第一章 イマリとの出会いと初めての依頼 ⑨

 


 最寄りの駅から電車に乗り込み、一度日本橋へ出る。そこから東京メトロ東西線に乗り換えて、左近川河口に一番近いだろう駅、西葛西で下車をする。

 改札から出るとそのまま大通を南下、いくらかの公園地帯を越えたあとに、ようやく左近川河口へとたどり着く。


「マリア、着いたけど、どう? 正直、なんかさっきマリアから聞いた風景のイメージとは、違う気がするんだけど……」

「うーん……どうでしょうか」


 言いながらも、マリアは左から右へとゆっくりと首を動かして、風景を確かめる。

 つられた僕も、首を左右に振り、今一度風景を見てみる。

 コンクリートでできた頑丈そうな水門に、これまた頑丈そうなコンクリートの堤防。すぐ脇には首都高が走っており、トラックが通るたびに硬い走行音がここまで響いてくる。

 確かマリアは、持ち主がよく奥さんと共に堤防を散歩していたと言っていたけど……正直頻繁に散歩したいと思える場所とは思えないな。


「で、マリア」


 視線を上げると、先ほどから口を利かないマリアへと、僕はもう一度聞く。


「原さんの自宅は、一体どこ?」

「分かりません」

「え? 分からない? でも……ここから徒歩圏内って……」


 小さく首を横に振ると、マリアは身を乗り出して、上から僕の顔をのぞき込む。

 垂れ下がった耳に、今にも泣き出しそうな悲しげな顔。マリアの不安な気持ちが、否応なく僕の心に流れ込んでくる。


「多分、ここじゃないです」

「ここじゃない?」

「はい」


 マリアが、内陸部を仰いで、立ち並ぶマンションを見る。


「風景が、全然違うんです。あんな壁みたいな建物なかったですし、なんかこう、空気感が違うというか……。ごめんなさい、曖昧で」


 もしかして、同じ名前の、別の川だったとか?


「イマリ、ここ以外に、左近川ってあったりする?」

「いや、ないのう。世界中どこを探しても、左近川といえばここだけじゃな」


 一体どういうことだろう? マリアから聞いた話からすれば、この辺りで間違いないはずなんだけど。

 マリアを抱えて頭から下ろすと、僕は彼女の目を見据えつつも、確認するように聞く。


「壁みたいな建物って、マンションのことだよね? なかったってことは、原さんの家は、一軒家ってことでいいね?」

「はい、一軒家でした」

「どんな感じの家だったか、詳しく聞いてもいい?」


 頷くとマリアは、空を仰いで目を閉じる。思い出しているのだろう。まぶたの裏に記憶を投影するように、目元付近をぴくぴくと動かしている。その様子はどこか楽しい夢を見る、子供のようだ。


「家は……二階建てでした。外壁は木で、黒っぽく変色していました。家の周囲は塀に囲われているのですが、それも同じような木の素材でできていたと思います。引き戸の門扉を開けて三つの敷石を渡れば、そこが玄関です。渡り切らずに左側へと進めば、庭にいきつきます。座敷に面した日当たりのいい庭です。庭には洗濯物干しとささやかな花壇、そして大きな金木犀の木がありました。毎年秋になると橙色の花が咲き、庭いっぱいに甘くて芳しい香りが満ちました。私はその香り、その空間が大好きでした」


 話し終えるとマリアは、目を開けて僕を見た。思い出に心がなぐさめられたのか、若干だが顔から、緊張感が引いたようにも見える。


「そんなことを聞いて、一体どうしようというんじゃ?」


 相槌を打つ僕を横目にしつつも、イマリが聞く。


「いや、もう、直接歩いて捜すしかないかなと思って。この辺りってマンションやアパートが多いよね。一軒家だったら数も限られてくるし、十分に可能だと思うんだ」

「なるほどのう。まあ左近川河口というのは間違っておらんし、ここら一帯をしらみつぶしに歩き回れば、いずれは見つかるやもしれぬな」

「うん。頑張るよ」


「ふん」と鼻から息を抜くと、イマリはだるそうに首をすくめて、目を閉じる。

 マリアは再び僕の頭の上にのると、「よろしくお願いします」と言い、その小さくてかわいらしい尻尾を、まるで感情を吐露するかのごとく、左右に振った。



 左近川より南は、学校やら病院やら球技場やらと、比較的大きな施設に占められており、一軒家の住宅がほぼ皆無だったので、捜索範囲から外した。縦断する450号線より東側は、住宅街であり、確かに一軒家も多かったが、頻繁に散歩するには堤防まであまりにも距離がありすぎるということで、そこも捜索範囲から外した。


 残るは左近川の北、450号線の西側だが、巨大なマンションの合間にちょこちょこと一軒家の家屋があるにはあるのだが、どれもこれもぴかぴかで、マリアの言うような色あせた古い木造家屋というのはほとんどないように思われた。なによりも庭に大きな金木犀の木がある家となると、一軒も見当たらなかった。


 とはいえ、諦めるわけにはいかない。地図を見ながらもブロックごとに、一つひとつ表札を確認してゆく。

 そして見つからないままで、一時間が経過。捜索範囲の全てを確認した僕は、ふらふらと歩道脇の黒い石でできた案内板のような物にもたれかかると、腕を組みその場で考える。


 どうして見つからないんだろう? 左近川はここにしかないし、徒歩圏内……いやそれを越えて、実際に歩いてもみたのに。


 それともなにか間違えている?

 僕はなにか見落としている?


「春人さん、もういいです。私、諦めますから」


 黙り込んだ僕に対して、マリアが言う。その表情、声は、今にも泣き出しそうなほどに弱々しくて、これ以上は僕に、気を遣わせないように本心を隠しているのが明らかだった。


「え、でも……」

「いいんです。私のために春人さんがここまで頑張ってくれた……それだけで十分ですから」


 なにも言えずにうつむく僕。

 気まずさを紛らわすように、この場を取り繕うように、僕は鞄から懐中時計を取り出すと、包んでいたハンカチを解き、時間を確認しようとフタを開ける。

 針は十時十分の辺りをさしていた。あまり意識していなかったので今の今まで気づかなかったが、この懐中時計はゼンマイが巻かれていなかった。


 僕の気持ちを察したのだろう。頭の上からのぞき込んだマリアが、まるで話題を変えようとでもするかのように、少しだけ声の調子を戻して言う。


「あ、もしかしてゼンマイ、巻きたいですか?」

「え、あ、うん。でもこれって、どうやって巻くの? 普通はこの竜頭の部分から巻くよね?」

「竜頭のところに小さな金具がついていますよね? それ、鍵なんです」


 マリアに言われて見てみると、竜頭の輪の部分に、一・五センチほどの小さな金具がついているのが目に入る。飾りかなにかだと思い気にもしなかったが、まさか鍵だったとは。

「上のボタンなんですけど、実はそれ二段式なんです。普通に押すと表のフタが開き、さらに押し込むと裏のフタが開くようになっています」


 試しに押してみると、表、裏、という順に開き、まるで貝が開いたような状態になる。

 中の細工が見えるかもと裏面に目をやったが、残念ながらそこにはさらにフタが覆いかぶさっていたので、見ることはできない。


「ムーブメントの前に銀のインナーケースがありますよね? そこに小さな穴があります。ゼンマイは鍵を使いそこから巻くんです」

「そうなんだ。本当にアンティーク時計って感じだね。ありがとう、教えてくれて」

「いえいえ。とんでもないです」


 売り物だし、勝手にゼンマイを巻かない方がいいだろうと思った僕は、そのままフタを閉じようと、手をやる。


「あれ?」


 とっさに手をとめて、僕は目を細める。


「これって……」

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