第3話

 あの闇が纏わりついている。

 思考すらも絡め取るほどの闇の中で、サイレンスは無意識に自分の腕を掴んで強く握った。

 闇に意識が紛れてしまわないようにと目を凝らし耳を澄ませ、直感に任せて歩き始める。

 相変わらずの重い空気に、胸に密度の高い暗がりが詰まって行く感覚を覚えた。


 新鮮な空気を吸い込みたい。


 求めるように腕を伸ばした瞬間、指先に何かが触れる。

 サイレンスはその瞬間を待っていた。

 羽のように感触の淡い「何か」に両手で掴みかかった。

 恐ろしく滑らかで冷たく、それでいてぬくもりの空気を含む謎の物質。

 記憶の中から似た感触を検索しようとした矢先に、懐かしい故郷の青空が澄み渡った。


(……これは、果たして悪夢なのだろうか)


 苦しい思い出に変わる過去の記憶だとしても、そこで生きてきた時間は本物だ。

 その時間までもが悪夢であるワケがない。


(哀しみは深いが、私は膝を折らない!)


 王国を飲み込んだ、あの恐怖を引き起こした悪意の発端を究明すること。

 それが、生き残ったサイレンスにとって大きな活力となっている。

 だからこそ、奇怪な夢に翻弄され屈することも否とできる。


(けして、屈さない!)


 握り締めているはずの何かに意識を集中する。

 目の前に広がる故郷は本物そっくりだが「今」ではない。

 つまりは普通の夢と同じく、現実を意識すれば悪夢は解けるはずだ。


「……、…………!」


 大きな声を張り上げた。

 闇に吸い込まれて聞こえない声を。

 湧き起こる恐怖を振り切るように、拳を堅くした。

 それを何度も繰り返す。

 嗄れているかもしれないが、声を出すのを止めなかった。

 聞こえないし感覚もないが恐らく自分は声を出している。


 それを信じて、サイレンスは声を出し続けた。


「そ…………、っ……!」


 悪夢の再現が薄れ、サイレンスの周囲に再び闇が降り始める。

 合わせるように、自分の声が鼓膜に届く。

 そこからは一瞬で、意識が暗闇の中に戻ってきた。


 あまりにも突然の闇に呼吸が逆流しそうになったが、頭を振り素早く混乱する己の感覚を立て直す。

 風の英雄の三半規管をもってしても自分がどのような状況であるのかの把握が難しい空間だ。

 浮いているのか妙な立体空間に入り込んでいるのか、寝転がっているのか立っているのか、確認をしようとすると別の感覚が被さってくる。


「!」


 闇に喘ぎながら声を出そうとして、遠くに光を見つけた。

 握っているはずの何かを頼りにその方向へと全速で走り始める。

 掌に当たる感覚は常に同じで、しかし限りなく続いている。


(また消えた……!)


 悪夢のダメージが身体を蝕んでいるが、手の中に何かがまだあると認識すれば不思議と力が湧いてきた。


「誰かいるのか!」


 暗闇の中、声音すら吸い込まれるそこで初めて自分の声を聴いた。


「キミは誰だい!」


 サイレンスの見知った青白い煌声が消えたと思われる方向へ、存分に声を上げる。


「っ、な……っ?」


 不可視の空気が起き上がった。

 全身総毛立ち、足が動かなくなった。

 冷たい壁に四方を囲まれ身動きが取れなくなったような感覚に、ドッと冷や汗が流れ落ちる。



        ボ        ク

   ヲ

           コ        ロ     

                 シ

     テ



「――……!」


 耳の中で湾曲する、金属的な音。

 それは言葉のようでもあり、呻き声のようでもあり、水晶が風化に割れる音のようでもあった。

 誰だと問うための声がなくなり、サイレンスは呼吸を忘れるように意識を硬直させ、謎の音にひたすら集中する。


「……っ、!」


 感覚がなくなった。

 身体から熱が奪われ、全身が麻痺する。

 とうとう、握りしめていた拳から何かもするりと抜けてしまう。


(ダメだ……また、遠くなる……!)


 意識も麻痺を始めてこのままどこかへ沈んでしまうと薄ら思った矢先、ジャッジの吠える声が聞こえた。


「ウォン! ウォン、ウォン!」


 あまりに近い鳴き声に身体が痙攣するのがなんとなくわかる。

 抜け切れない夢に感覚を曖昧にしていると、頭にベチン、と衝撃が走る。


「痛っ!」

「ウォンッ! ウォンッ!」


 反射的に開いた目にはジャッジしか映らず、頭の上にある前足で何度も叩かれた。


「ジャ、ジャッジ……落ち着いて、大丈夫、ありがとう。もう、大丈夫だ」

「キュゥン」


 胸に頭を押し付けて甘えてくるジャッジを抱きしめ、色で時間のわからない空を見上げる。


「私はどれくらい夢に囚われていたんだい?」

「クゥン」


 ジャッジの甘え振りから察すると、相当長く夢の中に入り込んでいたようだ。

 周囲を見渡せば、リュックから食料を漁った形跡すらある。


「すまなかった。果ての世界が近くなってきて、夢がより深くなっているらしい」


 ラビッケルに修繕してもらった時計で時間を確かめ、離れようとしないジャッジを満足するまで抱きしめてやった。

 記憶に残る生々しい感覚と、初めての変化を何度も繰り返す。


(誰なんだろう)


 人のようで人ではないような、どんなに想像力を働かせても像を結ばない誰か。

 これだけ果ての世界に近いのだから、今目を閉じればまたすぐにでもあの場所へ戻ることができる気がする。

 だが、それではジャッジの神経を疲弊させるだけだ。


(果ての世界に入る、それからだ)


 肉眼で見えるほどに近づいた果ての世界への入り口に視線を投げた。

 ジャッジは外に待機させ、ひとりで乗り込む。


 中がどうなっているのかは、外からでは全くわからない世界も珍しい。

 巨大な壁と濃密度の雲に覆われた、異様な雰囲気を纏う世界がそこに在る。

 ずいぶん長く、閉鎖機能が働いているのかもしれない。


 あたたかいジャッジの体毛に顔を埋め、離れている間寂しくならないようにと腕を回す。

 頭を撫で、身体を預けてくるジャッジと話した。


「ジャッジ、夜明けがきたら出発するよ。それまではこうしていよう」

「クゥン……」


 いつものような元気はなく、ひたすらサイレンスの心配をする瞳でジャッジは鼻を鳴らした。


「私が眠らないよう、キミが見張っていて」

「ウォンッ」


 濡れた鼻に頬を押し当てれば、砂煙を上げるほどジャッジの尻尾が激しく振られた。


 小さな焚火を前にして、闇のこない夜を過ごす。

 互いの体温を分かち合って、尽きない話を聞かせて夜食を楽しむ。


 これが最後になるかもしれないと、毎回思いながらも笑顔を消さない。

 魔獣は主の感情に対してとても敏感だ。

 サイレンスがジャッジをここに残すことを不安に思っていると欠片でも感じれば、命令に従わずについてくるだろう。

 残ることの重要さも彼は理解している。

 だが、魂を結えあった相手だからこそ離れ難い感情もあるのだ。


「キミは私の大切なパートナーだ。私になにかあればけして希望を持たず、与えられた使命を全うしてほしい」

「……キュゥン」

「いいね?」


 額をつけ、想いを共有する。


 サイレンスに不幸が起きれば、ジャッジは誰よりも真っ先に絶望を感じる。

 だが屈することなく、魔法省へ連絡をするという重要な任務を果たしてくれるだろう。


「信じているよ、キミを」


 ジャッジが待っているからこそ、帰らなければならないと思うのだ。

 思いはサイレンスに強さを与え、必ず実現させるだけの力になる。


「待っていておくれ」


 いつもなら骨付き肉を欲しがり暴れてサイレンスを困らせるような場面だったが、昏睡に近い睡眠からの覚醒直後だからかジャッジはただただサイレンスに甘えた。




 装備は万端だ。

 いつもの装備に加えて、今回は長期の旅に備えての十分な魔法道具がある。

 ニヒレオーンからもらった獅子の爪の存在も力強い。


「とても立派な門構えだ」


 各世界を隔てるモノは門であったり壁であったり、空気や存在であったりもする。

 特徴的な隔たりを持つ世界は限られていて、果ての世界への隔たりには入界するに足る冒険者レベルが必要となるようだ。

 英雄の称号を持つサイレンスには難などないが、冒険者としてもレベルの低い者が果ての世界への入り口を見つけることはできないだろう。


 そのサイレンスが見ても重圧的で荘厳な門がそびえ立っている。


 陰鬱な空気が内側から漏れている。

 視界に粘着質な闇が蠢いているようにも思える雰囲気を漂わせる門は、入る者も出る者も拒むかのように固く閉ざされていた。


 周囲は壁、上空には雲。

 遠目からはハッキリ見えなかった拒絶のすべてが広がっている。

 近づくほどに抵抗のある空気が肌をピリピリ刺激してくる。

 毛穴から入り込んで脳髄を麻痺させるような不気味な浸食を味わいながら、サイレンスは慎重に一歩ずつ確実に門へと近づいた。

 腕を伸ばすことすら重く、なんとか動かした指の先で錆びついた門に触れる。


「──……!」


 感じたのはあの夢の闇の重さだ。

 身体の中が一気に凍えて、筋肉が強張った。


(屈するな、一度は耐えられた闇だ!)


 奥歯を噛み、己を叱咤しながら指先一本から片手すべての指先を門につけ、ゆっくりと掌を這わせる。

 肘までを門に押しつけ、全身を使って門を開こうと一歩ずつを確実に進んだ。

 長い間の錆が開くことを否としてきただけあってピクリとも動かない。

 一筋縄ではいかないとわかっているからこそ、サイレンスは焦らずに「門を開ける」行動を続けた。

 押し、引き、錆を削り、積もった土砂を払う。


「ふ……っ、う、く……!」


 闇の冷たさに耐えつつ、サイレンスは抜刀した。

 振動で錆を落としきれないかと考え、刃を門の隙間を埋めるように蔓延っている錆に当てると自らの風を装填してある魔法石に流し込む。


(折れるかもしれないな……)


 風を纏わせるに相応しい華奢さとしなやかさ、強力な魔道伝導にも耐えうる強靭さを持つ愛刀だ。

 幾度も製錬し直し、その度により強さを求めた。

 長く使い慣れた剣から、見えざる威圧に絡め取られた悲鳴が聞こえてくる。

 だがサイレンスは風を魔法石に流し込み続け、溢れる風を剣自身に纏わせた。


「我が名はサイレンス、崩落し滅した風の国の王血にして英雄。外界を拒む門の錆を割り、風と共に果ての世界へ入界の許可を!」


 強引に名乗りを上げると、柄が外れてしまいそうなほどに風の魔力に震える刃をさらに強く門に押し当てた。


「私を呼んだ煌声の持ち主よ、どうか招き入れてほしい!」


 激しい圧力に胸元から零れ出た小瓶の中では、相変わらずの青白い光が強く輝いている。

 煌めきが視界に残光を引く度に、剣と錆の軋轢が耳障りに音を上げた。


(魔力に反応している?)


 青白い光がサイレンスの視界に入ると、剣の魔道伝導溝に魔力ではないモノが走る。

 そしてその力が、門の錆に微量な刺激を伝えていた。


 サイレンスを果ての世界へ呼んだ主が力を分け与えてくれているかのように感じた。

 早く生命の樹をなんとかしてほしいと訴えているようだ。


 ならば。


「私は、使命を全うしよう!」


 願う気持ちで叫び、小瓶を割って光の粒を剣に当てる。

 瞬間に魔道伝導溝から溢れ、剣全体を青白い光が包むのを見た……気がした。


「っ……、と、うわ!」


 吸い込まれたと表現するべきだろうか。

 空間が瞬時に切り替わったと語るべきだろうか。


 それまでの圧が突然なくなり、サイレンスは前のめりにバランスを崩し何かにぶつかった。

 勢いの反動で今度はのけぞり、騒々しい物音と共に仰向けに倒れる。


「……い、痛たた……」


 騒音の最後に鉄板を引き延ばして作る水筒がサイレンスの頭部を襲った。

 カコン、と乾いた音が大地に響き、それを境に膨大な音がサイレンスの耳に入り込んできた。


「な……?」


 驚くほどの青空。

 僅かに滲む赤焼けと混ざり合う美しい境界線を、悠然と雲が流れて行く。

 眼前に広がるのは活気のある城下町の風景で、皆が陽気に歌い酔い踊っている。


「これは……」


 そこにある光景に呆然としたが、倒してしまった洗い場の棚を立て直し散らばった美しい彫を打った銀の食器を丁寧に並べる。

 そこではサイレンスが異質に見えるほど誰もが軽装だ。

 こんなにも無防備に遊び、喜び合い楽しむことができる世界は滅多にない。


(生命の樹が司る果ての世界……なんと美しいんだ)


 陽気な音楽や人々の歓声に導かれるように歩き始めたサイレンスは、不意に思って振り返った。

 どの世界でもありがちなことだが、そこに「門」はない。


(帰る道は断たれた、か)


 皆が笑顔で、流れてくる音楽に軽快なステップを刻んでいる。

 完全武装したサイレンスが通ろうが、まったくの無関心だ。

 冒険者の風貌に慣れているのか、気がつかないほど熱中しているのかはわからない。


 ただ、誰もが喜びに溢れていた。


 人々の邪魔にならないようにと整備された石畳みの道を歩き、周囲を見渡して城を目指す。

 きっと、そこへ行けば煌声を各世界へばら蒔いた理由や、原因となっている生命の樹の状態に関して聞くことができるだろう。

 賑やかな街中を歩きながら、サイレンスは己の身辺を軽く確認した。


(魔法も使える、剣もある、これは現実だ)


 夢とは違う。

 なのに、違和感が拭い去れない。

 外からは想像できないほどの活気と喜び、そして健全な空気を漂わせているのに、英雄の持つ直感が警戒続けている。

 何かが違うが、何が違うのかわからない不可解な感覚に、自然とサイレンスの表情は険しく強張る。

 いつでも戦闘に入れるようにと、手は剣にずっと触れていた。


 場違いなサイレンスの緊張を無視するように陽気な人々の騒ぎ振りも、疑いの目で見ると異様に思えてくる。


「……」


 賑やかな城下町を過ぎると、白皙の巨大な壁を持つ城が現れた。

 漆黒の石と乳白色の石を組み合わせた、独特な模様を描いた巨大な橋が城門まで続いている。

 祭りだからか門は大きく解放され、ひっきりなしに人が出入りをしていた。


(城の中には他の世界の住人もいるようだな)


 城下町の人々とは違う趣の人種が城の中に入って行く。

 だが、サイレンスのいる地点から城門を目指し歩いている他世界の住人はいない。

 彼らはどこからきて城内へ向かっているのだろう。


 躊躇したが、動かなければわかるものもわからない。

 サイレンスは街との境界線のようにも思える橋に足を踏み入れた。

 夢ではない本物の感覚で橋はサイレンスを支えている。

 なのに歩く度に足の裏にはそこにはない粘り気を感じる。


「……っ」


 拭えない違和感に我慢できず、風を纏い上昇した。

 どの世界でも風は共通で、サイレンスを優しく受け入れ協力してくれる。

 この世界の風も抵抗なく手を貸してくれた。

 風に乗って滑らかに橋を渡り、悠然と広がるガーデニング地区を上空から見下した。


 城外の賑わいを証明するかのように、城の中でも祝いが行われている。

 純白のテーブルに銀の食器が輝き、見るだけで唾液が出るほど美味そうな食べ物がずらりと並んでいた。

 それを貪る者、談笑をし優雅に酒を飲み交わす者など、外以上の熱気すら感じる。


「あれは……まさか」


 他世界の住人を眺めていると、そこに見知った姿を見つけた。

 並べられた食事に夢中になっているのはテイヒュルアンバーだ。

 しかも、サイレンスと知り合った頃よりも幾分か若い。


(果ての世界へ呼ばれたことがあると言っていたが……)


 王子が誕生した祝いの席へ美味い物を食べに行っただけだと話していた。

 旅の途中で会ったテイヒュルアンバーとの会話を思い出して、違和感が確信に変わる。

 サイレンスが目にしているすべては、過ぎた過去の「再現」だ。

 悪夢同様の、リアルな再現が眼前に広がっている。


(今ではない世界……だが、「ここ」は現実に近い)


 事実、風はサイレンスを受け入れているし、愛剣も携行している。

 魔法も使えるし、声も意思通りに発することができる。

 獲物を狙うモンスターが生み出すようなただの再現であるなら、現実の物すべては使えないだろう。


 現実に近いが現実ではない。

 違和感の根源がどこかにあるはずだ。

 根源をどうにかしなければ、サイレンスが本来訪れるはずの果ての世界には辿り着けない。


(どこかに綻びはある)


 城沿いに上昇し、接見用のバルコニーの窓が空いているのを発見した。

 崩れ落ちないかと慎重に着地し、泥棒になった気分を味わいながら密かに侵入する。

 室内は、内飾の白が少ない陽光を何倍にも輝かせているような眩さが溢れていた。


(違う……これは、煌声の輝きだ)


 純白に銀を混ぜたような鮮烈な輝きが、辺りを浮遊している。

 元を辿れば、王族たちが集まっていた。

 取り囲むようにして、皆が夢中になって何かを覗き込み、感嘆の声を吐いて輝かせているのだ。


「我が世界で統率を表す純白の髪、そして、隣り合う魔の世界をも総べるための紫濃の瞳。生命の樹が力強く生き、各世界を支える枝葉となるための王の素質を兼ね備えて生まれてきた誇り高き息子よ」

「民を魅了する白皙の肌、愛らしい骨格、貴方はこの世界で最高の宝になるべき存在よ」

「我ら一族の至高である子を、生きてこの目で見ることができるとは」


 賛美が途絶えず、輝きも止まらない。


(青白の煌声は見当たらないな)


 目が光に慣れてくれば、数種の色が輝きの中に紛れているのがわかった。

 だが、ハッキリと青白とわかる色は欠片も見つからない。


 大勢に祝福され、愛を注がれている生まれたばかりの王子。

 過去、サイレンスも同じように皆から愛情を与えられていた。


 気になってさらに接近する。

 豪勢な揺りかごを取り囲む王族が隙間なく覗き込んでいて、王子は見えない。

 仕方なくサイレンスは床を離れた。

 緩やかな風を操り、揺りかごの真上へ移動して王子の顔を拝むことにする。


 幼子は、原色をふんだんに使った産布に包っていた。

 周囲に見当たらないくらいの派手な色合いで、呪術的なモノすら感じる。

 きっと魔を払う意味合いでもあるのだろう。

 王子の色白さが浮き上がって見えるほどの派手さだ。


「……」


 色の力を感じる産布から見えている顔は、幼子らしい丸みと柔らかさでほんのり赤い頬がピカピカしている。

 ツンと尖った鼻、小さくて張りのある口唇、生え揃わない眉の下で大きく開かれた濃い紫色の瞳に己が映り込んだと認識した瞬間、携行している剣が震えだした。

 意識が醒めるような感覚のあと、夕暮れに暗くなったような闇が部屋の中を支配する。

 あんなに輝いていた煌声は一瞬で消え去り、気配すら喪失した。


「っぅわ!」


 何が起こったのかと理解するよりも早く、纏っていた風がなくなった。

 みっともなく落下したそこに揺りかごはなく、素早く身体を起こして見回った室内はガランと荒廃している。

 永く放置されていた遺跡と同じ建造物の傷みが、剥がれた薄いタイルの内側に覗いている。

 色も褪せ、かつての栄華を遺す物はなにもなかった。

 自然の驚異に飲み込まれることもなく、棄てられた廃墟の空気を漂わせている。


「風の性質が違うんだな」


 己を受け入れてくれていた風とは違い、頬を撫でる風は乾いている。

 声を潜め沈黙に従う、そんな冷たさも感じた。


 サイレンスが見た喜びの痕跡すらない室内からバルコニーへ移動する。


「これが……今の、現実の果ての世界の姿なのか……」


 はるか遠くまでを憂鬱に覆い隠している鈍色の存在が、荒れ果てたすべてを隠蔽しているように見えた。

 届くはずの陽光も、遮られている。

 遠くまで見渡せるほどの青空が広がっていたとは思えない重々しい空の色に、サイレンスは眉をひそめた。


 外側から見えていた壁は、植物の根が絡まり合って構成されている。

 その根にも年月を表す苔がびっしりと生え、寄生木が新たな命をそこら中で伸ばしていた。


「雲ではなかったのか」


 鈍い色の霧、靄、それに類似したモノだと思っていた空を覆う灰色が、想像を超えた巨大な樹の葉であることに気がついた。

 生命の樹、誰に説明をされずとも理解ができる巨大さだ。

 見知った存在であっても大きすぎると脅威を感じるもので、サイレンスは初めて見た生命の樹の異質さに圧倒される。


(明らかに樹木の領域を超えている……これが、生命の樹という雄大な存在か)


 定説によれば、広大な闇底の世界と終わりのない陽天の世界以外の全世界を支えているのが生命の樹だ。

 人知を超えた造形であってもおかしくはないかもしれない。

 サイレンスは魔法が使えることを確認すると、小さく震え続ける剣を鞘から抜いた。

 魔道伝導溝を軸にして、青白い光に包まれている。


「……」


 腰につけたポーチから食石を数種類選び出して口に入れた。


 戻された剣は気が済まないのか、ずっとカタカタと鳴っている。

 宥めるように鞘を撫で、サイレンスは意思を持ってバルコニーから曇天の空へ浮遊した。

 こんなにも荒れた世界の中にあっても、風は応えてくれた。

 完全な幻想でない限り、サイレンスはどんな風にも乗って飛ぶことができる。

 風の英雄であり、風の王国の王子として、追随を許さない特別な力だ。


 目指すは生命の樹のふもと。


 近く思えた生命の樹は遠く、城と向かい合うようにそびえていた。

 どうやら、純白の葉が薄汚れて鈍色になっているようだ。

 生命の樹自体の精気をあまり感じることができない。

 あまり近づきすぎないように周囲を飛びながら、また食石を口にする。

 硬い感触を歯と舌で転がし、奥歯で一気に噛み砕く。

 耳の奥で鉄を鍛える音のような響きが広がり、痺れたような余韻が口腔内から全身に広がった。


(この樹を滅せよとは……容易に言ってくれるがかなりの無茶振りだ)


 ひとりで請け負うには相当無理のある大きさだ。

 しかもこの世界は一見して生命の樹で成り立っている。

 つまり、生命の樹を壊してしまうということは果ての世界を消滅させるに等しいと想定される。


 そうまでして滅するべき対象だろうかと、枯れた老木の様相を見せる生命の樹を見てサイレンスは思った。

 誰もいなくなり、存在が不要になったと言うことだろうか。


(しかし、私が手にした煌声は「支えよ」と先に言った)


 この規模の巨木は、風の英雄ひとりが支えられるモノではない。


(だが、他の煌声は「支えよ」とは言わなかった)


 それが特異なことであると、思わない方がおかしい。

 サイレンスはまた食石を口に放り込みつつ、いつまでも終わらない生命の樹の外周飛行の速度を上げた。


 水分を蓄えた葉の音ではない音を響かせざわめく純白に、どんよりとした陽光が気だるげに当たる。

 サイレンスと共に通り過ぎる風に煽られ、儚い鈴の響きを思わせる音を立てて揺らめく枝葉。

 胸の奥に懐かしさを感じる音色は穏やかで優しく、耳障りもいい。

 サイレンスが見た幻がいつかの果ての世界だったとすれば、どんなに満ちた世界であったのだろうかと思うばかりだ。


(ここまでの荒廃に至った経緯は気になるな)


 もう誰も真実を知らないだろう。

 世界の終わりとは、記録に残らない。


(あの王子は、どうしただろうか)


 生まれたばかりの王子。

 彼の行く末を、不意に憂いた。

 果ての世界に住まう人々の寿命を知らないが、特殊な世界だったことを考慮しても長命に違いない。

 この世界を棄て、どこかの世界でひっそりと生きているのだろうか。

 凛とした紫色の瞳だけは変わっていないだろう。

 他の世界でも類を見ない、濁りのない紫濃だった。


 王族たちがあれほどに褒め称えた王子なのだから、今も満ち足りた生活をしているかもしれない。

 故郷である世界が終わったとしても、笑顔を忘れずに生きてさえいればいつかどこかで出会うかもしれない。

 特徴的な瞳の色だ、会えばすぐにわかる。


(魅せられた、かな)


 物思いに耽っていた自分に苦笑が浮かぶ。

 魔に効果のある虹彩は、多少なり人にも影響がある。

 しかも、幻が醒めるほど強烈な衝撃を受けたのだ。

 脳裏に焼きついていたとしても仕方がないだろう。


「……いや、違う?」


 視眼の幻影は術者の視線が境界線になる。

 何者かが訪問を果たした英雄に罠にかけるための道であることも捨てきれなかった。

 事実がわかるまでは、どんな些細なことでも注視しておかなければならないのは冒険においての鉄則だ。

 悪意とは、本当に小さな点から広がっていくのだから。


「彼の声も、煌声なのだろうな」


 それが、果ての世界に居を置く一族最大の特徴なのだ。

 血の濃さや階級などで輝きが変わるかどうかまでは知らないが、ともかく、正当な後継者であればそれなりの煌声を持っていて然りだろう。


「外の世界では生き辛くもあるかもしれないな」


 声が光の粒になる種族など、聞いたことがなかった。

 それほど秘匿性の高い一族が外の世界で生き延びるためには、笑ってばかりではいられないかもしれない。


「平穏でいてほしいものだ」


 各世界で「幸せ」の定義は全く違う。

 それでも、幸福を感じる感覚は平等だ。

 自分たちとは違う質の種族と共生すれば、きっと同じ幸福を感じられる瞬間が生まれる。

 サイレンスは、感情を持つ生物が織りなす共感性を大切にしている。

 だからこそ誰とでも仲良くするし、協力も惜しまない「頼られる英雄」となったのだ。


 枝葉の奏でる音にいつまでも身を任せていたい気分だったが、サイレンスはゆっくりと着地した。

 ここにきた本来の目的は、煌声に従い生命の樹をどうするのかを決めること。

 そのための準備を粛々と行う必要がある。


 懐中時計で時間を確認して、既に夕刻に差し掛かっていることに驚いた。

 食石をしているから確かに腹は減らないが、経験則としてもう少し疲労を感じる頃合いだろう。


(果ての世界の時間軸は、外世界よりも緩やかなのかもしれないな)


 肩にかけた袋から外気中の水分を濾過する魔法具を取出し、平地に置いた。

 取り込んだ水分が中心の穴を通って下のコップに受けられるよう、集石を強く弾いて回す。

 遠心力と集石の魔力で止まらないそこに、じんわりと水分が集まってくるのを興味深く見守った。

 何度見ても面白い。


 己の中にある魔力すべてを爆発的に放出するための体内魔法。

 その下準備である食石を口にしているので、普段の食事は食べることができない。

 水すらも魔法具によって集められた特殊な水しか飲めない面倒な魔法だが、今回はこれが最も効力を発揮すると判断したのだ。

 だが破壊対象はサイレンスの想像を上回る存在だった。

 それでも壊すと判断すれば、破壊し尽くさなければならない。


(幸い、ニヒレオーン君にもらった獅子の爪もある。破壊点を上手見つけることができれば一撃で済むかもしれない)


 獅子の爪は対象を破壊する強大な魔力を含み、さらに効果を倍増させることのできる魔法具だ。

 重鎧系ともなると、とてつもない重力圧が特殊効果で加算される。

 英雄サイレンスの増強した魔法がそこに加われば、無茶な破壊も可能になるだろう。


 支えることができないとするならば、滅してしまうのが今回の任務だ。

 他の英雄がどんな煌声を聴いたとしても、サイレンスは己が聞いた煌声に従う他ない。


 とろみが舌に絡まる生ぬるい水を飲みながら、サイレンスは見上げても全体を見渡せない生命の樹をずっと眺めていた。


 チラつくのは王子の存在。

 幻の中で唯一、サイレンスと目が合った人物。

 違和感の中で笑い踊っていた人々とは違う、生きている感触すらあった。

 彼が術者であるならば、どこかでサイレンスの姿を見ただろう。


「会い見える時、敵か、味方か……」


 未だに回り続ける濾過の集石を指で止めると、ジャッジにつけている伝達石毛にリンクする。


「使えるかな」


 風の魔法で小鳥を作って憂鬱になる曇天に放つ。

 小鳥はクルクルと上空を旋回した後に、一方向に向けて光の矢に変化した。

 細い残光を引きながら消えて行ったのを見て、魔法であれば壁を通過できるのだと認識できた。

 外で待っているジャッジに、無事であることが伝わっただろう。


「安心して食いしん坊が暴れていなければいいが」


 留守番を頼むと大抵の場合、帰りの食糧が半分くらいなくなっている。

 現地調達を苦としないサイレンスだが、毎回ジャッジの腹ぺこ具合に苦笑するのだ。

 何度言っても直らないから、きっとこれからも直らないだろう。


 生命の樹に生えた寄生木の幹に寄りかかり、柄を下に剣を左肩に乗せた。

 気温を感じさせない気候だが、一応マントで身体を覆う。

 瞳を閉じることに躊躇したが、睡眠も魔力還元には大切な行為だと自分に言い聞かせサイレンスは瞼を下した。








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