楽園の林檎
来瑠の父親である
医療機器メーカーの重要ポストに身を置き、ゆくゆくの更なる出世もほぼ確実。
数多の人脈と信用を方々に持ち、確かな学歴と経験に物を言わせて仕事をこなすエリートだ。
龍櫻のおかげで高嶺家は常に裕福だった。少なくとも来瑠の覚えている限りでは、金銭面で不自由した記憶は一切ない。
それどころか買い与えられるものも常に一級品のブランドばかりで、事実来瑠が普段着ている服も十代半ばの子どもに与えるには過剰と言う他ないような金額のものばかりだ。
優秀、高給取り、将来も有望でおまけに流石は来瑠の父というべきか見た目も実年齢より十年近く若く見られることもあるほどには若々しく整っている。
若く端正な父。それに見合う美人で気立てのよい母と、二人の美点をしっかり受け継いで生まれた娘。
高嶺家は、額面だけを見ればおよそ万人が思い描く理想像のような"幸福な家庭"だった。
それが、龍櫻の作り上げた"城"であった。
高嶺龍櫻は完璧な人間で、娘の来瑠から見てもそこに疑いの余地はない。
ただ一つ、彼が患っている手の施しようがない
その日食べられる食事の量は父親が決める。
小学校にあがるまでの間、来瑠はそれを普通のことだと思っていた。
その日取り組んだ勉強と計算ドリルの正答率。その他私生活における素行一つ一つの点数化。
綿密に記録されたそれを元にし、来瑠が胃袋に入れられるおかずの数を父親が決め、日によっては小皿一つ程度しか貰えないこともある。
だがそれは、一日を無駄に過ごしたお前が悪い。
腹が空くなら明日に備えて勉強をし、明日こそ腹一杯食事ができるよう頑張りなさい――
『私の子ならば、お前も無駄は排除して生きなさい』
『時間を無駄にすることは自傷行為だ。豚の生き方だ』
『来瑠。お前は人間か? それとも、母さんの子宮に紛れ込んだ獣なのか?』
どれも龍櫻の口癖だ。
来瑠が一つでも習慣を怠るたびに、父は冷たく彼女を叱責した。
暴力は振るわない。衣服を剥がれ、真冬の外気に放り出されることもない。
龍櫻はただ見下ろすだけだ。身体の芯まで貫くような冷たい、本当に冷たい瞳で見下ろして大上段から言葉をぶつけてくるだけ。
『強く、優秀に生きなさい。でなくばそれは恥になる』
ただそれは、単に効率の問題なのだと来瑠は知っている。
手をあげての教育はリスクを生む。痕が残れば自分の社会的地位に影響も出る。
仮に子供が青痣を作って歩いていても誰も咎めない時代だったなら、龍櫻は躊躇なく我が子を殴り倒し蹴り抜いていたに違いない。
来瑠はそう確信している。
食事も、友人も、将来も、習慣も、思想も、価値観も。
父は、その全てを"かくあるべし"と形を示して娘をそこへ当て嵌めた。
それは今になっても、何ら変わっていない。
来瑠にとってこの家は檻で、龍櫻は看守だ。
別に萎縮しているつもりはない。血の繋がった家族に震え怯えるなんておかしな話だ。
ただ、この家にいると真綿を気道に詰められたような窒息感が募り続けるというだけ。
――人間の姿をした計算機。
そんな父のことが、来瑠はこの世で一番嫌いだった。
跡形も残らずこの世から消えればいい。
いっそ通り魔にでも刺されてしまえと、彼が都会へ出張に出る度そう思い続けてきた十六年間だった。
「おかえりなさい、くーちゃん。遅かったね、今日も文化祭の準備?」
「ただいま、お母さん。うん、実行委員会に入ってるからどうしてもね」
埃一つもない、潔癖の家に帰って。
来瑠は母の景子に、そう言って笑顔を見せた。
「あんまり遅くなる時は言ってね。近頃何かと物騒だし、お母さん車で迎えに行ってあげるから」
「いいよ、そんなの。子供じゃないんだし」
「もう、まだまだ子供でしょ。ませたこと言わないの」
「ふふ、ごめんなさーい。ところで今日のごはん何?」
「今日はオムライス。くーちゃんの好きな、デミグラスソースかけたやつ」
「やったっ」
母のことは嫌いではない。
むしろ好きだ。自分の家族は母だけだと来瑠は本気でそう思っている。
理知的でたおやかで、おまけに美人。料理も上手だし、来瑠のことを大事にしてくれる理想の母親だ。
自分の"嗜好"上、人と子を成すようなことは無理だろうなと来瑠は諦めていたが、それさえなければ母のようになりたいと志していただろう。
幼い頃は、母がせっかく作ってくれたごはんを自分の努力不足のせいでゴミにしてしまうのが嫌で嫌で仕方なかった。
今では流石に食事の管理まではされていないため、お腹いっぱい母の料理を食べることができる。
だから来瑠は基本、外で食事をしない。食べたくても食べられなかった母の手料理の方が、小綺麗なレストランで好きでもない級友と食べる料理よりもずっと魅力的に感じるから。
「あ、それと――」
幸せな家庭だ。
こうしている分には。
自分と、母と。その二人だけなら幸せなのだ。
「これ、お父さんが帰ってくる前にお隣さんにおすそ分けしてきてくれる?」
「……え。また? この前もじゃん、作らせておいて食べなかったの」
「うん、社長さんに食事会に誘われちゃったらしくて。一回家には帰ってくるけど、荷物だけ置いたらすぐまた出るんだって」
そう、父さえ。
あの男さえいなければ、この家は完璧だ。
龍櫻はロジックだけでこの世が回ってると思っている。
十六年間、一つ屋根の下で一緒に暮らしてきた来瑠にはそれがよく分かっていた。
料理が口に合わなければ評論家気取りであれこれ注文をつけてくる男のために、母が普段どれだけ苦心して手を凝らしているのかあの男は知らないし、知っていたとしてもだからどうしたとあの冷たい目で見つめるばかりなのだろう。
覚悟は決まった。元々迷ってもいなかったけれど、これが完全な決め手になった。
「……そんな顔しないの、くーちゃん。お父さんだってお仕事の付き合いとかあるんだから、仕方ないよ」
「別に。あいつ、人にはさんざん無駄なことするなって口酸っぱくしてるくせに、自分は人の時間を平気で無駄にするんだなって思っただけ」
「くーちゃん」
「だから、別に怒ってないって。もう慣れてるし、あいつのそういうのには」
あいつを、この世から消す。
来瑠は今、とても冷静だった。
怒っていないというのは事実かもしれない。怒りを通り越して、心がとても冷えていた。
あれは病巣だ。この家に巣食う癌だ。
そして今、来瑠にはその癌を取り除くすべがある。
であればもう迷うべきではない。
自分がやらなければ、誰にもできないのだ。
「……お父さんのこと、"あいつ"とか言うのやめなさい」
ほら、これだもの。
来瑠は一転、母のことが憐れでならなくなる。
憐れだ。本当に、可哀想だと思う。
何をされても抵抗しない、抵抗したって無意味だと分かっている人間特有の弱さ。
来瑠が今まで学校という箱庭の中で飽きるほど見てきた姿が、此処にもあった。
「わかったよ。ちょっとだけ用事済ませたら、すぐ行くから」
「用事? もう遅いじゃない、どこに行くの?」
「友達の教科書、間違って持って帰ってきちゃったの。明日までの宿題もあるから、今日のうちに返さないと」
いじめられるような人間には、そうされるだけの理由がある。
それが来瑠の考えだし、今まで標的に選んできた連中も例に漏れず皆何かしらの人間としての欠陥を抱えていた。
弱さは欠陥であり落ち度だ。
だから罪悪感はない。何をしたって心は痛まないし、他人が遊んだ玩具の情けない姿を見て腹を立てたこともない。
けれど来瑠は母を愛していた。母を傷つけ苦しめ、自分を見下し抑圧するあの癌細胞をなんとしても排除せねばならないと腹を括った。
箱庭の玩具達と母が、そして自分が同じであるわけがない。
義憤と怨嗟のままに、来瑠はかばんを片手に家を飛び出した。
家のそばの電信柱に隠れるように立っていた風花を見つけると、駆け寄って口を開く。
「もうすぐ帰ってくるって」
「う、うん……わかった。でも……本当に、いいの? お父さん、なのに」
「私さ。昨日の夜、体調悪くてトイレで吐いちゃったんだよね」
本当は、体調のせいではない。
だけど当然、そのことは隠す。
「ずっと眠れなくて、真夜中に吐きまくってさ。パジャマもぐちゃぐちゃにしちゃって、最悪の気分で廊下歩いてた」
「……、……」
「そしたら、仕事から帰ってきた父親とすれ違ったの。
ゲロまみれで死にそうな顔してる娘を見て、あいつなんて言ったと思う?」
別に、今更期待していたことがあったわけでもない。
仮に駆け寄って背中を擦られ心配されたとしても、今まで積もりに積もった恨みが薄れることはなかったろう。
父と娘の関係はもはや絶望的なまでにねじれ狂ってしまっていて、復元するのは不可能だ。
来瑠自身そう思っている。だから本当に、何かを期待していたわけではないのだ。
「『臭いが移るから、洗うなり捨てるなりしてから寝ろよ』だってさ」
それでも――
「そんな台詞の出てくる親なんてさ、クソでしょ」
"理由"はありすぎた。
"呵責"はずっと前からなかった。
そして、とうとう来瑠は"手段"を手に入れてしまった。
であれば後は、引き金を引くだけ。ドミノを倒し、積木を崩すだけ。
風花は何も言わなかった。
けれどその手は、来瑠の手をきゅっと握る。
普段なら振りほどいただろうが、何故か今はその気になれず。
来瑠も、風花の小さな手を握り返した。
木枯らしの吹く晩秋の寒空の下、人を殺すために佇む二人の身体の中で、繋がれたそこだけが仄かな熱を帯びていた。
◆◆
どれくらい待ったろうか。
十分、二十分は確実だ。三十分は経っていなかったかもしれない。
時間が経つにつれて焦りが募ってくる。
もしかして、帰ってくるというのは母の聞き違いだったのだろうか。それか、急な仕事でも入って帰らないことになったのか。
別に今日でなければいけないということはない。
だけど、今日がよかった。
一日でも早く、来瑠はあの冷たい眼差しから解放されたかった。
手を、握る。
風花が、握り返す。
今の来瑠の心を安らがせるのはその感触だけで。
何を話すでもなく、身体の末端がかじかんでいく感覚を覚えながら待ち受けていると。
視界の先、路地の向こうから――黒い人影がひとつ、現れた。
――来た。
スーツ姿に、黒革のかばん。
すらりとした細身の身体に、嫌味な長身。
彼我の距離が狭まっていくにつれて、それが今宵の標的であると確信する。
高嶺、龍櫻。来瑠の実父にして、彼女がずっとずっと恐れ縛られてきた相手。
あちらも、来瑠達の姿に気付いたのだろう。
一瞬、怪訝そうに足を止めたのが分かった。
しかしすぐに歩みは再開され、これから自分が殺されるとも知らず父は間抜けにも娘の方へと近付いてくる。
来た。やった。
これで、もう終わる。
願いが叶う、やっと終わらせられる。
もう何に気を遣う必要もない、お母さんだって理不尽な家政婦扱いから解放される。
金を稼げば何でも許されると思ってる、正論なら何を言ってもいいと思ってる時代錯誤の毒親。
もっと早く風花の力に気付いていればよかった。本当に風花はグズだ。そんな力があるなら、もっと早く教えろ。
物心ついた時から、頭を撫でてくれたこともない父。
娘の運動会にも、卒業式にも、どんな用事にも出席したことのない父。
誕生日を祝われることも、クリスマスにプレゼントを貰うことも、来瑠にとってはフィクションの中の絵空事だった。
家族旅行と言って連れられた先がお得意様の結婚式だった時、来瑠がどれだけ悲しかったかも彼は知らないのだろう。
言われた通りにしなければ人格ごと否定してくる癖に、言われた通りにして結果を出したって「よくやった」の一言もくれない。
誕生日に贈ったケーキを食べないまま出張に出て、期限が切れてしまうからと母と二人で処理した時のむなしさを知っているのか。
知らないだろう。何も、知らないんだろう。
知る気も、ないんだろう。
なら、もういい。
お前なんて、いらない。
此処でくたばってしまえ。
「……くーちゃん」
呼ばれて、はっとする。
風花が来瑠の顔を見つめて、紫影の瞳を不安げに歪めていた。
風花が手を、ひときわ強く握ってくる。
力が弱いくせして、一丁前に痛い。
何をふざけているのか。そう思って視線を落として、そこで来瑠はようやく自分の手が震えていることに気がついた。
「――友達か?」
もう、その人相も分かる距離まで近付いた父・龍櫻が。
娘の手を握っている見知らぬ少女の姿を見て、来瑠にそう問いかけた。
来瑠はそれに、答えない。頷くこともしない。
そんな娘の姿に、父は表情を変えないまま続ける。
「具合でも悪いのか」
「……、……」
「なんとか言え。困っているだろう、お友達も」
能力だけの鉄面皮では、社会では大成できない。
人前ではこの父親も、それなりに"良い顔"をする。
口元に笑みを浮かべ、娘を慮るようにして、だけどその瞳の奥にある冷たい鈍さだけは隠し切れていない。
この目が、ずっと嫌いだった。
人間を魂まで見透かして値踏みするような目。
こんな目で家族を、実の娘を見下ろす父が嫌いだった。
嫌い? いや、それは多分、きっと違う。
事此処に至って、来瑠はそれを自覚する。
嫌いだったのではない。好き嫌いの問題以上に、自分は、この男が――
「すまないね。此処まで連れてきてくれたのかな」
「ぁ……えと、はい。くーちゃ……来瑠さん、具合が悪そうだったので」
「ははは――くーちゃんでいい。うちの家内も来瑠のことをそう呼ぶからね。
辺りも暗い。少し待っていなさい、車を出すから乗っていくといい」
……ただただ、怖かったのだ。
怖くて、怖くて、仕方なかった。
自分の生きる姿を常に監視され、評価されることが怖かった。
この冷たい目が、怖かった。
人前なのに、それも風花の前なのに。
ふーちゃんの前なのに、みっともなく縮こまっている自分を隠すこともできない。
「くーちゃん」
そんな、来瑠の手を。
風花が、強く握る。
「最後だよ」
うるさいな。
余計なお世話だよ。
お前に、何が分かるの。
私の、私達家族の、何が――。
「だいじょうぶ」
そう、言って。
ふーちゃんは、私の手を握る。
高嶺来瑠は、火箱風花という人間のことを何も知らない。
彼女が何故あれほどにひどい扱いを受けていながら、自分のことを友達と呼んで慕っているのか。
何も知らないし、また知ろうともしていない。
その必要がないから。風花が自分の命を脅かさないということさえ分かれば、来瑠はそれだけで十分だったから。
「私がいるから」
けれど、この時来瑠の背中を押したのは間違いなく風花の声だった。
怖い。見たくない。関わりたくない。逆らいたくない、抗いたくない。
そんな気持ちを、手のぬくもり一つで抑え込み支え、寄り添ってくれる少女の声。
それを支えにして、来瑠は――つっかえていた唾を飲み込み、忌まわしく恐ろしい親へと言葉を投げかけていた。
「……あのさ、お父さん」
何故そうしたのかは来瑠自身よくわからない。
こんなにも憎んでいて、忌まわしく思っているのに、何故此処に来て対話なんて求めようとしたのか。
それは腐っても家族として十六年一緒に暮らしてきた情だったのか。
それとも、これから人を殺すその重さから無意識に目を背けたがった結果か。
分からないが、分からないまま、とにかく。来瑠は、父へと問いを投げた。
「今日、さ。一緒に、お母さんのごはん食べない?
デミグラスのかかったオムライスなんだって。おいしいよ、きっと」
父は、娘のそんな提案に一瞬だけ驚いたような顔をして。
それから、ふうと小さく息を吐き――
「今日は外で用がある。母さんから聞いていないのか」
彼はそう答えた。
答えを聞いた来瑠はふっと笑った。
よそ行きの答えだなと、そう思った。
もし此処に風花が居らず自分と娘の二人だけだったなら、龍櫻はこんな風に答えただろう。
母さんから聞いているだろう。聞き分けのないことを言うな。
そうつまらないことを言っている暇があるなら勉強をしろ。将来のことを考えろ。
お前も子供じゃないんだ、あまり生産性のないことを言うものではない。
無駄なことをするな。
その光景が、脳裏に容易く思い浮かんだから。
だからこそ、来瑠は「ふはっ」と噴き出すように笑った。
やっぱり、大嫌いな父の目と言葉はひどく冷たくて。
握りしめた風花の手、自分を友達だと呼ぶ奇特な彼女の手だけが暖かくて――。
「ふーちゃん、もういいよ。お願い」
もはや迷いはなかった。
恐怖すら、なかった。
むしろ、今まで自分が何故らしくもない有様を晒していたのか不思議で仕方なかった。
答えなんて最初から決まっていたのに。
であれば、迷ったりなんかせずにすぐこうさせていればよかったとそう思う。
握りしめた手の主。火箱風花は、来瑠の声を聞いて、ゆっくりと口を開く。
そしてその唇の内から、来瑠が望んだ通りの言葉を吐き出した。
わん、と。どこかで犬が吠えた。
「死んでください」
わずか、一言。
たったそれだけ。
たったそれだけの言葉で、すぐさま来瑠を閉じ込めていた現実が刷新された。
「……? が、…………?」
としゃっ、と。
龍櫻は口から粘ついた血を吐き出した。
アスファルトを濡らす、ひどく有機的な赤色の液体。
それを見ても尚、冷徹なる男は恐慌も動揺も示さなかった。
手のひらに付着した喀血を見つめ、どうやら自分の身に何らかの異変が起こったらしいと理解してから片膝を突く。
「……、…………」
何しろ突然の事態だ。
風花の口にした言葉が脳裏に残っていたかは定かではない。
突然の喀血と、生命の消え失せる悍ましい感覚が全身を苛むのを前にして、さしもの彼も冷静な思考を保つことはできなかったのかもしれない。
咳き込むたびに溢れ出しては止まらない血を、ロレックスの腕時計を巻いた右腕で受け止めながら。
この間大枚はたいて仕立て直したばかりのスーツを、自身の汚い血潮で汚しながら。
父は娘の顔を見て、泡立ち濁った声で言った。
「――――来瑠。救急車を」
明らかに異常な量の吐血だった。
風花の"声"は、必ずしも同じ死因で死に至らしめるわけではないらしい。
この様子を見るに、内臓の破裂なり汚染なり、今回はそういう理由の死を押し付けたのだろう。
息も絶え絶えの様子で求める父の声を受けて、来瑠は――自らも死に直面したかのように荒く息遣いを繰り返しながら、吐き捨てる。
「……呼ぶわけ、ないじゃん」
どの面を下げて、そんなことを言っているのか。
家庭も、妻も、娘も、何ひとつ顧みることなかった男が。
今になって、何故。何故、頼みなんて聞いてもらえると思ったのか。
「死ねよ、お前なんか」
はあ、はあ、はあ。
息が乱れる。笑い声なのか喘鳴なのか区別がつかない。
もうすぐ終わる。自分を縛っていた何もかもが終わる。
こいつも助けを求めるんだ、と思った。
あれだけお高く止まった人間でも、いざ死にそうになれば他人に助けてと乞うんだなと。
それはずっと父の強い部分しか知らなかった来瑠にとって初めての発見で。
そして、「ああ、本当に今からこいつは死ぬんだな」と思わせてくれる無様さだった。
「お前なんか、お前なんか、いなければ……!
私も、お母さんも、もっと幸せに暮らせてたのに!!」
肺の底から、呼気を吐き出しながら。
その場にへたり込んで、来瑠は笑った。
助ける? 駆け寄る? そんなことするわけがない。
この光景をずっとずっと望んでいた。願っていた。ふーちゃんがようやく叶えてくれた。
「お父さんなんか――だいっきらい」
最後の最後に。
今まで受けてきた苦痛と恐怖の分、あらゆる思いを込めて怨嗟を吐く。
その声を聞いた父は、少しだけ沈黙して。
それから口を開き、ただ一言――
「……そうか」
とだけ言って、べちゃりと自分の作った血溜まりに沈んだ。
うつ伏せでアスファルトの上に倒れ伏し、半開きの口からごぽごぽととめどなく喀血を垂れ流して。
あれほど来瑠の人生を縛ってきた冷徹な眼光は、ひどく虚ろに中空へと投げ出されていた。
それきりだ。
父はもう、微動だにせず。
当然、続く言葉など紡がれない。
あっけない、本当につまらない死に様だった。
恐る恐る、おぼつかない足取りで近付いて来瑠は父の身体を指で突く。揺らす。
しかし、どれだけそうしても彼が反応を示すことはなかった。
あらぬ所を見つめながら血を吐いて、既にその鼻や口から呼吸の音は聞こえなくなっていた。
それを、確認して――来瑠は、風花へと振り返る。
びく、と風花の身体が震えた。そんな彼女に対して、来瑠は。
「ふーちゃん……!」
気付けば、飛び込むように抱きついていた。
自分と同じく小柄で、けれど自分よりも更に一回り小さなその身体を、感触を、噛みしめるように抱きしめる。
「やった、やった……! 大好き、ありがとうっ、ふーちゃん!!」
全て終わった。
ふーちゃんが終わらせてくれた。
来瑠は尊大な人間だ。他人に心から感謝することなんて基本的にはない。
他人は自分の役に立つかどうか、それだけで勘定するべきだと心得ている。
だけど今この瞬間、腕の中の少女に吐露した感謝の言葉だけは本物だった。
長い、永い、生き地獄のような日々の終わり。
支配者からの解放。来瑠は涙を流しながら、とびきりの笑顔でやっと掴んだ自由に酔い痴れる。
「……よしよし」
風花は、そんな来瑠の背を擦る。
はしゃぐ子をあやすような態度も、今は気にならなかった。
「がんばったね、くーちゃん」
「うん、うん……! ありがと、ほんとに、ありがと……!!」
そうだ。
本当に、よく頑張ったと思う。
風花には、親を殺したいと思う気持ちは分からなかったけれど。
それでもくーちゃんはずっと我慢してきたのだろう。
そう考えると、今目の前で歓喜の涙を流す彼女を褒めてあげなくちゃと思えた。
「がんばったんだもんね、よしよし……」
火箱風花は、奇特な人間である。
彼女自身がそれに気付いているのかどうかは、定かではないが。
学校を針のむしろに変えられ、その上気まぐれで呼び出しては拷問まがいのいじめを働いてくる相手のことを、彼女は本当に恨んでいないのだ。
それどころか唯一の友達だと思っている。好いている。
来瑠との付き合いの中に悲しみはあったかもしれないが、けれどそれは決して殺意や嫌悪に繋がることはなかった。
だからこそ、親殺しの凶器扱いで利用されても彼女はただひたむきに来瑠のことを想っている。
来瑠が深い苦しみと不自由の中から解放されたこと、自分がその一助を担えたことを、嬉しく思っている。
その破綻に、風花自身は気付いていない。
もちろん、彼女のおかげで夢を叶えた来瑠も気付いていない。
(くーちゃん、あったかいな……)
風花にとって来瑠は大事な友達で。
そして、弱くてちっぽけな自分とは違う世界に生きる人間だった。
そんな友人が、尊敬する偶像が、今は涙を流して嗚咽している。
こんな自分なんかに感謝して、好意を示して、感情を発散している。
来瑠に自分の力のことが知られてしまった昨日は風花も悩み、眠れぬ夜を過ごしたが、まさかこんなことになるとは予想できなかった。
まさか、自分がくーちゃんを助けてあげられるなんて。
くーちゃんのこんな姿が、見られるなんて――
きゅん。
「……?」
安堵と慈愛に満ちた表情が、疑問のそれに変わった。
来瑠に抱かれながら、風花は自分のおなかに手を当てる。
異変はない。痛くもなければ痒くもない。
けれどその奥底で、何かが切なく疼いている気がした。
(なんだろ、これ……)
火箱風花はその感覚の意味と理由をまだ知らない。
少女達は、悲しいほどこれからの未来に対して無知だった。
ただ一つ確かなことは、ドミノは倒されてしまったということ。
無垢な衝動が倒した牌は止まることなく、次、その次、そのまた次と止めどなく連鎖していく。
全ての牌が倒れるまで、それは決して終わらない。
少女達には秘密がある。
少女達には、罪がある。
二人のイヴが今日、林檎を食べた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます