声枯らしの君に

a1kyan

こがらし

 火箱風花は、いてもいなくても変わらないような人間だ。


 少なくとも高嶺来瑠はそう認識していたし、俯く彼女の姿をくすくす笑ったりわざと見ないようにしている連中はいても助け舟を出す人間はどこにもいない辺り、その認識で合っているだろうと思っている。

 友達は誰一人いない。声は小さくて、話しかけてやっても何を言っているのか分からない時すらある。

 勉強はそれなりにできるようだが運動神経は悪い。

 休み時間は毎日机に突っ伏して寝たふりをして過ごし、友達がいないから連絡網代わりに使われているクラスのSNSグループにも一人だけ名前がない。そのため重要な連絡を一人だけ聞いておらず、忘れ物をして教師から叱責される姿を見るなんてのもしょっちゅうだ。

 そんなどうでもいい人間に自分が居場所と価値を与えてやっている。風花をいじめの標的に選んだ来瑠は本気でそう思っていた。


 とはいえ風花の方にだって問題はある。

 ただ大人しくて人付き合いが苦手なだけならばせいぜい日常的に陰口を叩かれるだけで済んでいたかもしれない。

 しかし彼女はそうではなかった。スクールカースト下層の人間として身の程を弁えていなかったのだ。


 彼女を虐げている来瑠の目から見ても相当な上澄みと認める他ない可愛らしい顔立ち。

 それでやけにメルヘン調な、言うなればふわふわとした印象を受ける服を着て登校してくる。

 性格と見た目がちぐはぐな女。それは多感な時期の少女たちから反感を買うには十分な理由だったし、虐げるターゲットを探していた来瑠にとってもちょうどいい大義名分になってくれた。

 その結果が今の、もはやこの1年C組で恒例となりつつある光景だ。

 トイレに立った間に大量の使用済み生理用品をかばんに詰め込まれて、途方に暮れたような顔で俯いている風花の両肩に後ろから手を乗せる。



「え~っ、ちょっとちょっと火箱さぁんっ。だめじゃん、みんなごはん食べてるのにこんなの広げたらさあ」

 

 びくっ、と反応する細身の身体が来瑠の中に得も言われぬ満足感を分泌させてくれる。

 かばんの中身をひっくり返して机の上にぶちまければ、それらの放つ匂いが昼休みの教室に解き放たれた。

 露骨に顔を顰める者、舌打ちをする者。風花という"どうでもいい人間"が、一転して"目障りな腫れ物"に変わる瞬間だった。


「ていうか重すぎでしょ、どんだけ使ってんの」

「ほんっと。かばんに詰めて持ち帰るとかすごいねー、ネットで売っておこづかい稼ぎ?」

「もう、結菜も莉子もそんな意地悪言っちゃ可哀想でしょ。

 火箱さんは大人しい子だから就職とか難しいだろうし、今から少しでも変態相手に商売して貯金しておきたいんだって」


 ぽんぽん、と頭を撫でるだけで気の毒なほど身体を反応させてしまう姿が来瑠の心の柔らかい部分を満たしてくれる。

 くすくすと辺りから起こる失笑や嘲笑は来瑠にとってどうでもいい雑音だった。

 来瑠は別に、皆と思い出作りがしたくてこんなことをしているわけではない。

 徹頭徹尾、一から十まで自分のためだ。

 そうでなければわざわざ毎日アイデアを絞って、手を変え品を変え雨の日も風の日もありったけの悪意をけしかけるなんて面倒なことはしない。


 来瑠は"いじめ"のプロだ。

 少なくとも彼女はそう自認している。


 その人は何をされれば嫌がるのか。

 抵抗してくるタイプか。抱え込むタイプか。

 すぐに極端な行動に走ってしまわないか。

 どう飴と鞭を与えれば、長持ちするか。

 物心ついた頃から学校という箱庭を舞台にこの娯楽へ勤しんできた来瑠には、それが手に取るように分かるのだ。

 たゆまぬ人間観察と品定め。時には自ら歩み寄って、友人関係を結んでまで相手の弱い部分を探り出す。


 火箱風花の時もそうだった。

 大人しく人見知りの激しい彼女に親切を装って近付き、わざわざ休日を使って小旅行に連れ出したこともある。

 水族館の帰りに自分の手を握って、感極まったような顔で何度もお礼を言っていた姿は今思い出しても笑えてくる。

 そうまで手間暇かけて分析し、こいつは遊べると確信してから、満を持して来瑠はいじめという名のゲームを始動させた。

 ただ――こと風花に限って言うなら、彼女は今までの標的たちとは少し話が違っていた。


「それ、ちゃんと授業始まる前に捨ててきてね。

 次の授業はむっつりすけべの関谷だし、火箱さんだってあのジジイに自分のナプキン嗅がれたくはないでしょ?」


 そう言って、肩に顔を乗せる。

 パフォーマンスとしての命令でカモフラージュしながら、耳元に口を近付けて、静かに囁いた。


「今日は旧校舎の体育倉庫ね」


 ふるり、と華奢な体躯がもう一度震える。

 「かわいそ」と外野から声が漏れた。

 でも、誰も助けになんて入りやしない。

 女の園でボス猿に睨まれることは即ち社会的な死と同義だ。

 そのリスクを冒してまで助ける価値が、火箱風花にはないから。


「ひーばこさんっ。お返事は?」

「……っ、ぁ――――は、い……」

「よろしい! じゃあほら、さっさとその臭いの捨ててきて?」


 匂い立つ生理用品を詰め込まれたかばんを抱えて、涙目で走り去る姿をくすくす笑いながら見送る。

 授業が始まるまで、あと二分もない。どんくさい風花のことだ。恐らくチャイムには間に合わないだろう。

 

「相変わらずエグいこと考えんねー、来瑠。火箱に何の恨みがあんのさ」

「恨みなんてないよ。ていうかそういう言い方心外なんだけど。まるで私が火箱さんのこといじめてるみたいじゃん」


 物理の関谷は生徒から最も人気のない教師の一人だ。

 お気に入りには猫撫で声でだる絡みをする癖して、それ以外の生徒には生活態度や成績のことでねちねち粘着する。

 しょっちゅう授業に遅刻する風花の印象は案の定良くないようで、彼女は関谷の説教もといストレス発散のほぼ毎度の犠牲者だった。

 びくびく萎縮しながら叱責される姿を想像しながら口元を緩め、来瑠は腰巾着の級友達へ続ける。


「まともに人と喋れない子なんだから、ちょっとキツめのいじりでもしないと目立たせてあげらんないでしょ。

 そういう結菜だって、火箱さんいじめ……こほん、いじって発散してる癖に」

「あんたに言われちゃお終いだよ、この人でなし」

「あははは、ひっどいなあもう。ほら、そろそろ関谷のエロジジイ来るよ。私達まで怒られちゃ堪んないし、静かにしよ」


 来瑠は、クラスの絆とか団結とか、そんなことには毛ほども興味がない。

 彼女の眼には、今話していた取り巻きの結菜も含めて全員が平等に金魚の糞に見えていた。

 自分という中心に、リーダーに付き従って機嫌を取るしか能のない金魚の糞ども。

 強いて役割を挙げるとすれば、趣味(いじめ)の幅を広げてくれるサポート役だろうか。

 

(別に、女王様がやりたいわけじゃないんだよね――)


 依怙贔屓教師が入ってきて、授業開始の号令が行われ。

 その三十秒後に息を切らして戻ってきた風花が、またいつものようにねちねちと虐められている様を愉しげに鑑賞しながら来瑠は独りごちる。

 

(女子校でカリスマやったってしょうがないし。

 普通にしてたら友達なんて勝手にできるし、内申稼ぎに必死になるほど意識高いわけでもないし。

 みんなで仲間意識持って青春するとか、正直今どき寒いと思うし)


 みんなで一丸になって一人を虐めるのが楽しい、そう考える人間もいるかもしれない。

 しかしやっぱり、来瑠はそうではなかった。

 来瑠がみんなの中心たろうとする理由は、もっとごくごく個人的なものだ。


「……楽しみだなー、放課後」


 五分ばかし説教を喰らい、ようやく着席を許された風花の今にも泣き出しそうな顔をちらりと見て。

 来瑠は、誰にも聞こえないような小声で小さく呟き笑った。



◆◆



 ――私には、秘密がある。



◆◆



「遅いよ、ふーちゃん」

「ご、ごめんなさい……。関谷先生に、職員室に呼ばれちゃってて……その、今日も遅刻。しちゃったから」


 自分は、たぶん何か心の病気なのだろう。

 来瑠がそう自覚したのは、幼稚園の年長組になるかどうかという頃だった。


「えー、なにそれ。お前のせいで遅れたんだよって言いたいわけ?」

「っ! ち、違うの――そうじゃなくて、っ。えと、えと……」

「そうじゃなかったら何なのかわかんなーい。ていうかふーちゃんさ、何回教えても覚えないよね」


 ひとつ下の級の子を、なんとなく抓ってみた。

 理由は覚えてない。こうしたらどうなるんだろとか、そんな些細な思いつきだった気もする。

 そしたら火がついたみたいに泣き出して、先生が駆けつけてきても何が起きたのか上手く説明できないのかぎゃあぎゃあ泣き叫ぶばかりで。

 そのどうしようもない憐れさを見た時、来瑠の幼い心はとくんと脈打った。

 今までの短い人生の中で、ただの一度として感じたことのない感情だった。


 "弱いもの"を、虐めたい。

 何も抵抗できない相手を、一方的に痛めつけたい。

 みっともなく泣いて、鼻水垂らして、震えて怯えて、でも何もできなくて。

 終いには自分の顔を見るだけでその場から動けなくなってしまう――自分は"弱いもの"なのだとどうしようもなく学習したその姿が、来瑠にとってはどんなに趣味の合う友達よりも愛おしくて堪らなかった。

 学習性無力感とか言うのだと、大きくなってからそう知った。

 何もできない、何をしても変わらない。そう悟り、絶望したが故の無抵抗。

 されるがまま、虐げられるままのかわいい姿。

 来瑠はそれが大好きだった。この世の何よりも愛おしいと、心からそう思えた。


「二人だけなんだし、いつもみたいにくーちゃんって呼んでよ。私達、友達なんだから」

「ぁ、ぐっ……! ぃ、あ゛っ……!!」

「言えないの? ねえ。ねーってば」


 足で腹を蹴りつけ、壁に縫い止めてぐりぐり内臓を圧迫する。

 濁った悲鳴を漏らしながら身を捩る姿は、幼い頃、針で無理やり箱に留めてやった芋虫のそれによく似ていた。

 

 来瑠はこの趣味をやめようと思ったことはない。

 ないが、代用が利かないか考えたことはある。

 虫。カエルやネズミ。子猫や、子犬。

 でもダメだった。前三つは脆すぎて話にならなかったし、何より気持ち悪さが勝って乗れなかった。

 後二つは悪くはなかったがやっぱりどうにも物足りない。

 人の泣き声と怯える姿以上に来瑠の心を満たしてくれるものはなかった。

 そこで来瑠は、発想を変えた。

 生き物の種類を選ぶのではなく、人の種類を選べばいいと。そう考えたのだ。


 何をされれば嫌がるのか。

 抵抗してくるタイプか。抱え込むタイプか。

 すぐに極端な行動に走ってしまわないか。

 どう飴と鞭を与えれば、長持ちするか。


 独自の判断基準で選定された標的を壊れるまで虐め抜く。

 火箱風花は、そんな方針が確立されてから数えて13人目の標的だ。

 そして――


 高嶺来瑠にとって、未だかつてないほどの最高の玩具になってくれた。


「くー、ちゃん……! くーちゃん、くぅちゃんっ……!!」

「よろしい」


 とろりと口元が緩む。

 至福のあまり涎が垂れそうになるのを堪えるので必死だった。

 じんわりと自分の身体の中に幸福の脳内麻薬が広がっていくのが分かる。

 

「……っ、はぁ、は、へぁっ、あ……」


 ふにふにのお腹を抑えながら息を整える姿。

 さらさらの髪の毛は壁の埃で汚れていて、物置か何かに捨て置かれたアンティークドールを思わせた。

 ふわふわの私服はその性格とはまるでミスマッチのくせして、その見た目とはひどくよく調和していて。

 いつもは下ろしてる前髪をかき上げてやれば、来瑠だけの知っている風花の顔が露わになる。


「ふぅ、うっ、けほ、こほ」


 大きな瞳は、血なのか何なのか薄い紫色の色調を湛えている。

 戸惑うように泳ぐその眼差しは、まるで宝石のよう。

 決して言葉には出さないが、自分などより彼女の方がずっと可愛い。来瑠はそう思っていた。


「はーっ、はぁっ、は……。

 ごめん。ごめんなさい、くーちゃん……許して……っ」

 

 来瑠は確かに加虐趣味だが、誰でもいいというわけではない。

 傷つき苦しんでいる姿を楽しむのだから、見た目が良いに越したことはないのだ。

 こればかりは持つ者の悩みである。

 女の園である女子校の中でもひときわ目立つルックスを持っている来瑠は、今まで自分よりも上を行く可愛い玩具を調達できた試しがなかった。

 だからいつも大なり小なり妥協を抱えながら事に及んでいたのだったが……故にこそ、風花と出会った時の高揚とときめきは尋常ではなく。

 その上、彼女が自身の定めた基準を満たす"いじめられっ子体質"であることを突き止めた時には大袈裟でなく運命の実在を感じたものだ。


「腕、出して」

「え」

「大丈夫だよ。いい子にしてたら、痛くないから」


 だから、いつにもまして丁寧に近付いて準備をした。

 友達になって、連れ回して、心を開かせて。

 ある日突然、手のひらを返す。

 クラスの公共敵に落として、一日中虐げて、二人きりで呼び出してまた虐める。

 

 いじめのプロを自称する来瑠が、自分にできる限り最大の調理方法で仕上げた極上の被虐者。それが風花だ。

 苦労の甲斐あって、風花はとても素敵ないじめられっ子に仕上がってくれた。

 懐から取り出したカッターの刃を出しながら、来瑠は青ざめた風花に笑いかける。


「それに、ふーちゃんってちょっとメンヘラっぽい雰囲気あるしさ。リスカ痕とかあってもそんなに疑われないと思うんだよね」

「で、でも……っ、血が出るのは、ちょっと……」

「え。じゃあ、血が出なかったらいいの?」

「……!?」


 刃を引っ込めて、目の前の細い首を右手で握り締めた。

 かっと目を見開いて、かは、ふは、と声にならない声を漏らす風花。

 あと少し力を込めれば、込め続ければ、この小さないのちが終わるのだと考えるだけでお腹の奥がぞわぞわする。

 

「テレビで見たんだよねー。首を長い間絞められてると、頭に酸素が行き届かなくなって、障害が残っちゃうんだって。低酸素脳症っていうんだよ」

「ぁ、か……! く、くぅ、ちゃんっ、やめ……!!」

「動けなくて喋れないふーちゃんのところに通ってさ、お見舞いしながらいじめるのも楽しいかなって思うんだ。

 床ずれしたところを指でぐりぐりしたり、まぶた無理やり開かせて乾かしたり、考えるだけでわくわくする」

「ひ……」


 かちかちと、風花の歯が音を立てる。

 振りほどこうにも運動不足の細い手では役者が足りなかった。

 うっとりと微笑みながら絞め上げる来瑠がどうやら本気らしいと思ったのか、風花はきゅっと目を閉じ――


「っ、う、ぅうぅうううう……!」


 震える細腕を、差し出した。

 そのしぐさに「あは」と来瑠は声を漏らす。

 そして首を抑える手を離すと、風花の白い肌にカッターの刃をそっと添えた。

 つぷり、という小さな音。溢れてくるルビー色の雫。すぷぷぷ、と静かに刃を動かしていく。


「ぃ、たい……! 痛い、くーちゃ……っ、いたい……!!」

「我慢がまん。暴れると血管切れちゃって、出血多量で死んじゃうかもよー」


 そう囁けば、痛みに身を捩っていた少女はぎくりと怯えて動きを止める。

 それでいいと、来瑠は笑った。

 風花は素直で、怖がりで、従順だ。

 カッターを握る手に力を込めて、ぱっくりと開いた傷口を広げて、埃の積もった床に風花の血潮を滴らせる。


 本当はもっと切りたかったけれど、本当に万一の事態になってしまったら困る。

 名残惜しい思いを堪えながら刃を抜いて、それからくちゅりと音を立てて傷口を指でなぶった。


「ぃ゛……! や、やあっ、やめ……ひ――……!!」

「さっき自分が遅れたこと、私のせいにしようとしたでしょ。だからお仕置き」

「あやまる、からっ、謝りますからっ、くーちゃ、やめて、ぇ……!!」

「え~? 声が小さくて聞こえないなー。ふふ、明日はカラオケで発声トレーニングでもしよっか? まち針たくさん準備しとくね」


 来瑠は笑う。

 無邪気に。幸せそうに。

 その笑顔のまま、ぽっかり空いた傷に自分の唾液をとろりと流し込んでいく。

 ばい菌が入っちゃったら大変だね、おててなくなっちゃうかもね、なんて囁きながら傷口を揉みほぐす娯楽に、来瑠は改めて彼女との出会いへ深く感謝した。

 

 ああ、最高だ。

 こんなにも素晴らしい玩具は他に知らない。

 ずっと一緒にいたいと、ずっと手元に置いておきたいと本気でそう思う。

 さっき言った、寝たきりにして毎日通って虐めたいという言葉だって本心だ。


「――ふぅ。今日は、このくらいにしておこっか」

「っ……! はぁ、はぁ、はあっ……!!」

「あれ。ありがとうございました、は?」

「あ、ありがとう……ございましたっ……!!」

「ふふ、よろしい」


 来瑠は基本、標的のその後なんて知ったことではないと思っている。

 中には今になるまで不登校のままの奴もいるし、多分自殺だろう形でこの世から逃げ出した奴もいる。

 でも来瑠の心は欠片も痛んだことはない。壊れた玩具の気持ちに思いを馳せる奇特な趣味は来瑠にはなかった。

 そんな来瑠でも、風花が壊れてしまう日のことだけは考えたくなかった。

 この幸せが壊れてしまうだなんて、考えただけでも気分が憂鬱になってくる。

 

「ほら、手当てしてあげる」

「……うん、くーちゃん」


 この可愛い玩具には一日でも長く、長持ちしてほしい。

 消毒液をまぶしたガーゼで傷口を拭ってやると、風花は痛むのかぎゅっと眉根を寄せて目を閉じた。

 血をあらかた拭ったら、後は包帯を巻いてやるだけ。

 

 明日は何をしよう。

 今から待ち遠しい。

 さっき言ったように、カラオケにでも連れ出そうか。

 マイクを口に咥えさせて、見えないところを針でぷちぷち刺そう。

 きっとさぞかしかわいい声で鳴いてくれる筈だ。そうに違いない。

 口笛を吹きながら、唇を噛み締めて俯く風花の腕を指先でなぞる来瑠の後ろで。



「――何してるんだ、お前ら」

「え」



 体育倉庫の扉が、開いた。



 時間が止まった錯覚を覚えた。

 馬鹿な。あり得ない。

 此処は旧校舎だ。立ち入り禁止の旧校舎には、清掃の用務員でさえほぼ立ち入らない筈なのに。

 なんで。なんで――


「それ……お前がやったのか? 高嶺」

「ぁ――いや。その」


 振り返った先では、強面で知られる生徒指導の教師が信じられないようなものを見る目で立っていて。

 その視線は、風花の傷口と。床に落ちている、血まみれのカッターナイフに注がれていた。


「え……っと。違うんです、これは……私がやったわけじゃなくて、その」

「じゃあ、なんなんだ? これは」


 来瑠はミスをしない。

 少なくとも今までは、本当に最初の頃を除いてはした試しがなかった。

 

 だから、来瑠には言い訳をするという経験が著しく欠如していた。

 万一の時に対処するスキルの欠如。それが、此処に来て表面化する。

 いつも淀みなく言葉を紡いで人を惹き付け/傷付ける口は、上手く回らず。

 今まで来瑠が虐げてきた者達がそうだったように、途切れ途切れの拙い言葉ばかりがこぼれ出ていく。


「ふーちゃ――火箱さん、怪我したみたいで。だから、手当てしてあげてて」

「なあ、高嶺」

「ほんとなんですって! 火箱さんもなんとか言ってよ、ちょっと……」

「……聞こえてたよ。火箱の声も、お前の声も。

 怪我して、手当てもされてない火箱に……お前、何のお礼を要求してたんだ?」


 ――――どうしよう。


 どうしよう、どうしよう、どうしよう……!

 来瑠の頭の中は、至福から動揺へと移り変わっていた。

 見れば、教師のその眼は既に話を聞いてくれる人間のそれではない。

 軽蔑と、憤りと、そして嫌悪。三つの感情が綯い交ぜになった、そういう眼。

 未来の破滅を幻視して、ひゅ、と来瑠の喉が情けない音を鳴らした。


「せ、先生……! ちがうんです、これは――くーちゃんがやったんじゃ、なくて……!!」


 風花が自分を庇い立てするという予想外の事態すら、混乱を極めている彼女の頭には入らない。

 教師の腕が、来瑠のそれを掴んで。

 ぐっと引っ張ると、体育倉庫の外へと引きずり出す。

 

「話は後で聞くから、そこで少し待っててくれ。すぐに保健の先生を呼んでくるから」

「わたしが……私が、自分でやったんです! それを、えと、くーちゃんが助けてくれて……」


 拙い弁解は、当然ながら教師の足を止めてはくれない。

 来瑠はその場に尻餅をついた。

 そんな彼女を引きずるようにして、教師が連れて行く。

 惨めな姿だった。叱られる子供のような、ひどく無様な格好だった。


(どう――しよう。え、どうするの、これ)


 終わる。

 ぜんぶ、終わる。

 初めての恐怖が、来瑠の背を伝った。


 正直に話したら親に連絡だけは勘弁して貰えるだろうか。

 いや、そんな甘い措置で終わるわけがない。

 絶対に、家に電話がかかる。親へ話が伝わる。


(なんで、私が)


 なんで今日に限って。

 なんで、今まで大丈夫だったのに。

 支離滅裂な思考はしかし一から十までが高嶺来瑠の人生の終わりを告げていて、知らず来瑠はその瞳から涙を伝わせていた。


 やだ――やだ。このままじゃ、このままじゃ。

 ぜんぶ、ぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶぜんぶ……



「――――先生」



 混乱。

 恐慌。

 絶望。

 そんな来瑠の耳に、ひどく乾いた声が聞こえた。

 それが風花の声のものだということに、最初来瑠は気付かなかった。

 教師は足を止めない。

 それを確認すると、風花は小さく溜息をついて。


 そしてもう一度、口を開いた。




「死ね」




 こてん。

 そんな音が似合う、間抜けな調子で大柄な生徒指導教師が真横に倒れた。

 ごぎっ、と嫌な音が響いた。

 壁に激突した頭が変な方向を向いて、あんなに厳しい表情を浮かべていた顔面が間抜けに口を開いて硬直する。

 眼球もそれぞれあらぬ方向を向き、やがてごぼ、ごぼと音を立てて白い泡が口から溢れ出してきた。

 

「――――――――、」


 彼の手から解放され、来瑠はぺたんとその場に座り込む。

 しかしその顔に、安堵の色はなかった。

 何が起きたのか分からない。そんな顔。

 

「――――――――え、?」


 倒れた教師は、ぴくぴくと痙攣を繰り返しているけれど起き上がる様子はまったくない。

 そもそも、この方向に首が折れ曲がった人間はもう二度と動かないというのが人間という生き物のセオリーなのではないか。

 恐る恐る、手を伸ばして。人差し指で教師の身体をつついてみる。

 もちろん、動かない。反応を返すこともなく、脱力した下履きから嫌な匂いのする液体が滲み出てきて来瑠は反射的に手を引いた。


「……は……?」


 ――死んだ?


 意味が分からない。

 どうして、こうなった?

 理解の追い付かない来瑠は、助けを求めるように風花の方を見る。

 彼女が最後に口にした言葉を、来瑠はなんとか覚えていた。


 死ね、と。風花は自分を助けに来た筈の教師へそう言って。

 その言葉に従ったみたいに、教師は転んで動かなくなった。

 二つの事実が意味するところを来瑠が理解するよりも前に、風花は「にへら」と来瑠に向けて笑った。


「くーちゃん。立てる?」

「ふ……ふー、ちゃん……?」

「早く行こ。一応血だけ拭いて、誰か来る前に帰っちゃおう」

「なに――なに言ってるの。人が……し、死んでるんだよ」


 いや、違う。


「ふーちゃん……こいつに、何したの……?」


 その問いかけに、風花の顔から表情(いろ)が消えた。

 そこにいるのはもはや、来瑠に虐められては苦悶の声を漏らし身を捩っていた被虐者ではない。

 これは、誰。

 来瑠が心で抱いた疑問には、答えは返らず。

 けれど口に出した疑問には、風花は答えを返してくれた。


「私ね、くーちゃん」


 何かを諦めたように、色のない顔に口元だけの笑みを浮かべて。


「言葉で人を殺せるんだよ」


 ――わん、と。

 どこかで、犬の鳴く声が聞こえた気がした。



◆◆



 ――私達・・には、秘密がある。



◆◆

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