どちらを優先するべきか

三鹿ショート

どちらを優先するべきか

 学生時代に恋人だった女性は、今では一人の母親だった。

 だが、彼女の相手は私ではなく、他の男性である。

 交際関係に至り、共に日々を過ごす中で、我々は友人関係であった方が良いと互いに気が付いたために、納得の上で別れていた。

 ゆえに、現在でも交流は続いている。

 彼女に娘が誕生した際も、自分のことのように喜んだものだ。

 親戚のように彼女の娘を可愛がっていたのだが、何時の頃からか、彼女の娘の身体に痣や傷が見られるようになった。

 まさか、彼女が自分の娘に暴力を振るっているのだろうか。

 私の知っている彼女は、そのような行為とは無縁の人間だったはずだ。

 だからこそ、原因は彼女ではなく、父親の方にあるのだと考えた。

 しかし、彼女の娘が母親の姿を目にすると、一瞬だが、表情が固まったところを、私は確かに目撃した。

 人道的な思考を有しているのならば、彼女の娘を救うべきなのだろう。

 幼い彼女の娘には、未来が待っているからだ。

 だが、私にとって、彼女という人間もまた、同じくらいに大事な存在だった。

 彼女から娘を取り上げた人間が私だと知れば、関係は絶たれる可能性が高い。

 今後も彼女と過ごしたい私にとって、その道は避けたかった。

 まさに、板挟みの状態である。

 過去からの関係を維持するか、未来ある少女を暴力から解放するか。

 即座に答えを決められるような問題ではなかった。


***


 日に日に傷が増えていく彼女の娘を見るたびに、私の心は痛んだ。

 このままでは、その生命まで奪われてしまうかもしれない。

 彼女も阿呆ではないために、自分の娘の傷について、私が知らない振りをしているとは考えていないだろう。

 娘に暴力を振るってしまうことを私に相談してくれれば良いのだが、彼女は常と変わらぬ態度で私に接していた。

 しかし、何時までも何もしないわけにはいかなかった。

 このままでは、私以外の人間が、彼女の娘のために動くことも考えられるからだ。

 見知らぬ人間に介入されるくらいならば、私がなんとかした方が良いに決まっている。

 私は覚悟を決めると、彼女の自宅の押し入れに隠れ、暴力の瞬間をこの目で確認することにした。

 現場を押さえれば、彼女も否定することができないに違いない。

 押し入れに隠れていたことについては文句を言われそうだが、気にしている場合ではなかった。


***


 果たして、そのときはやってきた。

 彼女が己の娘の頬を平手で打ち、暴言を浴びせている現場に、私は飛び出した。

 当然ながら彼女は驚いた表情と化すが、私が彼女の行為を責めると、その顔は怒りへと変化した。

「夫の愛情を独占しているのですから、恨むのは当然のことでしょう」

 耳を疑うような言葉だった。

 つまり彼女は、自分の娘に嫉妬したために、暴力を振るっているということである。

 確かに夫に対する彼女の愛情は深いものであると感じていたが、まさかここまでとは、想像もしていなかった。

 唖然としている私の背後に、彼女の娘が逃げるように隠れた。

 その姿を見て、火に油を注いだかのように、彼女の怒りが増した。

「今度は、私から大事な友人までも奪うつもりですか」

 彼女は台所に置いていた包丁を手に取ると、迷うことなく私の方へ向かってきた。

 だが、標的は私ではなく、私の後ろに存在する己の娘だろう。

 私は彼女を止めるために、もみ合うような状態と化した。

 その最中、いつの間にか彼女から包丁を奪っていた私は、それを彼女の腹部に突き刺していた。

 目を見開きながら倒れた彼女の周囲に、赤い液体が流れ出ていく。

 私は、その場に膝をついた。

 友人を刺してしまったことに対する罪悪感に襲われ、然るべき機関に逮捕される未来を想像し、身を震わせた。

 動くことが出来ない私の身体に、彼女の娘が抱きついてきた。

 不安そうな表情を浮かべる彼女の娘を見て、私は正気を取り戻した。

 彼女の娘を選んだのならば、その未来を守るために行動しなければならない。

 私は彼女の娘に対して、部屋に戻っているようにと伝えると、彼女の死体を処理することにした。


***


 彼女の夫には、真実を話すことはなかった。

 ゆえに、彼女の夫は、彼女が行方不明になったと思っているらしい。

 真実を伝えることができないことに申し訳なさを覚えるが、彼女の娘の未来を守るためには、仕方の無いことだった。


***


 母親に似て、彼女の娘は美しい女性に育った。

 同時に、学業成績も優秀であり、国内屈指の大学を卒業した後は、有名企業への就職が決まった。

 就職を祝っていると、彼女の娘は私に身体を密着させながら、

「あなたがあのとき救ってくれなければ、今の私は存在しませんでした。どれほど感謝しても足りないほどです」

 そのように言ってくれるのならば、私も罪を犯した甲斐があるというものだ。

 口元を緩めていると、彼女の娘は不意に沈んだ面持ちと化した。

 何事かと問うたところ、彼女の娘は逡巡する様子を見せた後、

「実は、最近になって、父親が私に妙な視線を向けるようになっているのです」

 彼女の娘が想像するに、行方不明になった妻を忘れることができない夫は、その妻と外見が似ている娘と妻を混同するようになってしまったのではないか、ということらしい。

 考えられる話ではある。

 それならば、彼女の娘が、何時己の父親に襲われるのか、分かったものではない。

 彼女の娘もまた同じことを考えているらしく、その表情は不安そうだった。

 だからこそ、私は彼女の娘に告げた。

「私が何とかしようではないか」

 その言葉に、彼女の娘の表情が明るくなった。

 感謝の言葉を述べながら抱きついてきたため、私は恥ずかしくなってしまう。

 再び罪を犯すことになろうとも、私は引き返すことができない道を進んでいるのだ。

 たとえ彼女の娘に利用されていると分かっていたとしても、気にすることはない。

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