第5話

 ぐう、と腹の虫が鳴るのを聞いた。

 待ちくたびれたジャッジが耳元でわざと鳴るのを聞かせているのかと、うっすら戻ってきた意識で思う。


(違う、ジャッジはここにはいない)


 反射的に瞼が上がり、吸い込んだ息の中に何かが混じって咳き込んだ。

 咽ながら身体を起こして、それまでの経緯を思い出してみる。

 未知数の出来事に見舞われた時は、まず自分が何者であるか記憶しているかを確かめることが習慣になっていた。


 風の英雄、名はサイレンス。

 魔法省の依頼で、果ての世界へ生命の樹を支えるか滅するかを見極めるためにやってきた。


(記憶に抜けはない……認知レベルは正常だ)


 身に起きたことを思い出した後は、身体に異常がないかを確認する。

 服に乱れもなく、外傷もない。

 なくなっている物もなかったが、唯一剣があらぬ場所に転がっていた。

 振り回していた勢いが止まらぬまま意識を失い手を離してしまったのだろう。

 拾いに行き、目立った刃こぼれもないことに安堵しながら鞘に納める。


 振り返って動きを止めた。

 それまで見ていた苔と蔦の密集地帯がなくなり、その中に存在していた卵状の物が見覚えのない物へ変わっていたのだ。


(玉座?)


 古めかしくはあったが立派な石数段を上がった先に、生まれる場所を決めた繭のような塊がある。

 警戒して遠巻きに周囲を見て回り、一周した地点でまた立ち止まった。


 苔や蔦は剣で伐採してしまったと仮定できなくもない。

 だが、硬い物体を無我夢中だったとしても斬り壊すことは不可能だ。


 近寄りながら記憶していた苔や蔦、物体がどうなったのかを視界の中で探る。

 どれも散り散りになり、硬い殻は砕けたような痕跡で散らばっているが、すべてが既に枯れ果てて干からびていた。

 記憶の終わり頃に目撃した青白い光の形跡もなく、そこら中に広がっているのは純白の糸のような物だけだ。

 どこが始まりでどこが終わりなのかわからないほどの量で広がっている細い繊維は、サイレンスの足元までも及んでいる。

 見渡す限りを埋め尽くしているそれを摘まんだサイレンスは、見えていなかったり青白く光る筋だったりした物の正体であると確信した。


 幾重にも要因が重なり、意識下で別物に見えていたのだろうか。


(真実の姿、と言ったところだろうか)


 視線を遠くに投げれば、純白が絨毯のように美しく煌めいている。

 抱きしめて眠れば幸せな夢を見ることができそうなほどに無垢で柔らかな輝きだ。


 焦点を塊に戻して、動物なのか植物なのかを区別しようとした。

 しかし今までの経験は役に立たない。

 慎重に触れて、感覚で確かめるしかないだろう。


 階段に施されていた色飾りが、果ての世界に入ってすぐの夢で見た赤子を包んでいた産布と同じだと不意に気がついた。

 やはり、守護のような意味合いがあるのかもしれない。


(あの子は、もうこの世界にはいないだろうな)


 生命の樹が枯れ始め、住人は遅かれ早かれこの世界を棄てたはずだ。

 祝福を受けていた王子も、恐らくもう離れているだろう。


 サイレンスは純白をそっと退けて階段に腰を下ろし、現れるクッキリとした色飾りを撫でる。

 深く更けた夜の色を基調にした、見慣れない原色たち。


「どんな意味があるのだろうか」


 ふと小鳥を作り出し、蓄光水晶の明るさを取り戻した宙へと放つ。

 周辺以外に変化はあるかと思ったが、小鳥は輝く矢となり真っ直ぐに残光を残し消えて行った。

 矢の気配を読み、片手で撫でている階段に視線を落とす。


「様々な世界をずいぶん回ったと思っていたが、知らないことはまだまだ多いものだ」


 純白の繊維が輝く床を見つめ、未だにここが本当に生命の樹の内部かもわかっていないことに苦笑が漏れる。


「キミはこれが何か、知っているかい?」


 塊の正体も知らないのに、触れている原色の意味を思わず問いかけた。




 原色であるほど能力は高く

 色彩が豊かであるほど強大な力を秘めている


 色と彩は個体識別と同じ

 誰ひとり同じ色も彩も持っていない

 形も然り

 模様には秀でた能力を意味する形が宿る




「!」


 自分の下から深い声音が響き、サイレンスは剣の柄を握り立ち上がった。

 周囲には誰もいない。

 敵意も感じず柄から手を離すと、手に絡んだ青白い糸に気がつく。


「知的意識のある物体なのか……?」


 塊を見てから、足元の模様を見る。

 どれも均等で細やか、角のある形や円形だけで作られた造形もある。


「これはもしや、霊格高圧縮の立体魔法陣……」


 純白を広く退け、模様を見る視点を変えると形が浮き上がってくる。

 亜機の世界で見た、鬼獣に宿印した魔法陣と似た不可思議な模様が途方もない緻密さで展開し始めた。

 すべてが重要、すべてが生きている魔法陣は魔力の上位である霊格の地図を描き出していく。


 サイレンスはそれを、見守るしかできない。


 見る間に見上げるほどに展開した魔法陣は、瞬きすら勿体ないと思うほどに美麗だった。

 触れれば露と消える脆さと解けきる間際の氷のような儚さが、星の導きのような輝きとなって静かに佇んでいる。

 聞こえないはずの軽やかな音すら聞こえてきそうな華奢な造りは、サイレンスの懐中時計の歯車のように確実なる時を流れ続けていた。


 サイレンスの魔法の師はそれを「可視する魂」と呼んだ。


 立体魔法陣の展開は、形成する存在がいるからだ。

 つまり、生きている。

 階段の上にあるアレは。


「果ての世界の住人なのかい?」


 繭塊を見る。

 手に握った青白い細糸を頼りに、返事を待ったが反応はない。


 目にした立体魔法陣を目利きするならば、相当価値のある能力を秘めている。

 特殊であるかどうかは同レベルの魔方陣と比較し深く読み解かなければわからないが、あれだけの緻密な魔法陣が幾重にも展開する霊格は滅多にない。


(そんな秀でた能力を持つ人物を閉じ込めるのはなぜだろうか)


 チカッと目の奥に閃光が灯った。

 息を吸い込むように記憶が後退し、ここにきてから見た夢が断片的に戻ってくる。


「咎人?」


 まさか。




 絶望を呼んだ

 悪意を生ませた

 永遠を巡る枷に留められた


 見せたすべてが偽りだった




 再び聞こえた重々しい意識の声は急激にしわがれ、老いた艶で自らの死期を覚悟したような沈黙に潜った。


「偽りかどうか、私にはわからない」


 手に握る青白い筋をしっかり握り、伝わることを願いつつ言葉を重ねる。


「私の持っていた煌声は、キミの声?」


 答えはない。

 だが、剣に馴染んでしまった色は消えていない。


 冷ややかな青み、玲瓏な白、二つが混ざり合い煌めく様は宝石のようだ。

 その輝きがサイレンスの剣と塊を繋げていることも、あの煌声の主ではないかと推測させる。


「煌声は魔法のようなものなのかい? 原則原理は存在するのだろうか?」


 繭を隔てた向こう側に「会話ができる相手」がいると認識すると、またしても好奇心が湧き上がってきた。

 英雄の勘として、ここに危険はない。

 そうなるとサイレンスは繭からの回答がくることを期待せざるを得ないのだ。




 霊格の言化

 声音と霊格の融合は生命の樹の子孫にもたらされた祝福

 生命の樹の煌めきは人の解さない世界の言霊

 全世界に保有された節理の源

 煌めきと繋がる誇り高き証




「キミたちの声は、生命の樹を通して輝きを得ているのか」


 かくも美しき生命の煌めきは、直系である子孫により可視化できる声となる。

 生命の樹は長寿を理由に植物の形状を選択しただけで、生命を想像する起源であり生命を育み続ける存在なのだろう。

 すべての源、すべての帰す場所。

 それが果ての世界の本当の役割なのかもしれない。


「ここはとても魅力的な世界だ。もっと早く訪問できればよかったと思う」


 門をくぐった直後に見た光景を、本当の時間として有したかったと素直に感じた。

 人々が楽しく踊り、なによりも笑顔に溢れていた。


「……私の育った国も、皆が明るく優しく、笑顔の絶えない国だったからね」


 貧困の差は多少あったものの、民は誰も憎まず風を愛し暮らしていた。

 悪意は、なぜ、風の王国を襲ったのだろう。


「彼方の世界の中央に位置した風の王国は、私が不在の間に蝕まれた」


 未だに理解ができていない。

 納得もしていない。

 帰る故郷がなくなったという悪夢を受け止めている。

 それだけだ。


「国を襲った悪意が、他の場所でも哀しみを生み出しているだろう。早く止めなければと思うばかりだ」




 悪意により染められた




「……え?」




 王は英雄を残せたことを誇りにした

 民は英雄が不在だったことを喜んだ

 悪意だけが英雄を逃したことを憎んだ


 定められた悪意

 滅びは付加された運命


 生命の樹には世界の厄災を記録とする




「───……ッ!」


 床にある純白が青白く輝いた。

 一面に広がった青の輝きに目を奪われ息を飲んだ次の瞬間、闇が圧し掛かってきた。

 悪夢の前兆と同じか、それ以上の闇。


 構えたサイレンスの視界が突如として拓け、懐かしの故郷が広がった。

 ちょうど門の前だ。

 彼方の世界と風の王国を繋ぐ結界としての門の前、サイレンスはそこに悪意を見つけた。

 旅人の姿で入り込んできた悪意は、外周に悪意の小さな種を落として回った。

 朗らかな民と薄笑いで会話をしながら、死んだ瞳で射抜くように何度も城を見上げる悪意にサイレンスは拳を握る。


(この人物が……たったひとりで、風の王国を……)


 それほどまでの憎悪という悪意。




 悪意の目的は英雄だった

 厄災はそれを否定した

 生命の樹は否定を肯定した




「私に不満があるなら、なぜ私を狙わない」


 たったひとりへの不平のために、国を滅ぼすなど狂気に他ならない。

 だが、人に恨みを買われるような行いに記憶はなく、なぜ悪意がサイレンスを標的にしたのかはわからなかった。


 悪意は時間をかけ民に馴染み、職を得た。

 あたかも国を愛する民のような振る舞いで、少しずつ悪意の種を落としていく。


(呪詛……なんと卑劣な)


 古の呪いを使う悪意は、こともあろうか神職に就いた。

 その言葉は明朗で、誰しもが素直に受け止め心の中に浸透させた。

 毒だとも知らず。

 疑いもせず。

 人々の優しさを踏み躙りながら悪意は標的の居場所を探っていたが、英雄がどこへ向かったのか誰も知らなかった。


(当然だ。私は黙って、円城の世界を揺るがす大聖戦に赴いた)


 無事に帰ってこれるかわからない旅だったから、待たれたくなかったのだ。

 帰りを待って、待ちくたびれて、哀しみを覚えてほしくなかった。

 風の王国の皆には、変わらず空を愛し笑っていてほしいと思っていた。


(それが災いし、皆を不幸にしてしまった)


 もし、と思う。

 あそこに自分がいて悪意に襲撃され命を落としたとしたら、風の王国は今も美しい存在であり続けたのだろうか。

 誰かに円城の世界へ行くことを告げていたら、悪意は王国を離れたのだろうか。


 だが誰にも告げない選択をした。

 悪意はサイレンスの帰りを罠を張り待ち続けた。

 そうして悪意は本来の目的を果たせず、王国は本来の運命ではなかった崩壊の道を歩んだ。


 サイレンスの判断から王国の崩壊まで、厄災が悪意を否定した結果だと言う。

 厄災の判断に賛同し、運命は風の英雄が悪意に滅ぼされることを否とした。

 なぜ?


「生命の樹が、厄災の判断を肯定した意味……」


 復讐をしろということではないだろう。

 英雄が私欲私怨で能力を使うことは堕落に匹敵する。


 サイレンスの視界で、悪意の呪詛は闇の如き圧倒的な気配で王国を支配した。

 英雄の行方を知らない民や王族に苛立ち、無能だと罵り厄払いだと無実の人々の肉体を痛めつけた。

 その所業は悪鬼のようで深淵の慄きに心が重くなる。

 少しずつ綻びが生まれ始め、隙間ができ、人々の心が荒んでいく。

 誰の所為でもなく、ただ、皆が憂鬱な気持ちを抱いて日々を過ごし、ほの暗くなっていく表情には救いのない病が蔓延った。

 それなのに悪意の言霊は疑いようもなく人々に受け入れられ、助けを求める彼らへさらなる呪詛が連なる。


「……」


 サイレンスが風の王国へ戻ったあの日、既に国は機能しなくなっていた。

 人々は国を棄て、果てていた。

 大切に世話をされていた樹木すら腐り、枯れた草花や病原に汚染された水は陰鬱に揺れ、苦しみ逝った肉体には腐死蟲すら集らない恐ろしい光景しか残されていなかったのだ。

 真新しい墓が弔いの花もなく腐臭を放つ丘に並べられ、民と共に修繕した教会や資料館などは過酷な乾燥に風化していた。

 呪詛に影響されない鉱物質で造られた城だけが美しさを保ち、小魚の泳いでいた循環系の小川には屍の欠片がいくつも詰まり浮かんでいた。

 地獄のような景色の中、茫然自失に徘徊するサイレンスは悲壮な感情に襲われた。


 そうして、ただひとり、咆哮したのだ。

 悲哀絶望憎悪すべてを混ぜた言葉ではない叫びを上げ、溢れるままに涙を流した。


「……」


 悪意が絶望を作り出した道程を、こんなにも鮮明に感知することになるとは。

 認知されない絶望の記録を、ここまで克明に再現できるとは。

 青白い筋で繋がる繭の存在を見透かそうと視線を投げる。


(そもそも、人なのだろうか)


 人として交流できる知性があり、過去を再現する能力を持つ生命の樹の子孫。

 彼らが最終的にどんな姿になるのか誰も知らない。


 辛く苦い過去を見つめながら、この再現を生み出す相手を考える余裕がある。

 どんなに足掻いても、過去は変えられないことを知っているからだろうか。

 絶望を覚えたあの時間は過ぎた時間だと、ようやく実感できたのかもしれない。


「ありがとう……もういいよ」


 滅びから逃れられない王国を後にした悪意を追い続けることはできなかった。

 記録された厄災と悪意は結果と要因と言うだけの関係で、厄災が成されてしまえば関りも切れるのだろう。


 再び階段に腰を下し、サイレンスは手にした糸を眺める。

 元は床に広がる純白の一部だ。

 それがなにかしらの変化を受け青白く輝いている。


「濾過器を出してくれたのはキミ?」


 返事はない。


「キミはずっとここにいるのかい?」


 永遠を巡る枷に留められたと言った。

 サイレンスは悪夢の中で感じた感触を思い出して手首を擦る。


「果ての世界は再び栄えるだろうか」


 それを左右するであろう生命の樹が健全であるかどうか、決定する任は重い。


(支えても無駄だと私が結論を下せば破壊するだけだ……だがそうなれば、この存在はどうなる?)


 この世界と共に滅びる。

 黙り込んでしまった相手は、元より気配も薄い。

 本人も望んでいることだが、終わらせる理由が思いつかないのだ。


 むしろ、終わらないでほしいとすら思う。


「……ん?」


 音もなくサイレンスの前を落ちてくる青白い光の粒。

 手に乗せれば、あの荘厳な声音が響いた。


『支えよ、もしくは滅せよ』


 聞こえた途端に砕け散り、溶けるように光が消える。

 サイレンスが手にした煌声ほどの強度はないようだ。


「煌声がどうして落ちてくる?」


 天を仰いだサイレンスの目には、蓄光水晶が光を零しているのが映るだけだ。


 蓄光水晶は、僅かな光も逃さず蓄える。

 光の種類に制限はなく、どんな光でも吸収する。


 足元を見た。

 水晶が蓄えることのできる光は、光苔と純白が発する光しか思い当たらない。

 青白い光は人の目には眩しいが、光としての強さは微々たるモノだ。

 水晶が滴らせるほどの光となるには、長時間輝いていなければならないだろう。


 サイレンスが見る悪夢や濾過器のことを考え、青白い光には人の意思や記憶などを再現できる力があるのではと想定する。

 能力を発揮する際の輝きだとすれば、青白い光に触れると記憶の再生が始まるのも頷ける。

 たとえそれが思い出すのも辛い悪夢だとしても、だ。


 だが一面の純白を青白く輝かせ続けるための再現量は、この洞の中だけでは到底足りないだろう。


(外では王子の誕生を祝う祭りが再現されていた)


 いつから再現されていたのかはわからない。

 だが、その再現によって輝き続ける光を蓄光水晶が吸い込んだ。


 蓄光水晶は閉じ込められた王子の意思を読み取り、幾度となく煌声の滴を落とし続けたのだろう。

 気が遠くなるほどの月日を跨ぎ、滴る光は鍾乳石のようにゆっくりと雫の周りを固め、宝石のように固い一粒を生み出した。

 その間中、ずっと再現は続いていたはずだ。

 休むことなく、幸福に満ちていた時間だけを繰り返していたに違いない。


 ただ破壊せよと伝える煌声が悪意を覚えた国王の声だとして、サイレンスが手にした青白い煌声は執念ともいえる一粒だったのだ。


 それをどのようにしてこの世界から放ったのか。

 突飛だが、この世界の近くを通る竜族や渡り鳥などに纏わせたと想像することもできる。

 それが巡り巡って魔法省に届けられたとすれば。


 はらりと、また青白い粒が舞い降りてきた。

 今度の光は先ほどの光よりも小さく、サイレンスの手に触れた途端に散ってしまい声は消えかかる木霊のような細さだった。


(同じ、人物だ)


 自らを咎とする受け答えを思い返し、サイレンスは確信した。

 繭の中にいる人物は、誰もいなくなった果ての世界から解放されるために自らを殺してほしいと願ったのだろう。

 逃がしてほしい、でないのは自責が強いからだ。

 

 しかし、一世界を再現できる途方もない能力を持っているのに、命を絶つ必要があるだろうか。

 果たしてそれは、本当に裏切りだったのだろうか。

 見極めの翁にどう判断されこの世界に悪意が生まれたのか正確にはわからないが、抵抗すらも皆の幸福と天秤にかけた人物が、世界にとって不利になるような判断はしないと思う。


 繭の中に幽閉された人物は常に高潔であり、幸福の再現の中で唯一サイレンスと視線の合った赤子……果ての国の王子で間違いない。


「私は、青白く輝く煌声に導かれ、英雄として生命の樹を支えるべきか滅するべきかを見極めにきた」


 偶然、魔法省からの依頼で遠く離れたこの世界へやってきたと思っていたが他の誰でもなくサイレンスが選ばれた。

 青白い煌声を手にすることすら、決まっていたのかもしれない。


「運命は、生命の樹は……キミと私を繋げたんだ」


 剣を抜いた。

 煌声の色に染まっている剣は、戸惑うようにぼんやりと青白く発光している。


「厄災が風の英雄の滅びを否とし生命の樹が肯とした理由は、恐らくただ一つ」


 迷うことなく、繭と繋がる柔らかい純白の糸を切り始めた。

 抵抗のない糸は軽く切れていくが、繭を開放するにはもっと切り進めなければならないようだ。


 繭の中の彼も慌てているのか、青白い光が弱く点滅している。


「私の行為を、果ての世界の住人は狂気の沙汰だと思うかもしれないね」


 咎人と定められた人物を、永劫の牢から出そうとしているのだ。

 衛兵が目撃すれば、大慌てで止めただろう。

 だが果ての世界は風の王国同様、人に棄てられ廃墟に等しい。

 そんな場所では、誰も止めに入らない。


「キミも困るだろうか。それでも私は、この手を止めないよ」


 柔らかく深い繊維を切り続けるのは体力が必要だ。

 少しだけ息の上がるサイレンスだったが魔力は使わず、体力だけで剣を振り続ける。

 繭の中は完全に沈黙し、事の成り行きに慄いているような不安だけが伝わってきた。


 足元には新たな純白が積り始め、サイレンスの足を埋めていく。

 それなりに大きかった繭は繊維を落としながらさらに美しさを増していった。

 銀鉱石の煌き、水晶石の透明度、それらが純白に溶け出しより輝いているようだ。


「ふっ……!」


 打ち込みに覚える疲労を感じ始めた頃、衣擦れのような音が微かに耳を掠めた。

 止めた刃の先から繊維がキレイに同じ方向へと解けていく。

 切り離してもまだまだ何重にも巻きついている繊維は、滑らかな光沢を生み出しながら解け続けた。


「…………」


 膝が見えた。

 陶器のような白い膝。

 純白の繊維が解ける中に足全体が見え、足首に生々しい呪縛鎖の枷が現れる。

 有機意思を持つ呪縛を与えられた鎖は赤黒く、小動物の心臓のように小さく蠢いていた。

 座した肘掛けに呪縛鎖で留められた爪の伸びた手指が現れ、痩せてアバラの浮いた胴体が見える。

 細い首では支えきれないのか、頭部は傾いでいる。

 背凭れに身体を預けて力を抜き、力尽きているようにも見えた。

 骨格的に見て少年、だが思うほど幼くはない。


 最後の一周が解けると、純白のそれが頭髪だと視覚的に理解する。

 それと同時に、純白の髪を持つ者を思い浮かべ確信に頷く。

 

「……」


 しかし目の前の状態に、サイレンスは言葉を失い立ち尽くした。

 絶望と悪意を刻み込まれた姿に、どう言葉をかければよいのかわからない。


 なんとか人としての形を保っているような痩せ細った肢体、それに比べて健康的な美しい艶を保った髪、長い髪に半分以上隠れた顔にはひび割れた色の悪い口唇と形の良い鼻先が見える。

 手足に蠢く呪縛鎖に今もなお生気を吸い取られている様に、知らず奥歯を噛み締めた。


 小さな体躯は、設えられた玉座に似た立派な椅子に腰かけている。

 よく見ればそれにも原色の模様が染みついていた。

 確かめるように背部に回れば、全世界共通で知られている咎人の印が模様を否定し打ち砕くように荒く刻み込まれている。


(子どもを咎人扱いとは……果ての世界ですら、悪意は人を変貌させる)


 咎人とは、全世界共通認識として許されざる罪を犯した者と定められている。

 罪を悔い自ら咎人になる者もいるが、咎人の罪は魂となったあとまでも消えることはない。

 いついかなる時にも健全なる者に屈し従うことを強制され、どのような理由であろうとも反撃や抵抗は認められないのだ。


 そんな咎人の印を、自国の王子に刻むとは。


 正面に戻って、跪いた。

 床に広がる髪に触れ、改めてその滑らかさに目を細める。


「乱暴に切断して申し訳ない。どうか無礼を許されよ」


 薄く開いた口唇に注目するが、何も聞こえることはない。

 細い首に巻かれた布は汚れきっていたが、異質な気配を感じてサイレンスはそれを凝視した。


「それも呪縛なのだろうか?」


 サイレンスの声音がどう聞こえたのかはわからない。

 びく、と身体を揺らして頭を前に垂らし首を隠す。


 見せたくないのだろうかと様子を観察していると、鞘の中から音が聞こえた。

 見れば青白い光の筋が一本剣に向かって伸びている。

 そっと握ると、項垂れた彼を見た。




 愚者の言霊を聞かせぬための枷

 裏切への報復

 悪意の呪縛は毒

 健やかなる者が中ることはない




「枷?」


 垂れる髪をかき上げて見た首の布。

 深淵を封じ込める古代語が書き殴られたそれには、血の黒い染みが滲んでいる。

 滲みは全部で四点、指先でなぞると鉄印の痺れが残った。


 鉄印とは細く加工した魔鉄を体内に差し込み、能力の放出を封じ込める魔道具だ。

 主に従えたい魔獣を躾ける際に使う道具だったが、今では拷問具だとして使用を制限されている。


 そんなものを使って、彼の声を封じたのか。

 王族の象徴である煌声を発しないよう、旅人に助けを求めないよう、喉に鉄印を二本も差し込み呪縛布で巻いたのか。


「……誰がなんと言おうと、これはキミが受ける仕打ちではない」


 蠢く呪縛鎖に手を置いた。

 途端に斬れて血煙が上がる。


 自在に形を変える鎖が、極小の鎌のような突起を無数に生み出して触ることを拒絶したのだ。 

 有機意思に与えられた呪縛の特徴で、結ばれた韻を忠実に護るように組まれている古の拷問具として外の世界では認知されている。


「驚くほどに強力な呪縛鎖だ」


 有機意思は宿主に寄生して命を保つ。

 ほんの少しずつ寄生された本人が気づかないほど微量な生気を、ゆっくりと時間をかけ吸い上げていく。

 引き起こされる体調不良は理由なく精神を病み、宿主は有機意思に寄生されたまま力なく生きていくのだ。

 その呪縛鎖が両手足についているなど、並大抵の悪意ではない。

 永く苦しみ、あわよくば与えた有機意思に命を吸い尽くされてしまえばいいと考えられていたようにも感じる。


 まさに、悪意の権化。


 しかも追い打ちのように首にも呪縛布が巻かれている。

 有機意思の気配はほぼないが、明らかに悪意を内包しているのがわかる。


「キミは果ての世界の王子、で正しいだろうか」


 血だらけになった手に持つ青白い糸を見れば、微かな言葉が聞こえる。




 正しく王子なる地位を持っていた

 正しく偽りだった

 眼前に在るは咎人でしかない

 



「咎人であったとしても、王子である事実に変わりはない。私が風の王国の王子であったように、キミは果ての世界の王子だよ」




 咎人にあるは裏切りという事実のみ

 剝奪の間もなくここに穿たれた


 


「ならばキミはまだ王子だね」


 幼い王子の瞳を思い出した。

 俯いて浮いている前髪の間に指を差し込み、静かに横へと掻き分ける。


「……ああ、なんということだ」


 そこにも、外界を拒絶する布が巻きつけられていた。

 呪縛布ではないようだが、見た者に恐怖を与えるようなドス黒い蛇の目のような色が滲んでいる。

 まるで、瞳を闇で塗り潰そうとしているように。


 せめて両親には彼の不運を憐れむ気持ちが残っていたらと願うが、サイレンスの見た夢の中にそんな希望は見当たらなかった。

 打ちひしがれる者はなく、怒りに身を任せ誰もが暴徒と化していた。

 国王と王妃も同じく、すでに我が子は見ていなかった。


 項垂れたままの頭髪を撫で柔らかさと滑らかさが掌に広がる心地好さに目を細めたが、咎人として拘束された王子がどれほどの絶望の悪意に晒されたのかを思うと笑みは浮かばない。


「キミは、外の状況を知っているだろうか」


 問いに、王子の髪が揺れた。

 彼をここに閉じ込めたすべての人がひとりも残っていないことを知らずに、ひたすら自分の死を望み気の遠くなる方法で煌声を作り続けていたのかもしれない。


「驚くだろうが、聞いてほしい」


 細く青白い一本の髪を握り、サイレンスは果ての世界がどうなっているのかを語って聞かせる。

 長い髪に隠された口元には変化はなく、聞かされている言葉を信じていないような隔たりを感じた。

 彼の中では今も、果ての世界は美しいままなのだろう。


「王の破壊を指したのはこの世界、もしくは生命の樹のことだ。だが、キミの破壊はキミ自身のこと。けれどキミは支えよとも言った。それは、解放を求めてのことかい?」


 返答はない。

 青白い光も静かに消え、銀鉱石の煌きを含む純白の髪が手の中に納まっている。


「私が見る限り、生命の樹は限界を超えている。朽ちるのを待つのみだ。他の世界に多大なる影響を及ぼす存在は、制御を失えば悪影響にもなる。破壊を選択した王の判断は正しいだろう」


 置物のように動かない小さな身体。

 生命の樹が破壊されるのならば、共に壊されてしまおうと決意したように見える。


「ここから出よう」


 サイレンスの意図を読んだらしく、再び緩く頭を振った。

 その度に揺らめく輝きは、柔らかい陽光の下こそが相応しい。


 コッ、コツコツ、コッ、コッ


 あの音が聞こえた。

 もう金属音や湾曲しては聞こえない。

 音の出所を確認したサイレンスは、何の音かを理解した。

 奥歯を噛み合わせているのだ。

 声を封じられた彼に残された音という手段。

 噛んだ後に口元から空気が抜ける気配がする。

 隙間風のような微細な音すら立てない空気に、ほんのりと色がついて弱く輝いた。

 どんなに小さな光だとしても煌声が生まれる瞬間を見て、感動しない者はいないだろう。


 聡明で、美しく、人の領域を越えた事象だ。

 消える前に受け止めると、言葉が聞こえる。




 支えないのなら、滅せよと




「生命の樹は完全に破壊すると約束しよう。私は、そのための魔力を溜め込んでいる。けれど、キミはここにいてはいけない」


 頭を振る。

 なぜ頑なに拒絶するのかわからないが、ここでひとりいわれなき仕打ちに耐え滅するべきではない。


「私はキミを連れ出すと決めた。キミを支えるために、ここを破壊する」


 幾分か強く頭を振るが、歯を打つ音は聞こえない。

 細い肩や握った拳が震えているのを見つけて、サイレンスは小さな拳を掌に収めた。

 しっかりと握って、熱を伝える。


「怖くはないよ。これからは私が傍にいる」


 コツコツと音が聞こえて、だが、口は開かなかった。

 言葉を飲み込んだのだろうか。


「なにかな?」


 頭を振る。

 動きに合わせて緩慢に揺れる髪の美しいたわみを眺め、サイレンスは輝く声を待つ。

 だがいつまで経っても声は現れず、触れている拳の震えは止まらなかった。


 ここにきて、再びぐう、と腹が鳴った。


 サイレンスは懐中時計を見た。

 体内に溜めた魔法効果が中和され薄れてくる頃合いを示している。

 枯れ果てた生命の樹を完膚なきまでに破壊し尽くすには、今を逃してはならないだろう。


「……私への依頼は、あくまでも生命の樹に対するもので、キミは含まれていない、そうだよね?」


 王子が己を壊すために煌声を放ったとしても、外の世界の魔法省も依頼を受けた冒険者や英雄も生命の樹に対する指示だと思っている。

 青白い煌声の指示もそうであったと、手にしたサイレンスが勘違いをしても咎められることはない。


 サイレンスが立ち上がる気配を察して、王子の少しだけ顔が上がる。

 言葉を発したそうなか細いわななきを見たが、気づいていない振りをした。


「私は、生命の樹を破壊したあとの果ての世界からキミを連れ出す」


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