黄昏、オフィーリア

 それからのことは、断片的にしか覚えていない。


 別に死体を埋めたりもしていない。

 来瑠がやったのは、風花と一緒に床の血を拭き取ることだけだった。

 状況だけ見ればただの転倒事故だ。

 警察も本格的な現場検証はしないだろうし、自分達がいたことは割れないだろう。

 そこについては、来瑠もそう心配はしていなかった。

 彼女の頭を埋め尽くしているのは、教師殺しの犯人として冤罪をかけられることではなく。

 あの時、あの場で、人間一人をあっさりと殺してのけた火箱風花のことばかりであった。


「ああ、もう……!」


 なかなか寝つけず、苛立ちのままに枕を壁へ投げつける。

 眠れない。眠れるわけが、ない。

 来瑠は人を虐げることばかりしてきたが、その手で人の命を奪ったことはなかった。


 いや、違う。来瑠は人の命の重さには無頓着な人間だ。

 命の尊さを、自分の楽しみや利益と天秤にかけて平気で切り捨てられる人間だ。

 直接手を汚したことはなくても、人間の人生を終わらせたことくらいは既にある。

 自分を破滅させかけた教師が間抜けに死んだこと、それだけならば彼女にとってはただのラッキー。

 問題は、それが自分のよく知る人間によって誘発された死であること。

 それをしたのが、毎日あの手この手で趣向を凝らしていじめ倒してきた火箱風花であること――


(なに。何なの、あいつ。

 言葉で人を殺すとか、頭おかしいって。

 あんなの、あんなの、ただの偶然に決まって……)


 ――死ね。


 風花の言葉が、耳の奥で反芻される。

 来瑠だって、誰かにそんな言葉を吐いたことくらいある。

 だけど、それが実際に叶ったことはない。

 当たり前だ。言葉を口にするだけでその意味を実現させられる人間なんているわけがない。


 じゃあ、今日風花が口にしたあれが咄嗟に出た苦しまぎれの言葉だったとして。

 それを口にした矢先に、実際に目の前の人間が命を落とす確率というのは、どのくらいのものなのだろう。

 

 暑い。背中をじっとりと濡らす汗が鬱陶しくて仕方ない。

 もう秋なのに、まるで梅雨の真っ只中のように嫌な暑さを感じる。

 それが"焦燥"という感情に起因するものだということから、来瑠は必死に目を背けようとしている。



『私ね、くーちゃん』



 だって、あれがもし現実のことだったなら。

 あいつの言ったことが、本当だったなら。



『言葉で人を殺せるんだよ』



 あいつは、身の回りの人間全員の命を思うままに操れるってことじゃないか。

 うざったい依怙贔屓教師も。

 毎日毎日、飽きもせず自分を嘲笑ってくるクラスメイトも。

 自分が虐げられてることに見て見ぬふりをし続ける部外者たちも。

 

 ……自分の日常を、痛みと辱めにあふれた地獄に変えた張本人も。


 全員、その気になれば殺せるということだ。

 大袈裟な準備も、凶器も、根回しも何ひとつ必要なく。

 ただ口を開いて、一言「死ね」ってそう言うだけで、この世から永遠に排除してしまえるということだ。

 もしもそれが本当なら。

 もしも本当に、あいつに、火箱風花に、そんな力があるのなら。



「あいつ、私のことなんていつでも……」



 そこまで考えたところで、来瑠はベッドを飛び出していた。

 転がるように床へと手をついて、背を折り曲げながら部屋を出てトイレに向かう。

 便器に顔をくっつけて、美少女らしからぬ音を奏でながら汚物をげろげろと吐き出す。

 

「ぅ、ぇ゛っ……おぇ、あ゛っ……! はあ、はあ、は……ッ」


 口元をトイレットペーパーで拭うのも忘れて来瑠は考える、振り返る。

 自分は今まで、風花に何をしてきただろうかと。


 今日はお腹を蹴り抜いて、カッターで腕を切った。

 昨日は殴り倒して、喉奥どこまで靴が入るかを試したはずだ。

 その前はなんだったっけ。確か、無理やり度数の高いお酒を流し込んでふらつく姿を笑ってやった気がする。

 舌にカッターを這わせたこともある。カエルを踊り食いさせたのはいつだっけ。

 ライターで指先を炙ったのは? 気絶するまで、濡れた雑巾をかぶせた顔を押さえつけてやったのは?

 ああ、そういえば目に殺虫剤を噴いたこともあったような。頭を便器に沈めてやったのは先月だ。

 その他には、えっと、えっと、えっと、えっと……。


「は、……ぁ゛ーっ、はぁ、あ、ぉえ゛……!」


 口から、ぬと……、と涎が糸を引いて便器に落ちる。

 便器の中はあまり見たくない。余計に吐いてしまいそうだ。

 来瑠はぺたん、とその場に座り込んで、ようやく袖で口を拭った。

 お気に入りのパジャマに茶色い汚れがどろりと付いて、かわいい模様が汚らわしく彩られる。


「…………いや。ふーちゃんに、あいつに、そんなことできるわけ、ない……。

 大丈夫、だいじょうぶ。ちゃんと選んで、調べて、その上であいつに決めたんだから……」


 虐められ、嬲られ続けた人間はそのうち逆らうことをやめる。

 全てだ。全ての抵抗をやめて、とにかく従順になる。

 自分の身に降りかかる災厄を、過ぎ去るまでじっと待つようになる。


 風花だってその筈だ。

 あんな臆病者に、自分をどうにかできるわけがない。

 そもそも今日のだって、やっぱり何かの偶然に違いない。

 幽霊だとか神様だとか、不思議な力だとか、その手のたぐいの話を来瑠は一切信じていなかった。

 今までさんざん好き放題遊んで、人の命すらゲーム感覚で消費してきた自分の前に悪霊だの何だのが現れていないことがその証拠だろうと思っていた。それは今も変わらない。


 今日のはただの偶然で、火箱風花は明日も変わらず私だけのいじめられっ子人形だ。そう自分に言い聞かせた。

 明日も明後日もそのまた次の日も、何年後だって私は変わらず生きて誰かをいじめ続けてる。

 だから、大丈夫。大丈夫、だいじょうぶ。


 わざとらしい笑みを浮かべながら立ち上がったところで、来瑠は自分のパジャマがじっとりと濡れていることに気がついた。

 幼い日を思い出させるその匂いを前に、浮かんだ笑顔はすぐにくしゃりと歪んでしまった。



◆◆



 全校集会くらいでしか関わりのない教師が死んだくらいじゃ、教室は何も変わらない。


「どしたん。なんかやなことでもあった?」


 クラスメイトの結菜に話しかけられて、来瑠は無表情のまま「なんでもない」と返す。

 しかし、すぐにはっとする。今のは少し不躾な対応だった。自分らしくない態度だ。

 だからこそぱっと愛想笑いを浮かべて、すぐさま失態を取り返しにかかる。


「実はさ、今朝親と喧嘩しちゃって」

「あー。やばいんだっけ、来瑠の親」

「そうそう、早く高校卒業して家出たいもんほんと。……ところで、私そんなに落ち込んで見えた?」

「うん。ずっと机の前で難しい顔してるし、何より全然いつものやつしないじゃん」

「いつものやつ?」

「火箱だよ、火箱」


 耳打ちしてくる結菜に、来瑠は思わず眉を顰めた。

 聞きたくない名前だったからだ。

 だが、彼女が疑問に思うのも無理のないことではあった。

 いじめの司令塔である来瑠が風花に陰湿なちょっかいをかけるのは、最早このクラスでは日常風景の一つになりつつある。

 もう昼休みだというのに、今日はそれがまったくない。

 これは確かに、平時の"高嶺来瑠"を知っている人間にしてみれば機嫌でも悪いのかと疑いたくなるのも頷けた。


「んー……今日はちょっと、火箱さんに構ってる気分じゃないかな。結菜達、代わりに遊んだげてよ」

「あはは、ひっどい言い草。可哀想じゃん、来瑠に構ってもらうの待ってるかもよ」

「嵐の前の静けさって言うでしょ。たまには何もしないのも、かえって怖くなるかなって」


 私は何を言ってるんだ、と舌打ちの一つもしたい気分になる。

 それは目の前の金魚の糞に対しても、だった。

 せっかく考えないようにしていたのに。

 見ないようにしてたのに。

 名前を出されたせいで、禁断症状のように自分の中でふつふつと何かが煮え始めたのを感じる。


 来瑠にとって、誰かを虐げることは呼吸だ。

 それを控えるということはつまり、息継ぎのない潜水にも等しい。

 些細なことで苛立ちが募るし、日頃頑張って被っている仮面も揺らぎそうになる。

 さっき一瞬とはいえ、この友人に対して不躾な態度が出たのも恐らくそのせいだ。


(――なんなの、あいつ)


 そもそもあいつが大声なんて出すから悪いんだ。

 いやでも、そうでなければ自分はあいつの手のひらで転がされ続けるだけだったかもしれない。

 いつでも殺せる相手が、頑張って自分を王様ヅラして虐めてくる日常はさぞかし気分が良かっただろう。

 だって、いつでも殺せるんだから。自分の機嫌と口先一つでいつでも奪えるちっぽけな命が調子に乗ってる姿は、さぞ――


「……結菜さぁ。確か、あの子と同じ中学だったよね」

「ん? ああ、そうね。クラスも違ったし、全然関わりなかったけど」

「あいつさ。どんな子だった?」

「どんな、って……今と変わんないよ、全然。

 声小さくて陰気で、そのくせ服だけは一丁前に気遣ってる感じ。

 あいつってメルヘン系じゃん? だから陰でアリスちゃんとか呼ばれてたっけな」

「あはは。それいいね、今度使おうかな」


 ――そんなこと聞きたいわけじゃないんだけど。

 苛立ちに、来瑠は机の下で自分の太腿を抓る。

 

「他には? えっと、何かやらかしたことあるとか」

「ないない、そんなことできるタマじゃないって知ってるでしょ。一時期はいじめられてて、それが問題になってたくらいだよ」

「……そっか」


 本当に使えないやつだ。

 所詮金魚の糞、リーダーの添え物か。

 役に立たないなら無駄に話しかけてこないでほしい。

 お前なんて、ふーちゃんを削る道具の一つでしかないのに。

 心の中で辛辣に罵倒されていることなど露知らず、結菜は「あ」と何か思い出したように口元へ指を当てた。


「でも友達は一人居たかも。いっつも誰かにくっついて歩いてたような気がする」


 知るか。

 そんな気持ちを押し殺しながら、来瑠は「そうなんだ! ごめんね変なこと聞いて」と無理やり会話を終わらせた。


 ちらりと風花の方を見る。

 彼女も、自分の方を見ていた。

 目が合う。風花の小さな手が、下ろしている前髪をすっとずらした。

 困ったように薄く微笑むその顔から、来瑠はすぐに目を背けた。


 駄目だ。あいつは、もう駄目。

 そう直感して、来瑠は即断する。

 あんなのただの偶然だと主張する苦しまぎれの理性は今や沈黙して久しかった。

 手を引こう。それでまた、次の標的を見繕えばいい。

 潔い損切りを決意した少女の指先が机を小刻みに叩いて、小気味いい音を鳴らしていた。



◆◆



「高嶺さん」


 本当はすぐに帰りたかった。

 だけど高嶺来瑠は優等生だ。

 来たる文化祭の実行委員会で残らねばならず、下駄箱へ向かう頃には時刻は午後五時を回っていた。

 日は既に暮れ始め、見慣れた廊下もどことなく不気味な、まさに逢魔ヶ時と呼ぶに相応しい趣を呈し始めている。


 そんな時、来瑠の背中に声がかかった。

 聞き慣れた声だ。だから無視する。足を止めない。止めてはならないとわかっているから。

 

「あの、私……なにか、しちゃったかな」


 聞くな。考えるな。

 耳を傾けちゃ駄目だ。

 こいつ、やっぱりおかしい。

 なにかしちゃったかなって、何をどうしたら昨日の今日でそんな言葉が出てくるの。


「高嶺さんのこと、困らせちゃったなら……謝るから」


 振り返らないから表情が分からない。

 けれど来瑠の心の中には、"彼女"が浮かべているだろう表情がありありと思い描けていた。

 薄く、にたりと歪んだ口元。深い愉悦を宿した紫影の瞳。

 逢魔ヶ時の廊下にこの上なく相応しい、魔そのものの顔をしたあいつが、今私の後ろにいる。

 だから相手をしてはいけない。もう、こいつと関わっちゃいけない。


 唇をぎゅっと噛んで、震える手で上履きを脱ぐ。

 心臓の鼓動がうるさくて、息苦しいほど早かった。


「ねえ、高嶺さん……」


 呼ぶな。私を見るな。

 許してあげるから関わらないで。

 そんな来瑠の思考は、しかし彼女には伝わっていないようで。

 足音が近付いてきて、来瑠の後方数歩分のあたりで止まる。

 外靴を履いて、すのこに置いたかばんを持ち上げて、後は走るだけ。



「くーちゃんっ!」


 

 だった。

 その筈だった。

 なのにその名前で呼ばれた途端に、頭の中がかっと沸騰する。

 本能が理性に敗北し、気付けば来瑠は振り向いて掴みかかっていた。


「こんなところでその名前で呼ぶな!!」


 誰かに聞かれていたらどうする。

 いじめている相手をあだ名で呼ぶ奇妙な構図など、女の園では格好の邪推の種だ。

 来瑠が彼女、風花に対してしてきた人前ではできない過激な虐待。倒錯した加虐の数々。

 そこに辿り着く者が出てこないとは決して言い切れない。

 だからこそ来瑠はこの時、恐怖も忘れて怒りのままに振り返って。

 肩を掴み怒鳴りつけて――そこで、はじめて風花の顔を見た。


「……なんで」


 風花は笑っていなかった。

 ひゅう、ひゅう、と息を切らして、汗で濡れた前髪を額に貼り付けて。

 捨てられた子どもみたいな顔で、来瑠のことを見つめていた。

 瞳がやけに輝いて見えるのはきっと夕陽のせいではないだろう。


 わからない。

 こいつ、何なの。

 ほんとに、何――。


「なんで、あんたがそんな顔すんの……」


 来瑠には風花がわからない。

 今までずっと思い通りにしてきた相手が、今は得体の知れない怪物に見える。

 なのに怯えたような、縋るような瞳で自分を見つめてくるその姿はおどろおどろしさとも強さともまったく無縁のそれで。

 この女が言葉一つで人間一人を殺める瞬間を間近で見ていたというのに、来瑠は。


 ――ぞくり。


 そんな、甘い疼きを、覚えてしまった。



◆◆



 運動場の片隅にある小倉庫の扉。

 文化祭準備期間で部活動が全て停止されているのをいいことに、来瑠はそこを選んだ。

 此処なら中から鍵もかけられる。いざという時、咄嗟にしらを切るのも昨日より遥かに容易な筈だ。

 来瑠はこんな時でもとても冷静だった。来瑠だけは、そう思っていた。


「ぃ、だ……!」


 小指の爪の隙間に、ゆっくりと針を差し入れていく。

 溢れ出してくる血で薄桃色の爪下が変色していくのがかわいらしい。

 よほど痛いのだろう、風花は地団駄を踏むように靴底で床を鳴らしながら悶えている。

 くりくりと針先を中で動かしてやれば、その声は悲鳴ですらない"音"に変わった。


「ッ、~~~~!!」


 必死の形相で何か訴えようとしてくる風花を横目に、来瑠はただ黙々と作業を進める。

 やがて小指の付け根まで達すると、今度は親指へ。

 小指の時よりは幾分マシだったが、それでもやはり耐え難い激痛らしく、彼女の口からはつぅ、と涎が一筋垂れ落ちていた。


「ふーちゃんってさ」


 かわいい。かわいい。

 身体の奥底が疼いて止まらない。

 もう関わらないと決めた筈なのに、来瑠はその瞳を熱っぽく染めていた。

 熱に浮かされた吐息が、風花の小さな耳に吹きかかる。

 それだけでびくんと震える姿に、また嗜虐心がくすぐられる。

 

「マゾなの?」

「ち、が……そういう、わけじゃ……っ」

「それじゃ何。一丁前に復讐鬼気取りでもしてるの?

 自分のこと散々いじめてきた女を、最高のタイミングで地獄に落としてやろうとかそういう感じ?」


 ふーちゃんは私の玩具だ。私に弄ばれるために生まれてきた存在だ。

 来瑠は昨日までそう確信していた。

 だけど今は話が違う。玩具なのは、もしかしたら自分の方かもしれない。

 こうやってしおらしく嬲られながらも、心の中では支配者気取りの馬鹿女と嘲笑っているのかもしれない。


 風花の顎を掴んで、強引に視線を絡める。

 紫の瞳が涙に濡れてゆらめき、それが倉庫の窓から入った夕陽に照らされてひどく美しい。

 口に手を伸ばして舌を絡め取り引っ張り出す。

 そのまま、その裏側に裁縫針をつぷ、と突き立てた。


「ひ、ぎゅ……!」

「答えてよ」


 ぜぇはあと荒い息を繰り返しながら、それでもなおこちらを見つめる被虐者。

 きゅんきゅんする。止まらない。ずっと見ていたい。こんなときにうざいな、と思う。

 ずっとこうして嬲って虐げて、手元において飼っておきたい。

 針が、裏から表へと貫通する。風花の血で濡れた先端が、ぬらりと唾液をまとった舌を串刺しにしていた。

 口の端から零れた鮮血がぽたりと制服に染みを作る。

 ああ、いけない。これは後で洗わせないとまた面倒なことになる。

 そんなことをぼんやり考えつつ、来瑠は風花に問いかけた。


「――ねぇ、なんで。

 どうして、何も言わないの」

「ぇ、う……っ……くー、ひゃん……」

「……まあ、これじゃ何もしゃべれないか」


 針を一息に抜き取れば、唾と混じった血が糸を引いた。

 甲高い、つんざくような悲鳴に思わず頭がくらくらしてしまう。

 この声で、どうして人が殺せるのか。

 こんなにも弱くて情けなくて、かわいいだけの声で――。

 

 暴走する気持ちを抑えきれず、来瑠は風花を押し倒し顔を近付けた。

 痛みで焦点の合っていない瞳を覗き込むようにすると、甘い毒のようなか細い吐息と呻きが耳朶を撫でる。

 今は、恐怖はなかった。自分の脳から、何か麻薬めいた物質が出ているのだろうという実感があった。

 むかつく。本当にむかつく。なんで、こんな奴に私が怯えなくちゃならない。


「私、くーちゃんのことは、殺さないよ」

「……じゃあやっぱりマゾなんじゃん。そうじゃなきゃ説明つかないんだけど」

「そうじゃなくて……。えと、あのね」

 

 風花の力が"本物"であることは、もはや前提だった。

 火箱風花は言葉一つで人を殺せる。

 そしてそれは多分、自分――高嶺来瑠だって例外ではないのだ。

 来瑠はそう考えていたが、自分の真上で詰問する彼女に対して風花はおずおずと答えた。


「私、嫌いな人のことしか殺せないんだ」

「……いや。だから、その嫌いな私をなんで殺さないのかって話を――」

「ううん。くーちゃんのことは、嫌いじゃないよ」

「は?」


 来瑠の眉根が険しく寄る。

 なんだこいつ。何を言ってる。

 口からは一筋の血、手は爪下が見るも無残に赤黒く染まって床にまで伸びている。

 いじめの領分を超えて、もはや拷問と呼んだ方が相応しいようなことを来瑠はずっと風花に対し行ってきた。


「だから、えっと……」

「早く言ってよ」

「うん、と……その……、ちょっと、面と向かって言うのは恥ずかしいんだけど……」

「言えって」


 不可解と苛立ち。

 気付けば来瑠は、昨日もしたように風花の首へ手をかけていた。

 そのまま絞め上げる。ただし、気道を完全には塞がない。また喋れなくしてしまっては元の木阿弥だ。

 風花の美顔がきゅうっと苦しげに歪む。

 

 ――ああもう、うざい。

 ――無駄にきゅんきゅんさせてくんな、馬鹿。


「わ、たし……。くーちゃんの、こと……すき、だから……っ」

「――――――何それ」


 そうまでして聞き出した答えは、来瑠の思考を空白で染めるのに十分すぎた。

 すき? 誰のことが? 私のことが? なんで?

 意味がわからない。理解できない。

 胸の奥で、何かがぐぢゅりと音を立てた気がした。

 熟れた果実を手で潰してしまったような、膿んだ傷口を圧迫してしまったような、そんな感覚があった。


 風花は、欠乏した酸素を荒い呼吸で取り入れながら泣いていた。

 流れた涙が色白の顔に綺麗な線を引いている。

 美術の教科書で見た、オフィーリアとかいう絵に似ているなと思った。


「……馬鹿すぎる。嘘つくにしてももっとマシなこと言いなさいよ」

「嘘じゃ、ないよ……。だって私、くーちゃんしか友達いないし……」

「それ本気で言ってるんだとしたら、あんた頭おかしいよ」


 そもそも友達なんかじゃないだろう。

 自分と風花の間にあるのは、一方的な利用関係だ。

 来瑠は風花を虐げて自らの欲望を満たす。風花へ支払う対価は何もない。

 好かれるようなことをした覚えは一度だってない。それこそ風花が本当に被虐趣味の持ち主でもない限りは、成立しない理屈だ。


「くーちゃんは、覚えてない?」

「……何を」

「ふたりで……隣町の、水族館に行ったこと……」

「っ、あんなの、あんたに――」


 信用されるためだったに決まってるじゃない。

 そこまで言いかけて、来瑠は口を噤んだ。

 確かにそういうことはしてやった。

 せっかく服のセンスはいいんだから、出不精してたらもったいないとか言って半ば無理やり連れ出したのを覚えている。

 だがもちろんそれは、あらかじめ信用されることで後で裏切ってやった時のショックを大きくしてやろうという腹積もりあっての行動だ。

 それを言おうとしたが、もしも風花が本当にあの時の施しを心からの好意によるものだと信じているのだとしたら。

 それが嘘だったと知った時、こいつはどんな行動に出るだろうと。そう思ったから、なんとかその先は言わずに踏み止まった。


「よかった。覚えててくれたんだ、くーちゃんも」

「あれだけで、今も私のこと友達だと思ってるってこと?」

「うん」


 頷く風花を見て、こいつ本当に馬鹿なんだ……と来瑠は心底呆れた。

 嘘をついてる風には見えない。そも、風花はそういうことができるほど器用な人間ではないことを来瑠は知っていた。

 つまり、昨日からあれこれ考えては一人で怯えていたのは全て来瑠の取り越し苦労だったということになる。

 ……一気に、身体の力がどっと抜けた。風花のお腹に座り込むと、「きゃふっ」と小さな悲鳴があがる。


「はあああああああ……」

「……もしかして――くーちゃんのこと、怖がらせちゃった? 私が、あんなこと言ったから……」

「……そんなわけないでしょ。なんで私があんたなんかにびくびくしなきゃならないの」


 嘘だ。

 だけど、風花に舐められることだけは嫌だった。

 絶対的に虐める側であり続ける自分が、標的に慮られるなんてこれ以上の屈辱はない。


 それはさておき、少なくとも当分の間は懸念していたようなことはなさそうだと分かり来瑠は安堵していた。

 もう風花からは手を引くつもりだったが、彼女が自分のことを"虐げてくることも込みで"友達と思っていることが分かった以上は、変に距離を取ろうとするのはむしろ逆効果だろう。

 これまでの関係を維持し、自分は今まで通り欲望を満たし続ければそれでいい。

 今までは対価のない関係だったのが、これからは風花は"友達"に構ってもらえることである種Win-Winの関係になる。変わるのはそれだけだ。


「なんかむかついてきた。色々考えてたのが馬鹿みたい」

「ぁ……えっと、やっぱり不安に――」

「だからそれはないっての! あぁ、もう――ふーちゃん、無駄に私の時間を浪費させた罰ね。

 ほら、靴。舐めて、綺麗にして。"友達"なんだもん、当然そのくらいできるよね」


 手近なパイプ椅子に腰を下ろして足を突き出す。

 風花は機嫌を損ねたくないのか、おっかなびっくりといった様子で靴へ触れると。

 そのまま律儀に口元まで運び、ぺろ、ぴちゃ――と、小さな舌を這わせ始めた。

 

 改めて思うことだが。本当にこの少女は、命じられると何でもしてくれる。

 死ねって言ったら死んでくれるんじゃなかろうかと、そんなことさえ思えてきた。

 こうまで上等な玩具を壊すほど無益なこともないため、今のところそうする予定はなかったが。


「……あのさ、ふーちゃん」

「ん、ちゅ……、なぁに、くーちゃん……?」

「ふーちゃんのその……言葉で人を殺す力って、あれどういう仕組みなの」

「……わかんない。でも、嫌いな人に対して、だったら――、っ。声さえ届いてれば、誰にでも効くと思うよ」


 漫画か何かのような話だ。

 実際に目にしていなければ、いじめられすぎて頭がおかしくなったのだと来瑠はそう考えたに違いない。

 しかもこの反応から察するに、風花は今まで何度も件の力を他人に使ってきたのだろう。

 使って、嫌いな人間を――排除してきたのだろう。

 それなのに未だにいじめられっ子な辺りに、火箱風花という人間の本質が出ている気がする。

 窮鼠は猫を噛むというが、猫を皆殺しにすることは結局できないのか。


「じゃあさ」


 まったくもって、宝の持ち腐れだ。

 風花以外の人間が持っていたなら、さぞかし薔薇色の人生を送れるだろうにと来瑠は思う。

 人が生きる上で、どうしようもなく立ちふさがる障害物。

 個人の努力ではどうすることもできない、現実という名の壁。縁という名のしがらみ。

 そんな一切合切を、声一つで排除することのできる力だなんて――それは、まさに夢の力ではないのか。


「ふーちゃんは、私のこと、本当に好き?」

「……ん。すき、だよ」

「そっか。あの堅物教師を殺してくれたのも、私のため?」

「あのままだったら、くーちゃん、学校にいられなくなっちゃうと思ったから」

「ふーん。じゃあふーちゃんは、"友達(わたし)"のことをいじめたり困らせたりする人のことは――嫌い、ってこと?」


 靴から、風花が口を離す。

 つう、と伸びる糸が黄金色に染まり美しかった。

 その顎下に、爪先を持っていき。

 くい、と顔を上げさせる。女王様と奴隷のような構図だった。


「……うん。嫌いだよ」

「ほんとに?」

「どうして、そんなこと聞くの?」

 

 高嶺来瑠は、自分が人からどう見られるかを非常に気にしている。


 人前で恥をかくことより不快なことはこの世にない。

 他人に憐れまれることも、能力を低く見積もられることも大嫌いだ。

 人間は強くなければいけない。

 強くなければこうして人を虐げることもできないし、何より他の人間から見下される。

 上から目線で自分の人生を寸評されて、何を反論しても冷たい目で一瞥されるばかりだと知っている。


 彼女はそんな人間だから、わざとこの構図を作った。

 自分が"乞い願う側"に堕ちないように。

 風花に、万に一つも勘違いをさせないように。

 女王と奴隷の立場をはっきりさせたその上で、彼女は口を開いた。


「あのさ、ふーちゃん」


 禍福は糾える縄の如し。

 絶望とは、ひとえに希望の裏面でしかない。


「私の父親、殺してくれない?」


 微笑んでそう言った来瑠の顔が、風花には大人の袖に縋って震える幼子のように、見えた。

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