第4話
皆が笑っている。
本当に嬉しそうに微笑んでいる。
授かった喜びと期待を込めた視線に囲まれながら、優しい笑顔ばかりの幸せなそこで満ち足りていた。
周囲からの幸せが己の幸せになり、己の幸せを周囲に届けることが自然にできるようになった。
人々の幸福が光り輝き、夜のない世界に明るさを灯し続ける中、意思が固まる前から王族としての教養を教えられた。
すべてが素晴らしく、すべてが誇らしい王族の教養を学ぶことは何物にも代えがたい大切な心を養ってくれた。
誰もが笑い、優しく穏やかで、なんの不安もない時間。
当たり前のそれは、ずっと続くと思っていた。
煌声は、適正能力を見極められた後の儀式で輝きを放つ。
自分の声の色を想像するのが楽しい時期、世界は豊かな草花に覆われ、生命の樹の葉が純白を煌めかせ緩やかに落葉していた。
生命の樹は別の世界と繋がっている。
そこに住まうすべての生命、無機物を厄災から守るために、この果ての世界から祝詞を奏で続けているのだ。
厄災を防いだ証として、生命の樹の葉が落ち逝く。
落ちた葉は巨大な幹に沿って落ち、地面に辿り着くまでに新たな命の気配を纏って光となり、生命の樹の根を辿り別世界の新たな命となる。
厄災を防ぎ落ちた葉の命を授かる多くは人となり、英雄や偉業を成すための使命を持つ運命を持っていた。
使命を果たすかどうかは生まれた者の判断に任せられるが、世界の均衡が保たれるように動いてくれる者が殆どだと聞いている。
生命の樹から語られる他の世界の物語は、この果ての世界に蓄積される。
膨大な情報を従えた生命の樹を敬い管理し共に生きることが、王族としての務めなのだと教えられた。
他の世界に住まう彼らは、なにも知らずに生きている。
生命の樹に感謝することもなく、生きて眠る循環を続ける。
それでいい。
誰にも知られずに、すべての幸福を祈ることが幸せだった。
見ず知らずの世界たちを守ることに抵抗はない。
むしろもっと力になりたいと思うくらいだ。
王族として、誉を欲しいままに生まれた身として、生命の樹と共にもっと世界に多幸を届けることができるだろう。
そのための適正能力が備わっている。
そう、信じて疑わなかった。
誰からも期待され、間違いなく確信していた。
期待を受け、愛されながら待ち侘びたその時、大好きな父も母もその場にいた。
王子の晴れ姿を見守ることは当然だろう。
誰もが想像した万能なる能力を、高々と宣言される瞬間を見てみたいだろう。
それは、自分も同じだった。
王族の中でも最高位である能力を持っているのだ。
栄誉ある宣言を胸躍らせて待つのは当然だった。
厳かに目の前にやってきたのは、不老の僧と呼ばれる見極めの第一人者。
果ての世界を訪れた多くの英雄に叡智と思慮を与えた彼は、国王と王妃に頭を垂れ、目の前に片膝をついて深々とお辞儀をした。
これから始まる見極めの儀式へ、彼自身も期待していることがわかる祝辞をもらった。
不老の僧に見てもらえるだけでも光栄だからと、立ち上がるのを支えてやり感謝の抱擁をした。
だが、幸せに満ちた時間はそこで終わった。
とてもあっけなく、終わった。
足元に開いた穴に突然吸い込まれたような、理解の追いつかない終わりだった。
不老の僧は恐怖に慄き後退って自分の長衣の裾を踏み尻もちをついた。
震える枯れた指でさされながら、怒りすら込められた声音を叩きつけられる。
彼が保護されるように衛兵に連れて行かれ、見送った先にいた父と母が侮蔑と落胆を向けていることに気がついた。
違う。
そんなはずはない。
だが、不老の僧が見極めたのだ。
見えたモノは違ってない。
重なり合って聞こえない罵声、憎悪に彩られた視線、絶望に打ちひしがれた哀しみの顔。
言い訳をしたかった。
できなかった。
自分には本当のことがわからないから。
ただ、哀しかった。
辛かった。
謝ることも許されず、衛兵や感情に任せた傍観者たちに押さえ込まれた。
王族の煌声に輝いていた場所が悪意の暗黒に染まり、捕らえられることに本能が恐怖し逃げようとする身を離すまいとする不気味な手、手、手……。
涙が溢れ視界が悪くなった。
悲鳴を上げようとする声が詰まった。
ぶつ切りになる光、喉が灼熱に包まれ視界が闇に飲み込まれる。
鉛のように重くなる身体を無茶苦茶に引き摺られ、手足に生暖かい枷と痛みを感じた。
何も見えない。
何も言えない。
動けない。
そこがどこか、何が起きようとしているのか、わからなかった。
怖くて哀しくて、皆の期待を裏切った愚かな自分を呪った。
「……っ、はああぁ!」
窒息しそうになって、サイレンスは吸い込んだ空気を思い切り吐き出した。
(夢……ただの夢か?)
悪夢とは違う生々しい夢は、サイレンスに追体験をさせたような恐怖を植えつけた。
故郷が失われた絶望と恐怖とは別種の、己の身を切り裂くような恐怖に指先が震えている。
寄生木に寄りかかっていたはずの上半身を起こし、収まらない荒い呼吸を繰り返す。
未だ鼓動が激しく打つ中、剣の存在を確認してから周囲を見渡した。
(ここは、どこだ)
一見、闇の中だ。
実はまだ悪夢の中かとも思ったが、目を凝らせば小さな明かりらしきものが弱く点在している。
「…………」
呼吸を整え慎重に立ち上がり、剣を携行する。
魔法が使えることも素早く確認して自分以外の気配を探った。
小さな明かりは人見知りの光苔らしく、サイレンスが近づくと眠るように消えてしまう。
遠くに灯るそれらを頼りに、なんとか巨大な空洞だと突き止めた。
だがいつの間にそこへ行きついたのか、ここが果ての世界のどこなのかは見当がつかない。
ジリ、と緊張に喉が焼けてサイレンスは無理やり唾液を飲み込んだ。
ほんのりと精気が漂っているが、動物的な気配はない。
正常値に戻った己の鼓動が耳の奥に聞こえる。
悪夢の漆黒ではない闇に、いつしか視界が慣れてきた。
見えるようになった周囲には、か細い蔦や綿毛草がひっそりと生息している。
滲む汗に湿度を感じて、似たような場所を思い出した。
木の洞だ。
樹木の世界に冒険へ出た時、宿の部屋がこんな感じだった。
やんわりした湿気と気配がよく似ている。
(まさか……ここは……)
果ての世界にそびえる唯一の樹木。
巨大な樹の根元で目を閉じた。
なんらかの働きによって、生命の樹の中に取り込まれた可能性は軽視できない。
洞の端を確認するため警戒をしたまま横にゆっくりと移動する。
無意識に腕を伸ばして、端を求めた。
暗黒の夢の中のような感覚がサイレンスを取り囲み、見えているのに見えていないような錯覚すらある。
研ぎ澄まされた集中力で些細な音も聞き逃さないよう気を張り、未知の遭遇に備えて戦闘態勢も崩さない。
緊張と湿度に汗がこめかみを伝い、顎から落ちる。
金属が擦れあうような音が鞘の中から聞こえた。
見れば、青白い光が漏れている。
状況把握のできていない場所で、様子を見るために抜刀をするのはいい案ではない。
鞘に触れて宥めるように撫でた。
その指に食石の入っているポーチが当たり、サイレンスは気休めのように石を取出し口にする。
汗を拭い、なおも移動をしながら「壁」を求める。
一度止まり、懐中時計で時刻を見た。
(どうなっているんだ?)
懐中時計の針は止まっている。
だが、剥き出しになっている中の歯車は淡々と時間を刻むために動き続けていた。
異様な空間だ。
生命の樹というからには、もっと清々しく美しいと思っていた。
命を象徴とする、それに相応しい存在だと。
(厄災から守るための祝詞を奏で続ける存在だとしても、こんなにも重苦しく陰湿な雰囲気を内包していて能力は健全に発揮できるのだろうか)
奏でる声は言霊となり、言霊は世界を構築するすべての現象を唱として祝詞になる。
塵ひとつ分も闇や悪意が含まれていたら完成しないのが聖なる祝詞だ。
サイレンスが味わっている緊張の原因である空気を支配する重い闇があっては、王族の煌声すら穢れを持ってしまうだろう。
(だから、生命の樹は枯れたのか?)
内側から神聖な存在が穢されてしまったとすれば、気配が消え精気も薄い巨木の意味が理解できる。
(ならば穢れの要因がここにあるはず)
それが何かは想像できない。
樹木の特性である自己修復や浄化再生すらも拒むほどの穢れに、生命の樹は未だに蝕まれていることしかサイレンスには察することができなかった。
すぐにでも調査をして支えられるか否か判断したいところだが、知らない場所では己の身の安全確保が最優先だ。
そのためにも、伸ばした手に洞の壁の感触を求めて移動を続ける。
「!」
不意に、伸ばした指先にふんわりと絡まるような感触があった。
咄嗟に掴み、引き寄せるが闇に近いその場では視認が難しいようだ。
両手で感触を確かめ、手探りで摘まんでみる。
(繊維……蜘蛛の糸……?)
細く長いことしか伝わってこない平均的な人の感覚に、苦笑すら浮かんだ瞬間。
「……ッ!」
鼓膜の奥で地鳴りが響き、一瞬でサイレンスは懐かしい故郷の空を見上げていた。
(悪夢と同じ……どうなっているんだ)
湧き上がる絶望と不安に膝が震える。
拒否できない情景に、目を一杯に見開く。
反射的に握り締めた拳の中で、小さな電流のようなピリッとした痛みがあった。
咄嗟に意識はそこに向かい、サイレンスの視界を支配していた故郷が消える。
「これ、は……」
自分の拳から、青白い光が細く一筋流れていた。
片側はカタカタと鞘を振るわせ続けている剣に吸い込まれ、片方は薄暗闇の中へと消えている。
剣を僅かに抜くと、溢れ出た光に目を細めた。
開門時にサイレンスが剣に宿らせた煌声が、強大な力に増幅されて輝きを放っているかのようだ。
小さな光の粒を見つけ、無意識に煌声を聞こうと耳を傾けても仕方がない。
何も聞こえなかったが煌声に意識を向けたのがいい方向に働いたのか、放たれている青白い光が周囲に馴染み少し遠くまで見渡せるようになった。
どこまでも湿っている苔と細い蔦が広がっている。
足元にも、見える範囲にも、苔と蔦以外には鉱石と名も知らない植物がいくつか点在しているだけだ。
「あれは……」
見上げると、巨大な蓄光水晶が鋭角な先を下に向け光の滴を空気に混ぜている。
落ちてくる光の滴が淡く広がる青白い光と融合し、眼前がさらに拓け厳かな光景が鮮明になる。
ふと、かなり昔に受けた魔術師としての素質を見る試験を思い出した。
蓄光水晶の意識直結に関して習った気がする。
試験で間違った回答をして「こんな簡単な質問を」と師匠にガッカリされた。
「蓄光水晶は、意識直結の能力によりこちらの意思を読み取り発光する水晶……だったな」
若いあの時、こちら側から接触をしなければならないと答えた。
意思を読み取るのはあくまでも水晶側で、有機物の意見は尊重しない。
今はもう知っていて当然の知識だが、覚えたての頃は本当にわからなくなっていた。
そんな自分の四苦八苦を思い出す。
やけに懐かしい気分になり、こんな時なのに口元が緩んだ。
「こんな時だからこそ、かもしれないな」
記憶の中に己を置くことは、冷静な気持ちを保つためのひとつの行為だ。
サイレンスは剣を鞘に収め直し、薄く消えた光とは別に未だに薄く光る青白い糸筋を辿ることにした。
周囲が安全であるとある程度確保された視界で確認しながら、ゆっくりと消えない光を辿る。
導かれるように光の糸を手繰っていると、生命の樹の内部と仮定したとしても恐ろしいほどの広さを痛感した。
小国の一区域くらいは容易に入ってしまうほどの広さだ。
慎ましい生活であるならば、ここで何代か血を繋げることができるかもしれない。
それほどの洞の中を、サイレンスはひたすらに歩いた。
「何だ……あれは」
見えてきたのは、瘤のようでもあり鍾乳石のようでもある奇妙な盛り上がりだ。
苔と蔦が作り出した小山の上に鎮座する突起は思ったよりも大きかったが、周囲の巨大さに比べれば並みで人工的に小ぢんまりとさせたような感じもする。
削り出された木製のオブジェを想像してみたが、様相は自然界が作り出した芸術の域に達している。
距離のある場所で一度止まり、色々と想像を豊かにして眺めたそれは、巨大二足鳥の卵が直立しているようにも見えた。
この場所には不適切な異物のように思えてサイレンスは首を傾げるが、光はそこに向かってふわふわと伸びているから、とにかく前進を続ける。
だが未知なる遭遇において適切な距離が存在する。
その距離をふまえた上で、サイレンスは再び立ち止まった。
手にした光の筋を軽く引っ張ってみる。
たわんでいた筋はピンと張られ、まさに「それ」と繋がっていることを示した。
気分転換に食石を口にしてから深呼吸をして、数歩進んだ。
気配察知で相手の動向を伺いつつ、ジリジリと近づくことしばらく。
とうとう手を伸ばせば触れることができる距離にまでやってきた。
「……」
ことを急いではダメだと、どこかが警鐘を鳴らす。
もっと周囲を見て回り、考察をしてから先に進むべきだと慎重だった。
サイレンス自身も確かにそうだと思い、知らない間に高揚していた気持ちを落ち着ける。
無駄かもしれないと懐中時計を見て、時間が進んでいることに驚いた。
この中は、夢と現実が入り乱れているのかもしれない。
ある箇所では時は止まり、別の箇所では動くのだとしても不思議ではなかった。
「もう、こんな時間だったか」
針は夕餉を楽しみ、眠りに就く時間を差している。
そんなにも時間が経っていたことに驚きつつ、果ての世界に入ってから外の世界はどれくらいの時間が経っているのだろうかとよぎった。
ジャッジへ安否を知らせる風の小鳥を送ったのは一度だけだ。
そう思うと、早く無事を知らせなければという気持ちが湧いてくる。
サイレンスはその場に胡坐をかき、謎の物体に背中を向けて小鳥を生み出した。
無風であるが故に弱々しかったが、食石で蓄えた魔力に助けられて立派な翼で羽ばたいた。
どこかに穴が開いているのか、しばらく頭上を旋回していた小鳥はサイレンスの思ってもいない方向へ飛んで消える。
小鳥の魔力が尽きたワケではないことを感じつつ、ジャッジへ届くようにと小さく祈った。
「困ったな、食石も少ないし水も作れない」
道具は全部生命の樹の脇に置きっぱなしだ。
サイレンスが身につけていた物だけが一緒にここにある。
丸一日ほど水分なしで過ごしていると意識すると喉が急に乾いてきた。
湿度で流れた汗の分くらいは取り戻したいと思うが、如何せん道具がないのではどうしようもない。
肩を落とし小さくため息を吐いたサイレンスは、握ったままの光の筋がまた電流を発したのを感じた。
「…………え?」
痛みを感じたと同時くらいに、そこに濾過器を見つけた。
元々あったのかと思うほど、当然のように置かれている。
幻惑ではないようで、実際に石を回せば水分を精製し始めた。
「この空間には何が存在しているんだ?」
経験豊かなはずの英雄が、果ての世界にやってきて首を傾げることしかない。
溜まって行く水を眺めながら考えてみるが、どうにも自分を納得させるだけの回答は見つけられなかった。
不思議は不思議、その不思議の理解者からでないと正しい情報は得られない。
そして、正しい情報を正確に理解できるとは限らない。
それでこそ、世界は理で繋がり続けているのだ。
高い湿度のおかげで水がすぐに溜まる。
戸惑っている間にコップ一杯になった水を、まずは嗅いでみる。
指を入れて、慎重にそれを舐めた。
「製性された水そのものだ」
思い切って一口飲んでみる。
絡む粘りが口に広がり、サイレンスは一気に喉を鳴らした。
水はすぐになくなり、まだ回っている濾過石の下にコップを置く。
待ち侘びるまでもなく溜まる水を存分に楽しみ、満足してから回り続ける石を止めた。
精気が薄く朽ちていようとも生命の樹の内部だ。
口にした水は、外の空気よりも魔気を含んでいる。
体中を走る水分と魔気により、食石で得た魔力すら増えるような感覚がある。
自分の状態を確認して満足したあと、濾過器を片付けようと見ると消えていた。
たらふく飲んだ水は幻ではない。
キョロキョロと見回したが、何者かが持ち去った形跡もない。
「どういう原理なんだろうか」
魔法かと記憶を辿るが、どうにも「これだ」という術は思い浮かばなかった。
どちらかというと、奇術に近いのかもしれない。
初めての果ての世界だ。
何が起きても不思議ではない。
そう思えば納得できて、一旦休もうという気になった。
盛り上がった得体の知れない物体を背凭れにするのはさすがに気が引けて、その場に横たわる。
瑞々しい苔と生え揃った芝生のような植物が程よいクッションになって、割と寝心地が良い。
その代わりにたっぷり含んでいる水が装備を濡らしてしまうが、ずぶ濡れになるほどではなかろうと腕を枕代わりにした。
自分の前に持った剣は未だに震え続け、青白い光の筋も繋がったままだ。
(……どういう、意味を示しているのだろうか……)
サイレンスの眠気を察知したように、蓄光水晶の輝きが弱くなった。
睡眠に適した暗闇を作り出すと、青白い光だけが視界に目立つ。
「…………」
見た夢を思い出す。
自分の体験ではないのに、まるで自分が体験したかのようなリアルさだった。
喜びも、恐怖も。
(あれは誰の記憶なのだろう。王族であることは間違いないだろうが……)
観衆の中に見知った顔がなかったか考えるが、猛烈な睡魔に邪魔をされて上手くいかない。
「……ん、ふ……ぁ、……」
小さな欠伸が漏れて、サイレンスの思考はそれ以上働かなくなった。
コッ
コッ
コッコッコッ、コッ
コッ
コッ
コッ、コッ、コッ
コッ
耳に微かに響く音が、サイレンスを眠りの縁からふんわりと掬い上げた。
上半身を起こして辺りを見るが、音は聞こえない。
「……」
剣はいつの間にやら静かになり、青白い光も消えている。
サイレンスは気配を探り、音も探した。
(どこから聞こえてきたんだ?)
どんな風に聞こえていたのかを思い出す。
水の中のような金属に反射しているような、微かな音。
空気中にはけして存在しないような音の湾曲は、どこが発信源になっているのだろうか。
ふと、サイレンスは自分が横になって寝ていたことに気がついた。
苔の上に、そっと耳を当ててみる。
コッ、コッコッ
聞こえる。
水分を含んでいる分、音が振動しやすいのだろう。
何度か耳を当てる場所を変えてみて、より聞こえる方向を探った。
「この中、から?」
結果として、背後にある大きな卵のような物体の中が発信源ではないかと推測できた。
苔と蔦を登り物体としばらく睨み合っていたが、勢いをつけるように頷いてから指先で触れてみる。
植物の硬い果実の外皮のような触り心地だ。
毒性の棘もなく、ガスや胞子を噴出する気配もない。
触れる面積を増やして、掌を当ててみた。
「……」
ざらついたそこを撫でていても音は聞こえない。
静かに身を寄せて、耳をつけてみる。
微かに音が聞こえる。
響く音は、確かにサイレンスが聞いた音だ。
外皮は相当に音を漏らさない作りになっているのか、少し耳を離すともう聞こえなくなる。
サイレンスの、好奇心の塊のような性格が中を見てみたいと要求してきた。
ジャッジのことをよく好奇心の塊と言うが、サイレンス本人も好奇心に溢れている。
好奇心から国民と交流し、風を友とし、冒険に出て英雄になったのだ。
最近ではすっかり落ち着いていた本質ともいうべき心が、サイレンスを満たしていく。
欲求に従いサイレンスは周りをグルグルと歩き、それまで以上にじっくりと観察をする。
蓄光水晶は目覚めたサイレンスの視界に合せて、その場を照らしてくれた。
入口のようなものは見当たらない。
つなぎ目のような箇所もない。
中を見るには、硬い外皮を穿つ必要がある。
(危険ではないだろうか)
これが生命の樹の内部に収まっている理由を考えた。
危険な物であるから、生命の樹自らが犠牲となって封印をしたのではないだろうか。
枯れ行く生命の樹の、唯一の種であり次の生命の樹なのではないだろうか。
生命の樹に寄生している魔物の卵ではないだろうか。
古からの習わしで、人が触れてはならない禁忌ではないのだろうか。
何代も前から生命の樹が守り続けた、生命の源とも云える大切な存在ではないだろうか。
「……もう少し、果ての世界や生命の樹に関して調べるべきだったな」
後悔してももう遅い。
目の前の好奇心をくすぐる存在の正体を確認するかしないか二つに一つだ。
「ん、?」
生命の樹と物体が苔と蔦以外でどんな風に接着しているのかを確認しようと身を屈めたサイレンスの顔に、ふわりと何かが当たった。
見えてはいないが、手で払うと何かが顔の産毛や伸び始めている髭に刺激を送ってくる。
寝た時は背中を向けていたから気がつかなかったのかもしれない。
サイレンスは手に触れる感触を掴んだり引っ張ってみたりしてみた。
(夢の中で触れた物にも似ている、かもしれないな)
暗闇で何かわからなかったモノ。
似たような青白く光る糸筋も触った。
だが今触れた感触のある某かは光ってはいない。
ぼんやりとした光の中では見ることができず、ただわかるのは、それが物体のから伸びているということだけだ。
(まるで、触手のように)
謎の正体を想像するのに疲れてきて、あと数個しか残っていない食石を口に放り込む。
物体が外部へ向け伸ばしている不可視の糸のような何かは、どんな意味を持っているのだろうか。
湧いた疑問をゆっくりと精査し、判断をしていく。
(暗闇の中でそれに触れると、悪夢が現れた。青白い光の筋は煌声が融合した剣と繋がり、触れている私の視界を広げた。この目に見えない何かは、物体と外を繋げている……何のために?)
物体から離れ、視覚で確認できる一番近いが遠い洞の壁へ向かって歩く。
時折屈んで地面に手を伸ばすと、触れる物があるかを確認した。
移動までに時間を要したが、サイレンスはとうとう壁に到達した。
触れたそこはまさに樹木の肌触りで、外部からの熱をじんわりと蓄えている。
そこから再び、不可視の物の存在を確かめながら壁伝いにしばらく歩いて確信した。
生命の樹と見つけた物体は、謎の物で緩く繋がっている。
生命の樹を脅かすためなのかもしれないし、他の有意義な意図があるのかもしれない。
サイレンスは長く壁を向いて俯き、顎に手をやって黙り込んだ。
どんな可能性が一番大きいのかを計測するが、まるで想像ができない。
人知を超えた存在であると仮定し、英雄と言えども自分が手を出すことは危険だと判断して「何もしないこと」が最善のような気持ちになった頃に、ようやく踵を返して物体の元へと戻った。
「何者であるのか、それすらも想像しえない存在とは……果ての世界を知らない英雄など、本当の英雄ではないかもしれないな」
果ての世界は英雄たちには重要な場所だったと聞く。
それは、サイレンスが生を受けるずっと前の話で、学びを始めた頃には教本に載っている物語に近い話だった。
世界同士がまだ不安定で諍いが頻繁であった頃、英雄が集い果ての世界を共に目指し絆を深め、諸悪の根源たる相手の情報と有効な武器や能力を示す人物に教えを乞うたのだと言う。
つまりはそれが見極めの者たちであったかもしれないし、王族だったのかもしれない。
果ての世界を出ない彼らの突出した能力が、現在の世界の均衡をもたらす一端を担っているのは確実だろう。
そして常に脅威となる各世界の魔族への対処を記した蔵書はほぼすべて、果ての世界の文献を書き写した書籍らしい。
殺戮し駆逐する以外の道を多く説いた書籍にはサイレンスも感嘆した。
おかげで相棒たるジャッジとも仲良くやれている。
「この世界のおかげで、私たちの世界は保たれている。なのに、この世界の本質や存在の意味について深く知る者はいない」
夢の中で、それでいいと誰かが言っていた。
「ん?」
急に鞘が鳴り、目が霞んだ。
一瞬のことで瞬きを数回すれば元に戻る。
だが、明らかに視界に異変が起きていた。
「これは……!」
無数に張り巡らされた青白い筋が見える。
河を行くせせらぎの模様のように、雄大な曲線を描きながら広がっている。
身構えて抜刀すると、剣はまた青白く発光していた。
驚く間もなく、近くを這っていた青白い筋が意思を持つように剣に絡まりつく。
「っ!」
光の筋はサイレンスにまで及び、神経を逆撫でするような不快感の中で知らない記憶が入り込んだ。
死人のような手が伸びてくる。
呪詛のような嘆きを吐き散らしている。
あんなにも清らかだった彼らの心に、絶望から湧いて出た悪意が満ちる。
その速度は光のように早く、穏やかで緩やかな幸福に満ちた日常からはかけ離れた悪夢のようだった。
彼らが悪意に染まり切るのを止めるためには、抵抗を止めるしかない。
本能からの抵抗を止めるのは難しく、止めれば死人になる。
かと言って、抵抗を続ければ無残な咎人としての運命が待ち受けている。
どちらの選択も、幸せとは程遠い。
死人であれ咎人であれ、望まない時間を繋がれることになる。
裏切り者を誰も助けてはくれない。
いつまでも冷ややかに侮蔑される存在へと堕ちていく。
いっそ、愚か者と罵り殺してくれたら楽なのに。
「誰、だっ、!」
喘ぐように声を発したが、効果は薄い。
サイレンスは身動きが取れないまま光に包み込まれ、一度見た夢と同じ誰かの絶望を強制的に追体験させられている。
表現しようのない恐怖に震えが止まらない身体を、冷えた手に掴まれ、本能で抵抗をする力をより強い力でねじ伏せられた。
逃れることのできない悪意に身が染まっていくような重みに、あたたかく優しい気持ちが食い潰されていく。
ボ ク
ヲ
コ ロ
シ
テ
「キミは……誰、なんだ……!」
水の中のような息苦しさに力が抜ける。
自分に絡まり包み込む光で視界が遮られ、ほの暗い蓄光水晶の明かりが脳裏からすら追い出された。
サイレンスの意思ではどうにもならない力が、意識も肉体も、精神や形作るすべてを飲み込んでいく畏怖を含んだ恐怖。
先には闇と深淵しかなくて、あの悪夢へ繋がっているのだと本能が言った。
頭の中に響く声のようなモノは金属的な響きと湾曲を繰り返し、意味を持って人が発した音であるかすらも曖昧になって行く。
「っ……」
動かなくなっていく身体に「動け」と命じながら、サイレンスは四苦八苦して剣の柄に手をかけた。
愛剣はこの異常事態にガタガタと震えている。
それに触れるとサイレンスへの謎の浸食が緩和されるような気分になった。
青白い光の相互作用で打ち消し合っているのかもしれない。
光を断ち切り逃れる術はある。
だが、体内に溜め込んだ魔力をここで放出するワケにはいかないのだ。
サイレンスは勢いに任せて抜刀し、声にならない雄叫びを上げて光の洪水の中からの脱出を試みた。
ロ テ
ボ
ク
シ
コ ヲ
声のようなモノが羽毛のようにバラバラになる。
明らかな順序を保っていた言葉がサイレンスの横暴に壊れて行く。
意味をなさなくなり、美しい旋律が乱れて亀裂を生む。
目を閉じていたはずの眼前には、青白い光が陽光球のように冷たく鋭い輝きを放っていた。
無音。
青白い光が解けて消え、僅かながらに階段が見える。
コッ シ
コッ ボ
コッ ロ
コッ テ
コッコッ ク ヲ
コッ コ
微かだった音が生々しく鼓膜に当たる。
壊れた発音のひとつひとつに、音が添う。
美しく装飾を施された階段は、原色に染まっている。
見覚えがある色と模様に記憶を動かそうとした瞬間、大きな破損音が背筋を流れた。
ゴボリ、と水の中に吐き出された空気のような音がして、青白い光の中に見えていた階段が色褪せ朽ちる。
振り回していると思しき刃先に、床が当たって火花が散った。
その音は伝わらず、衝撃だけが微かに響く。
なおも剣を振り回し、青白い残光を引きながら空気と光を切り裂き続ける。
コッコッ、コッ
コッ
コツ
聞こえていた音がピタリと止み、サイレンスの周りから完全に音が消える。
途端に息苦しく感じたが、剣を動かす手を休めることはなかった。
無音の中で空気が凍りつき、その脅威に身体が本能的に停止する。
鼓動すらもリズムを崩したように思えて、後頭部から静かに闇が侵入するのを食い止めることは不可能だった。
暗くなる視界の中、青白い光の中でひときわ輝く光の粒を見つける。
「……」
傾いでいく身体の振りに合せたように腕を伸ばし、粒を掴もうと手を広げる。
掴んだかどうかはわからなかったが、頭の中に直接響いた「声」に胸を締めつけられた。
ボ ク ヲ コ ロ シ テ
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