第一章 イマリとの出会いと初めての依頼 ⑦
「なんていうか、全然お客さんこないね」
店先のごみを掃きながらも、僕はイマリへと言う。
出入り口の左側には大きな狸の置物が置かれている。右側には茶色と黒の水瓶が、それぞれ水の入れられた状態で並べられている。狸の置物の足元には、なんと本物の狸がいびきをかいて寝ているが、おそらくこれは僕にしか見えない付喪神なのだろう。起こさないように置物の背後へと回ると、いつからあるのかは分からないが、枯れた落ち葉が溜まっていたので、箒で掃いてちりとりへと入れる。
「まあ、みやび堂は大体こんな感じじゃぞ。わしはしばらく博物館の方にいっておったから、ここに帰ってきたのは半年ぶりじゃが、なにも変わっておらん」
夏の日差しに喉が渇いたのだろう。肩から音もなく軽快に飛び下りると、イマリは水瓶へと近寄り、中の水をぺろぺろとなめ始める。静けさを湛えていた水面に波紋が広がる。そんな光景を見ると、僕は胸中にかすかな疑問が浮かんだ。
「今朝も思ったんだけど、イマリって物が食べられるんだよね? 付喪神は皆そうなの?」
「いや、これはわしが力の強い、いわゆる高位の付喪神だからじゃ。大半は低位の雑魚付喪神じゃからのう。食べることはおろか、物に触れることもできぬわ」
高位とか低位とか、付喪神にも階級みたいなのがあるんだな。
「高位だと物に触れられるってことだけど、他になにかできることってあるの?」
「知りたいか?」
「うん。できれば。イマリとは、長い付き合いになりそうだし」
ふんと鼻を鳴らすと、イマリがズボンのポケットに入った、僕のスマホを手で示す。
なんだろうと思い取り出すと、いつの間にかブラウザが起動しており、画面には、とある洋菓子店の、商品紹介のページが表示されている。
「ネット? というのか? 先ほどスマホをいじり回していたら、見つけたぞ」
イマリ……ついにネットにまでも、手を出し始めたか……。
「その洋菓子店に、シャインマスカット・ショートケーキなるものがあるらしい。しかも夏限定ということじゃわい」
「……はい」
「それをわしに捧げるというのであれば、教えてやらんでもないぞ?」
ワンカット五百九十円……でもまあ、正直僕も食べてみたいし、一石二鳥か……?
「分かった。あとで買ってあげるから」
「うむ。よかろう」
目を閉じて、高邁に顔を上げると、イマリが説明を始める。
「低位とか中位とか高位は、基本、神心の量で決まる。とはいえ、はっきりとした基準があるというわけではない。なにができてなにができないかで、その者の階級は決まる」
「その一つが、物が食べられる、つまりは現実の物に触れられるかどうかってことか。他には?」
「例をあげたらきりがないが、そうだな、代表的なのが、先日、わしが行った、依代の乗り換えじゃわい。他には、その者特有の能力が使えるようになったりする。狐の姿であれば、人の姿に化けて、人間社会に溶け込んだり、鳥の姿であれば、他の鳥の目を借りて、空から物を見たり」
高位にもなると、そんなことまでできるようになるんだ。
イマリは……と一瞬思ったが、なんとなく聞くのを差し控える。
びびったというか足がすくんだというか、知り合って間もないのに、ずけずけと踏み込むのは、よくないと思ったから。
――とにかく、今は神心集めだ。呪いを解く……というのも、おそらくは高位だからこそできる芸当なのだろう。だったら、神心を集めて、イマリを元の状態に、高位に戻してあげることが、先決だ。
「イマリ、神心集めだけど、店に一人気になる子がいるんだ」
「ガラスケースの中にいた、懐中時計の付喪神じゃろ。白猫の」
「うん。泣いているあの子。昨日初めて店に入った時も泣いていたし、絶対にあれ、困っているよね」
「じゃな。とりあえず話を聞いてみるかのう」
肩に垂れ下がると、イマリは尻尾で僕の背中をぱふぱふと叩きながらも、命令口調で言う。
「ほれ、はよいかんかい。春人、おぬしが聞くんじゃぞ」
「分かったから、そんなに急かさないでよ」
店内に桜さんがいないのを確かめてから、僕は忍び足で、レジの脇にあるガラスケースへと向かう。
こんこんと扉を打つと、懐中時計の付喪神である白い猫が、顔を上げる。
淡い水色の瞳が特徴的な、ペルシャ猫だ。しかし悲しみからか、本来であればふわふわしているであろう全身の毛が、切なくも萎えてしまっている。目元付近も涙に濡れてべたべただ。その様子からも、よっぽどのことがあったのは間違いなさそうだ。
「……ねえ」
僕は言う。白い猫の付喪神に向かってではなくて、肩に垂れ下がる、イマリへと。
「やっぱり、イマリが聞いてくれない?」
「は? なぜじゃ?」
「いや……なんて声をかけたらいいのか……」
僕の発言に、イマリは目を丸くすると、その後に疲れたように目を伏せて、やれやれといった面持ちで首を横に振る。
「なんともはや……最近のおのこは……。これでは少子化は避けられんぞ」
……そこまで言わなくても。
「だがわしも高位の付喪神じゃ。一時は神にも近づいた、崇高なる存在じゃ」
おお! 頼もしい!
「ゆえに、ここは心を鬼にして、人の子を導こうぞ!」
あれ?
ぱこんと、例のごとく狼パンチが、僕の後頭部に炸裂する。
「ぐだぐだ言わんと、さっさと聞かんかい! この腑抜け者めが!」
イマリに背中を押された……というか実質尻を蹴り飛ばされたので、僕はしぶしぶといったていで、白い猫の付喪神に声をかける。その声は、不甲斐ないほどに弱々しくて、我ながらに、全くもって頼りない。
「ええと……その、なにかあった?」
「えっ!?」
白い猫の付喪神が、驚いたように目を見開く。そして胡乱な眼差しで僕を見てから、恐る恐る言う。
「……やっぱり、私のこと……見えてるんですか?」
「あ……うん……」
僕から話しかけておいてなんだけど……猫と話している、その体験があまりにも新鮮すぎて、一瞬なにを言えばいいのか分からなくなってしまう。もちろんすでに狼であるイマリと言葉を交わしてはいるのだが……やっぱり衝撃は衝撃だ。しばらく慣れそうにない。
そんな僕へと、まるで助け舟を出すように、イマリが僕の代わりに口を開く。
「こやつは山川春人。わしら付喪神を見ることのできる、数少ない人間の一人じゃ」
「私たちのことを、見ることができる? ……そんな人がいると、噂には聞いていましたが、会うのはこれが初めてです」
「しておぬし、わしのことは知っているな?」
「はい。大先輩のイマリさんです。何度か店で、見かけましたので」
「おぬし、名は?」
「私の名前はマリアンヌです。マリアと呼んでください。この……」
すぐ脇にある、銀の懐中時計を手で示す。
「懐中時計に宿っている付喪神です」
「ふむ。では、ここからが本題じゃ。おぬし、一体なぜに、涙なぞ流しておる?」
「……聞いて、くれるんですか?」
頷いて答えると、イマリはまるで合図でもするように、僕へと顔を向けて、同じように頷いてみせる。
イマリの意図を察した僕は、ガラス扉の取っ手に手をかけて、音が出ないように慎重に開ける。
一瞬、マリアが戸惑ったように、僕を、そしてイマリを見たが、その後に意を決したように、すぐ隣にあったレジ台の上へと飛び移り、僕たちを見上げる。
「とにかく、話を聞かせてもらってもいい?」
人差し指で頬をぽりぽりとかきながらも、僕は言う。つうと、目をそらしつつも。
「な、なんていうか……誰かに話すだけでも、だいぶ気が楽になるかなーって」
「春人さん……」
鼻をひくひくとさせると、マリアは手で目をこすってから、おもむろに語り始める。
「少し前のことです。私はご主人様と一緒に旅行に出かけました。初めての旅行だったので、私は嬉しくて嬉しくて仕方ありませんでした。しかし帰り際、ホテルのロビーでくつろいでいたご主人様は、私がポケットから落ちたことに気づかなかったのです」
ご主人様というのは、おそらくは元の持ち主のことだろう。その呼び方からも、マリアが元の持ち主のことを、相当に慕っているのがよく分かる。
「それから、どうなったの?」
「私は誰か知らない人に拾われました。しかしその人は、私をホテルのフロントに届けることなく、そのまま質屋に売ってしまったのです。それから私は色んな人、色んな店を転々としました。そして最近、この店にやってきたんです」
「そっか……じゃあマリアは、ご主人様と離れてしまったことに、泣いていたんだね?」
「はい。ご主人様は私のことを本当に大切にしてくれました。そんなご主人様のことが、私は大好きです。できれば売られる前に、もう一度だけ会いたい……もう一度だけ……」
言葉に詰まったマリアが、再び涙を流して泣き始める。手で拭うことなく下を向いたので、涙は直接レジ台の上へと滴る。ぽたぽたと描かれるその水玉模様は、まるで心の傷口からたれる血痕のように、僕の目には映る。
「ご、ごめんなさい。つい取り乱してしまって。この状況に慣れてはきたんですが、買われる前というのはやっぱり不安で……。ご主人様からまた遠のいてしまう、次はもうチャンスがないかもしれないって」
「買われる?」
マリアの言葉に、僕は自ずと店内を見回す。
たくさんの骨董品に、山のように積まれた大物家具類の数々。
すぐに買われるかもしれないし、あるいはしばらくの間は、誰の目にもとまらないかもしれない。
買われるか買われないかは、正直運によるところが大きい気がしないでもない。
「なんていうか……まだ、分からないよね?」
「だめなんです。もう……だめなんです」
どういうことだろう? 僕は首を傾げて聞く。
「私今、ネットオークションに出品されているんです。その締め切りが、今日の夜の九時までなんです」
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