迷い家

 待ち合わせ場所の公園で合流して、バスに乗って。

 知らないバス停で降りて、風花の後に続き歩いていく。

 この間に会話はなかった。来瑠はずっと俯いているだけ。

 傍から見たら異様な光景に見えたかもしれないが、それを気にする余力はなかった。

 風花もそんな来瑠の心情を理解しているのか、必要以上に話しかけようとはしなかった。

 

 埃で汚れた制服には昨日まではなかった染みが幾つも付いている。

 見るだけで気が狂いそうになる。自分のアイデンティティが崩れていくのを感じる。

 遠くに沈んでいく太陽が自分という人間を表しているようで人目も憚らず泣き崩れたくなった。

 それでも足を止めず、声をあげず、涙も流さなかったのは、せめて風花の前では彼女の知る自分でいたかったからか。


「この先だよ」


 風花が、来瑠の手を引く。

 肌寒い秋の黄昏に冷え切った力ない手が、暖かな感触に包まれた。

 抵抗する気にはなれなかった。子供のように手を繋ぐ気恥ずかしさよりも安心感が勝ってしまう自分に心底嫌気が差す。

 

 ――ほんとなんなんだろ、こいつ。


 来瑠には、相変わらず風花がわからない。

 一番疑わしい人間なのに、その振る舞いや言動はどうしても自分に敵意のある人間のそれには見えなくて。

 そして腹立たしいことに他でもない自分自身、彼女のそうした言葉に胸を撫で下ろしてしまっている節があって。

 もう頭の中はぐちゃぐちゃで、現実感も目眩のように所在なく揺らぎ狂ってしまっていた。

 まるで何か、人が踏み入れてはいけない領域に足を進めてしまったような。

 そんな言語化し難い不可解を胸に、来瑠は手を引かれていき――そして、自分の住まう新しい家の前に出た。


「古いから、ちょっと恥ずかしいんだけどね」


 えへへ、と照れ臭そうに笑う風花。

 築数十年と経っているだろうことがひと目で分かる古びた一軒家だった。

 様式は和風で、手入れがされず放置された庭には身の丈ほどにもなる長いススキが揺れている。

 時の流れから切り出されたような、時代の残骸のような、そんな家。来瑠は、そう感想を抱いた。


「――ただいま~……っ。おじいちゃん、友達連れてきたよ~!」


 立て付けの悪い玄関扉を開けて三和土に入り、風花は廊下の向こうに声をあげた。

 すると、右脇の部屋からひょいと老人の顔が突き出してこちらを覗く。

 白髪頭で皺くちゃの頭部が音もなく突き出す様はどこか妖怪のようで、来瑠は一瞬びくりとしてしまった。


「あ――えっ、と。はじめまして。今日からお世話になります、ふーちゃ……風花さんの友達の、高嶺来瑠といいます」

「……んんんん?」


 眉を顰めて、じろじろと遠慮なく来瑠の顔を見つめてくる老爺。

 ほぼ90度の角度で脇から突き出ている形だが、一体どういう姿勢でそうしているのだろう。

 妙ちくりんな光景に少し毒気を抜かれた来瑠は、自分が今たぶんひどい顔をしているだろうことに思い当たって嘆息したくなった。

 散々泣いたし、もしかしたらメイクも崩れているかもしれない。

 自分はすっぴんでも勝負ができる顔をしていると来瑠は自負していたが、それでも一介の女子として気恥ずかしいものはやはりある。

 そんな来瑠の内心をしかし、老爺――もとい風花の祖父はさっぱり見透かしてなどおらず、またその気もないようで。

 一人、勝手に何やら得心行ったように真横の顔で頷くと、乾ききった唇を開いた。


「おお、おお。詩述ちゃんか、よく来たなあ」

「……いや、ですから私は――」

「ずいぶんご無沙汰だったじゃねえの。詩述ちゃんは俺の孫みたいなもんだからのう、おお何日でも泊まってけぇ」

「……、……???」


 耳が遠いのとは、たぶん違う。

 そもそもからして話が通じていない。

 こっちの話した内容を、自分の脳内のフィルターで勝手に変換して咀嚼し言葉を返された形だ。

 困惑する来瑠だったが、そこでふと風花の言っていたことを思い出す。


「……あ、そっか」

「うん、そうなの。中学生の頃はもうちょっとちゃんとしてたんだけどね、最近はすっかりボケちゃってて」

「阿呆、ボケてねえよぉ。

 おう、冷蔵庫に小松の婆さんから貰った鮪の切り身が入ってるから、後で振る舞ってやりな」

「もう、おじいちゃん! 小松さんは先月死んじゃったでしょ。くーちゃんに変なこと言わないで」


 抗議する風花に、けらけらと笑いながら顔を引っ込める老爺。

 それを横目に、来瑠は奇妙な新鮮さを感じていた。


 ――ふーちゃん、家だとちゃんと喋るんだ。


 失礼極まりない感想だが、考えてみると来瑠は人見知りでおどおどした風花の姿しか知らない。

 形だけでも真っ当に友達らしいことをしていた頃でさえ、二人の関係性は対等では決してなかった。来瑠が、それを望まなかったから。

 だからこうして唇を尖らせて抗議し、しっしっと肉親を追い払う"年頃らしい"風花の姿を見るのは実のところ初めてだった。

 家族の前だと少し気も大きくなるのだろう。「行こっ、くーちゃん!」と言って、強めに来瑠の手を引く風花。

 玩具にしていた少女の初めて見る顔に、なんとも新鮮なものを感じながら――古びた木の床板を踏みしめ、足を進める。




 彼女に促されるままに、廊下を曲がった突き当たりの部屋へと案内される。

 こじんまりとした和室だった。

 ところどころほぐれた、生活感のある畳。

 漫画本や小説が並んだ本棚、布団が入っているのだろう押入れ。小学生の頃から使っているのだろう、子供っぽい学習机。婆臭いカーテン。

 来瑠の部屋とは大違いの、とてもではないが花の女子高生のそれとは思えないような部屋だ。

 年頃なんだしもうちょっとおしゃれにしなよと、普段の来瑠なら堪えきれず口出ししていたに違いない。


「ごめんね、おじいちゃんがびっくりさせちゃって。

 此処が私の部屋なんだ。くーちゃんからしたら、ちょっと色気のない部屋かもだけど」

「……うん。めっちゃダサいと思う。ていうか、小学生の部屋って感じ」

「がーん……」


 正直に感想を伝えられれば、風花はがくっとうなだれる。

 きらびやかな今時の女子ばかりとつるんできた来瑠にとっては、なかなかに衝撃的な部屋であったが――それはさておくとして。

 

「本当に大丈夫なの? 人間増えると、食費とかいろいろあるじゃん」

「うん、大丈夫。くーちゃんはなんにも気にしなくていいよ」


 でも、と風花。

 

「その……ほんとに、こういうこと聞くのは心苦しいんだけどね。

 もし先生に聞かれたときとか、話を合わせれた方がいいかなって思うから」

「……、……」 

「……何があったのか、聞いてもいいかな」


 その言葉に、来瑠はぐっと唇を噛みしめた。

 何があったのか。今日、学校で何があったのか。

 どうして自分は、こんなことになってしまったのか。

 答えるのはとても簡単だ。なのに答えたくない。

 それを答えたら。風花に対して、答えてしまったら――教えてしまったら。

 何か、とても大切なものが終わってしまうような気がした。うまく言葉が出てこない。そんな来瑠の手に、風花がそっと自分のを乗せる。


「大丈夫だよ。私は、絶対にくーちゃんの味方だから」


 ……風花は来瑠を落ち着かせたい時、よく"大丈夫だよ"と言う。口癖なのかもしれない。

 もちろんそこには何の根拠も見て取れない。

 なのにどうしてか、本人にはプライドにかけて絶対に口が裂けても言えないが、来瑠にとってはこれが存外に効果を発揮していた。

 ささくれて荒くれた心が、不思議と安らぐ。昔、父の抑圧に耐えかねて母に泣きついた時のことを思い出す。

 今回もそうだった。気付けば来瑠は、ぽつりぽつりと話し始めていた。

 この、世界の誰よりも頼りなくて――弱みを見せたくない、"標的"に。


「……クラスに、ふーちゃんの裸の写真が出回ってて。

 私がつけた傷のこととか、昔いじめてた奴らのこととか……なんか、全部バレてて。それで……」

「え――私の?」

「それであいつら……っ、手のひら返したみたいに……調子乗って、私に――ッ、う゛……!」


 感情の高まりに呼応するように吐き気が込み上げ、思わず身体を折り曲げる。

 なんとか、これから暮らす部屋の畳に汚物をぶち撒けることだけは避けたが……口元から垂れ落ちる涎が手を汚す無様は凌げなかった。

 ぜぇはぁと喘鳴のような呼吸を繰り返す来瑠の背を擦るのも忘れて、風花は動揺した顔で自分の口元に手を当てている。

 何かを考え込むような顔。それは暗に、件の写真が風花の意図するところで撮られたものではないことを物語っていた。


(あ……そういえば、あの写真。確か……)


 不意に思い出す写真の背景。

 あの写真には確かに、畳と襖が写り込んでいた。

 恐らく学校の外、何処かの和室で撮ったのだろうなと思ったのを覚えているし、だからこそ風花が自分で撮影してクラスにばら撒いた可能性を来瑠は疑ったのだ。

 そして曖昧な記憶の中から引っ張り出した写真の構図と、今自分がいるこの部屋とを照らし合わせてみて――来瑠はあることに気付く。


「……たぶん、アレ――この部屋だった。

 そこの……押入れの襖の前に、ふーちゃんが立ってて……それを、このへんから写した感じ」


 同じだ。

 記憶の中に残る件の写真、そこに写り込んでいた風景とこの部屋のそれとが一致している。

 ちょうど本棚の前辺りから押入れに向けてカメラを構え、その間に風花を立たせれば、きっとあの写真と全く同じ構図になる。

 そう気付くなり、来瑠が取った行動は実に直情的なものだった。我ながら、なんて浅ましいのかと呆れたくなるほどに。


 風花の胸ぐらを掴んで、襖へと押し付ける。

 「あ、ッ」と短い悲鳴を漏らすのにも構わず、力強く絞め上げた。 

 獣のように荒い息遣いを繰り返しながら、ただ衝動のままに来瑠はそうしていた。


「やっぱり、ふーちゃんがやったの」

「ち……がう、よ……っ。私、じゃない……!」

「だったら、誰が――!」

「お、願い……くーちゃ、聞いて……っ」


 苦しげに顔を歪めて、途切れ途切れの声を絞り出した風花。

 その姿にようやく我に返った来瑠は、手に込める力を緩めて風花を解放した。

 ずるりと真下へ落ちて、襖に背を委ねながらけほけほと咳き込む彼女を見て――来瑠はまた情けなさに死にたくなる。


 頭では分かっているのだ。

 やったのは、多分風花ではないと。

 さっき、事の次第を聞かせた時の反応を見てそう理解した筈だった。

 なのに勝手に天啓を得た気になって、都合が良くて手っ取り早い可能性に飛びついただけ。


 おまけに。

 自分で仕掛けておいて、横暴を働いておいて。

 今、自分の生命線は他でもないこの風花に握られているのだと思い出すと、口からは自然と言葉が漏れ出す。


「…………ごめん」


 謝るなよ。

 謝っちゃ、駄目でしょ。

 私、なんでふーちゃんに謝ってんの。

 それは、違うじゃん。

 私達の形と違うじゃん、それは――。


「くーちゃん、聞いて」


 そんな来瑠のことを、風花は咎めるでも恐れるでもなく抱き寄せた。

 自分の胸の中へと誘って、ぎゅっと抱き留める。

 なにすんの、と言いかけた言葉は喉の奥につっかえて出てこない。

 きゅ、と目を閉じて身を委ねてしまう惨めな自分の姿に涙が出そうになった。


「私ね、本当に写真のことなんか知らないの。

 私、友達いないし……SNSもトークアプリもやってないし。うちに誰かあげたことなんてもうずっとないよ」

「……信じる、要素がない。じゃあなに。誰か忍び込んで、撮ったってこと」

「ごめん。わかんない」

「わかんないって、何。ふざけてるの」

「ふざけてないよ。わかんないの。ほんとに、わかんない――加工とか合成とか、そういうのだった可能性はない?」

「ちゃんとふーちゃんの顔、写ってた」

「うぅん……じゃあ、なんだろ……」


 来瑠は基本、他人に対して興味がない。

 自分にとっての利用価値があるかどうか、虐げて楽しめるかどうかでしか他人を判断しない。そういう"人でなし"だ。

 けれど風花に関しては話が別だった。

 箱庭の13人の生贄、その中でも抜きん出て来瑠の琴線ヘキに触れた彼女についてはちゃんと執着している。

 他の標的どもならいざ知らず、風花の顔と体つきを見て間違えるということは考えにくかった。


「なら、さ。一個だけ答えてよ」


 風花の胸に顔を埋めながら。

 滑稽にもその状況でなお平静を取り繕う努力をしつつ、来瑠は言った。

 

「これだけ答えてくれたら、ふーちゃんのこと、信じてあげるから」


 来瑠に味方はもういない。

 母は壊してしまった。

 金魚の糞どもには裏切られた。

 今、来瑠のことを支え助けてくれるのは風花だけだ。

 信じてもいいとは思うし、信じるしかないとも思う。

 さっきの風花の反応には真に迫った動揺が見て取れたし、仮に腹の中で何を考えていたとしても、彼女に切られてしまったらその瞬間が高嶺来瑠にとって本当の"終わり"なのだ。 

 であれば余計なことはもう考えず、みっともなくても縋りつくしかないだろうと。

 理性はそう告げていたけれど――来瑠はあと一つだけ、これだけは彼女に聞いておきたかった。


「昨日、なんで学校休んだの」


 その問いかけに、風花は。

 一瞬、嫌なことを聞かれた、というような顔をした。

 けれど、聞かれた以上は答えなくてはいけない。

 そう思ったのだろう。やがてゆっくりと口を開き、答えを紡ぎ出す。


「……中学の頃の友達と、久々に会ってたの」


 は、と来瑠の口から声が漏れた。

 別に、どう答えてほしかったわけでもない。

 告発の日に自分と居合わせたくなかった、それ以外の理由ならば何でもいい。そう思っていた。

 なのにその答えを聞いた時、腹の底から出てきた笑いは自分でも驚くほど乾いていて。


「私が初めてだって、言ったじゃん」


 自分とは思えないほど、みっともなく震えていた。



◆◆



 家出の初日は、あっという間に過ぎていった。

 あの後、風花は夕飯の準備してくるねと部屋から消え。

 ややあってから、部屋に来瑠のぶんの食事を持ってきてくれた。

 白米と鮪の刺身、漬物に切り干し大根。わかめと豆腐の味噌汁。

 平凡な味だった。母の作ってくれる、見た目も味も華やかな料理とは比べるべくもない。

 けれど身体の奥底にまで沁みていくような、そんな不思議な味をしていた。


 食後は、何を会話するでもなくそのまま部屋で過ごして。

 風花の敷いてくれた布団に入って、自分でも驚くほどあっさりと眠りに就いた。

 夢は見たような気もするし、見なかったような気もする。

 確かなのは、起きた時にはもう時刻は午前九時を回っていて、風花は学校へ行った後だったこと。

 そして枕元に、すっかり冷めてしまった朝食と置き手紙が残されていたことだった。



“昨日はごめんなさい。帰ったら、ちゃんと説明するから。

 ごはん冷めてたら台所にレンジがあるのでチンしてください。何かあったら電話してね。                            ふーちゃん”



 まるで引きこもりの娘に向けたみたいな文面に思わず失笑が漏れる。

 自分で自分のことをふーちゃんと書いてるのはボケのつもりなのか。

 手紙を握る手に力が籠もってくしゃりと音を立てた。

 

(何してんだろ、私)


 自分で、もはや自分が分からない。

 全部失くして、みっともなく縋り付いて、拾ってもらって。

 それなのにすぐ癇癪起こして、子供みたいに拗ねて、こんな手紙まで書かせて。

 

「きっも……」


 自分がもしも他人だったなら。

 今のこの姿を見て、どう思うだろう。

 考えると、思わず感想が口をついてこぼれた。

 気持ち悪い。今、こうして後悔をしていることも気持ちが悪い。

 どうせ理不尽をやるなら貫けばいいのに、そうする勇気もないから中途半端に顧みてしまう。

 その弱さも、醜さも、太陽が落ちた今となっては何もかもがひどく生々しく来瑠の目に映った。


 ――本当は、学校になんて行ってほしくなかった。

 ずっとそばにいてほしかった。ただそばにいてくれるだけでよかった。

 一人に、しないでほしかった。風花のいない景色はとても孤独で、怖くて、寂しい。


 だけどそんなわがままをもしぶつけてしまったら、本当に何かが変わってしまうような気がして言えなかった。

 あんなわけのわからない癇癪を起こすくらいなら、いっそ勇気を出してぶつけてみればよかったのかもしれない。

 一人の和室で、ゆっくりと身体を布団から起こして、来瑠は頭を抱えた。

 これから先の人生、ずっとこうして恥を晒し続けるだけなのだろうか。

 だとしたらそれは、とんだ生き地獄だ。

 自分という悪人を裁くにはおあつらえ向きの、とんだ――


「……とりあえず、ごはん食べよ……」




 お盆を持って、部屋を出る。

 向かう先は台所だ。場所は聞いていなかったが、幸い迷うほど風花の家は広くなかった。

 やがて辿り着くと、白米と味噌汁を電子レンジに入れて加熱する。

 おかずは目玉焼き、アスパラのベーコン巻き、昨日出てきたのと同じ漬物。

 目玉焼きの黄身を箸で崩すと中身がとろりと溢れてきて、思わず母の顔を思い出した。母は、半熟の目玉焼きが好きだったから。


(……おいしい)


 なんだかやけにおいしくて、来瑠はぐす、と鼻を啜った。

 視界が歪む。寝起きで、あくびが出たからだとそう自分に言い聞かせた。

 味噌汁を啜って、白米を口に運んで、噛み締めて、飲み込む。

 目玉焼きを米の上に載せて、ぐちゃぐちゃに潰して、そうやって食べるのが来瑠は好きだった。

 母が教えてくれた食べ方だ。お父さんの前でやっちゃだめだよ、と人差し指を立てていたずらっぽく笑ってくれたのを覚えている。


「起こしてけよ、あいつ……っ。

 私がいるのに、学校とか、行かないでよ……」


 玩具のくせに。標的のくせに。私のもののくせに。

 持ち主をほっぽり出してどっか行くとかどういう了見だ。

 強者のメッキは今も健在だった。それはもう、鎧でも豪奢な服でもないというのに。


 ひく、ぐす、と情けなく嗚咽を漏らしながら、頬張った米を味噌汁で流し込む。

 乞食みたいな姿だなと自分でもそう思った。

 帰ってきたら、何話そう。

 昔の友達のこと、本当にちゃんと説明してくれるのかな。


 いや、だな。

 こわいな。


 そう考えてしまう自分のことがもうさっぱり分からない。

 風花は来瑠にとって都合のいい女だ。家にも学校にも居場所のない自分を匿って、ご丁寧に食事まで出してくれる召使いだ。

 そんな家政婦まがいの女が過去誰と仲良くしていたとか、誰と会ってたとか、死ぬほどどうでもいいことじゃないか。

 頭ではそう分かっている。なのに、じくじくと胸の奥が膿んだ傷口みたいに痛むのだ。

 


 ――くーちゃんだけが私を見てくれた。

   私の手を引いて、連れ出してくれた。

   だから何をされたって、何を言われたって、私だけはくーちゃんの味方でいたい。


 ――くーちゃんのことが好き。くーちゃんの全部が、好き。

   だから助けてあげたいって思うし、くーちゃんが願うことなら全部叶えてあげたいって思ってた。


 ――私ね。友達ができたの、くーちゃんが初めてだったんだ。



「うざい。もう、ほんっとにうざい」


 胸の奥が鬱陶しい。

 こんな感覚は、いらない。

 私が欲しいのはこれじゃない。

 私が、ふーちゃんから欲しいのは、こんなじくじくした痛みじゃない。

 もっとこう、幸せなやつ。

 ふーちゃんなんか、きゅんって身体の奥が暖かくなるようなやつだけ寄越してればいいの。

 

「いっしょにいろよ、ばか…………」


 ぺろりと平らげた朝食の皿を前にして、来瑠はまた鼻を啜った。



「泣くほど美味かったかい」

「っ!?」

「俺ぁこう見えても昔は料理人を目指しててなあ。

 戦争でワヤになっちまったけど、やっぱり自分の拵えたモン美味そうに食って貰えると冥利に尽きるわ」


 突然響いたしわがれた声に、びくん! と身を跳ねさせる。

 慌てて声の方を見ると、居間に繋がる扉から風花の祖父が顔を出していた。

 にやにやとした笑顔は好々爺然としているが、だからこそ余計に弱い姿を見られた羞恥心が噴き上がってくる。

 顔を真っ赤にして、ティッシュを数枚抜いて目元を急いで拭く。

 それから努めていつも通りの営業スマイルを浮かべた。ごまかせるかどうかは問題ではない。これは来瑠の精神衛生上の問題なのだ。


「あはは、ごちそうさまでした……。ごはん、おじいちゃんが作ってくれたんですか?」

「いんや、全然。風花が学校行く前に作っとったよ」

「え。じゃあ全然さっきの話と関係ないじゃないですか」

「料理は女の仕事さ。炊事家事を進んでやる男は女々しくていかんよ」

「言ってることがめちゃくちゃなんですけど?」


 からからと笑う老爺に眉根を寄せてツッコミを入れてしまった来瑠だったが、すぐに風花の言っていたことを思い出した。


(ああ……そういやボケてるんだっけ……)


 道理で言ってることが支離滅裂なわけだ。

 心も身体も疲れ果てているのに、朝っぱらからボケ老人の相手だなんて御免蒙りたい。

 さっさと食器と顔を洗って、風花の部屋に引きこもってしまおう。

 そう思いつつも愛想笑いだけは変わらず顔に貼り付けて、来瑠は食器を流し台へと運び始めた。


「ありがとなあ、風花と仲良くしてくれて」

「いえ、そんな。ふーちゃんにはむしろ、私の方がお世話になってるっていうか」

「あれも見た目はええんやけどなあ。ああも引っ込み思案じゃ友達なんざよう出来んけぇの。

 詩述ちゃんといいあんたといい、風花は感謝せんと。まあ女同士じゃ孫の顔は見れそうにねえべけどな、うはははは」

「あはは……ちょっと、下品ですよ? おじいちゃん」


 お前どこ育ちなんだよ。

 来瑠は内心突っ込みたくて仕方なかった。

 分かるだけでも関西弁と広島弁、あと津軽とかあっちの方の方言がミックスされている。

 痴呆症の老人にこんなことを言っても仕方ないが、何とも胡散臭い爺だな、と思った。

 そこで。ふと――あれ、と思う。


(昨日は私のこと、詩述ちゃんって呼んでなかったっけ)


 そもそも、よくよく考えたらあの時点で気付くべきだった。

 風花の家まではるばるやって来ていた、詩述なる誰か。

 そいつこそが風花の、"前の"友達なのだとあそこで察せていればもう少し話は拗れなかったかもしれない。

 

(……そういえば、ふーちゃんの中学の頃の話とか――全然聞いたことなかったな)


 帰ったら、全部きちんと喋らせてやる。

 嫌だけど。正直、聞きたくないけど。

 自分でもうまく言語化できない感情のままにそう決意する来瑠をよそに、老爺はドアの向こうへと顔を引っ込めた。


「ま、いつまででも居てええからな。こんなボロ家やけど、意外と金はあるんでの。

 嫌んなったら帰ればいい。居心地よかったらかわいい孫に嫁いでやってくんろ」

「……だ、だからふーちゃんとはそんなんじゃ――」

「おう、それと」


 もう知らん。

 ボケ老人の相手はまともにするだけ損だ。

 そう思って顔を引き攣らせた来瑠に、彼は扉越しに何気ない調子で続けた。


「龍櫻にもよろしゅうな、来瑠ちゃん」


 

 ……。

 …………。

 ………………。



「…………え?」



◆◆



「ねえ、今日もちゃんと来るかな。高嶺さん」

「どうだろね。でも来るんじゃない? 来なかったらいじめのことバラされちゃうらしいじゃん」

「来てほしいなー。昨日のあれ、すっごい面白かったもん」

「私、ちょうど先生に呼ばれてて見れなかったんだよね」

「マジ? じゃああとで動画送ってあげるよ。やなことあった時とかに見たら元気出るよきっと」

「性格悪すぎでしょ。まあでも、気持ちはちょっとわかるかも。

 ウザかったもんね、高嶺さん。私はみんなのリーダーです!みたいな顔してさ。お姫様ごっこなんて小学生で卒業しとけって」

「いいとこの娘だから幼稚なんでしょ。あの子は自分で自分のこと、サイコパスだと思って悦に浸ってそうだけど」

「うわ、そうだったら痛すぎ。火箱さんも可哀想だよねー。変態の趣味に付き合わされて」

「火箱さんにも仕返しさせてあげたいな。そしたら高嶺さん、どんな顔するんだろ」

「いいねそれ。後で結菜に提案してみるよ、うまくいけば今日の昼休みにでも――あ」


 追い抜く。

 追い抜きざま、二人の視線が注がれる。

 私はそっちを見ない。

 見ないまま、ただ口だけ動かして呟いた。


「死ね」



◆◆



 びっくりした、噂をすればなんとやらだね。

 なんかぶつぶつ言ってなかった?

 気のせいじゃない? 私はよく聞こえなかったけど――



 そんな会話を遠くに聞きながら、火箱風花はため息をついた。

 彼女の声は、人を殺せる。

 たったの一言で、尊い命を踏み躙ることができる。

 今、風花はその力を使った。声に出して、人の死を望んだ。


 なのに後ろでは、何も変わらず気を取り直したみたいに名前も知らないクラスメイト達が下世話な話を始め直している。

 殺せていない。誰の目から見てもそれは明らかだった。

 風花の声には即効性がある。早ければ一瞬。遅くとも三十秒以内には命を摘み取れる。

 ちょうど今、三十秒が経った。それでも――汚い口で来瑠の名前を口にする後ろの二人が死ぬ様子は未だない。

 

 やっぱりだめか。


 小さく呟いたその声は、今度こそ誰の耳にも届くことなく風に溶けて消える。

 風花の声は、命を潰す。

 ある条件が満たされたその時点で、必ず対象に死を運ぶ。例外は一つだけだ。

 そもそもその"条件"が満たされていない場合に限り、彼女の声は単なる妄言に成り果てる。

 

 火箱風花が対象を心から嫌悪していること。

 彼女の声は、好きな人のことは殺せない。

 嫌っていない人のことは、殺せない。

 

 感謝している相手のことは、殺せない。



(かわいかったな、くーちゃん……)


 玩具扱いしてる私なんかに抱きついて、泣いて。

 自分が初めての友達じゃなかったって知って、あんなに取り乱して。

 だけど捨てられるのは怖いから、前みたいに殴ったり蹴ったり刺したりはできない。

 並べて敷いた布団で寝てる時も、無意識なのだろうけど手を伸ばして朝まで自分の裾を握っていた。

 前までの"強い"くーちゃんだったなら、決して私なんかにそんな姿を見せることはしなかっただろう。


 自分のこえのことなんて誰よりよく分かっているのに。

 殺せるわけもないのに、あの時くーちゃんの求めにわざと応えるふりをした。

 最後まで言葉を聞けず、電話を投げて情けなさのあまり泣きじゃくってしまったくーちゃん。

 それを聞いている時、近くに鏡がなくて本当によかったと思う。そこにはきっと、とても汚いものが写っていただろうから。


 こんなことを考えちゃいけない。

 こんな風に、思っちゃいけない。

 頭では分かっているのに、ついつい想ってしまう。

 きゅん、きゅん、と疼く下腹の声と熱が止まらない。

 そうだ、私は。



 私は、クラスのみんなに、きっと感謝している。



のこと話したら、もっと不安になってくれるのかな。

 私がわがまま言うくーちゃんのことをちょっとだけ咎めたりしたら、また謝ってくれるのかな。

 私なんかに。わたしなんかに、わたしなんかに――)


 自分なんかがくーちゃんを支えられるなんて思いもしなかった。

 自分なんかに、くーちゃんが弱さを見せてくれるなんて思わなかった。

 みんながくーちゃんを追い落としてくれたから、世界で一人ぼっちにさせてくれたから。

 強くてかわいいくーちゃんを、弱くてみじめな負け犬に変えてくれたから。


 だから私は、この脈動きゅんをひとり占めできる。


 ああ、最低だ。

 私、いつからこうなっちゃったんだろう。

 くーちゃんのこと、本当に好きなのに。

 助けてあげたいのに。くーちゃんが泣いてるのを見ると私の心も擦り切れそうに痛むのに。


 なのに、それと同じくらい、満たされてしまうのはどうして?

 この口が、弧を描いてしまうのは、どうして?


「ふへ……」

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