って、直接励ましてあげましょう」
「……住所分かんの? あいつんち厳しいからさ、遊びに行ったこととかないんだよね」
「誰がお父さんの死に狂喜する彼女をすっぱ抜いたと思ってるんです?」
「――あー。あー、あー、なるほどね。そっかそっか、もうずっと前からストーキングしてたってわけ」
「ま、そういうことです。正確にはあれは、風花ちゃんを追っていた時の副産物でたまたま撮れた映像なんですけども」
えげつないことを考えるな、と思った。
いじめられて引きこもった子を、他でもないその原因を作った側が訪ねる。
そしてたっぷりと悪意をぶつけて登校を促す――まさか現実でこんな展開に立ち会うことになろうとは。
「あなたは不登校の学友を復帰させる。そして、思い思いのやり方で罪と向き合わせる。
わたしは悪に心を囚われたままの友達を助ける。ふふふ、清々しいほどの善行です」
「いいね。Win-Winだ」
想像するだけでも心が躍る。
来瑠はどんな顔をしてくれるだろうか。
自分に、へたり込んだ無様な格好のまま"お返事"をしてくれたかわいい来瑠。
稚拙な逃げじゃどうにもならないと思い知ったら、もっと惨めな姿を見せてくれるのだろうか。
「……ところでさ、しのに聞きたいことが二つほどあるんだけど」
「なんです」
「火箱から来瑠を引き離したいんだったらさ、あんたが個人的に来瑠と接触して脅すだけでも良かったんじゃないの?
わざわざ私を頼って事を大きくする意味とかあったのかな、っていうか――まあ、私は楽しめてるからいいんだけどさ」
「なんだ、そんなことですか。それなら愚問です」
恍惚の中で不意に浮かべた疑問。
それに、詩述はぬっと手を突き出しながら言った。
おかわりか、と察して二本目のココアシガレットを指の間へ挟む。
それを口に運ぶと、またぼりぼりと噛み砕きながら――
「いじめの加害者とか、死んだ方がいいと思いません? 普通に考えて」
「……え。そんな理由?」
「相手が風花ちゃんだから尚更むかついたってのもありますけど、そうじゃなくてもそんな奴がのうのうと日常生活送れてるとかおかしいでしょ。
いじめは絶対悪です。いじめられる側にも問題が、とか論外の暴論です。
問題あると思うなら直接声に出して改善を求めればいいのに、真っ先にやることが陰湿な嫌がらせや暴力って。幼稚園児じゃないんですから」
「ふはっ。それ、あいつが聞いたら顔真っ赤にしそー」
「そういうわけで、因果応報はきちんとしなくちゃいけません」
結菜の予想を遥かに超えて、まともなことを答えてくれた。
これだけ聞けば本当に、とてもまともなことを言っている。
昔の友人を個人的にストーキングしたり、追いかけて転校してきたり、そういうことをしてる人間でなければもっと説得力もあったろうにな、と結菜は思った。
「わたしはコーラ味の方が好きです」
「いきなり何の話」
「シガレットです。ココアは口の中がもったりしていけません――で、二つ目はなんなんですか?」
「おかわりの手出しながら言う? 普通」
三本目を手渡しつつ、結菜は口にするべき疑問を自分の中で言語化する。
自分は詩述の作戦を実行に移し、成功させた。
その報告をした時、彼女から伝えられた奇妙な忠告。
それがずっと頭の中に引っかかっていたのだ。
意図が読めない。何度考えても、一体どういう意味なのか分からない。
『しばらくクラスメイトからの電話には絶対出ないでください。絶対に、ですよ』
「電話に出るな、って言ってたじゃん。あれは何だったの」
「……あ。そういえば、説明してませんでしたね」
「誰からも電話かかってこなかったからいいけどさ。
ていうか午前中、さっきも言ったけど来瑠に電話かけたりしてたんだよね。あれももしかしてダメだった?」
「わたしはともかく、結菜さんの場合はあまり好ましくないですね。
相手が結菜さんの想像している相手じゃない可能性があるので。
まあ、今日はあの子がちゃんと学校に登校していたので問題ないとは思いますが」
「……どゆこと? "あの子"ってのは火箱のことで合ってる?」
……ますます意味が分からない。
ただの電話で"危険性"とはどういうことか。
録音されるのを危惧しているのかとも思ったが、どうもそういうわけでもないらしい。
こうなると頭も察しも悪い結菜ではもうお手上げだった。素直に詩述の答えを待つことにする。
しかし、そんな結菜に伝えられた"答え"は――彼女の想像を超えた、斜め上のそれであった。
「風花ちゃんには声だけで人の命を奪う力があります。かかってきた電話の相手がもしあの子だったら、その時あなたは恐らく死にます」
◆◆
『今日、私一人なんだ――だからさ、いっしょに帰らない?』
『風花っていい名前だね。響きがかわいい』
『ねえ、ふーちゃんって呼んでもいい?』
◆◆
ただいま、と声をあげた。
おじいちゃんと、帰りを待ってくれているあの子のために。
靴を脱いで、手を洗うのも後回しにして自室へ向かう。
そして扉を開ければ――その時すぐに、愛しい彼女は自分の身体へ抱きついてきた。
「……えへへ。ただいま、くーちゃん」
「遅い」
本当はこんなことしたくないんだろうなと、風花は思う。
プライドの高い来瑠は、こうも弱々しい行動を取ってしまう自分を憎々しくさえ思っているかもしれない。
しかし彼女には悪いが、風花にとっては嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
帰ってきた自分へ子どもみたいにくっついて、うっすら涙を浮かべた瞳で見上げてくる来瑠。
昨日はあんなに不機嫌だったのに、今では甘えるみたいにそうしている来瑠――そのギャップに思わず微笑んでしまう。
「……なに笑ってるの。遅い、って言ってるんだけど」
「ごめんね。これでも結構急いだんだけど……」
「そんなの、知らない。ふーちゃんの都合とか、知らない」
ぎゅううう、と抱きしめてくる彼女の感触。
それを、風花もきゅっと抱きしめ返してあげた。
安心したように少し力が緩むのが、とても愛おしい。
悩みも、不安も。最悪な気分も、全部が癒やされ満たされていくようだった。
「ねえ、くーちゃん」
「なに」
「手紙に書いた、お話なんだけど」
「……、……ん」
風花がそう言うと、来瑠は彼女から手を離した。
部屋の主がいない間にきちんと布団を片付けている辺りが几帳面な来瑠らしい。
畳の上に座って、じっと風花の眼を見てくる。
自分からは何も促さない。
求めていると、思われたくないから。
そんな来瑠の強がりも、この時ばかりは愛おしさではなく申し訳なさに変換された。
だってこの件に関しては、悪いのは明確に自分の方だから。
「あんまりね、話したくないんだ」
「は……? 何それ。話違うじゃん」
「うん、わかってる。ちゃんと話すよ。落ち着いて」
「……ふーちゃんが何言ってるのか、全然わかんない。結局嘘ついてたってことでいいの?」
訝しげな顔をされるのも詮無きことだ。
風花自身、そう思う。自分でも支離滅裂なことを言っている自覚はあった。
話したい。くーちゃんに全部を聞いてほしい。
でも、それと同じくらい話したくない。この記憶は、自分の中に永遠に封じ込めておきたい。
少なくともくーちゃんには絶対に知られたくない。知られたら、何かが変わってしまうかもしれないから。
もう二度と、話す前の関係性には戻れなくなってしまうかもしれないから――。
「怖いの。くーちゃんに嫌われちゃうかもって考えると……すごく、怖いの」
友達ができたのは、くーちゃんが初めて。
確かに風花は以前そう言った。
けれどそれは、確かに嘘だ。
初めてではない。来瑠は二人目であって、決して一人目ではなかった。
「だから、さ。話す前に――ひとつだけ、お願い聞いてくれる?」
「……図々しい。先に嘘ついたの、ふーちゃんのほうじゃん」
「そうだね。ごめんね。でも、……おねがい。聞いて」
「……、……好きにすれば」
―――― 一年前。
火箱風花、中学三年生。
友達はいない。春に始まったいじめの標的にされてしまい、毎日ひどく憔悴しながら生きていた頃。
自殺をすら考えるようになった風花を、燦然と助けてくれた少女がいた。
持って生まれた内気さ故、一生友達ができる日は来ないだろうと思っていた風花を――友達と、そう呼んでくれた女の子がいた。
手をつなぎ、絆をつむぎ、本当に楽しい時間を共に過ごしてくれた……友達が、いた。
「くーちゃん――」
それこそが小綿詩述。
風花の初めての友達で、そして。
他でもない風花自身が、自らの意思で"捨てた"相手だった。
「――キス、してもいい?」
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