第7話
王子は、門の外へ出ることはなかった。
ジャッジはサイレンスよりも王子を優先し、サイレンスもそれが正解だと褒めてやる。
果ての世界と接着している世界、特に大きく角度の変わった生命の樹と城の付近に近い世界は、天地がひっくり返ったような崩壊を見せていた。
だがどの世界も果ての世界近郊は荒地であったり辺境であったりしたおかげか、生命への甚大な被害は免れたようだ。
サイレンスは魔力の回復を待ちつつ世界の境界を見て回り、復旧の必要がある地域などの詳細を魔法省へ報告した。
王子は初めて接する「外の世界の人の生活」に興味よりも惧れを持ったようで、狩りのあとや採取のあとはしきりに胃に納まる予定の食材に触れていた。
動物を捌いた時はジャッジにしがみつき、同じようにしないでほしいと必死に煌声を零した。
食料と相棒の違いを伝えるのは難しく、サイレンスは簡潔に「ジャッジは食べない」と言って安心させたくらいだ。
それでも「ジャッジに似たモノ」を食べないと生きていけないことを説明し、いただいた命を無駄にすることなく敬い感謝していることも知ってもらう。
サイレンスが当たり前にしていることに王子は驚き、時には不快感を見せもしたが、外の世界の人の生き方だと学習し自らの知識だけで非難をしたり判断をしない。
その思慮の深さと一歩も二歩も引いた場所からの観察眼は、英雄であるサイレンスすら唸らせた。
「キミは本当に相手をよく見ている」
「……」
ちょっとした気配りや理解に感心するサイレンスに、王子はいつも謙虚に頭を振る。
毎度髪がふわふわと視界に踊り、明るさを取り戻した果ての世界の陽光に反射する様に目を細めた。
王子は眠らず、幼木の傍に居座る。
サイレンスとジャッジは王子の傍から離れず、寝袋に一緒に詰まり眠る。
寝ている様を見て王子はどんなことを感じているのか気になるが、眠りの浅くなったタイミングで目を薄く開けば気配なくジャッジを撫でていることもあるから嫌な気分ではないだろうと思った。
「また成長したね!」
毎日決まった時間に同じ場所から観察をしているが、目に見えてわかる成長の速度に嬉しさすら込み上げてくる。
同時に果ての世界とその周辺世界の再建と探索を理由に先延ばしにしていた、煌声に従う依頼の完遂報告をしなければならないことも感じて、この世界を出ることに関しては頑なに拒否する王子の小さな背中を見た。
すべてから棄てられた世界。
その中で、あらゆる世界の循環を支えている生命の樹が再生した。
これでまたこの世界は、栄華を極め古の縁から繋がる旅の道標になる。
その頃には、王族に連なる者たちも戻りあの城で暮らすに違いない。
(だが、彼の居場所はない)
咎人として生命の樹の中に閉じ込められ、破壊を望まれた存在。
いくら生命の樹を再生した本人であると説明をしても、彼に刻まれている咎人の証が消えることはない。
その彼を、戻ってきた王族たちは許すだろうか。
「キミが、この世界を出たいと願うことは……ないのだろうか」
絶望され、悪意に塗れ、視界と声を封じられ、咎人として消されようとしていた。
ここに残っていれば、また同じことが繰り返される可能性がある。
彼の能力は生命の樹が再生する時に発揮されるものだ。
常日頃の何某を司る能力ではない。
英雄だが部外者であるサイレンスが説明したとしても、誰もが半信半疑で咎人を見るだろう。
「見せたい世界がたくさんある」
「……」
「それに、キミに施されたすべての呪縛から解放したい」
驚くように振り返った。
拒否するように、サイレンスの言葉を訂正するように激しく頭を振る。
「キミはこの世界のなにも裏切らず、生命の樹直系の王族として立派な能力を持っている。だから咎人である必要はないんだ」
「……、…………!」
「キミに向けられた絶望も悪意も、本当は些細な不幸で」
サイレンスの腕を掴み、それ以上言葉にするなと訴えるように頭を振る。
必死になっているのは前髪の奥に見える眉間のしわで伝わった。
わかっている。
王子がなぜそこまで必死にサイレンスの思考を咎めようとするのか。
全世界において一度咎人と確定された対象は覆されない。
そして咎人を庇ったり護ることは、大罪として相当の責め苦を強いられる。
最悪の場合、庇った本人すら咎人となる。
コッコッと乱暴に奥歯を噛み煌声を吐き出した王子は、呪いのような布の目をサイレンスに向ける。
禁忌に触れることはない
捨て置くも選択
庇護の価値などない咎人は忘却すべし
「いや、忘れられないよ。私はどんなことがあろうとも、キミが受けている呪縛は解かれて当然だと誰に向かっても訴える」
「……」
風の英雄は各世界で知られている。
どの世界でも救済を叶えた英雄団の一員として讃えられている。
少しばかり特異な行動に出たとしても、即座に王子が恐れるような事態にはならないはずだ。
サイレンスが接してきた人々は時に悪質な面を見せるが基本的には善良であり、難しいことを捏ね繰り回して面倒を起こす者もいない。
共に笑い共に楽しみ、そうして培ってきた絆は王子を咎人から解放したいと訴えるだけで切れたりはしない。
きっと、理由を一番に聞いてくれるだろう。
「もしキミが新しい生命の樹の持つ循環能力に影響を与える存在であるのなら、たくさんの世界を身をもって知る権利がある。厄災で生まれる悲しみや憎しみと言った負の感情だけでなく、喜びや愛情のようなあたたかな心に触れることも重要だ」
「……」
「苦楽は常に表裏一体であり、どちらかが溢れるようなことはない。要を失い傾くような世界のままで、膨大に発展し続けている全世界を支え祝詞で厄災を祝福に変えることは難しい。この世界も変わらなければ」
古くから続く世界と言えど、周辺世界の変化に順応しなければ「今」から未来を支えることはできないだろう。
果ての世界が枯れ棄てられてからでも外世界は変化し続けている。
その世界に、果ての世界が追いつき再び正常な祝詞で祝福を与えるためにも王子は羽ばたく必要がある。
育むだけではなく
蓄積された記録の体感と整理が必要
健全な祝詞放出のため能力の復帰に時を削る
「記録の体感?」
「…………」
歯を噛み合わせた王子だったが、煌声は出さなかった。
掴んだままのサイレンスの腕を伝い手を見つけると、骨太な指を細く小さな指で包み込む。
見下ろす王子の純白の髪が青白く輝くと同時に、慣れてきた再現が広がった。
厄災にみまわれている。
どこの世界かもわからないほど原始的な獣が人々を襲い屠っている。
その中で戦う姿がいくつか見られ、その中のいくつかが血粉に消える。
薄く視界がぼやけ、焦点が戻るとまた別の厄災が猛威を振るっていた。
転々と、繰り返される厄災の記録が切れ間なく繋がっている。
(膨大な落葉の記録を……追体験しているのか?)
誰かの視界で、超大型獣の暴走によって跳ね上がった巨大な岩に潰れる。
誰かの視界で、相対した人物の大剣で首を刎ねられる。
誰かの視界で、三つ巴の戦いの中子どもを庇いながら魔獣に喰われる。
恐怖も痛みも、瞬間の感情も、怒涛のようにサイレンスの中に流れ込んできた。
負に偏った思惑が粘りのある闇を生み出している。
完全なる漆黒。
サイレンスが見た悪夢の闇そのものだ。
内側らか身体に鉛を絞り出されているような重い感覚に足元がグラつくが、それを支えるのは王子の存在。
どんなに細く冷たい指だとしても、サイレンスの手を握りしめ離さない強さは過去に抱かれた母の腕の中のようにあたたかく柔らかい。
「…………均衡ではなく……止まることのない流動、なのか」
記録された厄災を繰り返し再現し、その中に在る闇と不幸を真逆である光と幸福へ変換しているのだと悟った。
絶望を眺め体験しながら、彼は自らに負う傷を顧みず慈悲という名の光を未来の時間に残そうとしている。
彼の優しさは、あの悲劇が起きるまでに育まれたのだとすれば。
悲劇を起こさず彼を慈しみ愛し続けていたならば、王族は生命の樹の崩壊を見守り完全再生の奇蹟を目にしただろう。
たったひとつの選択を誤り、彼らはこの世界を棄て、王子は咎人として残された。
そのことから想像するに、恐らくは、幸福が厄災へと変わる記録も繰り返さなければならないのだろう。
王子にとってあの出来事は記録のひとつになっていくのかもしれない。
「……それは、哀しい」
「?」
「キミにとって、キミが受けた仕打ちが他の記録と同じようにただ巡るだけのものになってしまうのは哀しいよ」
「……」
「感情は、忘れてはいけない。いいかい、どんなに辛い記憶もどれほど美しい思い出も、自分にしか感じなかった想いがある。それはけして記録にしてはいけない」
細い指を包み込み返し、片膝を折り王子と同じ目線になる。
そこに王子の瞳はないが臆さずサイレンスを見てくれるようになった王子の顔があった。
「キミだけの想いを、大切にしてほしい」
それはかつて英雄の名を賜った折に宴を催してくれた父王の言葉。
想いは強くあるほどに真実を見抜き、選択を惑わせる悪意を跳ね除けると。
サイレンスは口を噤んだ王子を見つめ、微かに頷く瞬間を見逃さなかった。
「ウォンウォン」
「ジャッジが戻ってきたか」
「ウォン!」
サイレンスが目を覚ますとすぐに周囲を警戒しに出かけるジャッジが見回りを終えて戻ってきた。
二人を見つけて嬉しいのか、弾むように駆けてくる。
立ち上がろうとしたサイレンスに飛びつき、盛大に尻尾を振る。
「見回りありがとう」
「ウォン」
「……」
求められるがままジャッジの頭を撫でていると隣から腕が伸びた。
大まかな位置は把握できるが、少し離れると目的地がわからず頼りなさげに指が泳いでいる。
そっと下から手を支えてジャッジの頭まで誘導してやれば、王子もジャッジを褒めるように頭を撫でた。
「食事にするよ。ジャッジも食べるかい?」
ジャッジは、果ての世界に入ってからあまり食事をしていない。
それが不思議で首を捻っていたサイレンスに、この世界が魔の者にとって無償の魔力を提供しているからだと王子から説明された。
奈落に近い地下世界の魔の国で発生した魔の者が、初めて他の世界との接点を持つのがこの果ての世界だ。
魔の者は果ての世界で詳細に調べられ研究され、膨大な情報のひとつとして個体が記録される。
そうしてどの世界に適しているか判断され送り出されるそうだ。
古代魔獣たちも同じだと聞かされ、人の少ない時代の選別は凄かったのだろうとひとり想像した。
食べるよりも王子といたそうなジャッジに笑い、サイレンスは干し肉に噛りつく。
紅茶があればよかったが、ここで望めるのは清らかな水だけだった。
ジャッジを伴い同じくらいの丈になった生命の樹の傍に戻っていく王子。
新しく芽吹いた葉は輝かしい純白だ。
「……」
掌を見た。
王子の指の感触が残っている。
そこに風を呼べば快く応えて集まってくれる。
十分ではないが、戻る際の回復も見込めば魔力はそれなりに回復している。
果ての世界を出ても、最果ての街まで心配はないだろう。
英雄として、急を要する依頼が魔法省に舞い込んでいるのなら、それに応じる使命がある。
だが。
王子をひとり残して去ることはできない。
必ず戻ってくるという約束は王子の安全を約束するものではない。
「私の代わりに、彼を認める誰かがいれば」
面倒見のいいテイヒュルアンバーやこの世界を知っているロンヒオノシエラ、ロンヴロンディであれば留まってくれるかもしれない。
だが、彼らにも彼らの文化があり咎人に対するそれぞれの決まりがあるだろう。
それを無視してまで王子を守ってほしいとは言えない。
誰を候補に挙げても同じだ。
咎人は全世界共通で忌み嫌われる存在。
英雄であろうと竜族であろうと、咎人は咎人でしかないだろう。
どんなに咎人ではないと説明をしても、恐らくそれは変わらない。
「クゥン」
サイレンスの心情を察したのか、ジャッジが駆け寄り身体を擦りつけてきた。
頭を撫で、振り返っている王子を見る。
幼い顔立ち、折れてしまいそうな細い体躯。
柔らかな髪、禍々しい目を覆う布と首から呪いを流す呪縛布、手足首に残る呪縛鎖の創、傍に立つ生命の樹の凛とした輝き。
「私が連れ出すと決めたんだ」
「ウォン」
「誰かに助けを求めるべきではない」
「ウォンウォン」
「キミもそう思うだろう、ジャッジ」
「ウォォオン!」
合いの手のように吠えぴょんぴょんとジャンプするジャッジに笑い、サイレンスは王子を再び外の世界へ誘う決意を固めた。
果ての世界が再生をして、世界水準時間で一週間が経った。
生命の樹はサイレンスと同じ高さに成長し、立派な「樹」の風格を滲ませつつある。
影響されるように城の周辺に新鮮な緑が茂り、鳥たちが戻ってきた。
崩壊していた石畳や民の住まいは、いつでも生活が始められるくらい元通りになった。
用水路には美しい水が流れ、木陰になった場所には小さな魚も見え始める。
あとはこの文明を誇る人が戻れば、果ての世界は本当の意味で復活を遂げるだろう。
防具装備も剣も持たず、城の周辺を散策し、幻の中で見た道を歩く。
初めに出た場所は共用の洗い場だったようで、よく見れば城への道も分岐していた。
整備された石畳の道を進み、賑やかだったことを思い出す。
あの賑わいが戻るのもすぐだ。
こんなにも美しく整えられた故郷を、人は容易く忘れない。
白皙の城の壁を見上げ、開け放たれている門をくぐる。
風が心地よく頬を撫で、サイレンスを導くように先へと流れる。
ついてきたジャッジがガーデニング地区を通り、テイヒュルアンバーが祝いの席で夢中になって食事をしていた場所を目指していた。
「料理の匂いが残っているのだろうか」
しきりに嗅ぎ回っているのを和やかに見つめ、あの時に辿り着いたバルコニーを発見した。
風に身を任せ上昇すると、誕生した王子を祝福していた室内の光景を外から思い描く。
「煌声の輝きは本当に美しかった」
心からの祝辞だったのだろう。
喜びを共有し、王子のこれからに幸福を祈った。
今はガランとした空間だけを陽光に見せている。
そこに自分の影がぼんやりと入り込んだ。
あの時に見た王子の瞳の色が忘れられない。
目がどうなっているのかと布を取ろうとすると拒絶され、眼球が存在しているのかどうかすらもわからない状態だ。
心配をしていると言ったところで、王子には余計なお世話なのかもしれない。
己の状態に不便を感じないのは刺激が少ないからだ。
たくさんの人がいる場所に連れて行き、視覚や話すことが必要になると実感すれば目を覆う布も呪縛布に守られた鉄印も取り払おうとするだろうか。
咎人としての自分を受け入れている以上、サイレンスが与えられた罰を棄てろと言うのは違うかもしれない。
だが、しかし、と彼の処遇に対してもどかしさが込み上げてくる。
見つめる部屋の中に入り込んだ影を眺めながら、どうにかして状況を変えたいと思う。
こんな風に簡単に、王子の心にも入ることができれば。
彼が頑なに外の世界へ出て行かない理由を知ることができるだろうし、解消案も提案することができるのに。
ひんやりとした風が髪に絡み、サイレンスはそこから離れた。
「ジャッジ、戻ろう」
「ウォン!」
「飛ぼうか?」
「キャン」
捕まえられる前に逃げるように走り出すジャッジに笑みを浮かべ、サイレンスは見通しのいい石畳みの道路上空を飛行する。
「先に行くよ!」
ジャッジを追い越し、一路生命の樹を目指す。
しっかりと養分を吸い水を蓄えた木々を通る風は健康的だ。
ほのかに熱を帯びる城の壁を木々が冷やした風が撫でる。
遠くに赤い鈍色が広がる空だったが、植物たちは別のところから光を吸収し呼吸をしている。
この世界に生命の樹に連なる王族が戻れば、植物たちはより健やかに世界を包み込むだろう。
人工物がなくなり、湿り気のある土が少しだけ見える苔生した大地。
そこに轍のように細い道が緩やかにうねりながら生命の樹の麓に伸びている。
知識を求めた冒険者や英雄が、何度も繰り返し往来したのだろう。
その痕跡すら、王子の能力は再生させた。
サイレンスと同じくらいの高さになった生命の樹が、しばらく飛べば見えてくる。
傍には王子が立っていて、純白の髪が葉と同じように揺らめいていた。
サイレンスの飛行音が聞こえるのか、真っ直ぐにこちらを向いている。
「今日を、説得の最終日と決めよう」
話をして首を縦に振らなければ、王子を残し世界を出よう。
魔法省への報告や事務処理、新たな依頼を確認して、咎人に対する減刑に明るい人を捜す。
半年に一度は様子を見に果ての世界にくるようにしよう。
外の世界の話をたくさんしよう。
そうしていつか、共に冒険できるように。
言葉を選びすぎて言い出せない、なんとなくの夜。
日の沈まない場所にある世界だからこそ、夜闇は訪れない。
正確に時を刻む懐中時計で時間を把握するサイレンスは、魔獣的感覚で夜を察したジャッジが見回りに向かうのを見送った。
王子は生命の樹の傍にしゃがんでいる。
今が話す絶好の機会だ。
そう感じて、サイレンスは王子に声をかけた。
「王子、聞き飽きたかもしれないけれど話をしよう」
「……」
「諦めが悪くて申し訳ないが、私はキミを外の世界に連れ出したいんだ。たくさんの美しい光景、優しい人々の笑顔を見てほしい」
「…………、……」
何度説得されても無駄だと言いたげに頭を振る。
「生命の樹の記録整理が終わったあと、キミはどうするのだろうか」
いくら膨大だと言っても記録にも終わりはくる。
新しい厄災の情報も更新されていない今、記録整理が終わればすることはなくなるだろう。
「他になにか、問題があるのかい?」
閃きに近い言葉が零れた。
他人のことばかりを思いやる王子だからこそ、サイレンスに伝えていない重大なことがあるのかもしれない。
旅人のように気楽に世界を出ることはできないと想定はしているが、王子の決意次第だと思っていたところもある。
問いの答えのように、王子は唇を噛んで俯いた。
「問題が、あるんだね」
「……」
「私では解決できない問題だろうか」
自分の前で両手を揉むように弄る姿を見つめながら、王子が答えてくれるのを待った。
王子も、サイレンスは納得できるまで質問を続ける人物だと学習している。
だからこそ、難しくても質問には答えてくれるはずだ。
不意に王子の手が持ち上がり、再び下ろされる。
荒れが改善された唇は、何度も開閉を繰り返した。
どう説明をすればサイレンスが納得し諦めるかを考えているように見えるが、単に話をわかりやすく説明するための道筋を考えているのかもしれない。
王子の言葉を待っている間にジャッジが戻ってきた。
二人の間に流れる空気を察したのか、いつものように甘えたりせずサイレンスの傍らでに座り、やがて寝そべる。
ようやく王子の奥歯が鳴らされ始めたのは、そこからさらに時間が経過した頃だ。
いつもであれば就寝している時間だったので、気にしてくれたのかもしれない。
樹木には根を張る礎が必要
「キミも同じだと?」
サイレンスの質問に頷いた。
そしてコツコツと言葉を続ける。
直系の性質が絡む
礎は強固でなければならない
「……礎があれば離れられると?」
礎と成るは困難
咎人が傷を負わす権利はない
サイレンスは腕組みをし、王子の煌声が語った意味を解読してみる。
礎には傷にも耐えうる強固さが必要と言うことだろうか。
無機物では風化し滅する
有機物には強制的な従属を余儀なくする
すべて咎人に許されない権利
「そうか、無滅有属の法則か」
主に、召喚魔法を使う術士たちが学ぶ大切な法則だ。
気配の薄い精霊などを特定して固定するための法則で、魔法石などの無機物に宿す場合は安定し宿す能力値も最大限使えるが摩耗やすり減りで消費が早く、寄生木や魔獣、己自身に宿す場合には絶対的な従属で永劫の呪縛をするが能力は不安定になり易いと説いている。
その上で、制約させたい相手が重要であったり貴重であるほど不安定だとしても有機物を使用する鉄則を確定させた法則として、全世界共通認識として知らている。
「私がキミの礎になろう」
「……」
「安心していいよ。これでも英雄だからね」
緩く頭を振る。
俯いて唇を閉ざし、前向きに応えるサイレンスに諦めの言葉を吐かせるための言葉を噛み合わせている。
太古の絆は容易ではない
あまりに無謀
自らを知らぬ愚者の行為
直系との制約への覚悟を棄てよ
咎人へ従属など英雄が傅くに相応しくない
「キミは咎人ではない。無滅有属の法則が容易に使えないのは承知の上だ。有機物に対しては一度きりの制約になる。失敗をしたら、ただの愚か者だったと私を笑うといいよ」
「……、……!」
「私はね」
サイレンスを諦めさせようとする優しい王子の手を取り、片膝をつく。
隣の生命の樹が広げた葉をざわめかせ、隙間を通る風が王子の髪を軽やかに揺らせた。
薄く闇の広がる中にあっても、純白の髪は水面のように煌きを瞬かせている。
「今すぐにでも、キミを外の世界へ連れて行きたいんだ。そう決めているし、けして諦めない」
「……」
「私を、私の知る外の世界を、信じてほしい」
「!」
「キミが一族から受けた傷は誰にも癒すことはできないだろう。けれど優しい人々は確かに存在していて、そういった彼らから受け取れるあたたかさを直に感じてほしいと思っている」
「…………」
「ウォンウォン! ウォン!」
「ジャッジも優しいよ」
ジャッジの自己主張に苦笑し、寄ってくる彼の頭を撫でた。
握りしめている王子の手を取り、ジャッジの頭に乗せてやる。
「私の英雄としての能力も、信じてほしい」
「……」
一般的な人間の思考として、自分の行動は本人の意思で判断され行われる。
だが彼の場合自己の意思は薄く、常に他人への影響力で判断しようとしている。
大人でも逃げ出したくなるような仕打ちを受け、親からの愛情も打ち砕かれながらもなお、見たこともない不特定多数の生命を気遣う。
礎という特殊な存在を必要とする旅立ちに心は踊らず、サイレンスの申し出を渋るのは当然かもしれない。
(こんなにも聡い王子に、外世界の素晴らしさを見せてあげたい。そこにある歓びを感じてほしい)
自らも幸せになっていいのだと、知ってほしい。
「独りにならないで」
無意識に零れた。
王子は顔を上げなかったが、肩がピクリと反応した。
「私を礎にして、たくさんの素晴らしさに触れてほしい。キミの歓びが、私の歓びになるように」
賛同してくれるかのような風がサイレンスの頬を撫でた。
いい風だ。
あたたかく、柔らかく、澄んでいる。
「私の歓びが、キミの歓びになるように!」
「!」
正面の王子を抱えると、軽く地を蹴った。
何が起きたのかわからずしがみついく王子に笑い、小さくなるジャッジに手を振る。
「風で感じるかい? ここはキミが守り続けた世界で、これからはキミと共に成長していく未来だ」
悪意のある布で覆われた瞳に、光景を視認できるとは思わない。
だが、彼の持つ感覚はこの世界を見るだろう。
ふわりと生まれる王子の気配は、風を纏うサイレンスにさらなる魔力を与えてくれた。
緩やかに上昇して、僅かに加速する。
「今までと同じ、けれども今までと違うこの世界で生命すべてへの歓喜を祝福できるようになるだろう。それができるのは、唯一キミだけだ」
「……」
「けれども、歓喜を知らぬ者が歓喜を正しく祝福できるとは思えない」
新しい空に吹く風は、サイレンスの魔力を我が物のように受け入れてくれている。
それは、サイレンスの辛い記録を通った祝福がすでに果ての世界に広がっているからだろうと想像がつく。
誰かの辛い闇が誰かの祝福となるよう、公平に淡々と記録を整理し調整するのが彼の能力。
古から続く果ての世界で誰も見たことのない、記録もない能力を携えているからこそ、外の世界に触れてほしい。
下方でジャッジが吠えながらついてきているのが見えた。
飛ぶのが苦手なのに、今ばかりは一緒にいたいようだ。
早く降りてきてくれと訴えるような吠え方をしている。
ジャッジの行動に笑みを浮かべ、抱えた王子がいい判断をしてくれるようにと願った。
誰かがくるまで、何かが生まれるまで、この世界でひとりきりなんて放っておけない。
(だが、決めるのは彼自身でなくては)
服がぎゅっと握られる感覚があった。
風に乗る感覚に慣れていなければ、抱きしめただけのバランスでは不安だったかもしれない。
「早く飛びすぎたかな?」
速度を落とし身体を反転して空を向き、胸の上になった王子に声をかけた。
出会った頃のジャッジのように小さくなっている。
「怖かった?」
「……」
明確に頭が振られた。
「きついことを言ってしまったが、キミが生まれた時代から見れば何もかもが変わっている。英雄も英雄としての役目を終え、一般的な冒険者になったりのんびり暮らしていたりするんだ。古代魔獣も姿を消し、魔力を持たない動植物が発見されている。そんな世界の厄災は、記録してある厄災と同じだろうか」
再び頭を振ってゆっくりと顔を上げると、目を覆う布に描かれた大きな単眼の黒い瞳がサイレンスの視界に映し出された。
何者かの慟哭のように、それは未だに王子を縛りつけている。
王子の発言を待ったが口元に動きはない。
それどころか、少しだけ色の悪くなった唇に慌てた。
「すまない、寒かったかな。すぐに降りよう」
「……」
「私の思うところを聞いてくれて、ありがとう」
ささやかな感謝の言葉に、王子は小さな煌声を生んだ。
熟考の刻を今しばらく
前向きな言葉に、サイレンスは「仰せのままに」と答えた。
それから数日。
サイレンスの行動に不貞腐れたのか、ジャッジはしばらく傍に寄ってこなかった。
代わりのように王子の傍にいて、王子のために周辺を見回っている。
拗ねている時のジャッジには美味しいご飯が一番効果があるが、生憎果ての世界の中にいる間は食いしん坊の虫が大人しい。
言葉で謝罪をしてもそっぽを向くジャッジに苦笑するしかなく、お手上げ状態でサイレンスは見守っていた。
「テイヒュルアンバー君は、王子のことを覚えているだろうか」
顔を見たとは話していなかったので、知らないかもしれない。
「ロンヒオノシエラ君やロンヴロンディ君なら、知っているかな」
果ての世界の近くを通る竜の二人であれば、もっとこの世界の事情を知っているかもしれない。
それよりも二人は再会できただろうか。
彼女たちを見たいと言っていたニヒレオーンを連れたラビッケルと、バルゴルスは合流できただろうか。
どんなに些細でもきっかけがあれば大きく強い絆になる可能性がある。
人の出会いとはそういうものだ。
彼自身の目で、美しい光景をたくさん見てほしい。
各所にある有名な料理を口にすることは難しいが、見栄えや香りなら楽しめるはずだ。
食べ物を前にしたジャッジの嬉しそうな様や食べっぷりも見てもらいたい。
熟考のための期間を要請した王子は、あれからずっと生命の樹の傍から離れないでいる。
意思の疎通をしているように身を寄りかけ、たまに慈しむように若々しくしなやかな樹皮を撫でていた。
純白の葉は一日を待たず枝を隠すほどに生い茂り、風に吹かれて水面のように美しく輝いている。
「今はただ、待つしかできない……か」
辛抱強く結果を待つことすら、英雄にはよくあることだ。
サイレンスは王子を見守り、ジャッジが機嫌を直してくれるのを待ちながら、元に戻った魔力を使って空を飛び、愛剣で鍛錬しながら時間を過ごした。
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