黄昏、落日、神隠し
「学校という限られた、それも未熟な人間の集う場所で主役になることはそう難しくありません」
「誰もがどことなく鬱屈としている。みんなどこかで、非日常を求めてる」
「授業中、突然乱入してくるテロリストを夢見るように。
退屈な学校生活を一変させてくれる、眉目秀麗でちょっぴり世間知らずな転校生を求めるみたいに」
「誰もがみんな飢えている。なら、それを満たしてあげればいいんです」
「彼女が今までそうしてきたように。ね」
◆◆
「おはよー」
教室のドアを開け、いつも通りの笑顔で中へと入る。
昨日のことは正直、あまり思い出したくなかった。
あの後、いつまでああしていたのか分からない。
特に何を話すでもなく別れて、最後に風花が言った「また明日ね」に足を止めて振り返らずに手だけ振った。
まったくもって、らしくない。
最悪だ、と来瑠は昨日の自分を振り返る。
他人に弱みを見せるなというのは、今は亡き父から学んだことの中で唯一有益だったことだ。
なのに此処最近の自分と来たらどうだ。
弱さを他人に、それもよりによって
切り替えなくては。昨日までのことは忘れて、せめて学校だけでも『高嶺来瑠』を演じ抜こう。
そう思って登校するなり、来瑠が抱いたのは違和感だった。
(?)
女子校にお淑やかさを期待するのは間違いだ。
基本的に常にうるさいし、下世話なトークが乱れ飛ぶのもしばしばである。
にも関わらず、今教室はやけに静かだった。
自分が入室するまでは、確かに騒ぎ声が聞こえていた筈なのに――とそこまで思ったところで、違和感の正体にようやく思い当たる。
――え。
クラス中の視線が、来瑠の方に集中していた。
視線を少し動かしたり、ちらりと一瞬だけ一瞥したり。
直接見つめている人間は少なかったが、逆に言えば誰もが遠慮がちに来瑠の方へ眼差しを送り、やがて離す。
自分が休んでいる間に何かあったのだろうか、とか。
自分が来る前に先生から雷でも落とされたのかな、とか。
そんな"よくある"理由は頭の中に浮かんでこなかった。
その理由は、来瑠が今までにしてきた経験。何度となく見てきた、景色。
それと、今目の前にある光景が重なって見えたからだ。
いや、まさか。
そんなことあるわけないでしょ、だって理由がないし。
自分に言い聞かせながら席に座り、かばんから勉強道具を出してくるりと振り返る。
来瑠の後ろは空き席だ。夏ごろに親の事情で転校していった生徒がいて、それきり特に理由もなくそのままにされている。
だから来瑠の金魚の糞であるところの小椋結菜はいつもそこに陣取り、彼女と他愛ない話に興じているのだったが――
今日。そこに、結菜の姿はなかった。
見ればきちんと登校はしている。
自分の席に座って、窓の外に視線を向けていた。
(は……?)
眉間に皺が寄る。
意味が分からない。
分からないまま時計を見ると、始業までにはまだ幾らか余裕がある。
チッ、と内心で舌打ちしながら来瑠は立ち上がり、結菜の方へと歩いていった。
「おはよー……あのさ、もしかして昨日なんかあった?」
使えない金魚の糞だが、自分を除けば一応クラス内でも最上位のカーストにいる人間だ。
事情を聞くならこいつが適任だろう、と――そう自分に対してさえ冷静を装いながら。
いつも通りの笑顔を浮かべて机に手を載せ問いかけた来瑠に、結菜が向けた表情は……妙に冷めたもの。
自分が寄生し、甘い汁を吸わせて貰っている相手に向けるようなそれではなかった。
「来瑠さあ」
なんだその目は、と頭の中が沸騰しそうになった。
飼い犬に手を噛まれるというのはこういう気分なのだろうか。
今すぐにでも椅子から引き倒して蹴り飛ばしたい、情欲ではなく純粋な苛立ちからそう思う。
そんな来瑠に対し、結菜はスマートフォンを向けた。
画面に視線を向けて、そこに表示されたものを見た時。
来瑠は一瞬、本当に時が止まったような錯覚を覚えた。
「流石にやりすぎでしょ、これ。引くんだけど」
それは、知らない写真だった。
更衣室ではないと思う。校外、恐らくは和室で撮られただろう写真。
服を脱いだ貧相な裸体。肉の薄い肢体には、ところどころに傷跡がある。
タバコを押し当てた跡であり、針で刺したような跡であり、カッターの刃を這わせたような跡であり。
すべて、来瑠にとっては覚えのある傷跡であった。
間違いなく、自分が"彼女"につけた傷だとすぐに分かった。
「今まではさ、正直遊び感覚っていうか……自分が標的にされたら困るからあんたに味方してたけどさ」
「――は……? 何、これ。意味分かんないんだけど」
「流石に此処までやってるとなったら、話違うって。サイコパスでしょ」
それは、火箱風花の裸体を写した写真。
着替えか何かをしているところを、収めたもの。
来瑠が愛おしく思う、自分が彼女に与えてやった
その全てが赤裸々に、一枚の画像の中に捉えられている――。
「……そんなこと言われても、知らないよ。なんで私が犯人みたいになってるのさ」
あいつが、ふーちゃんがこれを送ったの?
いやまさか。そんなことはあるわけがない。
でも、じゃあ誰がこんな写真を学校以外の場所で撮影できる?
風花はまだ来ていない。もしかして、休み? 告発のタイミングに合わせて逃げた?
嘘だ。昨日も話したのに。あれも全てあいつの演技だったということ?
頭の中を拙い思考がぐるぐると回る中、絞り出したのは弁解の言葉。
「不愉快なんだけど。リスカ痕なんて、普通に自分でつけたものかもしれないじゃん。
確かに傷だらけでびっくりしたけど……火箱さんに傷がたくさんあったからって、それで私が犯人ってことにするのはおかしくない?」
そうだ、焦るな。このくらいならいくらでも誤魔化せる。
リストカットは自前。針も自傷癖ってことでいい。
根性焼きは昔いじめられてた時とか、そういうことで通させる。
風花に自分で証言してもらえばいいだけだ。幸い、来瑠はそれができる人間である。
この画像のことも問い質さねばならないし、彼女には自傷癖の精神病者であるとの謗りを受けてでも自分の名誉を守ってもらおう。
そう考えていた来瑠に、結菜は「はあ」と心底呆れたように溜め息をついた。
「工藤汐里ちゃん」
「は?」
「覚えてるでしょ。あんたが小6の頃、自宅のマンションから飛び降りて死んだ子」
こう言った方がいいかな、と結菜は来瑠を指差す。
当の来瑠はといえば、固まったまま動けずにいた。
その名前を、何故結菜が知っているのか。
それがまったく分からなかったからだ。
だってあれは、まだ私が隣の県に住んでた頃の――
「あんたがいじめ殺した子」
「……違う。その子のことは知ってるけど、私じゃ――」
「じゃあ圓子清香ちゃんは? 中1の時だっけ。夜中に家を抜け出してトラックに飛び込んで、今も昏睡状態中の」
「知らない。何言ってるの、結菜は」
「しらばっくれんなよ」
意味が、分からない。
そのことを知っている人間が居るはずがないのだ。
元々、足がつかないようにはやっていた。
そこに父が頻繁に転勤をする業種だったことも手伝って、来瑠はこれまで自分の悪評が定着する前にその地域を脱出できていた。
このご時世で今日までいじめっ子をし続けられていたのにはそういう理由もある。
だというのに、何故結菜がそんなことを知っているのか。
風花が情報の出処だとしてもそこだけは分からない。
動揺する来瑠の肩を、結菜がどんと突き飛ばした。
「きゃ、っ」
たたらを踏んで、尻餅をつく。
心の芯を揺さぶられている状態だからか、その重心はあまりにも簡単に崩れてしまった。
床に座り込んで両手を突いて、目の前に座る結菜を見上げる格好。
自分を見下ろす彼女が、表情をふっと崩した。
人のそんな顔を、来瑠は見たことがなかったが。
彼女以外のクラスメイト達は皆、その表情を日常的に見慣れていたことだろう。
それは、他でもない来瑠自身が――よく浮かべている顔だったから。
「火箱のこと、先生には言わないであげる」
「な、に。いって――」
目の前の、結菜と。
一連の流れを全て見ていたクラスメイト達の視線が、再び来瑠に集中する。
今度は遠慮がちにとか、一瞬だけ、とかではない。
誰もがじっと、ただ床にへたり込んだ来瑠に視線を注いでいた。
「でも、その代わり」
机の上に置いてあった、小さくなった消しゴム。
それを結菜がひょいと放り、来瑠の頭にぶつける。
消しカスが、綺麗に整えられた髪に情けなく纏わりつく。
「明日からもちゃんと学校来てよね、来瑠」
来瑠は、自分を強者だと信じていた。
火箱風花の能力を知った時も。
父を殺したせいで母を失い、ぐずぐずになってしまった時でさえそう。
けれど、今。こうして自分を見下ろす視線が集まり、逆に自分の味方をすることで地位を保とうとする人間は一人もいない状況に置かれて。
「お返事は?」
「ぇ、あ……」
ぴしり、と。
これまで、どうにか保ち続けてきた心の器に――
罅が入った音を、来瑠は確かに聞いた。
恐怖を知り、喪失を知り、後悔を知り。
矢継ぎ早に削られてきた少女が砕けた。
「…………は、い」
自分が"弱者"に堕ちたのだと認識したこの日。
高嶺来瑠は、死んだ。
◆◆
『どうでしたか?』
『ふふっ、その声色を聞くにうまくいったみたいですね』
『わたしも見てみたかったですが、今日はどうしても外せない用事があって』
『ええ、そうですよ。大事な友達に会いたかったんです。人の目がない場所で、ふたりっきりで』
『……まあ、そのへんは追々話しますよ。あなたにも知っておいてほしいことですから』
『――ふふ』
『本当に、楽しかったみたいですね』
『クラスに巣食う巨悪を倒した正義のヒーロー。念願の"主役"、存分に楽しんでくださいな』
『それと、一個だけ』
『しばらくクラスメイトからの電話には絶対出ないでください。絶対に、ですよ』
◆◆
ああ。
やばいな、これ。
小椋結菜は昼休み、来瑠のいない席を見つめながらそう思った。
詩述の言う通りだった。詩述の目的や正体はまるで分からないままだが、彼女は凄い人間だと既に結菜は理解している。
詩述が渡してきた"証拠"と、"経歴"を突きつけてやるだけで来瑠はあっさりと崩壊した。
自分に見下されながら「お返事」をしたあの顔と震えた声はたぶん一生忘れられないだろう。
あれほど休み時間に好き勝手していた来瑠が、いざ自分の立場になるとすぐさま姿を消したのも愉快だった。
別に来瑠が嫌いなわけではない。
気は合うし、見た目がいいから一緒にいると得をするし。
結菜は、ただ――気付いてしまっただけなのだ。
正義のヒーロー。使い古された称号のその本質に。
何してもいいのかあ、私。
あの来瑠に、これから何しても許されるのかあ……。
悪人に同情する奴は少数で、その破滅さえも因果応報の一言でエンターテイメントとして消費される。
インターネットから創作物まであらゆる場で目にする、この世の縮図の一つだ。
それを作る側がこんなに楽しいだなんて思ってもみなかった。
一方的に殴ることが楽しいことは知っていたけれど、そこに一捻り加えて"正当性"という武器を装備することで、その娯楽はこうまで愉快で痛快なものに姿を変えるのか。
脳内からいけない物質が分泌されているのが自分でも分かる。
たぶん、これは――もう、戻れないやつだ。
「詩述。ふふ、しーの……」
口にするだけでも陶然としたものが体内をときめく。
小綿詩述。自分を金魚の糞から正義の味方に変えてくれた偉大な彼女のことを、もっと知りたいとそう思う。
「しのは一体、何を見てるのかな」
来瑠を陥れたがった目的は?
"友達"……火箱風花へ執着する理由は?
最終的に、彼女が目指しているものは?
全てが気になる。
全てが、結菜に無限の好奇心とモチベーションを与えてくれていた。
ただの道具で終わる気なんて毛頭ない。
金魚の糞で結構。小綿詩述という日常の改革者が辿り着きたいと思う景色を、彼女の傍にいれば見ることができる。それだけで報酬としては十分すぎる。それに、もしかしたらまたおこぼれを貰えるかもしれない。
味わったばかりの愉悦を口内に反芻しながら、結菜は口笛を吹いて昼休みの終わりを待った。
悪者の更生に力添えしてあげるのも、正義を自認する者の責務だから。
◆◆
もしもし、と風花が電話に出た途端。
来瑠は泣いているのか怒っているのか自分でも分からない、支離滅裂な声で叫んでいた。
風花はきっと聞き取れなかっただろう。
口にした当人である来瑠でさえ、自分が何を言っているのか分からなかったのだから無理もない。
落ち着いて。
どうしたの、くーちゃん。
通話口で慌てた様子の声すら癪に障る、いやに白々しく聞こえてしまう。
「……ねえ、楽しかった!?」
場所は、学校の近くの路地裏だ。
ビールの空き缶やコンビニ弁当の残骸が散らばる、花の女子高生が居るべきではとてもないだろう場所で。
蹲り、顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら来瑠は電話をかけている。
「わたしが、馬鹿みたいに泣きついて、弱音吐いてるの見て……面白かった!?」
学校で。
あの後何があったのかは、もう思い出したくない。
ただ一つ確かなのは、それは来瑠にとって一生拭い去れないだろう心の傷になったこと。
今までの人生で築いた自尊心と強者の自覚、それらを全て崩れ去らせるに足るものだったこと。
きっと風花ならば耐えられたのかもしれない。
でも、来瑠には無理だった。根っからの虐げる者は、虐げられることに耐えられない。
13人の生贄を箱庭の中から輩出したスクールカーストの王は、たったの一日すら"それ"に耐えられなかった。
「死ねよっ、死んでよ、嘘つき! お前なんか、おまえなんか、っ」
『まって、くーちゃん……どうしたの。何があったの』
「嘘つき、うそつき……っ、ぅ、え、えぇええっ……!」
口元も、胸元も、吐瀉物で塗れていた。
こんな姿は人には見せられない。
もう失うものも何ひとつないというのに、たった一日で何もなくなってしまったというのに、まだ取り繕うことを考えている自分が惨めだった。
「死んでよ、死んでよ……! 信じ、てたのに……ふーちゃんのこと、ほんとに……!」
――ああ、自分は何を言っているんだろう。
こんな恥知らずな台詞を臆面もなく吐けるほど、落ちぶれてしまったのか。
荒れ狂う心とは裏腹に、どこかで来瑠はそう呆れ果てていた。
人に頼ることは愚の骨頂だと、そう思って生きてきた。
だから誰一人信用しない。人は裏切るから。誰かに身を委ねる人間は弱いから。
その筈だったのに、あの日から何もかもがおかしくなってしまった。
父親を殺してもらった、殺したあの日から、縋ることを覚えてしまった。
誰かに全てを委ねて泣きじゃくることを覚えてしまったから、もう戻れない。
だからこうも惨めだ。たかが金魚の糞、たかがモブキャラの数十人を退けられず。
悪意の数十ぽっちを相手にみっともなく逃走して、汚い物陰で蹲って泣きじゃくってる。
『……くーちゃん。私、くーちゃんに嘘なんてついてないよ』
「だったら……! なんで、あいつらに全部バレてるの……!!
私がふーちゃんにしたことも、昔のことも! なんで、あんなゴミ共が知ってたの!!
ふーちゃん、が、チクった以外に……ないじゃんっ……! ぅ、うううぅ、うううう……!!」
泣くなよ。
泣かないで。
もうこれ以上、恥を晒さないで。
これ以上、弱いとこを誰かに見せないで。
懇願する内心はしかし身体の動きにはさっぱり効いてくれなくて、心の吐露は止まらなかった。
『本当だよ。信じて』
「――あんたのことなんか、いじめられっ子のあんたのことなんか、信じられるわけないでしょ……!!」
『……大丈夫。私は、嘘なんかつかないよ。くーちゃんのこと、ほんとに大事に思ってるから』
「ならっ、死んでよ……あんたのせいで、私、わたし――!!」
『くーちゃん……』
全部、ふーちゃんのせいだ。
ふーちゃんがいなければこんなことにはならなかった。
自分の趣味と嗜好が、過去が、漏れて皆に伝わることはなかった。
そもそも大好きなお母さんを失うことも、なかった筈なのだ。
全部ふーちゃんが悪い。こいつさえいなければ。こいつとさえ、出会わなければ。
お前なんかいなければ。私は、私は……!!
「……殺して」
激情をあらかたぶち撒けて、来瑠は電話口の風花へそう言った。
泣き疲れた幼子のように所在のない、ひどく頼りない声色だった。
「もう、疲れた。むり。これ以上は、むり……」
青少年の人生には常に短慮が隣り合わせだ。
恋愛関係のもつれ、成績の不振、家庭環境の悪化に将来へのただ漠然とした不安。
様々な理由で、少年少女は容易く命を断つ。
来瑠のこれも、きっとそうだったに違いない。
高嶺来瑠は他人を傷つけるのが好きだ。
人を虐げ、踏み躙って、弄ぶのに喜びを感じる人間だ。
けれど、自分が他人からそうされることに対する耐性は極端に低い。
それはこの数日で明らかになった弱さであり、今まさに来瑠を苛む脆さであった。
来瑠は、自殺を選べるほど強くない。
首を吊る、飛び降りる、動脈を切る、どれも絶対に無理だろう。
風花の声を頼った理由は、きっとそれが直接的に死を予感させる
仮に来瑠に本当にその覚悟があったなら、此処に来る前にあった歩道橋からとっくに身を投げていたに違いない。
覚悟もないのに、一時の感情に身を任せて吐いた命を投げ出す言葉。
自分でもその薄っぺらさは自覚できていて、だからこそ来瑠はますます死にたくなった。
『……やだよ。私、くーちゃんに死んでほしくない』
「じゃあ、一緒に死んでよ。ねえ」
『生きていたいよ、私……くーちゃんと、どんな形でもいいから、友達でいたいよ。
それに――殺してとか、死にたいとか、さっきからぜんぜんくーちゃんらしくないよ。
もっとよく考えようよ、くーちゃん。私も、いっしょに頑張るから……』
「知ったようなこと、言わないでよ……!」
これからどうやって生きればいいのか、昨日の比でなく分からなくなっていた。
今までの生き方が、この先はきっと何ひとつ通用しないのだと分かった不安は来瑠という弱い少女に抱えられるものではなかった。
数秒の沈黙が流れて。
電話口から、風花の声がする。
『…………わかった。くーちゃんがそこまで言うなら、いいよ』
風花の力は本物だ。
一度ならば偶然でも、二度重なればそれは必然である。
諦めたような声色で紡がれた肯定の言葉に、来瑠の身体が固まった。
『私は、自分が好きな人のことは殺せないって前に言ったよね。
でも……最近は、しばらくやってなかったから。一回試してみるね』
「……、うん」
『スマホ、ちゃんと耳に当てといてね。声が届かなかったら、きっと駄目だと思うから』
好きな人は殺せない。
その言葉だって、最初から嘘八百だったんじゃないのか。
風花は最初から自分を破滅させるつもりで嘘をついていて、その気になればいつでも自分なんて殺せたんじゃないのか。
そんな疑念が再度頭の中に蘇ってくるのを感じながら、来瑠は固唾を呑んだ。
『くーちゃん』
どくん――どくん――どくん。
鼓動が、耳障りな音を立てている。
骨の髄にまで響くような、大きな音で脈を刻む。
もう、終わる。あと一言で、自分の人生は終わるかもしれない。
風花が自分に言ってた言葉が嘘だったなら。
もしくは、彼女の力に対する認識が間違っていたなら。
あの生徒指導教師や父がそうだったように、一瞬で命を奪われるのだろう。
そうすれば、楽になれる。もうこれ以上泣いたり苦しんだり、あるかどうかも分からない将来に不安を抱く必要もない。
そう思いながら、来瑠は端末を自分の耳へと押し当てた。
大丈夫。大丈夫。
もう。
これで――
『死』
「っ、あ……!!」
――終わる。
そう思った途端、身体は動いていた。
放り投げられたスマートフォンが建物の壁にぶつかって地面を滑る。
画面に罅が入って、最新機種のiPhoneが台無しになってしまう。
地面にぺたりとへたり込んで、はあ、はあと息を切らしているのが今の来瑠だ。
――来瑠は、自殺を選べるほど強くない。
自分が今から死ぬと分かっていて、運命に身を委ねるなんて選択が取れるわけはなかったのだ。
数秒、茫然自失としていたが。やがて自分の行動の意味を理解すると、来瑠はまだ日も落ちていない時間だというのに声をあげて泣き始めた。
「ぅ……ぅううう、ああああああああ……!!」
死にたい。
死にたくない。
時が経つごとに自分のことが嫌いになっていく。
なのにどうしても生きていたくて、死ぬのは怖くて。
その矛盾がまた、ただ強くあり続けることだけしてきた少女の心を絞め上げていた。
「やだ……もう、やだ……っ、助けて……」
もう、嫌だ。
生きていたくない。
こんな姿を、誰にも見せたくない。
そう思いながら髪を掻き毟る来瑠の耳朶を小さな音が叩いた。
びくっ、と身体が反応する。
投げ出されたスマートフォンから微かに、風花の声が響いていた。
聞いていいのか。聞くべきじゃない。聞いたら、死んでしまうかもしれない。
でも聞かなければどうしようもない。この路地裏でずっと停滞し続けるだけだ。
恐る恐る端末を手に取って、震える手で耳に押し当てる。
『くーちゃん、あのね』
口からは喘鳴のような音しか出てこない。
いつもの強がりをかます余裕さえなかった。
そんな来瑠に向けて、風花は言う。
ひどく穏やかな、まさに泣く子を宥めるような声だった。
『今から、あの公園……来れる?』
「……いって、どうするの」
『ちょっと分かりにくい場所にあるから、どうせなら私が案内してあげた方がいいかなって』
「なんのこと。話、全然見えないんだけど」
ぐしゅ、ぐす、と鼻を啜りながらなんとか答える。
これだけでも精一杯な自分が、恥ずかしくて憎らしくて仕方ない。
『くーちゃん。私のうち、来ない?』
「だから――」
『くーちゃんのこと、隠してあげる。
学校からもお母さんからも、他の何からも』
何のために、と聞こうとした矢先。
風花の言った台詞に、来瑠は耳を疑った。
隠す。隠す、と言ったのか。つまりそれは――
「……家出しろ、ってこと?」
『うん。何があったのかは聞かないけど……くーちゃん、もう学校行きたくないんでしょ』
「行きたくないって、いうか……もうむり、行けない……」
『じゃあ行かなくていいよ、そんなところ』
「でも、無理でしょ……家出なんて」
『どうして?』
「だって、親とか――それこそ、学校とか」
『ごめんね。今からひどいこと言うけど、怒らないでね』
学校にはもう行けない。
かと言って家は針のむしろだ。
外を徘徊していたら補導されるかもしれない。
来瑠はいわゆる不良生徒ではなかったので、昼間に高校生がうろついていると捕まるのかどうかも分からない。
そんな来瑠に、風花の提案する"家出"の話はひどく荒唐無稽に聞こえたが。
続く風花の言葉に、彼女は今度こそ押し黙るしかなかった。
『くーちゃんのお母さん、学校から電話来ても出られないんじゃない?』
誰のせいで、とは、流石に言えなかった。
それを口にした時、風花がなんと答えるかが怖かった。
昨日みたいにただ謝ってくれるか、それとも。
その"それとも"が、今の来瑠には怖くて怖くて仕方なかったから。
それに――実際、彼女の言葉には説得力があって。
『学校からの電話に出られなくて、警察に通報することもしそうにないなら』
「……、……」
『くーちゃんは今、怖いもの全部から逃げ出せるんじゃないかな』
「…………そんなの。ふーちゃんの家だって、困るでしょ」
『それは大丈夫。うち、おじいちゃんしかいないから。
母の容態は来瑠が一番よく知っている。
塞ぎ込んで、父の喪失という事実を日がな一日噛み締め続けるばかりの有様。
あの状態では確かに、かかってきた電話を取ることも、来客に対応することもできないだろう。
ましてや。
最悪の形で決裂した娘が家に帰ってこないなんて下らないことでいちいち大騒ぎするとも確かに思えない。
基本、未成年の家出が成功する確率は低い。
けれど。家出する側の家族と受け入れる側の家族がどちらも機能不全に陥っていて、まともな対応ができないのなら。
学校は連絡もなしにいつまでも登校してこない生徒のことを、ただの不登校として処理するしかないのではないか。
来瑠は、ぎゅっと唇を噛んだ。
それは根本的な解決には程遠い、単なる"逃げ"でしかないと分かっていたが。
だとしても――今の来瑠にとって風花の提案は、見果てぬ闇の中に射し込んだ一筋の光に他ならなかった。
『くーちゃんが嫌だっていうなら、無理にとは言わないけど……どうかな』
風花への疑念はまだ残っている。
あの写真はどこから漏れたのか。
風花が送ったと考えるのが一番自然なのは確かなのだ。
だとしたらこの家出の話だって、自分を陥れて笑い者にするための罠なのでは。
思考は堂々巡りを繰り返し、猜疑心は膨れ上がって止まらないけれど。
「……いく……」
結局。
疑わしくても、今の来瑠が縋れる人間は一人しかいないのだ。
「行く、から……たすけて、ふーちゃん……」
『うん。分かったよ、くーちゃん』
落日の時が、遂に来た。
常に燦然と輝き、咲き誇りながら他人を傷つけてきた少女は新たな光の下から逃げ出して。
そして――
『連れ去ってあげる』
神隠しに、遭った。
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