go down the rabbit hole

 こんなに清々しい日々は生まれて初めてかもしれない。

 来瑠は、父である高嶺龍櫻が死んで葬儀が終わるまでの日々をそう振り返る。


 龍櫻は病院へ搬送された時には既に事切れていた。死因は静脈瘤の破裂だったそうだ。

 医者は泣き暮れる母に何か難しげな説明をしていたが、来瑠としてはどうでもよかった。

 あれほど巨大な存在感をもって高嶺家に君臨し続けていた冷血漢が、今はもう青ざめてぴくりとも動かない。

 その光景は来瑠にとってあまりに痛快で爽快で、内心の上機嫌を隠すのが大変だった。


 父の葬儀には、それはそれは多くの人間がやって来た。

 一応は家族としてあれこれ手伝いもしなければならなかったのでそこだけは大変だったが、憎い父ともこれが終われば完全におさらばできるのだと考えるとその煩わしさすら快感に思えた。

 誰もが顔を合わせるや否や、生前の父の仕事ぶりや功績を説法でもするみたいに言い聞かせてくる。

 何か困ったことがあったら頼ってくれ、と名刺を渡してくる人間まで複数人いたのには流石に驚いたが、これは来瑠に言わせれば棚から牡丹餅。

 将来の面倒な就活を上手くパスしつつ人生を勝ち組街道に乗せられるかもしれない、降って湧いた幸運だった。

 消沈しながらも気丈に振る舞ういじらしい姿を演じながら内心でほくそ笑む来瑠の高揚感は、間違いなく人生で一番のものと言ってよかった。


 焼香の時にも心の中で中指を立て、今までの恨み言をさんざんぶち撒けた。

 火葬が終われば、バレないように父の遺骨の一部を手の中に握り込んで粉々に砕いてもやった。

 生前はどれだけ腹が立っても何もできなかった、やり返せなかった相手。だがそれも、死んでしまえばただの弱者でしかない。

 砕いた骨は火葬場のトイレに流してやった。負い目はない。ただただ、ざまあみろという気持ちだけがあった。


 なんて幸せなんだろう。

 世界がこんなにも自由で清らかなものだとは知らなかった。

 母はまだ夫を亡くしたショックから立ち直れない様子で、口数も少なく俯いて過ごす姿が目立ったが、それも今だけだろうと来瑠は思っている。

 何せ母は、長年の酷使とロジハラですっかり父に洗脳されてしまっていたのだ。

 すぐには身体に染みついた価値観は抜けないだろうし、こればかりは母には悪いが頑張って乗り越えてもらうしかない。

 自分も、母が悪夢のような支配が終わった新しい現実を受け入れて第二の人生へ歩み出せるよう精いっぱい支えよう。

 自分達家族の幸福は、此処から始まるんだ。



「本当に大変だったよ。うちのお父さん、仕事柄いろんな方面に顔広かったから。葬儀に来る人もめちゃくちゃ多くてさ」

「来瑠のお父さん、インテリっぽい感じだったもんね。前に見せてくれた写真でしか見たことないけど」

「うん、まあね。でも正直言うとさ、ちょっとだけ肩が軽くなった感じ。

 すっごい教育に厳しい人だったから、これでようやく自由になれるんだ……って気持ちも、やっぱりちょっとあるよ」


 浮かれてるな、と自分でもそう思った。

 来瑠は、内と外、内心と建前の区別をつけることを心がけて生きている。

 そうでなければ嗜虐でしか欲望を満たせないサイコパスの一丁上がりだと、自分でもそう分かっているからだ。

 本性を出すのは標的の前でだけ。今で言えば、火箱風花の前でだけ。

 それ以外の時は、皆の中心で明るく優秀な"高嶺来瑠"。

 だけど来瑠も人間だ。たまには、その日の気分で口を滑らせる時もあった。


「それ前から言ってたよね。なんだっけ、家族旅行って連れ出した先がお得意様の結婚式だった話。他人事ながら正直引いたもん」

「あはは。そんなこともあったなー」

 

 この小椋結菜というクラスメイトのことを、来瑠は自分の金魚の糞だとしか思っていない。

 表向きは一番付き合いの長い友達だが、特別親しい友人を一人持っておいたら何かと便利だろうと考えて調達しただけの相手だ。

 それでも、いつもつるんでいるからだろう。

 先に述べた、来瑠が口を滑らせる時の会話相手は大体がこの結菜であった。


「けどまあ、やっぱり悲しいは悲しいよ。家族だからね」

「そりゃそうでしょ。いくら嫌いな人でも、死んじゃうのは話違うもんだよ」

「生きてる内にもっと仲良くできたらよかったんだけどね……あ、でもさ。

 ちょっと不謹慎だけど、これからはうちで遊んだりとかも全然いけるかも」

「え、マジ? うわ、それはちょっと楽しみかも。来瑠には悪いけど」

「お父さん、そもそも私が友達と遊ぶこと自体嫌うようなタイプだったからね。お母さんは全然そんなことないから」


 別に家に呼びたいような相手でもないのに、ついついこんな台詞が出てしまう。

 本当は父を亡くして傷心な風を装い、同情心を買う振る舞いをするのが正解なのだろうが、いざ口を開くとどうにも浮かれが隠せない。

 普段なら自分の迂闊さに苛立ちすらする場面だが、今の来瑠はとにかく何もかもが楽しくて仕方なかった。

 祝宴代わりに、結菜を本当に家に呼んでだらだら過ごすのも悪くないかもしれない。

 友人を家に呼ぶのを禁止されていたのは本当だし、それもそれで父のいない新たな日常を味わう一手段になるだろう。

 そこまで考えて――、ふと風花の席の方を見た。


(あ、……そっか。ふーちゃんでもいいな)


 どうせ呼ぶなら、もっとそそる相手を呼んだ方がいい。

 標的である風花はまさに適役ではないか。

 部屋に招いて、そこでじっくりいじめてやるのも悪くない。

 母もそのうち立ち直るだろうし、そしたら早速招いてやろう。

 控えめに、だけど満更でもなそうに喜ぶ姿が目に浮かぶ。想像して、思わず来瑠は「ふふっ」と笑った。


「何見てんの。あ、火箱? 喪中明け早々にさっそくですか、あんたも酷いねぇ」

「人聞き悪いこと言わないでよー。流石にまだ、そういう気分じゃないって」

「なんだ、そうなの? そろそろ来瑠が躾けてあげないと、あいつ自分は標的から外れたって調子乗っちゃうかもよ?」

「それも面白いかもよ。天狗の鼻ぽきり、みたいな」


 もちろん、風花に対するいじめを止めるつもりはない。

 風花は今でも変わらず、来瑠にとって格好の標的であり玩具だ。

 今後もあの手この手で責め抜いて、虐め倒してやろうと決めている。

 ただ今はクラスの連中モブ達を使ってそうするよりも、手ずから虐げたい気持ちが強かったけれど。


「あ。昼休み終わる前にちょっとトイレ行ってくるね」

「うい。行ってら~」


 教室を出ていく来瑠の姿を見送る、結菜。



「はあ」


 それから彼女は机に手を突くと、そこに顎を載せて溜息をついた。

 結菜はもちろん、自分が来瑠に内心で金魚の糞呼ばわりされていることなど知る由もない。

 だが、彼女自身その自覚はあった。

 高嶺来瑠という眩しい主役のそばにいれば何かといい思いができるし、自然と自分のカーストも上がる。

 そんな魂胆があって来瑠と付き合い続けていることは否定できない。


 そして結菜は、そんな今の日常に満足していた。


 来瑠と一緒にいると退屈しないし、趣味も話も合う。

 加えて、来瑠が始めた火箱風花へのいじめ。

 結菜はそれが一番好きだった。

 今までは先生方の説教や道徳の授業、少女漫画の中なんかでしか知らなかった人間の尊厳を踏み躙る嗜虐。

 風花という標的に対して行われる陰湿な仕打ちの数々は、少なからず平坦な青春に辟易している節のあった彼女に無二の刺激を与えてくれた。


(今日もやんないのかあ。今まではほとんど毎日欠かさずやってたのになー)


 思えば、来瑠の父親が死んだ当日も風花へのいじめは行われなかった。

 理由を聞いても何やら歯切れが悪かったし、もしかすると父の異変をあの時既に来瑠は感じ取っていたのかもしれない。

 その推測は間違っているのだったが、結菜にしてみればその辺りはどうでもよかった。

 彼女にとって重要なのは、来瑠が先導しないといじめという良質な娯楽にありつけない。ただその一点だから。


(私がやるのも何か違うしなー。私なんてしょせん来瑠の添え物だし。

 添え物が主役がいないからってイキり散らしてる構図とか、想像しただけでクソダサいし)


 暇だなあと、そう思った。

 来瑠がいない間ずっとそうだった。

 今日こそはと思っていたけれど、どうやら愉しい時間はまだまだお預けらしい。

 

「あーあ、なんか面白いことでもないもんかね」


 知らず呟きながら、五時間目の授業の準備をする。

 昼食後で血糖値が上がっているのか、やけに眠い。

 ちょうど次の授業は生徒に物を言えないちょろい教師だ。

 此処は一つ、一時間まるまる派手に惰眠でも貪らせてもらおうか。

 

 そう考えた結菜の耳に――――ふと。

 窓際の席で固まっている数人のグループの会話が飛び込んできた。



「聞いた? さっきの」

「うん。怖いよね……」

「なんか、すごい引いちゃった」

「あんなに大声で喜んでたのにね。なんであんな普通な顔して、悲しいですみたいなこと言えるんだろ」


 

 結菜は伊達に金魚の糞をやっていない。

 クラス内のカーストにはそこそこ敏感だ。

 ちら、ちらとこっち――ではなく、来瑠の席の方を見ながら何やら話している三人組。

 彼女達はこのクラスで言うとだいたい中堅、上ではないが下でもないそんな位置に属する連中だった。


 チッ、と内心舌打ちしたい気分になる。

 鬼の居ぬ間に洗濯とはまさにこのことだろう。

 来瑠がいなくなったのを見計らって、味噌っかす共が揃ってひそひそ陰口か。

 気分が悪い。率直に、むかつく。

 来瑠を悪く言うのは彼女に付き従っている自分を悪く言っているのと一緒だ。

 

 ――ちょっと、釘でも刺してくるか。


 そう思い立ち上がろうとして、そこで結菜はふと彼女達の言葉を反芻した。

 『怖いよね』『あんなに喜んでたのに』『なんであんな普通の顔して』『悲しいですみたいなこと言えるんだろ』



「あのさ。それって来瑠の話?」



 反芻を終えた結菜は、三人組の方へと近付き単刀直入にそう切り出した。

 来瑠の右腕も同然である結菜に突然話しかけられて、彼女達は目に見えて狼狽する。

 それもその筈だろう。

 来瑠はこのクラスにおける絶対のリーダーであり、彼女に敵視されれば今後の学校生活がどうなるかなど見えている。

 怖がるくらいなら最初から教室で陰口なぞするなという話だが、そこを今突いて責めたり脅したりする気は結菜にはなかった。


 最初は確かに、来瑠への陰口を諌める筈だった。

 身の程というものを分からせるべく釘を刺そうと、そう考えていた。

 だが、今は違う。結菜を突き動かしているのは憤りではなく好奇心に変わっている。


「大丈夫。あの子には言わないから。

 ちょっと気になってさ、聞かせてほしいなって思っただけ」


 肉親を亡くして気丈に振る舞う来瑠。

 自分を抑圧し続けていた父が消えたことで、本音を吐露した来瑠。

 それを揶揄し嘲笑っているのであれば、きちんと"来瑠の友達"として然るべき態度を取ろうと思っていた。


 だが、どうにもそうではないらしい。

 笑っていたとはなんだ。こいつらは、自分の知らない来瑠の話を何か知っているのか。

 

 それは、従順な金魚の糞に生まれた一つの好奇心であり。

 彼女が舞台上へと昇るための片道切符でもあった。


「あんた達さ、来瑠の何を知ってるの?」



◆◆



 "ふーちゃんいじめ"は、今日はしないことにした。


 それはクラスの連中を使っての削りだけでなく、放課後の個人的な加虐も含めてのことである。

 来瑠としてはぎりぎりまで悩んだのだが、家で一人帰りを待っているだろう母を捨て置いて自分だけ娯楽に勤しむ気にはなれなかった。

 そして都合のいいことに、何故か今日は風花の方も自ら寄ってくるような真似はしなかった。

 さしもの彼女も、"友達"の肉親を殺めたことには気が咎める想いでもあるのかもしれない。

 何にせよ、久方ぶりにこの日来瑠はまっすぐ家に帰宅した。

 鍵を回し、扉を開く。


「ただいま、お母さん」


 返事はない。

 聞こえなかったか、それとも。

 靴を脱いで居間まで上がってみて、来瑠は後者であることを悟る。

 

「今帰ったよ。えっ、と……もしかして、朝からずっとそうしてるの?」


 そこにあったのは、来瑠が登校する前に見たのと同じ景色だった。

 テーブルの上に並べられた、目玉焼きとベーコン。小盛りの白米に、レタスときゅうりのサラダ。

 豆腐とわかめの味噌汁はすっかり冷え切り、しかし水嵩は少しも減らすことなく手つかずの朝食のそばに添えられていた。

 そんな、時が止まったような食卓の前で母・景子はうつむき加減で座っている。

 食事に手をつけた様子はない。来瑠の問いにも言葉で答えるどころか、頷きの一つすら返してくれはしなかった。


「……駄目だよ、ちゃんと食べないと。栄養摂らないと倒れちゃうよ」


 そう言っても母は娘に反応しない。

 まだ立ち直れていないと、元通りになるには時間がかかると分かってはいた。

 父の洗脳が抜け、呪縛を脱ぎ捨てられるその日まで根気強く付き合おうと思ってはいたが……そんな来瑠もこの光景には、多少気圧されるものがあった。

 ご飯を食べてくれない。返事をしてくれない。頷いてすら、くれない。


「ねえ、お母さん……なんとか言ってよ。

 ご飯、チンしたら食べてくれる? それとも新しく作った方がいい?」


 食卓の上で、一口も手をつけられないままの朝食。

 それをもう一度見て、来瑠はなんだか悲しい気持ちになった。

 頑張って作ったんだけどな。目玉焼きも、ちゃんとお母さんの好きな半熟にしておいたんだけどな。

 そんなやるせない気持ちを、かぶりを振って振り払う。


 このままじゃ駄目だ。此処でへこたれてしまうようじゃもっと駄目だ。

 お母さんは病気なんだ、あの父親が長年に渡り仕込んできた毒がまだ抜けていないんだ。

 お母さんを支えてあげられるのは自分しかいない。

 なんとか呪いを解いて、お母さんを立ち直らせてあげないと。

 そう思うと居ても立っても居られなくて、来瑠は沈黙したままの母に駆け寄り身を屈めた。


「――お母さん。もう、お父さんはいないんだよ」


 十六年一緒にいた自分でさえ、あんなに辛かったのだ。

 それよりもっと長く付き合ってきたお母さんは、もっとずっと辛かったことだろう。

 傷跡は自分が思ってるよりずっと深い筈だ。治療が必要だ。そしてそれは、同じ苦しみを知っている自分にしかできない。


「あいつ、死んだの。だからね、もうお母さんは自由に生きていいんだよ」


 小さい頃からずっと、笑ってばかりの母を見てきた。

 父に冷たく叱責されても微笑み、仕事の都合で振り回されても微笑み。

 家に上司を呼んで酒を飲むと言い出せば、夜遅くまで給仕みたいに酒を注ぎ、料理を作る。

 そんな母のことが、ずっと可哀想で可哀想で仕方なかった。

 でもそれは、もう終わったことだ。

 自分が、終わらせた。母があんな理不尽な男に振り回され、苦しむ理由はもうどこにも存在しない。


「もうねちねち説教されなくてもいいし、せっかく作ったご飯をご近所さんにおすそ分けしなくてもいいの。

 これからは私と二人で、幸せに暮らそ? お母さんが寂しいって言うなら、私がずっとそばにいてあげるから……」

「……、……」

「ね? あんな奴のことなんて忘れてさ、家族二人で――」


 来瑠はそう言って微笑みかけた。

 自分の言葉は、きっとお母さんに届く。

 そう無垢に信じた娘の微笑みは、乾いた音と共に硬直した。



 ぱんっ。


 そんな音が、時の止まった食卓で響いた。



「……へ……?」


 頬を張られた。

 そう来瑠が気付いた時、母はようやくその顔を上げていた。

 

 母は、見たこともない顔をしていた。

 悲しみに暮れた顔でも、今朝も見た抜け殻のような無表情でもない。

 優しい柔和な顔立ちをぐしゃりと歪めて、眉間に皺を寄せて、般若のような恐ろしい顔で来瑠のことを見ている。

 

「誰のおかげで此処まで大きくなったと思ってるの」

「え、ちょ……まって、落ち着いて。お母さん、――ッ」


 ぱん。今度は、もう片方の頬が叩かれる。

 じんじんと込み上げる痛みは、来瑠にとって初めて経験するものだった。

 父は言葉の暴力こそ日常茶飯事だったが、手をあげることはしなかった。

 母に怒られたことはそもそもなかった。だから来瑠は反論するでもなく、ただ固まってしまう。

 これ、なに? と。ショックを受けるとかそういうのですらない、困惑の表情がその美顔に貼り付いている。


「お父さんのおかげじゃない。全部。全部全部全部」

「っ……わ、わかったよ。謝るから、だから、やめ――ぁ、ぐっ」

「あんたに勉強教えたのは誰。あんたを、高いお金使って塾に通わせてたのは誰。

 あんたにいい格好させて、仕事が忙しいのに合間を縫ってあんたに説教までしてあげてたのは誰」


 え。 なに。 これ。

 知らない。 これ、知らない――。


 頭の中を疑問符がぐるぐる回る。

 今、目の前にある現実が理解できない。

 でもそんな来瑠に対して、母はお構いなしだった。

 胸ぐらを掴んで、そのまま力任せに突き飛ばす。

 立ち上がった母は、たたらを踏んで尻餅をついた来瑠に向けて冷めきった味噌汁を投げつけた。


 ばちゃ、と音がして。

 やっぱり朝はシンプルな方がいいかな、しょっぱくないかな、と念入りに味見して作ったそれが来瑠の身体にぶち撒けられる。

 ただ茫然と見つめるしかない娘に、母はひたすらまくし立てた。


「お葬式の時からずっと、そんな風に考えてたの」

「ぁ……ちが、違うの、お母さん。私、そんなつもりじゃ」

「涙、流してなかったもんね。お父さんの骨、隠して手で握ってたよね。あれ、どこに捨てたの」


 返す言葉はないし、そもそも全て正鵠を射ていた。

 涙なんて流していない。だって悲しくないんだから。

 遺骨は手で握り潰して便所に流した。ざまあみろと、声をあげて笑ってやった。

 来瑠はバレていないと思っていた。自分は完璧な仮面を被っていると慢心していた。

 でも違った。母は、娘のことなんて全てお見通しだったのだ。

             

「あんた、人間じゃないよ。来瑠・・

「そ……そんなこと言わないでよ、お母さん……。

 だって、だってお父さんは――あいつは、ひどいやつだったじゃん。

 お母さんのご飯、粗末にして。お母さんのこと、まるで家政婦みたいに顎で使って。

 そりゃ、そりゃうちはあいつのおかげで裕福だったってのはあるけど……だからって、家族に何してもいいわけじゃないじゃん……!」


 なんで――なんで、そんな目で見るの。

 いつもみたいに、くーちゃんって呼んでよ。

 笑いかけてよ。頭撫でてよ。

 そうだね、一緒に頑張ろうねって言ってよ。

 

「娘がゲロまみれで死にそうな顔してても、心配一つしないし……。

 娘が贈った誕生日ケーキ、一口も食べないまま贈った本人に処理させて……っ、自分は誕生日祝ってくれたことも遊んでくれたことも一回もなかった! ああしろこうしろ言うのに、どんなにうまくやっても一回も褒めてくれなかった!

 お母さんも見てたじゃん、知ってたじゃん……わた、わたしっ、ずっと、ずっと頑張ってたじゃん……!!」


 真心の残骸で汚れたまま叫ぶ娘に、母親はまた皿を投げつけた。

 ぐちゃ。半熟の目玉焼きが破れて、来瑠の髪が黄色く汚れる。


「だから何。

 好きに学んで遊んで、家に帰ってくればご飯がある分際で、何言ってるの……あんた、何様なのよ」

「――――なに、それ」


 なんでそんなこと、言うの。

 好きに学んで、好きに遊んで。

 そういう風に暮らせてたように、思う?


 外でどう過ごしたって家に帰ってきたらあの目があるのに。

 家に友達呼ぶことも許されなくて、休みの日に遊びに出るだけでまるでひどい落伍者みたいに呼ばれて。

 友達と隣町に日帰りで旅行に行くって聞いただけで、呆れたように溜め息つかれて。

 私、十六歳だよ。女子高生だよ。それでこんな暮らししてたのに、お母さんには私のことが――


「私……そんな、好き放題してた? あんなに、あんなに頑張って、あいつの言うこと聞いて期待に応えようとしてたのに」

「なんで聞かないとわからないのよ。何なの、あんたは。どれだけ腐ってるの」


 ――――駄目だ。

 駄目。これ以上はもう、駄目。

 言わないで。お願いだから何も喋らないで。

 そんな目で見ないで、駄目駄目駄目駄目。

 死ぬ。死んじゃう。お母さんが、私の大好きな人が死んじゃう。

 だからもうやめて、謝るから何もしないで喋らないで、散らかった分は片付けるし新しくご飯も作ってあげるから、だからだからだから。

 

 懇願する来瑠の心情はしかし、怒髪天の母には伝わらない。

 かつての優しい姿はどこへやら、鬼婆のような形相で冷たく罵る女の耳には娘の言葉など反感を生むだけの雑音としてしか届いていなかった。

 

「親を家政婦みたいに使ってたのはあんたでしょ」

「は……?」

「毎日毎日ご飯作らせて、これが好きこれは嫌いって偉そうに言って。

 その上お父さんのことは金のなる木扱い。死んでも泣かない、お棺に縋り付きもしない。

 あんた養うために頑張って仕事して死んだ親を、まるで諸悪の根源みたいに罵って」

「……、……」

「人でなし」

「――――」

「あんたが」


 高嶺来瑠は間違いなく人として破綻している。

 誰かを虐め、踏みつけることで自己を証明し娯楽とする鬼畜の性。

 けれど来瑠は家族にだけはただただ真摯だった。

 母にも、父にもだ。求められる通りのことをし、努力し、尽くしてきた。

 

 だからこそ、彼女に落ち度があったとすれば。

 ドミノを倒してしまったこと。

 果実を、齧ってしまったこと。

 禁忌を、冒してしまったこと。

 息苦しい束縛という名の平穏を、自らの手で崩してしまったこと――


「あんたが死ねばよかったのに」


 その言葉を聞いた時、来瑠は叫んでいた。

 声にならない、音になっているかも怪しい絶叫だった。

 椅子を持ち上げて、迷いもせずに母の頭へ叩きつけた。

 ぐらりと、母の華奢な身体が揺らいで床に四足をついた。

 額から血を流しながら、うぅ、うぐぅ、と呻く母の腹へ爪先を叩き込んだ。

 大好きな暴力。大好きな加虐。けれど来瑠は笑えなかった。ただ、声をあげて泣いていた。


 もう一度椅子を振り下ろそうとして、なんとか踏み止まれたのはせめてもの理性だ。

 優しく来瑠に微笑んでくれたその顔を血だらけにして睨みつけてくる母を見て、本能がブレーキをかけた。

 椅子をその場に落とすなり、来瑠は汚れた服を脱ぎ捨てるのも忘れて自室へと駆けていく。





 自分に殴られた母がそうしていたみたいに、四つん這いになって。

 来瑠は嘔吐した。消化物の残骸が混ざる胃液を、げぇげぇと小洒落たカーペットの上に吐き出しながら。

 懐から、おぼつかない手つきでスマートフォンを取り出した。

 連絡先をスクロールする。そして、その名前を探す。


「ぉ゛、え゛っ……。ぅ゛えっ、ふえ……!」


 昔、取り入って信用させるために友達として付き合っていた頃、交換していた電話番号。

 もう二度とかけることはないだろうと思っていた、その番号を必死に探す。

 百件近い連絡先の中からなんとか見つけ出すなり、迷うことなく発信した。

 電子音コール電子音コール電子音コール電子音コール――四度目が終わったところで、声がした。


『もしもし……。どうしたの、急に……?』


 こんなことするべきじゃない。

 今からでも電話を切れ。

 間違えてかけてしまったと言え。

 弱い姿なんて見せたら駄目だ。

 第一、こいつは友達でも何でもないだろう。

 そう叫ぶ理性を無視して、来瑠は声をあげていた。


「…………って、呼んで……」

『え?』

「――くーちゃんって、呼んで」

『な、何かあったの……? えと、私にできることなら、何でも――』


 そう呼べと言ったのは他でもない来瑠だ。

 仲のいい結菜にすら許していない、母だけが呼ぶあだ名。

 これで呼べと、彼女に"高嶺さん"と呼ばれる度にそう躾けてきた。

 理由はわからない。ただ、なんとなくそう呼ばせたかっただけ。

 自分が彼女のことを"ふーちゃん"と呼ぶから、あっちにもなんとなく合わせさせたかった。

 そのくらいの、つまらない理由だった気がする。

 でも今は、とにかくそのあだ名が恋しかった。


「くーちゃんって呼んで!!!!!!」


 ひどく、醜い。

 吐瀉物にまみれて転がって、顔を涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃにして。

 制服は食べてもらえなかった朝食の残骸で汚れ、そんな有様でよりによって玩具扱いしてる女に電話をかけて縋り付いている。

 醜悪だ。滑稽だ。無様だ。

 そう自覚していても、あふれる涙も鼻を啜る音も、何ひとつ自分では止められなかった。


『……くーちゃん。くーちゃん、くーちゃん、くーちゃん』

「……、もっと……」

『泣かないで、くーちゃん』

「呼んで……っ、もっと、呼んで……」

『大丈夫だよ、くーちゃん。私は、私だけは、くーちゃんの味方だから。

 くーちゃんのこと、好きだよ。くーちゃん、くーちゃん、くーちゃん……』


 ――なんで、こうなっちゃったんだろ。

 

 来瑠は泣きながら、絨毯の上で胎児のように身を丸めて風花の声を聞いていた。

 たったの一言で人の命を奪い去れる彼女の声。

 数日前には眠れないほど恐れ怯えたその声が、今の来瑠にとっては母の膝のように暖かく思えた。

 ふーちゃん。ふーちゃん。

 あれほど虐げ、見下し、軽んじてきた相手の名前をうわ言みたいに呟く自分のことを、来瑠は本気で嫌いになりそうだった。

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