『友達』
来瑠は次の日、学校を休んだ。
朝起きたら母はもう居間にはいなかった。
寝室の鍵が閉まっていたので、どうやら部屋で寝ているらしい。
ぶち撒けられた食器と、相変わらず放置されたままの朝食を片付けている時、もう涙は出なかった。
今日は、無理だ。今の私じゃ、高嶺来瑠を貫くのに必要な仮面を被れない。
女の園で弱みを見せるほど致命的なことはないと、来瑠はそう知っている。
だからこそ学校へと電話を入れ、努めて気丈を装いながら、体調が悪いから欠席すると伝えて外を見た。
嫌味なほど晴れ晴れとした青空を見つめて、唇を噛む。
どうしよう。これから、どうやって生きていこう。
大好きな母を壊してしまった。
自分の、唯一の家族を狂わせてしまった。
来瑠は何もかも見誤っていたのだ。
母・景子にとって、父・龍櫻の存在は病でも呪いでもなかった。
第三者からどう見えていたとしても、母にとってあの抑圧と理不尽の日々は幸せだった。
むしろ、母を蝕んでいた病巣は。
長年に渡りあの人の心と身体を蝕み苛み、遂には大切なものまで奪ってしまった呪いは――
「さい、あく……」
そんな答えを直視した途端、来瑠はその場に膝から崩れ落ちた。
込み上げる吐き気と、心臓を素手で握られているような息苦しさ。
ぜひゅ、かひゅ、と優雅さとは無縁の不格好な呼吸をし、なんとか身体に酸素を取り入れる。
自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだと、来瑠はようやく理解していた。
来瑠にとって父は邪魔者だった。
自分を抑圧し、恐怖させ、縛り付ける障害物だった。
けれど、そんな父の存在があってこそ来瑠の日常はうまく回っていたのだと昨日知った。
どれほど錆びて耳障りな音を立てる歯車でも、考えなしに取り除いたらその機械全体の動きに支障が生じる。
来瑠がやってしまったのはそれだ。
そして、もう取り返しはつかない。
ドミノは倒れ、積み木の塔は崩れ、果実には歯型がついてしまった。
どれほど嘆き悔やんでも、父は戻ってこない。
彼の骨を握り潰して下水へ流した来瑠が一番よく知っている。
しょうがないじゃん。
こんなことになるなんて、知らなかったもん。
あいつが死んだらお母さんが壊れちゃうなんて。
お母さんが、私のこと、あんな風に思ってたなんて。
私はあいつの添え物でしかなかったなんて、知らなかったんだもん。
「……死ねよ」
窓際に置かれた、化粧用の鏡。
結婚祝いに貰ったものだというそれに写った自分の顔に、来瑠はそう吐き捨てた。
全部お前のせいだ。全部、お前のせいじゃないか。高嶺来瑠、お前の。
鏡を持ち上げたところで、母がこの鏡をいたく気に入っていたことを思い出す。
振り上げた手をゆっくりと下ろして、鏡を元あった場所にそっと置いた。
あんなことがあってもまだ、来瑠は母のことが好きだった。
あんなことを言われてもまだ、母に嫌われたくないという思いがあった。
あんなことをしたのに。
「死ねよ、ほんと……」
蹲って、髪の毛をかき乱す。
本当に死んでしまおうか。
そうしたら、何もかも楽になるかもしれない。
自分を罵る母の目が瞼の裏側に焼きついたまま離れない。
まるで汚物でも見るような、あの目が。
これまで来瑠は、父が自分に対して向ける冷たい目ほど恐ろしいものはないと思っていた。
でも、それは違った。
好きの反対は無関心だなんて言葉は嘘っぱちだ。
好きの反対は、やっぱり"嫌い"で。
人が人を嫌い憎んで向ける目は、他の何とも比べ物にならないほど恐ろしかった。
お母さんを叩いちゃった。
優しいお母さん。大好きなお母さん。
いつだって私の味方でいてくれたお母さんを、殴った。蹴った。
死ね。死ね。お前なんか死んでしまえ。自分を罰する声がずっと脳内で反響している。
父親のことを言えた義理か。あいつは、一度だって手をあげることはしなかったのに。
お前はそのラインを、たったの数日で踏み越えたんだ。
死ね、死ね。恥知らず。矛盾の塊。呪いはどちらだ。病巣は、誰だ。
――ぷるるる、るるる。
負の螺旋構造で繰り返す思考を断ち切ってくれたのは、スマートフォンの着信音だった。
藁にもすがる思いで画面を見れば、そこには『ふーちゃん』の文字。
ふーちゃん。火箱風花。人を殺す声を持つ、少女。
高嶺来瑠が親殺しのために使った、凶器。
「……なに」
出ない選択肢はなかった。
今はとにかく、誰でもいいから人の声が聞きたかった。
そうでもしないと本当に、息ができなくて死んでしまいそうだったから。
けれどそんな心情はおくびにも出さず、努めて無愛想な声色で電話に出る。
『あ……くーちゃん、朝からごめんね。その――大丈夫かなって思って』
「……昨日のは忘れて。あんたに心配されるようなことでもないし」
『そ、そうだよね。私なんかに心配されても困るよね』
「うん。……まあ、明日はちゃんと学校行くから。切るよ」
やだ。切りたくない。
切らないで、引き止めて。
まだ一人になりたくない。
一人になったら現実に戻されてしまう。
やだ、やだやだやだやだ――
『まって。くーちゃん、今日学校休むの?』
「……そうだけど。悪い?」
『……風邪、じゃないよね』
「なんであんたにいちいち言わないといけないの」
端末を握る手はじっとりと汗ばんでいた。
昔、汗っかきの子を標的にしてたことがあったっけ。と思い出した。
何の余裕もなくて、強がれば強がるだけ滑稽に見えてしまうような状態の自分。
その姿を、いつもの自分が見たならどう思うだろう。そこから先は、考えたくなかった。
『いつかの公園、覚えてる?』
「何が言いたいわけ」
『そこで、二人で会おうよ。私も、今日は学校休むから』
「……なんで」
『くーちゃん、声すごいよ。……ほっとけないよ、友達だもん』
友達。
そんなもの、来瑠にはいない。
生活を円滑に進めるために作った上辺だけの交友関係と、強い自分の威光に与りたい金魚の糞ばかりだ。
火箱風花は友達ではない。と、思う。
それでも、自分をそう呼ぶ彼女の声は来瑠の渇き荒れきった心にとてもよく沁みた。
それだけは、確かだった。
◆◆
自然公園。
そこは、まだ来瑠と風花がちゃんと"友達"らしく付き合っていた頃、よく待ち合わせ場所に使っていた場所だ。
来瑠の家からは近く、風花の家からはそこそこ遠い。
これはもちろん、いずれ標的に変えることありきで付き合っていたからこその不平等。意図して仕込んだ優劣だった。
標的に取り入るために時間をかけて信頼を得る時は、仲良くする一方で上下関係を刻み込んでおくと後々面倒がないことを来瑠は知っていた。
もっとも。そんな下心を抱きながら風花と友達関係を演じていた頃の来瑠は、よもやこんなことになるだなんて微塵も思っていなかったろうが。
「くーちゃん」
「……人のこと呼んどいて、遅い」
「えへへ、ごめんね。此処、うちからちょっと遠いから」
公園の真ん中に置かれたベンチ。
そこに座って待っていた来瑠のもとに、風花はとてとてと駆けてきた。
小学生みたいだなと思った。風花はかわいいけれど、いわゆる垢抜けたタイプではない。
幼い、純粋なかわいさだ。だから所作や言動の一つ一つを見て取ると、実年齢よりもだいぶ幼く見える。
「隣、いい?」
「今日だけね」
「やった」
玩具なんだから立っててよとか、這い蹲って聞きなさいとか、普段の来瑠なら言っていたかもしれない。
だけど今はそんな気分ではなかった。
今の来瑠が欲しいのは、少なくとも虐げたり惨めな有様にして遊びたい相手ではない。
だから隣に座るのを許す。小さなベンチの上に並んで座る二人の肩は、ごく自然に触れ合っていた。
"友達"の建前をやめて本性を現し、彼女を"標的"に貶めてからは、二人で過ごす時間は全てが虐待のためのそれに変わった。
そのため、こうして二人で待ち合わせして加虐抜きに時間を過ごすのはずいぶんと久方ぶりだ。
朝の風が気持ちいい。照らす日差しも、もう晩秋だからかそう暑苦しくは感じない。
来瑠は風花より背が高いが、その差はほんの2センチ程度。こうして並ぶと、然程そこに差はないように見えた。
来瑠も、そして風花もしばらくこの静寂を守り続けた。
こいつ、人を呼び出しといてなにだんまり決め込んでるんだ――不思議とそうは思わなかった。
「お父さん、殺さなきゃよかった」
やがてそれを破ったのは、来瑠の方。
口をついて出た言葉は、自分でも信じられないくらいに情けないものだった。
あんなに殺すことの正当性を確信していたのに。
あいつさえ殺せば全部うまくいくんだと、声高にそう言い聞かせていたのに。
父との永訣にああもはしゃぎ回って、我が世の春が来たとばかりの上機嫌に浸っていたのに――。
今じゃ目元にべっとりと隈を貼り付けて、腫らして、泣きすぎて掠れた声で後悔を吐露している。
ましてやその相手は、今までゴミのように扱い虐げてきた"玩具"だ。
玩具を相手にあんなことしなきゃよかったと泣き言を漏らす姿は、とてもではないが来瑠が自認する強者のそれではなかった。
「うまく、いかなかったの?」
「……お母さん、壊れちゃった」
自分は、両親のことを何も知らない。
知ったようになっていただけだ。昨日はそのことを嫌というほど思い知らされた。
父の存在は、母にとって本当に呪いだったのかもしれない。
だけど、呪いを解こうとするのならもっと段階を踏むべきだった。
父を排除してそれでお終いだなんて、そんな考えなしの手に訴えるべきではなかったのだと今なら分かる。
父が呪いだったのか、母にとって真に愛する幸福の象徴だったのか、それすら今の来瑠には確かめるすべがなかった。
だって、父は死んでしまったから。
母は、来瑠が壊してしまったから。
「お母さん、私に……お前が死ねばよかったのに、って。
それで、それで、私――お母さんのこと、椅子で……っ」
あの時殺してしまえたら。
感情のままにあと一歩を踏み出せていたなら。
もっと、楽だったのかもしれない。でも来瑠にそれはできなかった。
あんなことを言われても、あんなになってしまっても、来瑠はまだ母が好きだったから。
「ねえ、ふーちゃんさ……死んだ人間を生き返らせることはできないの?」
無理だろうな、と来瑠自身分かって聞いている。
店員に無茶苦茶な要求をするクレーマーみたいなものだ。
できないと分かってはいても、自分の中の気持ちをそこに収めておけないから無軌道に吐き散らかす、それだけの言葉。
「ふーちゃんのせいじゃん、こうなったの。
責任取ってよ、戻してよ……私の日常、帰してよ」
命じたのは来瑠だ。求めたのも来瑠だ。
最後の引き金を引いたのも、来瑠だ。
今、彼女が言っているのは包丁を使って人を刺したら死んでしまった。だから責任を取れと言っているのと同じ。
筋などまるで通っていない、幼稚で考えなしの要求。
ほとんど、幼子のこねる駄々と変わらない。
「人殺し。化け物。悪魔じゃん、ふーちゃん。
こうなるって分かってて、私に遠回しに復讐するつもりで言うこと聞いてたの?
こいつが全部失うところ見ててやろうって、心の中で笑ってたんでしょ」
何を言ってるんだ、私は。
人を虐げ、振り回すのが好きな来瑠だが、それでも今ばかりは自分の情けなさにほとほと呆れ返った。
「あんたのせいで、私の人生めちゃくちゃだよ」
全部風花が悪い。 / そんなわけない。
こいつのせいで、全部めちゃくちゃになってしまった。 / それを求めたのは私だ。
こいつは悪魔だ。 / 違う。ふーちゃんは道具でしかない。
風花は人殺しだ。 / 本当に人殺しなのは――
「……ごめんね」
稚拙極まりない責任転嫁に、しかし風花は抗おうとしなかった。
ただ申し訳なさそうに目を伏せて、きゅっと唇を噛み締めている。
罪を認めるという格好の殴る理由ができたにも関わらず、来瑠の心は余計虚しくなった。
「謝んないでよ」
いっそ。いっそ、ふざけるなと口汚く罵ってくれた方がまだ良かったかもしれない。
自分は今、哀れまれ、慮られていると。
自分はもう、こいつの前ですら"強いもの"ではないのだと。嫌でも、そう理解させられてしまうから。
「くーちゃんの願いごと、叶えてあげたかったの」
「は、っ。なに、それ。また"友達だから"?」
「うん。それに……あの時のくーちゃん、今にも泣き出しそうな顔してたから」
「そんなこと、ない。馬鹿にしないでよ、私の玩具のくせに……」
女王様を気取って、奴隷との立場の違いをあからさまに見せつけるポーズを取って。
そうまでしても、結局来瑠の地金は彼女に対し従順を通り越して盲目的なところのある風花にさえ見透かされてしまっていた。
ただただ父親が怖くて、何をしても冷たく見つめられ品評される息苦しい人生が嫌で。
藁に縋りつくように懇願したその顔は、何ひとつとして取り繕えていなかったらしい。
「私ね。友達ができたの、くーちゃんが初めてだったんだ」
世迷い言だ。自分と風花は友達などではない。
そう思っているのに、今その言葉を遮る気にはなれなかった。
火箱風花は今も変わらず、高嶺来瑠にとって縋りたい"藁"だからか。
「一人で歩いてる私に声かけてくれたよね。一緒に帰ろうって」
「……そうだっけ。もう、覚えてないよ」
「私は覚えてるよ。私ね、すっごく嬉しかったんだ」
嘘だ。本当は覚えている。
一週間かけて品定めをしてから、満を持してクラスで一番かわいい風花に声をかけたのだ。
そんな経緯があるのだから始まりの日を忘れる筈などない。
夕暮れの帰り道。とぼとぼ歩く背中に後ろから声をかけて、言った。
『今日、私一人なんだ――だからさ、いっしょに帰らない?』。
過去の自分の言葉が、やけに鮮明に脳裏に再生される。
「いろんなこと、教えてもらったよね」
「普通に遊んでただけでしょ」
「私、煙草なんて吸ったことなかったし、お酒も飲んだことなかったよ」
「……嬉しそうに話すのおかしいでしょ。ていうかあんなの、あんたをいじめるための品定めでしかなかったし。
私に吐くまでウイスキー飲まされたり、お腹に根性焼きされたりしたの……もう忘れたの?」
「覚えてるよ。くーちゃんとしたこと、くーちゃんにされたこと……全部、ちゃんと覚えてる」
そう言って、風花は自分のお腹に両手をそっと当てた。
まるで、妊婦が肚の中のわが子を慈しむようなしぐさであった。
たぶんそこには、昔来瑠が押し付けた煙草の痕があるのだろう。
「くーちゃんは私を見てくれた。
私の手を引いて、連れ出してくれた。
だから何をされたって、何を言われたって、私だけはくーちゃんの味方でいたい」
「は――馬鹿みたい。あんた、何。私のことそんなに好きなの」
そんなことをした覚えはない。
少なくとも来瑠の方には。
来瑠が風花にしてやったのは全て打算ありきの施しで、いじめの始まりをもってかの日々は裏切り終えたものだと考えている。
他の誰が見ても/聞いても、同じ感想を抱くだろう。
例外なのは風花だけだ。風花は、憔悴した顔でやけっぱち気味に揶揄する来瑠へたおやかに笑った。
「うん。好きだよ」
「……っ」
「くーちゃんのことが好き。くーちゃんの全部が、好き。
だから助けてあげたいって思うし、くーちゃんが願うことなら全部叶えてあげたいって思ってた」
でも、と。
風花は、申し訳なさそうに目を伏せる。
彼女だけは、来瑠の転落を自業自得だと罵りも嘲笑いもしない。
「ごめんなさい。くーちゃんの大事なものを、壊してしまって」
生まれて初めての感覚だった。
理不尽な怒り、爆発寸前の感情が膨れ上がってはその端から萎んでいく。
言葉が喉から上に出てこない。吐き出そうとしている筈なのに、音にならずに消えてゆく。
目の前に、全ての責任は自分にあるのだと認めている格好のサンドバッグがあるにも関わらず、彼女に何もぶつけることができない。
「誰かを不幸にするしかできない私の声で、大好きなくーちゃんを少しでも助けたかったんだけど。
結局くーちゃんのこと、すごく傷つけちゃった。だからね、私のこと……好きにしていいよ」
本人がこう言うのだから好きにしてやればいい。
殴り倒して、蹴り抜いて、顔を踏み抜いて歯をへし折ってしまえ。
こいつは骨の髄まで私の玩具で、今までの標的達と比べ物にならないほど従順だから何をしたって問題はない。
膨れ上がる暴力衝動が、風船のように来瑠の精神を圧迫していく。
そして遂に来瑠は、その手を――隣に座る人形へと伸ばし、そして。
「え」
殴るでも、叩くでもなく、ただ抱き着いていた。
あの日、父を殺した後にそうしたように。
細身の身体に腕を回して、彼女の柔らかな肌に顔を埋める。
哀れな姿だという自覚はあったが、自分では止められなかった。
「そこにいて」
「……くーちゃん?」
「友達なんでしょ。だったら、そこにいて。じっとしてて。私が飽きるまで、ずっとそこにいて」
来瑠には友達がいない。
友達と呼んでいるのは自分を高めるための付属品ばかりだ。
来瑠には、弱さを委ねられる相手がいない。
風花しか、いない。
「ひとりに、しないで……」
「……うん。ずっといるから」
風花は友達ではないと、やっぱりそう思う。
殴って蹴って、刺して弄ぶ関係の友達なんて聞いたことがない。
友達のいない来瑠にもそれは分かる。
では、この関係性にはなんという名前をあてがうべきなのだろう。
分からない。分からない。何も――。
小さな身体とその熱を抱き留めながら、来瑠はただじっとしていた。
だから、少女は気付かない。
自分の背を優しく擦り、慰めてくれる玩具の少女。
その瞳に浮かぶ光が、艷やかな熱を仄かに纏い始めていることに。
◆◆
かわいい。
なあ。
◆◆
――ちがうの。
――4組の人から、急に動画送られてきて。
――見たら高嶺さんが、倒れたお父さんの前で誰かに抱きついてすごい喜んでて……
――知らない、話したこともない人だよ。
――最近転校してきた子、らしいけど。詳しくは知らない。
昨日。来瑠について何やら妙な噂話をしていた連中を問い詰めた結果、小椋結菜が聞き出せた内容はざっとこの通りだ。
後は自分達は高嶺さんや小椋さんに楯突こうってわけじゃない、という旨の弁解をするばかりで、所詮カースト中位の味噌っかす共だなと改めてそう思わせてくれるのみであった。
実際に動画を自分のSNSアカウントへ転送してもらい、結菜も実際に確認したが――成程、確かに彼女達の証言通りの内容が記録されていた。
『やった、やった……! 大好き、ありがとうっ、XXXXX!!』
『あはっ、あはははははっ、あはははははははははっ……!!!』
これでもか、というほどに笑いながら、喜びながら。
自分と同じ背丈くらいの――恐らくは少女だろう――人影に飛びつく来瑠の姿。
彼女と長いこと一緒に過ごしてきた結菜には分かる。あれはほぼほぼ間違いなく、来瑠本人だ。
最初は悪質なコラージュではないかと思いながらの視聴だったが、あのレベルでの映像加工ができるならば動画の製作者は映画監督にでもなった方がいい。
そうでなくとも、報道やら探偵やら、ありとあらゆる職業で引っ張りだこの人材になれるだろう。
(でも、わっかんないんだよなー……)
映像の趣旨は理解できた。
あそこにあるのは、確実に高嶺来瑠という人間に対する悪意だ。
異常な映像を広めて来瑠を失墜させたい、そうでなければあんな映像をわざわざ隠し撮りして人に広めたりはすまい。
ただ、である。結菜が訝しんでいるのは、来瑠と一緒に写っている……来瑠が喜びのままに飛びついている、もうひとりの少女の方。
来瑠の場合、顔も声も一切隠されていないのに対して。
この"もうひとり"は、徹底してその素性を隠されており。
顔のモザイク処理はもちろん、声もいわゆるピー音で上書きされている。
来瑠が彼女を呼称したのだろう部分にも、同様の処理が行われていた。
他人をジャーナリスト気取りの隠し撮り動画で破滅させようとする人間にしては、ずいぶんと標的以外の人権への配慮が行き届いている。
(攻撃対象はあくまで来瑠だけだから、恨みのない他人を巻き込むのは気が引ける……って感じかね。
ただなー。来瑠の台詞もなんだか不自然なんだよね――"ありがとう"って何?
嫌いな親が死んで喜ぶのはまあ家庭の事情なんて人それぞれだしで片付けれるけど、他人に礼を言うようなことってある?)
来瑠は、他人に頼んで殺し屋まがいの真似をして貰ったのだろうか。
いや、しかしそれなら警察がすぐにでも動くはずだ。
一介の高校生ができる殺害方法で、優秀な日本の警察を欺ける代物などそうそうあるとは思えない。
では、いったい。
何に対して、"ありがとう"なのか?
(――今日、来瑠が休んでることとも……ひょっとして、何か関係あったり?)
結菜は笑みを浮かべながら、廊下を歩いていく。
彼女は自他共に認める、高嶺来瑠の金魚の糞だ。
だが自我がないわけではない。
その顔に浮かんだ笑みは間違いなく、古くより猫をも殺すと謳われるとある感情に起因するものだった。即ち、好奇心だ。
「ま。何にせよ、
来瑠の横にいるのは楽しかった。
だけど、あのままでは自分はいつまでも金魚の糞だ。
そこに青天の霹靂のように舞い込んだ、件の動画。
あれは恐らく、じきに広がるだろう。
そうなればさしもの来瑠も、何かしらの形で対応を余儀なくされる筈だ。
しらを切るなり、開き直って毒親に虐げられてきた被害者を演じるなり。
今、小椋結菜は嵐の前夜にいる。
静かな、混沌の前触れをひとり駆けている。
じきに訪れるだろう混乱の嵐を、ただひとり乗りこなせる可能性を今の彼女は秘めていた。
「――小椋結菜さん、ですね?」
後ろから呼び止められて、足を止める。
振り向くとそこには、見たことのない少女が立っていた。
腰口まであろうかという長髪に、清楚そうな整った顔立ち。
「そうだけど」と結菜が答えると、彼女はくすりと笑みを浮かべて続ける。
「わたしを捜していると聞いたもので、こちらから会いに伺いました」
「――へえ、じゃあ……あんたがあの動画の?」
「はい。わけを話すと長くなるのですが、わたしが撮影者であり拡散者、という認識で構いませんよ」
いやに丁寧な喋り方をする奴だ。
それが、結菜から彼女への第一印象。
箱入りのお嬢様とか、小説の中に出てくる女探偵とか。
そんな印象を結菜はこの"撮影者"に対して抱いた。
「私、一応あの子の親友ってことで通させて貰ってるんだよね。これからの会話は、それを念頭に置いて進めてほしいんだけど」
「ええ、知ってますよ。あなたのことも、もちろんよーく知ってます」
「……転校生だって聞いてたけど。探偵ごっこにずいぶんお熱みたいじゃん」
「ふふ。そちらこそ、よく調べてますね」
さあ、吉と出るか凶と出るか。
鬼が出るか蛇が出るか。
内心の高揚を努めて隠しながら己と相対する結菜に、少女はぺこりと一礼して。
「申し遅れました。わたし、1年4組在籍の
名乗り、顔をあげた。
綺麗な瞳をしている、そう思った。
外国の血でも混ざっているのだろうか、日本人とは違う独特の深みがある気がする。
そんな感想を抱きつつ、さてどう口を開くべきかと逡巡する結菜をよそに、少女――詩述は。
「わたしに協力してみませんか、小椋さん」
「話聞いてた? 私は来瑠の――」
「知ってますよ。高嶺来瑠の添え物、機嫌を取りながら意向に従う腹心。
なんて言えば聞こえはいいですけど、要するにやってることは金魚の糞ですよね」
「……ずいぶんはっきり言ってくれるじゃん」
つらつらと、結菜の真実を並べ立てた。
反論の余地などあるわけもない。
それは、ごく端的に小椋結菜という女の真実を暴く言葉の羅列であった。
右腕、腹心。けれど真実は添え物、金魚の糞、端役。
来瑠がいなければ何もできない、天下は取れない日陰の存在。
口元を引き攣らせた結菜に、詩述は機嫌を損ねたかもと焦るでもなく。
「わたしは、政治家の派閥争いに憧れたみたいなスクールカーストゲームに興味はありません。
ただ、それをうまく乗りこなす手段は知ってる。
ねえ、結菜さん。どうやったって主役にはなれないあなた。
わたしの手を取って――」
ただ、笑って。
正真正銘、悪魔の契約を持ちかけた。
「わたしの友達を助ける、正義のヒーローになってみませんか?」
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